罪と誓い②

 高い塔の窓辺で、少女が歌っている。

 肘をつき、つまらなそうな目で眼下を見下ろす少女の視界には、灰色の町が広がる。崩れかけた家屋。人気のない路地。暗く澱む川。少女が住む最上階からは、それらの全てがよく見える。

「メル様」

 背後からの呼びかけに、メルは気のない視線を送る。

「そろそろお時間です。大広間へ」

 戸口に立つひとつ角のメイドに、メルは盛大な欠伸を返す。

「さぼりたいんだけど」

「我儘をおっしゃらないでください」

「だって、馬鹿馬鹿しいんだもの。お父様が馬鹿みたいな格好で馬鹿みたいなこと言って、周りの馬鹿がへへー、その通りですって馬鹿のひとつ覚えみたいに返すだけでしょ」

 メイドは足早に駆け寄ると、メルの口元に手を押し当てる。

「滅多なことをおっしゃらないでください。どこで誰が聞いているかわからないんですから」

「でも、ジーナだって馬鹿馬鹿しいと思うでしょう?」

 ジーナと呼ばれたメイドは大きなため息を吐き、それからメルの耳元に顔を寄せる。

「個人的な考えがどうであろうと、主の命に従うのが我々使用人の務めです。メル様のお気持ちも理解できますが、今はおとなしく陛下の元へ向かって頂けないでしょうか」

「……わかったわよ」

 不承不承という感じでメルは頷く。

 ジーナは、ほっとした表情で息を吐く。普段は大人びている顔が、年相応の少女らしい雰囲気を帯びる。

「帰ってきたら、美味しいクッキーが食べたい。胡桃が入ったやつ」

「かしこまりました」

 冷静なメイドの表情に戻ったジーナの顔を、メルはちらと窺う。

「ジーナは帝国って嫌い?」

「……あのですね」

「それ聞いたら、もう行くから」

 ジーナはため息を吐いてから、少し目を伏せ気味にして話し始める。

「憎いと言えば、憎いです。父の仇ですから」

「ジーナのお父様、戦争で殺されちゃったんだものね」

「ですが一方で、仕方なかったのかな、という気もします。こういうご時世ですから。……どちらというと、私が憎んでいるのは帝国よりも、戦争そのものかもしれません」

「つまり、いつまでも戦争を辞めようとしない馬鹿が憎い?」

「……メル様」

 うんざりした様子で言うジーナに、メルはにかっと笑みを向ける。

「ごめんごめん。それじゃ、行ってきまーす」


 扉を閉め切った大広間は、昼間だというのに濃い闇に包まれている。

 闇の中で揺らめく炎が、参集した魔族たち、そして最奥に座する彼らの主を照らしだす。

 ……もっと明るい部屋でやればいいのに。火の無駄よ。

 メルは部屋の隅のほうで、懸命に欠伸を噛み殺しながら思う。

「揃ったな」

 地の底から這い出るような声が、広間に響く。

 ……今日も馬鹿みたいな格好。やってて恥ずかしくないのかしら。

 彼女の父、畏れ敬うべき魔王その人は、上半身には何も纏わず、下半身は熊か何かの毛皮を使ったと思しき織物という出立ちだった。手元には、獣の角をくり抜いて作った杯を握っている。湾曲した二本の角、ぎらつく眼光と蓄えられた口髭、鍛え抜かれた屈強な肉体。文明に真っ向から背を向け、荒ぶる力のみで全てを従わせる存在。

「知っての通り、ロウベリー城が帝国の虫どもの手に落ちた。やつらが王領に足を踏み入れるのも時間の問題であろう。すでに、やつらの主力部隊を率いるぺセナ皇子もロウベリー入りを果たしていると聞く」

 魔王は反応を窺うように周囲に視線を走らせた後、手元の杯を握り潰した。中身のワインが、血飛沫のように床を汚す。―あーあ、もったいな。

「好機だ。虫どもの大将を引きちぎり、その首を帝都に送り返してくれよう。二度と我々に逆らう気が起きなくなるようにな」

 ……帝都に着く前に腐るでしょ。運んでる間、ずっと氷の魔術でもかけとくの? 

