魔王付きメイドの一日②
城は王都の北西部に位置しており、年季の入った石壁を越えるとすぐに城下町へと至る。東塔、西塔の二塔を中心とする城の敷地は広大といえば広大だが、それでも帝都の皇宮と比べれば相当こじんまりとした作りなのは間違いない。そのせいか、あるいは主の人柄のせいか、サジャには国主に仕えているという自覚があまりない。
城の敷地の北側に広がる林を抜けると、南側の正門より数段小ぶりな、くすんだ色味の門が見えてくる。都の平和を象徴するように堂々と開け放たれた門の向こうには、ひょろ長い影と小柄な影が並ぶ。
「サジャ、また魔王様のおつかいか?」
からかうように声をかけてきたのは、門番の片割れの青年ティフォードだった。常に眠そうな顔をした彼は、城に三人しかいない帝国人のひとりである。
「まあ大体そんなところ」
「大変だな、貴い方に仕えるってのも。その点俺は毎日ここに突っ立ってるだけでいいから気楽なもんだ」
「わたしはじっと立ってるより、いろんな仕事をしてるほうが性に合ってるけどね。それじゃあ、また。ディアも頑張ってね」
門番の片割れの少女に声をかけると、彼女は俯いたまま、そして犬か狼のような耳をぺたりと垂らしたまま、こくりと頷いた。かなり人見知りな性格らしく、サジャも彼女としっかり話したことはまだない。ティフォードにも言えることだが、およそ荒事に向いているようにはとても見えず、城の防備が心配にならなくもない。人員の配備はダナモスが決めているのだから、おそらく大丈夫なのだろうが。
裏門を抜けてしばらくは人気のない道が続くが、徐々に人の往来が目につき始める。王都の北側は海に面しており、近隣の市場にはその日獲れた魚や貝が並ぶ。
「安いよ安いよ! 五尾でたったの七ディニー!」
「さっき水揚げされたばっかり! まだ生きてるよ!」
威勢の良い呼び声が飛び交う様子は、帝都の通りと何ら変わるところがない。サジャは巨大な猫のような風貌の店主が開く店の前で、足を止める。
「はい、どうぞ見ていってくださいな……おや、魔王様のところのお嬢さんじゃないかい」
「ええ、こんにちは」
王都で暮らす帝国人はまだ多くない。屈強そうな船乗りや、瀟洒な服に身を包んだ交易商はそれなりに見かけるものの、サジャのような若い娘となるとかなり珍しい。それゆえ、一度訪れた場所では自然と顔を覚えられがちだ。
「どうだい、仕事にはもう慣れたかい?」
「はい、おかげさまで」
魔王様の寝坊にも悪酔いにもすっかり慣れました、と胸の内で付け加える。
「魔王様にお仕えできるなんてこれ以上ない名誉なんだから、しっかり励むんだよ」
「は、はい。もちろんです」
「魔王様は最近どうだい。相変わらずお美しいかい?」
「はい、それはもう」
涎を垂らしたり、食べかすがひっついたりはしているが。
「次に御姿を拝めるのは聖祭のときかねえ。ああまったく、待ち遠しいよ」
城下町の人々と話していると、主の人気をまざまざと実感する。美しい国主は国民にとって誇らしいものなのだろうが、おそらく理由はそればかりではないだろう。王都の人々は施政者としての彼女を信頼し、崇めているのである。
「美しくて有能で……完璧っていうのは魔王様のためにある言葉なんだろうねえ」
「……そうですねえ」
答えるサジャの笑みは、少々引きつっている。
「それで今日は何をお求めだい? 魔王様のお好きな黒曜貝なら活きのいいのが入ってるよ」
「あ、今日は黒曜貝じゃなくてですね、ここに書きつけてあるものを……」
「ふうん? なんだか随分あっさりとしたものばかりだね」
「お客様の好みに合わせたそうです」
「ああ、なるほど。ご自分の好みより客人の好みを優先されたわけか。流石だねえ」
身から出た錆です、という言葉はかろうじて呑みこんだ。
普段は城の窓から見下ろすばかりなので、たまに町へ出るとついつい歩調が緩む。大きな音を響かせながら、通りを進んでいく手押し車。頭上に売りものを載せて声を張り上げる行商。道の脇に座りこみ、抱えた弦楽器をかき鳴らしながら歌う旅芸人。
それほど大きな町ではないし、帝都の大聖堂のような堂々たる威容を誇る大建築があるわけでもない。それでもこの都は活気に満ちており、道行く人々の表情は明るい。
