巡る日々①
夜の風が開け放った窓から流れこんでくる。白いカーテンが、かすかな衣擦れの音とともに揺れる。
魔王は椅子にどかりと腰を下ろすと、目の前のカップに注がれた果実水を一気に飲み干す。
「あー、疲れたぁ……」
「お疲れ様です」
すかさずポットから果実水を注ぎ足しつつ、サジャは言う。
「こんなのがあと四日も続くなんて、死んじゃうわ。お祭りって、もっと楽しいものじゃないの? 皆で歌ったり踊ったり、朝が来るまで飲んだくれたり」
「それは民の役目かと。魔王様の役目は、また別にあるのではないでしょうか」
「うぅ……わかってるわよ」
「今日は夜更かしせず、日が変わる前にはお休みになってください。他国の方もいらしている式典の最中に居眠りなどしていたら、笑い話では済みませんよ」
「……ほんと、どんどんアンナに似てくるわ。私の歴代のメイドって、みんなあたしに厳しい……」
「ぶつくさ言わずに、お湯を浴びたら寝てくださいな」
「はーい。……あれ?」
魔王は呟くと、じっとサジャの顔を覗きこむ。
「サジャ、なんだか元気ない?」
サジャは一瞬ぱちりと目を見開いた後、すぐにいつもの冷静な顔に戻る。
「特に変わったことはありませんが」
「そう? なら、いいけど。ちょっとだけ、しょんぼりしてるように見えたから」
「もとよりこういう顔ですので」
「そうね、言われてみればそうかも。だけど、もし気になることがあるならなんでも言って頂戴ね」
魔王の部屋を出た後、サジャは小さく息を吐く。
「普段はぼけぼけのくせして、妙なところで鋭いんだから……」
自室に戻ると、まだ灯りがついていた。ニコラとシファがベッドの縁に座り、何やら地図を片手に話し込んでいる。
「お疲れ。遅くまでご苦労さん」
「うん。ふたりはまだ寝ないの?」
「明日の計画を練ってるの」
「明日? あ、そうか。ふたりとも明日はお休みだったものね」
「うん、だから色々回ってみようと思って」
「サジャも明日は余裕あるだろ? どっかで抜け出して、一緒に回ろうよ」
「流石にそうはいかないよ。ふたりが休む分、わたしがしっかり働かないと。祭りの間にも城の汚れはたまるんだから」
「真面目だなー。でも祭の期間中に休みはもらうんだろ?」
「最初はそのつもりだったんだけどね」
「え、休まないの? せっかくのお祭りなのに?」
「ちょっと気が変わったの。元々、人が多いところって得意じゃないし」
「ふうん。だけど、たまには魔王様を見習って肩の力抜けよな」
「魔王様はちょっと力抜けすぎだけどね。今日も―」
主絡みの愚痴にひとしきり付き合ってもらった後、暗く静まり返った部屋で、私物入れから手紙を取り出す。机に置いた灯りの下で、サジャはその手紙を物憂げに見つめる。
翌朝、サジャはいつものように寝ぼけ眼の主を見送った後、いつものように掃除を始める。
床の埃を掃き、ベッドのシーツを取り換える。あるべきものをあるべき形にすると、心が落ち着く。自分は正しいことをしているという実感が持てる。
部屋の中が片づけば、今度は廊下の掃除だ。今日はニコラとシファが休みなので、彼女たちの分も清掃しなければならないが、特段苦には思わない。一箇所ずつ着実に、正確に汚れを落としていくと雑念が払われていくような気がする。
「やあ、精が出るね」
声をかけられたのは、西の塔と東の塔を繋ぐ空中回廊を掃き清めている最中のことだった。サジャは顔を上げ、聞き慣れた声の主にぺこりと頭を下げる。
「すみません、ダナモス様。すぐ終わらせますので」
「いや、大丈夫だよ。そういえば、今日はニコラとシファが休みなのだったね」
「はい。ですから、わたしが代わりにここを掃除しています。ふたりと違って翼がないので、足で行けるところまでしか掃けませんが」
「大変綺麗に掃けているね。きみの仕事ぶりは常に模範的だけど、こと掃除に関しては右に出る者はいないと思うよ」
「ありがとうございます」
