南の客人②
その日、セーラは緊張に震えながら離宮の廊下を歩いていた。ここは本来なら、自分のような者が訪れていい場所ではない。おまけに、これから出会うことになっている方には妙な噂もある。ばくばくと鳴る心臓から必死に意識を逸らしながら、前を歩く侍従長の背中を追った。
やがて侍従長は、ひとつの扉の前で立ち止まった。彼女に促され、震える指先で扉を叩くと、扉の向こうから小さな返事が聞こえた。
そうしてセーラは、これから彼女の主となる少女と対面した。当時はセーラも幼かったが、目の前の少女はさらに幼く、長い栗色の髪にくるまれた姿は小さな獣を連想させた。
少女は曇りのない瞳で、セーラをまっすぐ見上げた。緊張のあまり、喉が急速に乾いていくのを感じた。
「あなたが、今日からわたしと一緒にいてくれる子?」
かさかさの喉から、用意してきた言葉を必死で絞りだした。その様があまりに滑稽だったのか、少女はぱちぱちと目をしばたたかせ、それからにっこりと微笑むと、「これからよろしくね、セーラ」と告げたのだった。
天気は快晴で、絶好の旅日和である。馬車の窓から吹きこんでくる風も、夏らしい爽やかな空気を孕んでいる。
「王国って、夏は帝都よりも過ごしやすそうね」
主の呟きに、セーラはそうですね、と微笑む。
「帝都も今頃は夏の盛りでしょうね。陽射しの強さはこんなものじゃないでしょうけれど」
「スーお姉様は今年も氷菓子を食べすぎてしまっているかもね」
「そういうことを言ってはいけませんよ」
くすくすと、軽やかな笑い声が馬車の中に響く。こうしていると友人同士で話しているような気分になり、自身の主が帝国で最も尊い血を引く方だということを忘れてしまいそうになる。主自身はそんなことは気にしなくていいと言ってくれるが、流石にその言葉に甘えるわけにはいかない。なにせ彼女は、下級貴族の娘でしかない自分からすれば、本来一生口を聞く機会もないはずの方なのだから。
セーラは気を引き締めてすっと顔を上げると、影のように静かに佇んでいるランダルトを見やる。
「今日泊めて頂く屋敷のご主人は、魔族なのですよね」
「はい。五十年前の旅でも、こちらの屋敷に泊めて頂きました」
「ご主人とも、そのときお会いしているのですよね。どのような方でしたか?」
「そうですね。一言で言えば、あまり我々を歓迎してくれていないようでした」
「やはり、そうなのですね」
魔族は王国の支配者というべき民である。魔王とはすなわち魔族を束ねる長であり、ゆえに彼らは魔王の忠実な下僕として、今でも帝国の民から畏れられている。
「この辺りの土地は、終戦間際でも魔王を支持していたので、帝国に対する敵対感情には根深いものがあるようです。もっとも、ここの領主殿に限らず、魔族は反帝国の感情を抱いていることが多いそうですが」
「帝都でも魔族を見かけることはありませんものね……」
港のほうまで足を伸ばせば、獣人や翼の生えた人々などをちらほらと見かけることがある。しかし、角の生えた魔族はついぞ見たことがない。これもおそらく、彼らが帝国に対して抱いている感情の証左なのだろう。
「今も、そのときの領主様がここの領主様なの?」
アンシルの問いかけに、ランダルトは「いえ」と首を振る。
「今はご子息が跡を継がれているそうです」
「じゃあ、今の領主様はまた別の考えをお持ちかもしれないわね」
アンシルが言うと、ランダルトは眉を軽く上げる。
「たしかにそうかもしれませんな」
「それに当時の領主様も、もしまだご存命なら、昔とは考えが変わってるかもしれないし」
そうですな、とランダルトは目元をかすかに緩めて言う。
「でも、魔族といえば魔王の最も忠実な下僕なのでしょう? 彼らがそう簡単に考えを変えるものでしょうか」
セーラが言うと、アンシルは澄んだ瞳で彼女を見る。あどけない、それでいて何もかも見通しているような、不思議な印象を与える瞳。この目でまっすぐ見据えられると、心の奥底を見透かされている気がして、どきりとする。
「魔王様だって魔族なのでしょう?」
「え? それはそうだと思いますが……」
「だから大丈夫よ。戦争を止めることを決めたのは魔王様なんだから、他の魔族の人たちだって、ちゃんとお話しすればきっと仲良くなれる」
かもしれませんね、とセーラは静かな声で返す。正直なところ、主の考えは少々楽観的すぎる気はする。しかし誰にでも手を差し伸べようとする優しさがセーラの主の美徳であり、彼女が手を差し伸べてくれたからこそ、今セーラはこうして彼女の傍に仕えることができているのだった。
「アンシル様はお優しいですね」
「そう?」
主の屈託のない笑みが、セーラには少々眩しく感じられる。
「お初にお目にかかります。この度は我が領地まで御足労頂き、誠に光栄です」