昔の王都を知る人は、口々にこう言う。昔はこんな町じゃなかった。もっと塞ぎこんだ、重く暗い雲が立ちこめるようなところだった、と。
……それがこうなるまでに、どんなことがあったのかは知らないけど。
きっとダナモスをはじめとする廷臣の貢献が大きかったのだろう。輝かしい偉業の裏では、彼らが黒子のように息を潜めて動き回っていたに違いない。
それでも一番最初の、一番大事な決断を下したのは彼女だったという。百年前、彼女がそれを決断しなければ、今目の前に広がるこの光景を自分が目にすることは決してなかった。
……つまり、日々の行いはどうであれ、やはり魔王様は名君なのだ。
自己暗示をかけるように胸の内で呟きつつ、サジャは主の治める町をゆったりとした足取りで歩いていく。
食材を無事厨房に届けた後、サジャは主の書斎に足を運んだ。扉を開くと、円形の広間を埋め尽くすように本棚が並んでいる。ああ見えて、魔王様は読書家なのだ。好んでいるのはもっぱら通俗的な読み物で、真面目な本は月に一冊読むか読まないかのようではあるが。そして、本は好きでも本の整理にはまったく興味がないらしい。
「また棚の隙間に無理やり突っこんで……どうしてこういうの、気にならないのかしら。……あれ?」
書斎に散らばった本をあるべき場所に戻していくと、一冊分の空白が棚に残った。
歯抜けになった箇所に並んでいたのは、シリーズ物の一冊だ。魔術探偵マニュエルの事件簿。帝都を舞台に魔術師マニュエルが怪事件の捜査に当たるのだが、最後は大抵推理をほっぽりだして馬鹿げた、もとい常人の理解を越えた展開になる。作者は実際に帝都を訪れたことがないらしく、作中の地理も暮らしの描写も帝都の元住民からするとだいぶ突っ込みどころが多いのだが、サジャの主はこの珍妙な読み物をなぜだか大層お気に召している。
「……寝室のほうかな」
半信半疑で呟きつつ、主の寝室に向かう。今朝掃除したときには、机にもベッドの上にもそんなものはなかったと思うのだが。
念のため軽くノックしてから扉を開けると、ベッドの上に寝そべる主と目が合った。
「あ、お疲れー」
「……」
だらりと体を横にした主の手元に、件の本を見つけた。
「何をされているのですか」
「見ればわかるでしょ。読書よ、読書」
「本日の午後の予定はご存じでしょうか」
「北のほうからいらした偏屈なおじ様と、交易についてむずかしー話をするはずだったかしら」
「でしたら、早く難しい話をしに行かれてはいかがですか」
「別にすっぽかしたわけじゃないわよ。もうお前は出てけ、どっかで適当に時間潰してろって言われたの」
「……ガルプ伯にですか?」
「ダナモスとか、その他諸々のじい様方に。あいつらほんと、主君に対する態度がなってないわ」
「そうですか……」
魔王は軽く体を持ち上げて、テーブルの上の水時計を見やる。
「もう三時? なんだかお腹空いてきちゃった」
「……紅茶とお菓子ですね」
「流石、わかってるわねー」
「それはもう、慣れっこですので」
なぜ公務の時間に部屋でだらけている主にお菓子を差し入れなければならないのだろう、と内心大いに首を傾げつつ、ティーカップに熱い紅茶を注ぎ、黄金色のマフィンを小皿に載せて差し出す。
「うわー、どっちも良い匂い」
「それでは、わたしはこれで」
「え、ちょっと待ってよ」
「砂糖とミルクが足りませんか」
「そうじゃなくて、お話しましょうよ」
「仕事が溜まっているのですけれど」
「あたしとのお喋りも仕事のうちでしょ。ほら、こっちのカップ使っていいから」
「こんな高級そうなカップ、使いたくありません」
「サジャってなんていうか、枯れてるわよねえ。あたしがサジャぐらいの年の頃は、もっときゃぴきゃぴしてたと思うんだけど」
「何百年前の話でしょうか」
「失礼ね、せいぜい二百年とちょっとよ。だけどサジャの実家にだってこういう茶器くらいあったんじゃないの? 帝国の由緒正しい貴族の家柄なんでしょ」
「由緒は正しいですけど、戦後の領地は猫の額ほどでしたし、わたしが生まれた頃にはその猫の額すらとっくに手放しておりましたよ」
「ああ、そっか。それでサジャのお父様は先祖代々の土地を離れて、帝都で時計修理の仕事を始めたのよね」
