第6話 飲み込む大波 Side:三枝 

夜明け前の船は、眠気の代わりに金属の匂いを吸いこんでいた。通路の白色灯を抜けてブリーフィングルームに入ると、乾いた空気と、機械の温度がこもる音のない熱がある。壁面のスクリーンには灰色の海図とログ、前回の潜航で抜け落ちたソナーの帯と、ゆっくり移動する境界線。私の声は、自分の耳にだけ、半拍ほど速く聞こえた。


「任務を再確認する。最優先は境界の内部までROVで調査だ。何が起きるかまだわからないから、有人はやらないつもりでいる。明らかにいつもの海ではないが、このメンバーならやり遂げられるはずだ。」


机の上の紙コップに、誰のものとも知れない湯気が細く立っていた。

「配置の確認だ。氷室は情報解析、城戸は機材調節。海原はオペレーター補助。甲板ラインは岡島君、サブは神谷君だ。一般隊員は周辺の監視と救難体制管理。帳票名目は“港外試験(三号)”でいく。以上各自始めてくれ。」


「了解しました」神谷君は端的に返す。岡島は「りょーかい」と肩を回し、肘で神谷君を小突いた。海原は神谷君に「無理はしないでください」と小さく言い、うなずいたのを見て、私は短く返礼して部屋を出る。ポケットの"お守り"が、紙とは思えない重さを帯びていた。――なにもないといいが。


扉を開けると、海の湿り気が戻ってくる。ウィンチの低音が、甲板へと背中を押した。濡れた鉄と油の匂い。黒い水面に、ブイの明滅が呼吸のように浮き沈みする。


小型のROVが水へ滑り込む。ケーブルに等間隔で挟んだ銀のスリーブが、境界で“見かけ長”の変化を見せる仕掛けだ。私は手すりに手を置き、視線だけモニターへ送る。


『こちらコントロール。映像入ります』凪沙の声。粒子が揃い、ライトの輪が水を押し分けた。

『接触――平面』氷室の声は冷たい刃の背側みたいに滑らかだ。光の輪が“何か”の外縁で止まり、内側は吸い込まれたように暗くなる。

『スリーブ二個分、見かけ長が縮む。厚みは可変』

「推進三割で継続」


画面の向こうの静けさは、こちらと密度が違う。黒い柱列。貝殻の渦に似た浮き彫り。自然の偶然では揃いすぎた角。私はメトロノームの拍を心中で合わせ直す。


『推進五割……待ってくれ、指令遅延だ。電源は生きてるのに、命令が届かない』

城戸の困惑した声がやけに響く。

『位相ずれ補正、かけ直して』

氷室の冷静な声

『了解っと、……復帰、いや、また黙るな。』


数秒ごとに寄せては引く、改善と断絶。ふっと画面が痩せ、灰色の雪だけが残った。


『映像、ロスト』凪沙の声が一段高い。

『テレメトリも途切れてる。ライン張力、わずかに増加……?安定した。再起動試行』氷室。

『こちら甲板。スリーブ目視変化はゼロ、ケーブル健在』岡島。

「命令だけが鈍っています」神谷君の報告は淡々としていた。


ウィンチの唸りが止む。耳の奥の“ザ……”が、ごく遠くで薄く鳴る。金属と塩の匂いが、同じ高さで擦れ合った。


海が、先に動いた。


船底の下からゴンと鈍い音。板が軋む。前にも一度だけ聞いた音だ。間を置かず、もう一度。

『北ブイ上下振幅増。織り目の“辺”が寄ってくる』氷室。

「前方、黒影! 無泡、接近早い!」見張りの声。


灯の下で、影が立ち上がる。私の目は、まず“形の理屈”を探した。

扇形の胴に、左右へ薄い帆ヒレ。腹側には縦に割れた吸孔が脈打ち、海を吸っては吐く。帆ヒレの内側からは二本の折り畳み腕が伸び、節で折れて扁平な掌が甲板を探る。掌縁の微細な吸着輪が、濡れた鉄板に貼りつく音を点々と残した。目はない。胴の側面に走る細い発光条が側線のように明滅し、こちらの動きをなぞる。縁は刃の反射、皮膜は海の色。嫌な予感ほどよく当たる。