サジャの声はいつも通り冷静だったが、よくよく聞けば、いつもより少しだけ声の張りが薄かった。
「そういえば、サジャは祭りの期間も休みを取らないのだったね」
緩く腕を組み、さりげない調子でダナモスは言う。
「せっかくのお祭りだし、一日くらい羽を伸ばしてもいいんじゃないかい?」
「羽はないですけどね。お気遣い頂き、ありがとうございます。ですけど、わたしは休まなくても支障ありません。仕事をしているほうが心が落ち着きますし、お祭りに行ってもあまり楽しめる気がしないので」
「祭りは苦手かい?」
「苦手、ではないと思います。普段の何倍もの人が通りを行き交いますし、あちこちで賑やかな音が鳴ってますから疲れますけど、あの空気は決して嫌いではないです」
「きみが思い描いているのは帝都のお祭り……おそらくは祝祖祭かな?」
「はい。わたしの家は決して豊かではありませんでしたけど、祭りの日は世界が宝石のように煌めいている気がしたものです。父も母も、いつもと違う華やいだ顔をしていて……」
サジャはそこで一度、言葉を切る。
「だから王都の祭りも、母と回れるといいなと思っていたのですけど」
サジャの言葉を予想していたように、ダナモスは頷く。
「その件は残念だったが、母君が自身で決められたことだからね」
「ええ。返事をもらったのは大分前ですし、もう折り合いはつけたつもりだったのですけど」
「いざ祭りが始まったら、心が揺れてしまったかい?」
「そうかもしれません」
ダナモスは口元に、ふっと笑みを浮かべる。
「サジャ。日中の仕事が終わったら、私のところへ来てくれるかい?」
サジャはきょとんと、年相応の少女の顔でダナモスを見る。
「それはもちろん構いませんが、今の話でしたら……」
「ちょっと頼みたいことがあるんだよ。今の話は、そのついでにでも」
「すみません」
「謝ってもらうことじゃないさ。なにせ、きみをここまで連れてきたのは他ならぬ私なんだしね」
夕刻、普段なら食堂に向かう時刻に、サジャはダナモスの部屋を訪れた。
「すまないね、急な呼び出しで。手紙は持ってきたかい?」
サジャは頷き、数枚の紙を机に置く。初夏の頃に、サジャと彼女の母の間で交わされた手紙である。
「きみから母君に、王都の祭りに来てみないかと誘ったのだったね」
「はい。母からは金銭的なことを理由に断りの返事が来ました」
大陸南東の帝都から北西の王都まで旅しようとすれば、旅費は当然馬鹿にならない。
「資金はこちらで融通すると言ったのですが……」
「まあ、母君の気持ちはわからんでもないよ。ひとり娘に負担はかけられないとお考えになったのだろう」
「わたしも最初はそう思っていたのですが……」
サジャは呟き、目を伏せる。
「実は返事が来た後、母にもう一度手紙を送ってみたんです。そこには正直に、わたしの本当の気持ちを書きました。つまり、王都への移住を考えてみてくれないかと」
祭りに誘ったのも、王都がどういう町か知ってほしいと考えてのことだった。もし母の反応が悪くなければ、移住の打診をしてみるつもりだった。
「なるほど。それで、返事は来たのかい?」
「まだです。一番速い鳥を使わせてもらったので、ひと月以上前に届いているはずなんですが」
「となると、順当にいけば返事が来てもいい頃だね」
「はい。ですから、母はひょっとすると王都には来たくないのかもしれないと思って」
「正直なところ、そういう考えの帝国人は少なくないだろうね。ただ、母君は比較的こちらに対する抵抗感は薄いように思えたんだがね。なにせ魔王の手下を名乗る男に、大事な娘さんを預けてくださったわけだし」
「わたしもそう思っていたのですけど。でもひょっとしたら、それが普通の感覚なのかもしれないと、ふと思ってしまって」
ダナモスは先を促すように、小さく頷く。
「わたしは祖父から王国の話を聞かされて育ったので、こちらの人々もある意味では、幼い頃から身近な存在ではあったんです」
