第2話

 二人を乗せた車は新市街を抜けて、丘の上へとなだらかな坂道を上っていく。


 現在のローザレジーナは、旧市街と新市街の二つの地区から成り立っている。城下町だった頃の名残がある旧市街は歴史的な建物や昔ながらの街並みが広がっており、その周りをはちみつ色の石でできた城壁が囲んでいる。一方、新市街は新しくできた地区で、駅がこちら側にあるおかげで随分と賑わっていた。以前までは大した店がなかったはずだが、この一年でずいぶんと変わったらしい。流行りのカフェがあちこちにできていて、ショッピングモールもある。観光客らしき人々がジェラートを片手に街を散策しているのが見えた。


「あ、俺マーサの所に寄る」


 旧市街の入り口である城壁と跳ね橋が見えてきたところで、ジュリアーノは思い出したように口を開いた。


「おい、お前なぁ。せっかくわざわざ迎えに来たってのに!俺だって予定があるんだよ。この後会合なんだ。そんなに長く待てないぞ」

「いいよ。帰りは一人で帰る。マーサの店からうちまですぐだし、別に問題ないだろ?」


 カルロはため息をつくと、カーネに旧市街で一旦ジュリアーノを降ろすように指示を出した。


「夕飯は皆揃って食うからな、絶対帰って来いよ」

「わかってるって」


 ジュリアーノをおろすと、カルロはそう言ってそのまま車で走り去って行った。

 城壁の中に入ると、石畳の大通りが広がっている。ここが旧市街のメインストリートだ。何百年も前に建てられた石造の建物がストリートに沿って並んでいる。中のテナントが変わることがあろうとも、ここの景色はもうずっと変わっていないし、これからも変わらないのだろう。


 マーサの店はメインストリートから一本路地を入った所にあった。小さい木の看板が外に出ていて、『マーサのリストランテ』と描かれている。こじんまりとしているが、赤と白のチェックのテーブルクロスがひかれたテーブルが外にいくつかでていて、客がジェラートをつついていた。ドルチェももちろん美味しいが、ここの名物はなんと言ってもパスタだ。漂ってくる良い匂いに釣られて、ジュリアーノの腹がぐうと鳴った。


 「ジュリアーノ?!」


 店の中を覗き込んでいると、ジュリアーノを呼び止める声がした。店のカウンターの奥でマーサが驚きの表情で立っている。口を大きくあんぐりと開けて、抱えている紙袋からレモンが二つほどこぼれ落ちた。


「あんた帰ってきてたの?!いつ?!」

「ついさっきパルモ島からのフェリーから降りてきたとこ。なぁ、なんか食わせてよ。俺朝から何も食べてないんだ」


 ジュリアーノが甘えた口調でねだると、マーサはその頬を叩いた。パン!と随分と痛そうな音が響く。


「いってぇ!」

「こんの馬鹿!ムショに入ったって聞いた時は心臓が止まるかと思ったわよ!そこから何にも連絡はないし!手紙一枚くらい書けたでしょうに!何してたのよ!!」

「わー、ごめん、ごめんって」

「聞いてみればナイフ持って暴れまわったって言うじゃないの!感情をコントロールできないなんて赤ん坊と一緒よ!わかってるの?!」


 マーサはブルネットの髪を振り乱して、紙袋を抱えながらジュリアーノを叩き続けた。これだけ人を殴りつけるマーサに感情のコントロールについてあれこれ言われるのは心外だったが、それを言ったら更に殴られそうだったので黙っておく。しばらくするとマーサも気が済んだのか、息を切らせてジュリアーノを殴るのをやめた。


「オレ、いつものボンゴレビアンコがいい」

 ニッと歯を剥き出してジュリアーノが笑う。

「バジル多めで」


 マーサは呆れた顔でジュリアーノを店の中へと招き入れた。


 マーサはジュリアーノが小さい頃のベビーシッターだった。物心ついた時には、マーサがいつも隣にいて、ジュリアーノの面倒を見てくれていた。今はもうベビーシッターの仕事は辞めていて、ここで小さなリストランテを経営している。店内にテーブルは五つほど、外にも小さなテラス席があって、それぞれのテーブルに小さな花が一輪ずつ飾ってある。壁には藁に巻かれたキャンティのボトルがたくさんぶら下げてあり、壁のタイルには手描きで絵が描いてあった。

 椅子に座ってしばらくすると、マーサお手製のボンゴレビアンコがテーブルの上に出された。ガーリックの良い香りが鼻腔をくすぐり、思わず口の中で唾液があふれる。


「あー、これこれ!絶対に出所後の飯はここで食べようって思ってたんだよ」


 フォークでくるくるとパスタを巻き上げて口へと入れると、ほどよい硬さのパスタとアサリの旨みが口の中に広がり、あまりの美味しさに思わず唸ってしまう。刑務所のお世辞にも美味しいとは言えない飯に慣れきってしまっていたので、世の中にはこんな美味しい食べものがあったのだと思わず涙ぐみそうになった。