「投網!」

即座に出した指示に迅速に反応した部下たちだが、ネットは簡単に皮膜で弾かる。

「衝撃槍、撃て!」

「衝撃槍、発射!……効果ありません!」


舌打ちが波のはざまに消える。予定外だ。――見せるつもりはなかった。だが、ここで止める。

「前衛、符柱ふばしら展開」

右手の指が速くなる。取り出した符が風にほどけ、甲板の四隅に打った黒杭へ吸い込まれた。空気が低く鳴り、杭どうしを結ぶ水脈の線が立つ。

水綴みつづり――固定」

見えない手が海面を掴み、胴を底から縫い留める。

「なんなんだよこれ! どうなってんだ!」岡島が叫ぶ。

「わからん。でも、効いてる」神谷君の声は揺れない。私は短く息を噛み、声を整える。

「城戸、敵影に拍調器で逆拍を送れ」

『了解。』

拍調器の低い唸り。聞こえない音が耳骨を掻く。発光条が一瞬、弱くなる。


「いま、接合膜」氷室。

掌を返す。「波裁なみたち

海面に縦の刃。腕の付け根の膜が裂け、折り畳み腕が力を失う。帆ヒレが一枚、沈む。

影が腹の吸孔を開いて吸い、次に吐いた。水面が台形に盛り上がる。

「逃がすな――潮枷しおかせ!」

水の紐が一斉に締まり、胴と吸孔の周囲を帯状に縛る。皮膜がしわみ、発光がちらついた。


海原が一歩出る。「先輩、下がってください!」

「ここでいい。ライン見てろ」神谷君は間髪入れずに返す。

「でも――」

「大丈夫だ」


その言葉の終わりより先に、海が息を吸った。


無風の甲板の縁で、大波が立つ。泡のない水柱。狙いは――神谷悠馬。

「神谷君、下がれ!」私は叫ぶ。符柱の線が太る。間に合わない。

水柱がおおきな口となり、冷たい膜が神谷君の足首を攫った。凪沙の「先輩!」が半音高く割れ、岡島の「相棒!」が続く。二人の手は膜で弾かれ、触れた指先に青い線が一閃して消えた。


神谷君が振り向く。私の視界の中央で、彼は短く言った。

「――すぐ戻る」


言葉が約束の形で海へ落ち、音が折れ、光が裏返る。胸の内側で、織り目の呼吸と私の拍が半拍ずれる。次の瞬間、輪郭が海の内側へ滑り、彼は飲み込まれた。


静寂。

潮の匂いと機械の低音だけが残る。私は一度だけ目を閉じ、命令を連ねた。

「全員、持ち場。救難体制へ移行。ライン二系統、張力再確認。オペレーター、呼びかけ継続」

『了解』

「氷室、今の噛みにフラグ。接合膜の座標を優先タグだ」

「了解」氷室。

「城戸、逆拍は外向き固定。合わせに行くな」

『固定。出力は弱で維持』


私は濡れた指先を見下ろす。指先には、紙の触感がまだ残っていた。見せるつもりではなかった。だが、見せた以上、守り切る。

モニターの黒はまぶたのように閉じ、黒の奥で灰色の粒が拍で揺れる。見ている――誰かが。どこかが。こちらを。


「神谷先輩、応答ください。こちらオペレーター」

海原の呼びかけは、変わらず落ち着いている。が、指先の震えは隠せていない。

岡島はライフラインを巻き取りながら、低く吐く。

「……ふざけんな。返せ」

私は息を数え、ブイの灯の明滅をもう一度数えた。呼吸の回数分だけ、胸の奥の鈍い音が増える。


必ず、連れ戻す。

言葉にはしない。言葉は、海が攫うからだ。私は次の指示を出し、織り目の辺を見た。星のない夜空の欠片のように、そこにある。拍だけが――こちらと向こうで――半拍ずれたまま。

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