屋敷の主はまだ若い―実際の年齢はさておき、見た目は三十そこそこぐらいに見える―ひとつ角の魔族だった。口髭を生やした容貌はなかなかの男前で、帝都の若い娘にも存外人気が出そうな気がする。
「帝都とは比べるべくもない田舎ですが、できる限りのおもてなしをさせて頂きます」
にこりと笑うとまた爽やかで、さながら舞台役者のようである。主も想定外の色男の登場に、普段以上の緊張が面に表れている。
「あ、あの、ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします」
「アンシル様、それでは嫁入りの挨拶です」
「あ、ええと……とにかく、我が国と貴国の友好のため、少しでも交友を深められましたらと……」
色男は、しどろもどろの答弁に気を悪くした風もなく、はい、こちらこそ、と恭しく首を垂れる。
それから数刻の後、どさりと音を立てて、セーラの主はベッドに倒れこんでいた。
「お疲れですか」
「うん、疲れた……この前のお屋敷とは違う感じに」
「どんなことを話されたのですか?」
セーラは夕餉には同席しなかったので、アンシルが魔族の領主と上手く話せるか、内心ひやひやしながら主の帰還を待っていた。
「そうね、いろんな話をしたのだけど……王都の観光名所のこととか、帝都のこととか。領主様もいつか帝都を訪れてみたいとおっしゃっていたわ。それで、もしそのときが来たら、わたしに案内をさせてほしいとお伝えしたの」
主の声には、疲れだけでなく満ち足りた響きがあった。幸いにしてというか、恋にときめいているような調子は含まれていなかったので、セーラはほっと胸を撫で下ろす。
「いい人よね、領主様。セーラもそう思うでしょ?」
少し考えた後セーラは「はい」と頷く。
館に到着した直後、セーラも領主と少し話をする機会があった。内心、彼の素顔を見定めるつもりでいたのだが、セーラの目から見ても彼は合格だった。―貴族とは名ばかりの貧しい暮らしを送っていたセーラの生家には、素性の知れない大人が日々出入りしていた。ゆえに、セーラは他人の本性を見透かす目には少々自信があるのだった。
「甘い言葉と装いで女性をたぶらかす殿方もおりますが、今日話した限りの印象では、彼はどうやらその類ではないようです」
「その類って……セーラったら領主様のこと、そんな目で見てたの? まさかそんなこと、あるわけないじゃない」
寝転がりながら口に手を当てて笑う主に、セーラはぴんと人差し指を立てて言う。
「アンシル様がご存じないだけで、世の中には悪い大人がたくさんいるのですよ。ぼんやりしていると、そういう大人に容赦なくつけこまれてしまいますからね」
アンシルはまだくすくすと笑いながら、肝に銘じておくわ、と言う。それからほどなくして、柔らかな寝息が聞こえてくる。
……アンシル様がご存じないだけで、か。
主の寝顔を見やりながら、セーラは先ほど口にした言葉に自身で疑問を投げかける。主は実際の年以上にあどけなく無邪気に見えるのでついつい忘れてしまうが、大人たちの素顔を知っているという点ではセーラと同じ立場である。
……あるいは、逆かしら。
セーラの実家には、母の愛人やら借金取りやら、都の闇から這い出てきたような輩が毎日のように姿を見せていた。
それとは反対に、アンシルの住まう離宮には誰も訪れる者はいなかったという。彼女の母が、皇帝の血筋には到底釣り合わぬ生まれであると囁かれていたからだ。
卑しい血を受け継ぎ、何の後ろ盾も持たない皇女。宮廷に蠢く魔物のような廷臣どもにしてみれば、幼い皇女に近づくことには何の利も見出せなかったのだろう。
幼さの中に時折覗く、古老のような達観。主の一見すると相反する個性は、そのような環境から生みだされたものに違いない。
皮肉なことに、この周囲の無関心が彼女とセーラを引き合わせることになった。普通、皇女の侍女には高位貴族の娘が選ばれる。しかし、アンシルの侍女は成り手がいなかった。帝都の貴族たちは、自身の娘をどこの馬の骨とも知れぬ女の娘に差し出すことを拒否したのである。
途方に暮れた侍従長―彼女は宮廷で数少ない、幼い皇女を気にかけている人物だった―は、自身の親戚の家に先日起こった不祥事を思い出した。夫の死後、当主の位を継いだ夫人は近頃若い役者に入れ上げていたのだが、その役者というのが詐欺師まがいの輩だったらしく、家に残された数少ない財産を盗んで逃亡。夫人は絶望のあまり自ら命を断ち、後にはまだ幼い娘がひとり残された。
一種神がかりのような、あるいは奇妙な博打を打つような感覚で、侍従長はその娘を訪ねた。全てを失った娘は、侍従長の提案に一も二もなく頷いた。仕えることになる皇女とやらが、自分より卑しい身分の血を引いているらしいことも、この際気にならなかった。
「今にして思うと、あのときの私は随分と失礼なことを考えていましたね……」