「はー、うま。やっぱパスタはマーサのとこが一番だわ」

「はいはい。口だけは上手いんだから」


 パスタをあっさりと平らげると、マーサはエスプレッソを淹れてくれた。手のひらに収まってしまうくらいの小さなデミカップにエスプレッソが注がれている。このカップはジュリアーノが愛用してるカップで、ずっとここにジュリアーノ専用として置いてあるものだ。


「無事に帰ってきたから良いものの……本当に気が気じゃなかったわ。それで?あんたこれからどうするの?」


マーサが自分の分のエスプレッソも淹れながら尋ねる。


「わかんね。俺、てっきり構成員に加えてもらえるのかと思ってたのに、叔父さんは俺をファミリーの仕事には関わらせたくないんだってさ」


 ジュリア―ノは不満そうだったが、マーサはどこかほっとしたような顔だ。


「あぁよかった。珍しく、私もマテオの意見に賛成だわ。マフィアの世界なんて足を突っ込まないのが正解よ。ジュリエット――アンタの母さんだって、アンタには普通の生活を送って欲しかったに決まってるんだから。だから、ここを離れてアメリカで暮らそうとしてたのよ。それが、あんな事になっちゃって……」


 マーサの表情が険しくなる。

 ジュリアーノの両親は、ジュリアーノが6歳の時に火事の事故で亡くなっている。ローザレジーナから離れた南シチリアの海沿いの別荘で、家族旅行に行っていた時だ。父オーガスタと母ジュリエットとジュリアーノ、そしてベビーシッター兼手伝いのマーサもついてきて、四人でのんびりバカンスを楽しむはずだった。しかし、真夜中に別荘が火事になって、父と母は死んでしまった。その時、泣き出したジュリアーノを宥めるために外を散歩していたマーサ達が助かったのは、本当に運命のイタズラとしか言いようがない。

 あれが事故だったのか事件だったのか、両親の死についての詳しい事はわかっていないままだ。


「母さんも父さんももういない。オレを育ててくれたのは叔父さんで、カルロも実の兄弟でもないのにオレに優しくしてくれてる。だから、何か恩を返したいんだよ。それに、前科者の俺が今更普通の生活なんて……」

「だったら尚更マテオが望む通りにすべきなんじゃないの?ジュリアーノ、アンタ全然若いじゃない。頭も悪くないんだから、大学行くとか、やりたいことをやるべきよ。アンタはあの家族の中でしか生きてこなかったから、外の世界を知らないだけなの。前科者だろうがなんだろうが、諦めなければ、可能性なんていくらでもあるのよ。昔荒れまくってたアタシだって、こうやって今はリストランテを持ててるんだから」

「でも……」

「はい、今日はこの話はここでお終い。どうせアンタが言い訳と屁理屈をこねるだけってわかってるからね」


 マーサはそう言って皿とコーヒーカップを片付けると、これ以上の反論は聞きたくないとばかりに中へと引っ込んでしまった。苛立ちが募り、思わずテーブルを蹴飛ばしたくなったが、深呼吸して必死に自制心で怒りを押し殺す。マーサの店の備品に傷をつけるなんて、それだけはあってはならない事だ。


「これでも食べて、頭冷やしな」


 そう言ってマーサはジュリアーノの目の前にアイスクリームが置いて行った。ジュリアーノの大好きなバニラ味に塩キャラメルソースがかけてある。

 黙々とアイスをスプーンで口に運ぶ。

 マーサの言っている事も、彼女が心配してくれている事もわかっているから、ジュリアーノは何も言えなかった。店内の天井隅に取り付けられたテレビに視線を移し、今後について考えてみる。マーサは可能性なんていくらでもあるというが、ジュリアーノは結局マフィアのボスの孫なのだ。この事実はジュリアーノがどう足掻いても変わらない。

 それに、そもそもジュリアーノ自身がマフィア、アルベローニファミリーの一員になりたかったのだ。

 叔父のマテオは今までジュリアーノの面倒を見てくれていたし、何不自由ない暮らしをさせてくれている。実の息子であるカルロやミシェル、娘のアウローラやエレナと同じくらいに可愛がってくれていて、側から見たらまるで本当の親子と思われるくらいだ。だからこそ、ジュリアーノはマフィアに入って、彼らに恩返しをしたかった。お互いに助け合う、それこそが家族ファミリーというものだろう。

 

「おいおい、ジュリアーノじゃねぇか。いつのまに外に出てきたんだ?」


 人を煽るような下品な声音が店内に響く。顔を上げると、見たことがあるような気がする顔が数人立っていた。確かミラベッラファミリーの下っ端達だ。残念ながら名前までは覚えていない。ジュリアーノは大きくため息をつく。

 穏やかな刑務所暮らしですっかり忘れていた。

 ジュリアーノはモテるのだ、男女問わず。

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