「と、聞いています。魔術式の水時計って、帝国では最近まで珍しかったんですよ。父は実家にあった時計を子どもの頃からいじり回していて、魔術に関しても基礎を一通り学んでいたので工房でも重宝されたらしいです」
「おじい様の旅土産だったのよね」
「はい。わたしが小さい頃に亡くなったので、そんなにはっきりとは覚えていないのですけど、ろくに働きもせず一年中あちこちをぶらぶらしているような人で、元々傾きかけてた家を完全に潰した立役者だそうです。帝都の父のところにも、ときどきふらりと尋ねてきては、旅費の無心をしていたのだとか。父も人が好いからお金を貸してしまうのですけど、祖父は旅の土産話を幼いわたしに聞かせて、それでもう借りた分は返したような顔をしていたそうです。まったく、我が祖父ながら傍迷惑な人だと思います」
サジャの言い草に、魔王は声を上げて笑う。
「孫にそこまで言われちゃ、おじい様も浮かばれないわね。でも、そのおじい様のおかげでサジャのところにダナモスがやってきたわけじゃない」
「それはそうなのですけど……」
詳しい経緯は聞いていないが、祖父が王国を旅した際、ダナモスと知り合う機会があったらしい。その縁がなければ、サジャは今頃帝都の片隅で侘しい暮らしをすることになっていたかもしれない。
「だから、ちゃんと感謝しないと。サジャがここにやってくる大事なきっかけを作ってくれた人なんだから」
「……」
サジャはふと、先ほど町を歩きながら考えていたことを思い出す。祖父がダナモスと知り合ったのは、たしかに大きなきっかけだ。しかし、そもそも祖父がダナモスと知り合うことができたのは誰のおかげだろう。すなわち帝国人である祖父が、お気楽に王国のあちこちを旅できるような世を作ったのは誰だろう。
「魔王様」
「ふぁい?」
マフィンにかじりつく主を、サジャはじっと見つめる。
「魔王様はどうして、戦争をやめることにしたのですか」
「……ふぇ?」
魔王の口元から、ぽとりとマフィンが落下する。
「それ、なんで今聞いたの?」
「話をしたいということですので、前々から気になっていたことを聞くことにしました」
「はあ、なるほど……」
魔王はしばし視線をぐるぐると彷徨わせていたが、やがてごく当たり前のことのようにさらりと呟いた。
「性に合わないからよ」
それからテーブルに落ちたマフィンを拾いあげてぱくぱく食べ始めたので、サジャはすかさず「性に合わない、とおっしゃいますと」と口を挟む。
「ようするにね、剣を振るうよりナイフとスプーンを振るうほうがいいし、魔法で敵を焼くよりお菓子を焼く方がいい。そういうことよ」
「魔王様、お菓子はお作りになれないのでは。わたしも経験がないですが、あれはなかなか高度な技術を要すると聞きます」
「たとえよ、たとえ。とにかくね、戦争ってほんと馬鹿馬鹿しいのよ。サジャも当事者になってみたらわかると思うけど、あんなこと続けたって一文の得にもならないの。だから、やめちゃった。それだけの話よ」
「……なるほど」
性に合わないというのは、おそらくその通りなのだろう。この方が戦場で指揮を執る姿など、とても想像できない。
だが、だからといって、何百年も続いた戦争をそうあっさりとやめられるものだろうか。
二国の争いは、血に刻みこまれた宿命。かつて多くの人々はそう信じていたのだという。たとえどれほど歪な形であれ、それが日常だったのだ。そんな世界を変えるためには、性に合わないからに留まらぬ、揺るぎない意志が必要だったのではないのだろうか。
そういった想いを全て呑みこみ、サジャは控えめな笑みを浮かべる。
「魔王様らしいですね」
「でしょ? そういうわけだから、はい座った、座った」
「どうしてそうなるのですか」
「質問に答えさせておいて、ただで帰れるわけないでしょ」
魔王はティーポットからカップに紅茶を注ぎ、サジャの手前に差し出す。それを見てサジャは、呆れたように苦笑する。
「メイドにお茶を振る舞う主なんて、聞いたことありませんよ」
「そりゃそうよ。あたしはそこらのちんけな主とは違う、泣く子も黙る魔王なんだから」
「メイドにお茶を振る舞う魔王は、もっと聞いたことないですよ……」