 すっかり白けた気分のメルとは対照的に、周囲の者たちは魔王に呼応すべく狂気じみた雄叫びを上げる。もっとも彼らも、腹の底では何を考えているかわかったものではないが。

 雄叫びが収まると、広間の扉が開かれる。縄に繋がれて運びこまれたのは、山羊である。これから起こることを理解しているのかいないのか、きょろきょろと辺りを落ち着かなく見回している。

 側に控える者が、魔王に剣を渡す。

 メルは心底うんざりしながら、生贄の山羊から目を逸らす。生贄を捧げたところで、特段戦況が好転している風ではない。あんな風に殺すぐらいなら、家畜として活用したほうがよほど経済的だろうに。

 なるべく匂いを嗅がずに済むように、口で息をするように努めていると、山羊の前で剣を構える父と目が合った。

「今日はお前がやってみるか」

 試すような笑みを浮かべる父に、メルは引き攣った顔で答える。

「そ、そんな……わたくしなんかでは、儀式の効果が薄れてしまいますわ」

「だが、そろそろこれくらいの役目は果たしてもらわんとな。まだ小娘といえど、お前は我が跡取りなのだから」

 ふらふらと視線を彷徨わせるメルから、父はふっと目を背ける。

「イシュルメールよ。お前は力はあるが、心が弱い。あれの血かもしれんな」

 無造作に振り下ろされた剣が、山羊の首を一撃で斬り落とす。声を上げることもなく絶命した山羊に、父は紫色の炎を放つ。

「だが、民を支配するためには揺らぐことのない心が必要だ。あらゆるものを打ち払い、燃やし尽くしても眉ひとつ動かさぬ心がな」

「……はい」

 メルは氷のような瞳で、炎に蹂躙され形を失っていく山羊を見つめた。

 馬鹿馬鹿しい儀式が終わると、メルは飛ぶような勢いで東塔の最上階に向かった。そこにはメルの大好きな人がいる。使用人たちを除くと、メルがこの城で唯一慕う存在と言っていい人。

「お母様!」

 扉を勢い良く開けると、椅子に腰かけた母は、美しい藍色の瞳を柔らかく細めながら振り返る。簪で緩くまとめた薄緑の髪が、ふわりと風に舞うように揺れる。

「いけませんよ、メル。元気なのは結構だけど、扉は優しく開けましょうね」

「だってあんまりしょうもない儀式だったから、早くお母様に会いたくて」

「あまりそういうことを滅多な場所で言わないこと」

「言わないわよ。お母様か、ジーナしかいないとこじゃなければね」

「メルはうっかりしてるから、お父様の耳にそういう言葉が伝わってしまわないか心配よ。そうそう、さっきジーナがクッキーと紅茶を運んできてくれましたよ」

「やった!」

 メルは飛び跳ねたが、テーブルに三つのカップが用意されていることに気づくや、途端に不機嫌な顔になる。

「あいつも来るの?」

「ええ」

「ふーん……」

 話しているうちに、静かな足音が廊下に響き始める。

 足音と同じく静かなノックの音に続いて現れた人物を、メルはじろじろと検分する。

 ……相変わらず暗そうなやつ。

 憂いを帯びた瞳。すっと鼻梁の通った顔立ち。花形役者も務まりそうな男前だが、メルの好みではまったくない。

 それは向こうも同じなのか、灰を被ったような色味の長い髪の向こうの瞳は、メルではなく母を見据えている。

「ダナモス、よく来てくれましたね」

 帝国人の青年は表情を崩さぬまま、ぺこりと頭を下げる。

 

 テーブルに着いた三人は、それぞれ異なる表情をしている。つんと澄ました顔のメル。無表情の青年。ふたりに挟まれておっとりと微笑む母。

 ……お母様ったら、なんでやたらとこいつとあたしを引き合わせたがるのかしら。

 そもそもは、母が故郷に帰った際に「拾ってきた」青年なのだという。拾った理由はどうにもはっきりしないが、父は母の行動を黙認している。そのため、捕虜のような客人のような奇妙な扱いで、彼はここ半年ほど王都に滞在し続けている。もっとも、捕虜は茶会に招待されたりはしないだろうけど。

「どうかしら?」

 母の問いかけに、青年はカップから顔を上げる。

「帝都でよく飲んでいたものより苦味が強いように感じます。ひょっとしたら単に淹れ方の問題かもしれませんが」

「美味しくない?」

「いえ」

 ……しっかり答えなさいよ!