「だから私の誘いにも抵抗感を抱くことなく頷くことができたわけだね」
「はい。ですが、母にはわたしにとっての祖父のような人はいなかったと思うので、内心では王国に対してあまり良い感情を持っていないのかもしれません。もしそうだとしたら、母と同じ場所で暮らすことはもう一生叶わないのかも、と思ってしまって。たったふたりの家族なのだし、たまに顔を見に行けるくらいの距離で暮らせるとうれしかったのですけど」
そうか、とダナモスは短く呟く。
「もうひとつの話のほうなんだが、明日ちょっとした用事を頼みたいんだ」
「わたしにできることでしたら、なんなりとお申し付けください」
「そう言ってもらえると助かるよ。実を言うと、観光案内を頼まれてしまってね」
「観光案内?」
予想外の言葉に、サジャは目をぱちくりとさせる。
「一体どなたからそんなことを? 来客の方ですか?」
「ああ、他ならぬ皇女殿下からね」
皇女殿下、とサジャは鸚鵡返しに呟く。
「ですが、あの……アンシル皇女はたしか昨日、予定より遅れて王都入りされたのですよね」
サジャは言葉を濁したが、王都近くの宿場町で起きた事件のことは聞いていた。なにせその対応のため、サジャの主は一昨日の丸一晩、王都を留守にしていたのだ。
「ああ。だから町を見て頂くのは中止にしようという話もあったんだが、陛下が是非王都を見て頂きたいと主張されてね。皇女殿下も前向きな気持ちをお持ちのようだし、どうにか願いを叶えてさしあげたいと思ったのさ」
「なるほど……」
「もちろん護衛はつけるよ。選り抜きの凄腕をね」
「ですが、たしか皇女殿下の旅にはあのランダルト様も同行されていたとか……」
「ランダルト殿は帝都一の剣士だが、魔術については門外漢だからね。だから今回は当代随一の魔術師にも同行を願うことにしたんだ」
「当代随一……まさかダナモス様ご自身が?」
サジャの推測をダナモスは軽快に笑い飛ばす。
「私など足元にも及ばないお方さ。その方がついていれば、どこぞの呪い師など恐るるに足りないよ」
「ですが、あの……わたしなどに案内が務まるものでしょうか。この町に来て、まだせいぜい半年程度ですし、祭のことは何も知りませんし」
「何、時折買い物に出かけたりはしてるだろう? 気負う必要はないさ。きみが普段通る道、普段使う店を、きみと同じ年頃の女の子に教えてあげる。それくらいの感覚で問題ない。それからもうひとつ教えておくと、この依頼は元々アンナに頼んでいたんだ」
「アンナさんに?」
サジャの前任にあたるアンナは、もう何十年も王都で暮らしている。人当たりが良く話上手なので、王都の案内役としてはこれ以上ない適任者だろう。
「だけど、アンナからはきみを推されてね。帝都に生まれ、つい最近まで帝都で暮らしていたサジャからこの町を紹介してほしい、と」
ダナモスはそう言うと、改めてサジャを見る。
「私の怠慢で連絡がぎりぎりになってしまったが、どうだろう、引き受けてもらえるかな?」
「わかりました。そこまでおっしゃって頂いた以上、精一杯役目をまっとうさせて頂きます。ただそうすると、明日はどなたが魔王様のお世話を?」
「安心してくれたまえ。アンナが一日限りの復帰を快諾してくれた」
「なるほど、それなら何も心配は要りませんね」
ダナモスの部屋を後にして、サジャはふうと息を吐く。想定外の成り行きに、なんだか頭がくらくらしている。まさか皇女の案内役を仰せつかるとは。
しかし困惑や不安の気持ちが生じる一方、サジャの胸には不思議な高揚感が生まれつつあった。
「……明日に備えて、しっかり準備をしておかないと」
サジャの足取りは普段と比べて、ほんのわずかに速い。その後姿は、小遣いを握りしめて祭りに向かう小さな子どものようだった。
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