第5話 ある教会の日常
空気が変わった。
焦げた地面は、古びた石畳に変わり、石造りの建物が視界に浮かび上がる。
まるで空中からその風景を俯瞰しているかのようだった。
彼女の眼下にあるのは、サンクトブリヌイブルク旧市街の片隅にある古い正教会――アーシャが幼い頃、祖母とよく通った教会だった。
だが、今日のそれはどこか違って見えた。
教会前庭に子供たちが集まり、笑い声が響いた。
その中央に立っていたのは、あの男――スターリンに似た顔をした、柔和な表情の司祭だった。
彼は古い福音書を片手に、まるで童話を語るように聖書の話を子供たちに語っていた。
「……かつてノアは、人々の不信心に悲しみながらも、神の声を信じて方舟を作りました。そして、その信仰が人類を救ったのです。神は、真実に忠実な者を見捨てません」
子供たちは真剣に聞き入っていた。
一人が質問すると、司祭は笑って答えた。
言葉には優しさがあり、話には心があった。
説教ではなく、寄り添うような語り。
傍らにいる若い司祭はスターリンに似た男を、親愛と尊敬の念が一目で分かるような輝いた瞳でその光景を見ている。
説話が終わると、スターリンに似た司祭はかごからお菓子を取り出し、子供たちに分け与え始めた。
「スターリン主教、それは私が。」という、若い司祭の言葉に笑顔で拒否の意思を示し、一人一人の子供達に声をかけ手渡していく。
お菓子を受け取った子供たちは「ありがとう、司祭さま」と笑顔で言って手を振って帰っていった。
その姿に、主教もまた静かに手を振り返した。
迎えに来たらしい母親と思われる女が主教に心からのお辞儀をすると、主教もまたお辞儀を返す。
そのとき、アーシャは確信した。
この男も、スターリンだった。
だが、別の人生――誰かの命を奪う代わりに、誰かを導く生き方を選んだ――
やがて、子供たちが去ると、主教は教会の扉を閉め、空を見上げて静かに十字を切った。
その瞬間――世界が崩れ落ちるように、風景が再び揺れた。
アーシャの身体は再び荒野へと引き戻され、土と硝煙の匂いがよみがえる。
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