雪の草③

「ほら、もたもたしてると日が暮れちゃうでしょ」

 ニナは雪に覆われた斜面を、三人の男たちを先導するようにきびきびと歩いていく。

 エイブラムは苦笑を浮かべつつ、ニナを見上げる。

「ニナ様、焦りは禁物ですよ。あなたに怪我をされたり、最悪遭難されたりでもしたら、ガルプ伯に合わせる顔がありません」

「平気よ。この山はうちの庭みたいなものだもの。迷いっこないわ」

 実際、ニナは自分でも驚いていた。山に入ったのなどいつ以来かわからないほどなのに、おおよその地形はまだしっかりと記憶に残っている。きっとそれだけ幼い自分は丹念にこの場所を歩き回っていのだろう。

「ニナ様」

 地響きのように重い声が背後から聞こえてくる。そうそう、タータはこんな声だった。滅多に会わないし、会っても彼は全然喋らないから忘れてしまっていたけれど。

「たとえ慣れているとしても、雪山は危険な場所です。この時期ですと、溶けかけた雪が雪崩を引き起こすこともあります。できる限り慎重に登っていくべきです」

 ニナは素直に頷き、歩調を緩めてタータの横に並ぶ。

「タータはファリジャ……あなたのひいおじい様には会ったことがあるんだっけ?」

 ニナは遥か頭上にあるタータの顔を見上げる。ファリジャも大男だったが、タータはもっと大きいかもしれない。頭巾の下から覗く、がっしりとした狼の顔。強面ながらいつも笑みを覗かせていた曾祖父と比べて、タータはただひたすらに強面だ。

「本当に小さい頃に会っているはずですが、記憶には残っておりませんね」

「そうよね。たしか、あなたが生まれたひと月後にファリジャが亡くなったのよ。……最後に曾孫の顔を見れて良かったって言ってたような気がする。もうずっと昔のことだから、はっきりと覚えてはいないけどね」

 そのとき、山頂の方角から風が吹いた。

 ニナは瞼を閉じ、その場に立ち止まる。

「ニナ様?」

 怪訝そうなエイブラムの声が聞こえたが、ニナは反応せず、じっとその身に吹きつける風を、風が僅かに孕んでいる透明な力を感じ取ろうとしていた。

 やがてニナはぱちりと目を開き、すっと右の人差し指を山頂からやや逸れた方角へと向ける。

「たぶんこっち」

 そう言ってから、立ち止まっている男たちを少々不安げに見回す。

「……って言ったら、信じてもらえる?」

 エイブラムは至極真面目な表情で尋ねる。

「根拠があるのですか? それともただの勘でしょうか」

「勘よりは当てになるものだと思うんだけど」

 ニナは再び瞼を閉じる。

「こうやってると、風に乗って小さな力が流れてくるのを感じるの。その力の源をずっと追っていくとそこには慈幽草がある……みたいなことが、昔はよくあったのよ」

「力というのは、慈幽草が発する魔力ですか」

「と、思うんだけど」

 ニナの言葉はいまいち自信なさげだったが、エイブラムは少しの間思案した後、ゆっくりと頷く。

「わかりました。信じましょう」

 きっぱりとそう言われ、ニナは拍子抜けしたような戸惑ったような顔になる。

「あの、そんなにあっさり信じて大丈夫?」

「なんです、信じてほしくなかったのですか?」

「そうじゃないけど、わたしの言ってること、すごく胡散臭くない?」

「たしかに俄には信じがたいですが……慈幽草の表面から微弱な魔力が発せられているのは事実です。ですから風に乗って流れてきた魔力を感知するのも、理論的には不可能と言い切れないはずです」

「なんか引っかかる言い方」

 ニナが口を尖らせるとエイブラムは苦笑する。

「私も才がないなりに魔術を齧った時期がありますので、そこまで鋭敏に魔力を感知することが可能なのだろうか、という気はしてしまいます。ですが、私には無理でも魔族のニナ様には可能なのかもしれませんね」