 しかし青年のそっけない返答を受けても、母は依然として笑みを絶やさずにいる。そのことがまたメルを苛立たせる。

「メルはどっちが好き?」

「え」

「以前、帝国の紅茶を飲ませてあげたことがあったでしょ? あれはどうだった?」

 言われてみると、たしかにそんなことがあった。一体どこから調達してきたのか、母が突然帝国から仕入れてきたという紅茶を淹れてくれたことがあったのだ。

「んー、あんまりちゃんと覚えてないけど……洗練されてる感じ?」

 普段飲んでるものとは異なる香りと味わい。遠い異国の都を想起させるような、垢抜けた印象。思えば、メルが帝国という国に興味を持ったのはあれがきっかけだったかもしれない。それまでは南にある、うちと戦争してる国ぐらいの印象でしかなかったのだが。

「そうよね、私も同じ意見。帝国は洗練されてて、進歩してるのよ」

「そうでしょうか」

 珍しく自発的に口を開いた青年の声は硬かった。

「私には、あの国がそれほど進歩しているとは思えません」

 青年は長い指をカップの持ち手に絡ませる。そういえば、この洒落た磁器のカップも帝国から渡ってきたのではなかったか。

「表面的な美しさを生みだすことには長けているかもしれませんが、本質は結局のところ、獣の群れと何も変わらない。なまじ知恵がついている分、いっそう性質が悪いかもしれません」

「手厳しいわね。それじゃあ、王国はどう?」

 青年はカップを見つめたまま眉を寄せる。

「率直に申し上げれば、現状は見るに耐えません」

 メルは思わず目を見張る。そりゃたしかにそうだけど、だからってそれを王妃に言う? あんた一応、捕虜なんじゃないの?

「……ですが、人の心根は決して歪んでいないと思います。この城で、何人かの使用人と話してみての印象でしかありませんが」

「何かきっかけがあれば良い方向に変わっていきそう?」

「そう思います。決して簡単な道程ではないでしょうが」

「そう言ってもらえて嬉しいわ」

 母は呟き、満ち足りた表情で紅茶に口をつける。そんな母の様子に、メルは自分だけ蚊帳の外に置かれているようなもやもやした気持ちを覚える。

「さて、それじゃあそろそろ本題に入りましょうか」

「本題?」

「私が明日から里帰りすることは知ってるでしょ?」

「うん」

 母は明言していないが、それがただの里帰りではないことは明白だった。彼女の父であるザヌド伯は、戦争に関して中立の立場を取っている。劣勢に置かれている父としては、なんとしても伯の協力を取りつけたいことだろう。