一日の終わりの時間、サジャは小さな灯りの下で書き物をする。同室のニコラが立てる寝息を耳にしながら筆を取るのが、今や日課となっている。
書くのは主に日々の出来事だ。仕事のことや友人と話したことを書き記していき、それが溜まったら故郷に住む母への手紙に添えるのだ。
……という感じで、わたしは毎日元気に働いています。母さんも日々平穏無事にお過ごしでしょうか。
「……なんか違うかな」
サジャはそう呟いて、筆を置く。手紙の書き方というのは、どうにもわからない。参考として、古代の詩人や王侯貴族の遺した書簡集を読んでみたりもしたのだが、やたらと言葉遣いが仰々しかったり感情表現が豊かすぎたりして、自分の書こうとしているものとは何か違う気がした。
「もっと素直に気持ちを伝えられるといいんだけど……」
「なんだ、恋文でも書いてんのか?」
振り向くと、寝ていたはずのニコラが毛布の隙間から顔を覗かせている。
「あ、ごめん。起こしちゃった? 恋文じゃなくて母への手紙をね」
「わかってるって、毎晩ご苦労さん。上手く書けないなら、ちょっと見てやろうか?」
「え?」
「あたしは毎日サジャと顔を合わせてるわけだし、あたしの目から見て、ちゃんとサジャの暮らしが表現されてたら良い手紙ってことだろ」
「そうねえ……じゃあ、お願いしようかな」
ニコラは手渡された紙束にさっさと目を通していく。そして紙面から顔を上げると、一言。
「ため息が足りないんじゃないか?」
「……ため息?」
「ちゃんとあたしの知ってるサジャのことが書かれてはいるんだけどさ、実際のサジャはもっと冷静な顔しながらため息吐いてる印象なんだよな」
「それはつまり、魔王様についての愚痴を書けってこと?」
「素直な気持ちを伝えるっていうなら、そこは外せないだろ?」
「そりゃそうかもだけど」
ニコラはにかりと笑い、紙束をサジャの手元に戻す。
「ま、サジャの手紙なんだから、サジャの気が済むように書けばいいんじゃん? んじゃ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
サジャは軽く背伸びをして、ニコラの助言について検討する。
……たしかに魔王様のことには、あんまり触れないようにしてるけど。
使用人の身である以上、主についてあれこれと書くのも如何なものかなと思う。一応あれでも、この国で最も貴い方であらせられるわけではあるし。
……でも、まあ。
サジャは腕を下ろすと、すいと筆を取る。
何も主の暮らしぶりを悪し様に書き立てようというわけではない。自身の生活の一幕として、主とのやりとりを包み隠さずに書いてみようというだけのことだ。
……魔王様は、毎朝わたしが起こしに行くまで決して目を覚まされることがありません。
……毎晩酒蔵のワインやビールをぐびぐびと飲み干し、調子外れな歌を歌われています。
……二日酔いのせいでベッドから起き上がれないことが、一度や二度ならずありました。
出来上がった手紙を読み返してみて、サジャは首を捻る。―やはり、これは悪口なのではないだろうか?
これでは、魔王様があまりに良いところなしの人物に見えてしまう。いくらなんでもこの内容では、母にいらぬ心配をかけさせてしまいかねない。
……何か、良いところ。魔王様の良いところを書かないと。
散々考え抜いたあげく、こんな文章を付け加えることにした。
……ここまで書いてきたように、魔王様は仕える側からすると、なかなか困ったところのあるお方です。しかしその一方で、わたしのような異国からやってきた小娘にも分け隔てなく接してくださる、広い心をお持ちの方でもあります。
……魔王様のおかげで、わたしのこの都での日々は、良くも悪くも退屈するということがありません。
「……こんなもんかな」
これで主の良さが伝わるのかは正直よくわからないが、今夜はこれぐらいにしておくべきだろう。明日も早いし、きっと明日も一向に起きる気配のない主を叩き起こさなければならない。
「……本当、朝から晩まで魔王様のことばっかり」
ため息混じりにそう呟くと、サジャは机の上の灯りを吹き消す。
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