「普通は魔族でもそんなことできないみたいだけどね。うちの家に代々伝わる力みたい。といっても、お父様もこれは得意じゃないらしいし、今この力をそれなりに使えるのは、たぶんわたしだけなんじゃないかしら」

「ほう。とすると、ニナ様は類稀なる魔術の才をお持ちなのかもしれませんね」

「仮にそんなものがあったとしても、もうとっくに錆びついてるわよ。魔術の修行なんて、いつからさぼってるかもうわかんないもの」 

「今からまた始めれば良いでしょう。きっと古語と同じように、素晴らしい才能が開花しますよ」

ニナははいはいと雑に返事をしたが、その顔は若干赤らんでいた。

少し歩いては立ち止まり、闇の中でかすかな光を放つそれを目指す。少しずつ、光源は確実に近くなっていく。

「こっちかな。……いや、あっちかも」

 山の中腹辺り、見晴らしの良い開けた場所で、ニナは瞼を閉じたまま指先をあちらこちらに伸ばす。

「だいぶ近くまで来ているのでしょうか」

「たぶん」

 そこかしこに透明な力が漂っているように感じられる。すなわち、この周囲のどこかに力の源が存在しているはずなのだが―。

「ごめん、よくわからない」

 ニナは肩を落とし、ため息を吐く。

「わたし、やっぱり相当鈍ってるみたい。昔ならもっとはっきり感じ取れたと思うんだけど」

「ここまでの案内だけで十分すぎる働きですよ。ここからはしらみつぶしに探していきましょう」

「それでしたら固まって動くのも効率が悪いですし、二手に分かれましょうか?」

 フランの提案にエイブラムは頷く。

「タータ殿はニナ様に同行頂いてよろしいですか。フラン、お前は私と……」

「ちょっと、何勝手に決めてんのよ。エイブラム、あんたはわたしと一緒だから」

 エイブラムは一瞬だけきょとんとした表情を見せた後、不敵な笑みを浮かべる。

「その心は?」

「あんたたち、ここに来てまだひと月ちょっとじゃない。そんな素人だけで山奥を歩かせられないでしょ」

「なるほど、それはたしかに一理ありますね。ですがニナ様はガルプ伯のご息女なのですし、万一のことがないよう、やはりタータ殿と行動をともにして頂くべきかと」

「それを言ったら、わたしは領主の娘なんだから客人の身の安全を保証する義務があるわ。もしあなたとフランのどっちかがひどい怪我を負ったりでもしたら、それこそお父様に会わせる顔がないじゃない」

「……とのことですが、タータ殿はどう思われますか?」

 問いかけられたタータは、巌に嵌めこまれた鉱石のような瞳でニナを見下ろす。

「ニナ様、くれぐれも無理はなさらぬよう。この辺りに気性の荒い獣や魔物はいないはずですが、少しでも危険を感じたら、すぐに逃げてください」

「大丈夫よ、自衛のための魔術も治癒魔術も一通り身につけてるもの」

 どちらもここ数十年ろくに訓練していないが、ニナは胸を張って言った。

「というわけで、決まりね。ほら、善は急げよ。日が暮れる前にちゃっちゃと見つけちゃいましょう」

「ニナ様、急いては事を仕損じるとも言いますよ。……タータ殿、私もしっかり見張っておきますので。ニナ様がいらぬことに首を突っ込みそうになっていたら、全力で首根っこを捕まえます」

「頼みます」

 背後の男たちの会話には気づかず、ニナはずんずんと勇ましく山の頂の方角へと進んでいく。エイブラムは不敵な笑みをかすかに和らげて、それに続く。

 

 ニナは少し歩いては立ち止まり、また少しすると歩き始める。エイブラムはその背後に静かに付き従う。

 ニナは息継ぎをするように瞼を開き、また閉じる。瞼を閉じると、暗闇に包まれた世界を透明な光が流れていくのが感じられる。幾重にも重なり、無数に流れていく光の糸。それを丹念に解きほぐしていけば、いずれは光の源に至る。