セーラは灯りを消し、自身の部屋に戻ろうと立ち上がる。先日の獣人の領主の屋敷ではアンシルと同室だったのだが、今日はセーラにも個室があてがわれた。本音を言えば、アンシルから目を離すのが不安なので同室が良かったのだが。ランダルトもすぐ傍で見張ってくれているので何も心配はいらないと思いつつ、やはり異国の地で主をひとりきりにするのは不安なのだった。
部屋から出ると、廊下の奥にぼう、と小さな灯りが見えた。一瞬、灯りが宙に浮いているのかと思ったが、目を凝らすと燭台を手にした人影が見えてきた。
背丈からして、ランダルトや屋敷の主人ではない。となると、屋敷の使用人だろうか。セーラはぺこりと頭を下げて、傍を通り過ぎようとする。そしてすれちがいかけた瞬間、するりと伸びてきた腕に手首を掴まれた。
突然の出来事に、喉がひゅっと音を立てる。それと同時に、不気味な熱を帯びた瞳と目が合った。暗い憎しみの炎。皺だらけの顔に嵌められた、血の色の宝玉。
「……どこから入りこんだ」
ひび割れて弱々しい、老人の声。それなのに腕を締めつける力は、驚くほど強い。
「儂の屋敷に、どうやって入りこんだ」
その言葉でセーラは、老人の正体を察する。領主ではないのに、屋敷を自分のものだと主張する人物。それはおそらく。
セーラの思考は、そこで中断させられる。腕を締めつける力がさらに強まったためだ。
「汚らわしい帝国の鼠ごときが、儂の屋敷におめおめと……こうなれば、命で償ってもらわんとな。え?」
老人の手にした燭台が、首筋まで迫ってくる。逃げなければ。助けを呼ばなければ。そう叫ぶ心とは裏腹に、セーラの体は金縛りにあったように身動きが取れない。
「そこまでです、父上」
声がすると同時に鈍い音が鳴り、老人は床に頽れる。
「申し訳ありません。怪我はありませんか?」
領主の問いかけに、セーラは硬い面持ちで頷く。今にもその場に倒れ伏してしまいそうだったが、領主の差し出した腕は取らなかった。
「……この方は、ひょっとして」
セーラの問いかけに、領主は苦虫を噛み潰したような表情で頷く。
「ご推察の通り、我が父です」
セーラは、床に倒れた老人を見下ろす。気を失った顔には、未だ深い怨嗟の念が張りついている。
「ご存命だったのですね」
振り返ると、いつのまにかランダルトが立っていた。
「ああ……貴方は五十年前にもこの屋敷にいらしていたのでしたね。そうしたら、当時の父の様子も覚えていられるのではありませんか」
「ええ。あまり我々の来訪を快く思われていないようでした」
「父のそういった傾向は、年々強まっていきました。だから今日も来客の話は伏せておいたのですが、それがかえって裏目に出てしまったようです」
領主は、彼の父を背負うために床に膝をつく。その様をまだ硬さの残る面持ちで見つめながら、セーラは尋ねる。
「領主様はお父上と違って、帝国人が憎くないのですか?」
領主は落ち着いた声で「はい」と答える。
「私が生まれた頃にはすでに戦争は終わっておりましたし、古い考えに固執する父に対する反発もあって、帝国人の商人を屋敷に招いたこともあります。もっとも、そういう態度が父をいっそう頑なにしてしまったようですが」
息子の背に気を失ったまま寄りかかっている老人は、先ほどまでとはうってかわってか弱く、ちっぽけに見える。
「貴方は魔族が憎いですか?」
ふいに領主に問われて、セーラは一瞬黙りこむ。それから、静かな声で答える。
「いえ、私は魔族を憎んではいません。これまで出会ったこともない相手のことなど、好きにも嫌いにもなりようがありませんから」
領主は頷き、それ以上追及しようとはなかった。それからもう一度今夜のことを詫びる言葉を口にすると、年老いた父親とともに廊下の奥の闇へと姿を消した。
セーラはランダルトに付き添われて、寝室へと戻った。
「すみません、ランダルト様。もう大丈夫ですので」
「何かあれば遠慮なく呼んでください」
「はい、ありがとうございます」
ランダルトが去った後、セーラは崩れ落ちるようにベッドに倒れこむ。
……嘘、ついちゃったかも。
出会ったことがないから嫌いになりようがないのではなく、出会ったことがないからこそ、よく知らない相手だからこそ、忌み嫌う。それが自身の奥底にある、偽らざる気持ちのように思える。
王国の民に限らず、よく知らない相手は怖い。微笑みの裏に何が隠れているのか、外側からでは決してわからない。初めて会う相手に限らず、たとえばランダルトや、自身を取り立ててくれた侍従長に対してすら、薄ぼんやりとした警戒感は未だに拭えずにいる気がする。
自分にとって心から信じることのできる、心から守りたいと思える相手は、この世でただひとりだけだ。
その名を呼んで、セーラは浅い眠りに就く。
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