第3話

 話し合い、もといほとんど押し切りでノアの家に住むことが決まった恵人は、早速ノアが住むマンションへと足を運んでいた。

 いろいろと言いたいことはあったが、ノアをあの家に住まわせるわけにもいかないし、そもそも養う能力もない。反論のしようがなかった。

お金には困っていない、と言うのでタワーマンションか何かだと思っていたが、意外と一般的な高さのマンションだった。ただそれでも築年数は浅そうで、なるほど確かに生活に困っている様子は見受けられなかった。


「どうぞー」

「お、お邪魔します」 


人生で初めて女性の部屋に入る恵人は、思った以上に緊張していた。なんだかいい匂いもする。


「色々準備するから適当にくつろいでてー」


ノアはそう言ってリビングから出て行ってしまった。

造りは3LDK。一人で住むにはかなり広いし、二人でも広いような感じがする。

リビングもかなり広いのに、物が少ないためさらに広く見える。

そんなリビングの、一応置いておくか、と言わんばかりに置かれた実寸より小さく見えてしまうソファに恵人はちょこんと座った。


「くつろげるわけがない……」


兎にも角にも落ち着かない。落ち着かなさすぎてスマートフォンの画面を付けたり消したりしている。

 視線もあっちへ行ったりこっちへ来たりしている。

 だが、部屋を見回して思うのは、やはり生活感がないことだった。

 必要最低限の家具はある。娯楽のためのものも多少はある。けれどそれらに使用感が全くない。だからどう、というわけではないが、なんとなく不思議に思った。

 そう考えているうちに、ノアが戻ってくる。


「お待たせー。お風呂沸いたよ、入る?」

「お風呂……」


 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。ノアが発したせいか、なぜか異国語のように聞こえた。


「そう、お風呂」

「俺が?」

「恵人が」

「ここの?」

「ここの」

「ええ……?」

「ええってなによ……」


 さっき来たばかりの家、しかも女性の家で、お風呂に入る?

 そんなエロ同人みたいな展開が存在するのか……?

 いや当然十八歳未満なので、読んだことはないが。

 けれどそんなのはどう考えたって刺激が強い。間違えたハードルが高い。

 だから恵人の導き出した答えはこれだった。


「あ、明日休みだし今日は入らなくていいかな……」


 ふざけた回答である。

 当然ノアにも「は?」みたいな顔をされながら、


「いや、入ってよ。一応ここ、私の家だし」


 と冷たく言われた。

 それでもなお渋っていると、ノアがある提案をしてきた。


「じゃあ恵人、二つに一つだよ」

「え?」

「私と一緒にお風呂入るか、一人で入るか。ちなみに私と入ったら背中を流すという特典が――」

「一人で入ります」

「即答……」


 ノアがショックを受けていたが、断って当然だろう。ノアに触れるまで女性の肌にすら意識的に触ったことのない人間にそんなのはハードルが高すぎる。

 恵人はここに来る前に寄った元の家から持って来た着替えを持って、逃げるようにお風呂に入った。



「ふう……」


 癒やされたんだか癒やされてないんだかよくわからないお風呂を終え、恵人はリビングに戻った。


 だが、前の家がユニットバスだったのに対し、この家はバス・トイレ別の上浴槽も風呂場自体も大きい。足を伸ばして湯船に浸かれたのはいつぶりだろうか。


「我が家のお風呂はどうでした?」


 ソファに腰掛けていたノアが尋ねてくる。


「落ち着けたのか落ち着けなかったのかよくわかんない」

「ふふ、なにそれ」

「ノアは入らないの?」

「私はこの後出かけるから」

「こんな夜に?」

「夜中にって、吸血鬼は夜行性だよ? むしろここからだって」


 言われてみればそうだった。あまりに人間味がありすぎて、その前提をすっかり忘れてしまっていた。


「あ、そっか。でも、どこに行くの?」

「うーん、お仕事?」

「仕事」

「そうそう」


 お金には困ってないと聞いたが、どうやって稼いでいるのまでは聞いていなかった。一歩踏み込むということも踏まえて、恵人は深く聞いてみることにした。


「どんな仕事なの?」

「うーん、なんだろう、用心棒?」

「誰の……?」

「表社会では絶対に見ない人たち、かな」

「そ、そうなんだ……」


 これ以上踏み込んではいけないかもしれない。聞いただけで殺されそうな話があるような雰囲気まである。

 内容はもう怖すぎて聞けないし羽振りがいい理由もわかった気がするので、別の角度からの質問をすることにした。


「毎日行くの?」

「毎日の時もあれば、何週間もない時もあるよ」

「そっか……」


 仕事は仕事。それはわかっている。

 ノアが仕事をしなければ、恵人は生活ができない。あの家を出た時点で、自治体からの保護は受けられなくなるからだ。

だからノアが外に出て仕事に行くことは、恵人は応援しなければいけない立場のはず。


(……でも、なんだろうな、この感覚は)


 頭ではわかっているのに、心がどうも追いつかない。

 ただ気持ちよく送り出せばいいのに、それができない。

 黙っていると、ノアに思ってもない指摘をされた。


「……君って意外と、寂しがり屋なんだね」

「寂しい……」


 そうか、寂しいんだ。寂しかったんだ。

 一人で寝て、一人で起き、一人でご飯を食べる。

 誰とも話さない日の方が多い。

 ずっと、それが当たり前だと思っていた。そんな生活を日常だと思っていた。思い込んでいた。

 けれど、そうじゃなかった。

 本当は寂しかったんだ。

 誰かと同じ空間で寝たかった。

 誰かに起こして欲しかった。

 誰かと一緒にご飯を食べたかった。

 誰かとくだらない話をしたかった。

 そんなことに、今更気付いてしまった。

 気付いてしまったからには、それを無視することはもうできない。


「ねえノア、俺――」

「いいよ」

「え?」

「いいよ、恵人が望むこと、全部してあげる」

「俺まだ何も……」

「わかるよ、恵人の考えていることくらい」


 冗談だと思った。けれど、ノアの双眸は真っ直ぐ恵人を捉え、恵人にはその眼が嘘をついているようには見えなかった。

 本当にエスパーなんじゃないかと思うくらい、恵人の心理を的確に読んでくる。

 だが、今はそれがありがたい。この気持ちを言語化できるほど、恵人の心は成長していない。


「だから、大丈夫だよ」

「……うん。ありがとう」

「ふふ、どういたしまして」


 ふと、瞼が落ちかける。

 緊張の糸が切れたのか、急速な眠気を感じた。


「眠そうだね、疲れちゃったかな」

「うん……もう寝る……」

「そっか、おやすみ、恵人。寝室はあっちの部屋ね」

「うん、おやすみ、ノア……」


(そういえば……おやすみって言ったのも言われたのも……初めてだったな……)


 また一つ、初めてを体験し、恵人の意識は深く、深く落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る