「おじい様と話に行くんでしょ」

「そうね。この前帰ったときはあまり会えなかったから、今回は色々と話さないとね」

「あたしも行きたいな」

「それは駄目」

 母は微笑みを浮かべたまま、きっぱりと言い放つ。

「あなたは次の魔王なんだから、王都を離れてはいけない。お父様に万一のことがあった場合は、メルが皆を率いるのよ」

「そんなことできるわけないでしょ」

「できるわよ。メルは私の自慢の娘なんだから」

「もう、調子いいこと言わないでよ」

「心からの本音よ。で、そんな自慢の娘にお願いなんだけど」

 仄かに顔を赤くしていたメルは、途端にすっと身構える。

「お母様がそういう顔するときって、大体ろくでもないこと考えてるでしょ」

「ひどいわね。ほんのちょっとしたお願いよ。―私が留守の間、ダナモスに会いに来てくれない?」

 メルは母には滅多に見せないような、心底嫌そうな顔をした。しかし母は特段意に介した様子もなく、にこやかな顔で続ける。

「引き受けてくれるわよね?」

「……相手って何?」

「そんなたいしたことじゃないわよ。一緒にお茶を飲んだり、お話をしたりしてくれればいいの」

「なんであたしがそんなこと……」

「ダナモスは私がお父様にお願いしてここにいさせてもらっているけど、そのことを良く思わない人もいるわ」

 あたしもそのひとりだけど、と思いつつメルは頷く。

「だから私がいない間、メルに彼の様子を見に来てほしいの。あなたが目をかけてくれれば、滅多なことは起こらないだろうから」

「……ま、いいけど。だけどそんなに心配なら、一緒に連れていったら? あたしはお母様がいなくたって、ひとりで留守番できるし」

 すねた声で言うメルに、母は宥めるような笑みを向ける。

「残念だけど、それはできないわ。おじい様は帝国の人があまり好きじゃないし、私としてはメルとダナモスには仲良くなってほしいし」

「なんで?」

 純粋な疑問からメルは問いかけた。

「それが皆のためになるからよ」

「そうなの?」

「そうよ」

 メルは釈然としない気持ちのまま、紅茶に口をつけた。慣れ親しんだ苦く濃い味を舌で転がしながら、帝国の紅茶の味を思い出そうとする。

 帝国の青年は冷たい無表情を崩さずに、じっとカップの底を見つめていた。  


 翌日、メルは母の言いつけに従い、渋々青年の部屋を訪れた。

「入るわよ」

 そこは、とても捕虜にあてがわれた部屋とは思えなかった。床には分厚い毛織の絨毯が敷かれ、白いシーツに覆われた丸テーブルの上には、ご丁寧に茶器一式が用意されている。流石に自由に城内を出歩くことは許されていないようだが、これだけ整えられた部屋に暮らしていれば、わざわざあちこち出向く必要もないだろう。

 青年は椅子に腰かけ、本を読んでいた。相変わらずその表情は暗く、周囲に灰色の雲が立ちこめているようである。

 メルは青年の向かいの椅子に、どかりと腰を下ろす。

「来たけど」

 青年は顔も上げずに本を読み続けている。テーブルを蹴り上げてやろうかと思ったが、上の茶器がもったいないのでやめておく。代わりにテーブルの上にどかりと頬杖を突く。

「来たんだけど」

 青年はわずかに目線を上げる。

「好きなようにお過ごしください。外の兵士に伝えれば、茶でも菓子でも用意してくれます」

 メルは苛々と歯噛みしつつ、兵士に合図を出す。ほどなくしてやってきたメイドはジーナだった。焼き菓子の馥郁とした香りとともにやってきた彼女は、てきぱきとお茶会の用意を整えていく。

「ジーナ、あたしの分だけ用意してくれればいいから」

「そういうわけには参りません。王妃殿下以外の方とも交流されることは、メル様の素行と精神衛生に良い影響をもたらすと思いますし」

「……」

 青年は読書に没頭しているようなので、メルも彼を無視して紅茶に口をつけることにする。

「……あ」

 思わず呟き、メルは目をぱちくりとさせる。覚えのある、優雅で洗練された味わい。

「これ、帝国のやつ?」

 青年は顔を上げずに「そうです」と答える。

「お母様があんたのために用意してくれたんだ」

「そのようです」

 たいして感謝しているわけでもなさそうな口ぶりに腹が立ったが、気を取り直して再びカップに口をつける。

 ……やっぱりこっちのとは、なんか違う。

 この暗くて無愛想な帝国人の前で認めたくはないが、やはり帝国の紅茶は美味しい。王国の紅茶と比べてどちらが、と問われるとそこは趣味の問題だと思うが、どちらがより垢抜けている印象かという話なら、間違いなく帝国のそれに軍配が上がる。 

「……お茶っ葉の種類が違うのかしら」

 メルが小さく呟くと、青年は面倒くさそうに眉を寄せつつも視線を若干上向かせる。

「茶葉の原産地は、おそらく同じでしょう」

「え、そうなの?」

 それはメルにとって、かなり衝撃的な情報だった。帝国の紅茶も王国の紅茶も、同じ茶葉からできている?

「帝国で消費されている茶葉は、基本的には南洋諸島が原産のはずです。王国で飲まれている紅茶も、元を辿れば南洋からの輸入品でしょう。こちらの気候で茶の栽培ができるとは思えませんから」

「ふうん……じゃあ、なんでこっちのとそっちので味が違うのかしら」

「茶葉の配合の問題ではないでしょうか」

「配合」

「ひとくちに南洋諸島の茶葉といっても、いくつかの種類があります。帝国とこちらでは、その配合の割合に違いがあるのでしょう」

「ようは同じとこで作ってるいろんな茶葉を混ぜ合わせてて、その配分がちょっと違うってこと?」

「ひらたく言えば、そういうことです」

「ふうん……」

 メルはどうでもよさそうに呟きつつ、内心感心していた。何も考えずに飲んでいたが、そういう違いがあったとは。そもそも茶葉を南から運んできていること自体知らなかったし。