 ニナは瞼を閉じたまま一歩踏み出そうとし、その肩をがしりと掴まれた。

「ひゃっ⁉︎」

「そちらは足場が悪いです」

「あっ……そ、そうね。うっかりしてたわ、ありがとう」

「お構いなく」

 しばらく黙って歩いた後、ニナはふいに呟く。

「エイブラムって年いくつ?」

 エイブラムは目を白黒させる。

「随分と唐突に聞かれますね。二十七ですが」

「二十七……」

 ニナは自分の年齢を二十七で割ってみて、盛大なため息を吐く。

「なんでわたし、エイブラムの何倍も生きてきたはずなのに、こんなに子どもなんだろう」

 エイブラムは軽快な笑い声を立てる。

「生き物には持って生まれた成長の速度がありますから。数十年の時を生きる者と、数百年の時を生きる者の歩む速さが違うのは当然のことです」 

「そりゃ体の成長が遅いのは仕方ないと思うけど、時間はみんなに等しく流れてるわけじゃない? だから、わたしに与えられた百年をもっと真剣に使っていたら……たとえば、魔術の訓練を毎日欠かさずやってたら、慈幽草だってもっと簡単に見つかってたかもしれないでしょ」

「かもしれませんね。ですがニナ様はそのことにもうお気づきなのですから、明日から真剣に取り組み始めれば良いのですよ」

「だけど、それじゃ遅いんじゃないの?」

 ニナが尋ねると、エイブラムの顔から、ほんの一瞬だけ笑みが途切れる。

「遅いとは?」

「とぼけないでよ。時間がないって、あんたが自分で言ったんじゃない」

「そうでしたか」

「そうよ」

 引き退る様子を見せないニナに、エイブラムは奇妙に力の抜けた笑みを向ける。

「たしかに、時間がないのは事実です。本当なら、ここまではるばる旅をする時間も惜しむべきだったのかもしれません」

「……ちょっと、それって」

 ニナが問いを発しかけた瞬間、一際冷たい風が山頂から吹いた。

 その直後、ニナはある場所へ向けて一目散に駆け出していた。

「ニナ様⁉︎」

 エイブラムの呼びかけにも構わず、ニナは脱兎のごとき勢いで駆け続ける。風に乗って流れてきた光を追って。一際眩い、流れ星のような光を追って。

 そこに辿りついたとき、ニナは肩で息をしていた。一面雪の中にいるというのに汗びっしょりで、心臓がばくばくと鳴っていたが、そんなことはどうでも良かった。

「……見つけた」

 雪を貫く短剣のように、大地からすっと伸びる草。それが今ニナのすぐ眼前―正確には、数歩先の切り立った崖の先端にあった。

 慈幽草のすぐ後ろで、地面はぷつりと途切れている。しかしニナは迷いのない足取りで崖の端まで近づいていく。そして、すぐ目の前まで迫ったそれを摘み取ろうと腰を屈めた瞬間、足場の雪がぐしゃりと音を立てて崩れた。

 ……あ。

 支えを失ったニナの体は、そのまま崖の端から空中へと投げ出される。

 眼下に広がる底の見えない暗闇を見つめながら、ニナは奇妙な冷静さで、遠い昔にファリジャと交わした会話を思い出していた。

 ……ニナ様、山の端を歩くときはくれぐれも慎重に。脆くなった雪は、少しの重みで容易く崩れますからな。高所から落ちれば命はありませんぞ。

 平気よ、わたしはお母様の娘だもの。いざとなったら、翼でぴゅーっと飛んでっちゃうわ。

 おかしなことをおっしゃりますな。お母様と違って、ニナ様に翼は生えておらんでしょう。

 じゃあ、お母様に助けてもらうわ。わたしはあのまっすぐな草で作った薬をお母様に飲ませてあげて、そしたらお母様はまた元気に飛べるようになって、そしたらお母様は崖から落っこちるわたしを助けてくれる……うん、これでばっちり! 

 ……まったく、何がばっちりなんだか。わたしって昔から馬鹿だったのね。

「……ニナ様!」

 力強い腕が、ニナを勢いよく抱き寄せる。

 ……え。

 その腕はニナを地上へと連れ戻そうとするが、時すでに遅く、ふたりは谷底へと落下していく。

 

 

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