「南からってことは海路よね。王都の港は最近ほとんど動いてないみたいだから、おじい様の領地を経由して運んできてるのかしら……」

「それもあるかもしれませんが、おそらく大半は帝国から運びこんでいるのではないでしょうか」

 メルはまじまじと青年を見る。

「帝国から持ってきてるの? このご時世で?」

「ご存知ないかもしれませんが、王国の全ての領主が戦争に参加しているわけではありません。口では魔王に協力すると言いつつ、実際にはほとんど兵力を割かずに様子見に徹している領主も少なからずおります」

「うん……それは知ってるけど」

 母はそういった情報を、父が自分から隠したがっているこの国の内実を、それとなく教えてくれる。五十年ほど前は、少なくとも王国各地の領主の半数が父に忠誠を誓っていたが、今やそれが三割にも満たぬ数に減ってしまっていること。その大きな要因が、祖父のような大領主たちが戦争への不参加を表明したことにあること。

「そういった領主の治める土地では帝国との交易が盛んに行われていますし、そもそも魔王に忠義を誓う領主の膝下でも、ひそかに交易は続けられております。王妃殿下はそうやって帝国から流れてきた品を、王都に運びこむよう手配されているのでしょう」

「そっか……」

 メルは暗い表情で、澄んだ色合いの紅茶に視線を落とす。父は臣下たちに、帝国を滅ぼす算段はすでについているかのようなことばかり言っている。しかし実際にはとうにケリがついていて、父は滑稽な一人芝居を続けているだけなのかもしれない。

 ……このままいったら、どうなるのかしら。

 父の死は、免れ得ない未来だろう。父は先代の時代には小康状態となっていた戦争を再開し、現在まで百年以上に渡って泥沼の戦いを続けてきた。

 自分も父と同罪だろう。すぐ傍で父の暴走を見ていながら、何もしてこなかったのだから。この世に生を享けてからの百二十年間にしてきたことといえば、だらだら寝転がって本を読み、菓子や紅茶を貪るくらいだし。こんな王女処刑してしまえと自分でも思う。

 ……お母様は助かってほしいけど、たぶん無理だよね。

 母は私財を投じて、戦争で住む場所や家族を失った民への援助を行っている。王妃に与えられる権限などたかが知れているが、その中で母はひとりでも多くの民を救おうとしている。母は父を止められなかったかもしれないが、少なくとも何もしていない自分とは違う。

 ……帝国の人がやってきたら、あたしは八つ裂きにされてもいいからお母様は助けてくださいってお願いしようかな。

 それからジーナや、城で働く皆。王都で暮らしている人たち。自分ひとりの命で救うことのできる命がいくつあるだろうか。

 物思いに沈むメルは、はっと我に帰る。そういえば一応、このいけすかない野郎と歓談するためにここまで来たのだった。

 前方に視線を向けると、青年は先ほどとまったく同じ姿勢で読書を続けていた。予想通りだが、つい脱力してしまう。こいつほんと、微塵もあたしに関心がないな。

「何読んでんの?」

 読書を邪魔するためだけに、メルは尋ねた。

 青年は無言で、本の表紙を軽く掲げてみせた。その表紙を見た途端、メルの目は点になる。それはメルも愛読している通俗小説のシリーズだった。帝都を舞台にした、伯爵令嬢と仕立て屋の恋愛模様を描いた作品である。

「なんであんたがそれを……」

「王妃殿下から勧められました。娘が好きな本だから、良ければ読んでみてほしいと」

「そ、そうなんだ。……どう?」

 おそるおそる尋ねると、青年はメルをちらりと一瞥した後、淡々と言う。

「荒唐無稽で読むに堪えません」

 紅茶をぶちまけてやろうかと思ったが、もったいないのでやめた。代わりに、あらん限りの殺意を込めて青年のつまらなそうな顔を睨みつけた。

「どのあたりが荒唐無稽なのよ」

「強いて言うなら紙面に書かれた全てが、というところですが……展開の荒唐無稽さにはこの際目を瞑るとしても、帝国人の暮らしぶりの描き方には呆れを通り越して眩暈を覚えます。いつから帝都では天馬が主要な通行手段として利用されるようになったのですか?」

「え、違うの?」

 きょとんと尋ねたメルに、青年は憐れみ混じりの視線を向ける。

「この作者は間違いなく帝都を訪れたことがないでしょう。作品の舞台とするなら、最低限の考証はすべきだと思いますが」

 ぴしゃりと言い放たれ、メルはいじけたように頬をむくれさせる。

「そんな、だって……仕方ないじゃない。ただの作家が帝都まで旅することなんてできるわけないでしょ。この本の作者、元々は王都に住んでたのよ」

「元々は?」

「帝国を舞台にした作品なんて書いてたせいで、王都から逃げなくちゃいけなくなったの。この本も王都中の書店に取り調べが入って、一冊残らず焼かれちゃったんですって。あたしが持ってるやつは、お母様のおかげで焼かれずに済んだけど」

「舞台を王都に変えてしまえば、それで済んだ話でしょうに。なぜ訪れたこともない帝都を舞台にしたのでしょうね」

「そんなの言わなくてもわかるでしょ」

 メルは視線を窓の外に向ける。

「こんなボロボロの都を舞台に、素敵な話なんて書けると思う?」

 青年は表情を変えぬまま、窓の外を見やる。

「王国内には、王都より栄えている町もいくつかあると聞きます。そういった町を舞台にする手もあったのでは」

「うーん、王都を舞台にするよりはなんぼかマシだけど、帝都には敵わないでしょ。古今東西、お洒落な町といえばやっぱり帝都だもの」

「……王都の方はそういう認識をお持ちなのですか?」

 青年は当惑した表情を浮かべて言う。初めてこの青年の血の通った顔を見たと、メルは思った。

「王都っていうか、王国全土で共通の認識なんじゃない? お父様や腰巾着どもは、帝国人は虫けらとか帝都は蛆虫の寝床とか言ってるけど、誰もそんなこと信じちゃいないのよ」

 この北の果ての都にすら帝国の噂は届いている。帝国では、平民の家の窓にもガラスが嵌めこまれていて雨風を防いでくれる。道が整備されていて、ぬかるみに足を取られながら歩かねばならないようなこともない。帝国は明らかに王国より進んだ文明を持っている。

「本当は皆わかってるのよ。帝国とこれ以上戦ったって勝てるわけがないって」

 遥か昔、帝国の文明がそれほど進んでいない時代ならば、王国に分があった。強大な魔力を持つ魔族、優れた身体能力を誇る獣人と比べて、帝国人は際立った力を持たなかった。しかし帝国人は知恵を巡らせ、徐々に王国と戦えるだけの力をつけていった。強靭な金属を精製する技術。強い魔力を持たずとも扱える魔術の修得。じわじわと、何百年もの時をかけて王国は追い詰められていった。

「殿下も、そのようにお考えなのですか」

「殿下ってあたしのこと? そうね、あたしに難しいことはわからないけど、もう手の打ちようがないんだろうなってことくらいはわかる。だから後は、どれだけ犠牲を出さずに戦争を終わらせられるかじゃないかしら。お父様が折れてくれると良いんだけど」

 どれだけ馬鹿げた振る舞いをしていようと、父は魔王だ。強大な力を誇るふたつ角の魔族の中でも最強の存在。いかな魔王でも単独で今の戦況を覆すことはできないだろうが、彼が最後の抵抗を試みれば、犠牲者が何百、何千という単位で増えてしまうことは想像に難くない。

「それこそおじい様みたいな中立の立場の大領主が取りなしてくれれば……何よ、その顔」

「……ああ、いえ」

 じっとメルを見ていた青年は、メルに見返されると、すっと視線を逸らす。

「王妃殿下と同じことをおっしゃるのだな、と」

「お母様もあんたに同じような話をしたの?」

「はい」

「ふうん」

 メルは少し気恥ずかしい気持ちになる。母に言われたことを、無意識のうちに受け売りしてしまったのだろうか。

 そんなメルの内心には気づかぬ様子で、青年は再びメルを見る。

「少し、見直しました」

「……あたしを?」

「はい。初めてお会いした際は、失礼ながら父君の性質が強く出てしまったのだな、と感じました。しかし、実際には母君の美質もいくらか受け継がれているようです」

「何よ、いくらかって。引っかかる誉め方ね」

 メルは照れ隠しでカップを手に取り、優雅な帝国の味を一息に飲み干す。

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