第19話 記憶の断片⑤

環が吸血鬼として目覚める数日前。


環はいつものようにノエルの喫茶店を訪れていた。

先日の見知らぬ客とのやりとりは胸に引っかかっていたが、あえて触れなかった。


いつものように、2人ともコーヒーを飲みながら他愛のない話をした。

しかし、会話は途切れ途切れで、どこかぎこちなく、空々しかった。


(ずっともやもやしてるの、嫌だな)

カップの中身はもう空だった。

そろそろ帰る時間だ。

環は思い切ってノエルに尋ねてみた。

「そういえば、この前お客さんと怖い顔で話してたよね」

「…え?」

「あんな顔するなんて、いったい何の話してたの」

きっとノエルなら"そんなこと気にしてたんだ"と笑い飛ばしてくれるはず。そんな期待をしていた。

「見てたんだ…」


ノエルの様子がおかしかった。

しばらく重たい沈黙が二人の間に広がった。

「最近、連続通り魔事件がこの辺りで起きてるの知ってるよね?そのことを話してたんだ。」

ノエルは深刻な表情だった。

それを見て、環は嫌な予感がした。

「環ちゃん、しばらくここには来ないほうがいい…」

それは、環が期待していた答えとは違うものだった。

「え、なんで…?」

「ここに来ると帰りが遅くなるし、危ないと思うんだ」

「…そっか。そうだよね」

至極もっともな話だ。

環は頭では納得していた。

「じゃあ、犯人が捕まったらまた来てもいいよね?」

環は無理に笑顔を作りながら、ノエルに尋ねた。

「うん、そうだね」

ノエルは環から目を逸らしていた。

環はそれを見て、ノエルに拒絶されているように感じた。

ノエルが急に遠くなったような気がした。

拒まれたわけじゃないのに、それでも胸の奥がひどく痛んだ。

どうして目を合わせてくれないの。

唯一、自分でいられる場所だったのに。

その場所が、なくなってしまうかもしれないのに。

泣きたくないのに、頬が熱くなって視界がにじむ。


「ほんとに、それだけ…?」

声がかすれていた。

言葉にしたら、何かが壊れてしまうような気がした。


それでも、もう止まらなかった。

「ノエル、何か隠してるよね…?」


ノエルは、はっと顔を上げる。

そして、何かを言いかけて、飲み込んだ。

「なんのことかな」

「私じゃ、頼りないから?私が、信用できないから言ってくれないの…?」

「ちが――」

わかっている。これは環のわがままだと。


「ずっと一緒にいてって言ってたのに……!

ノエルの嘘つき!」


ノエルは私の言葉に驚いたようだった。

そして傷ついた顔をしていた。



「あ…ごめ」

環は思わず自分の口を手で押さえた。

ノエルの表情を見るといたたまれなくなった。

彼に背を向け、店を飛び出した。

「環ちゃん…!」

ノエルの伸ばした手は、虚しく空をつかんだ。




環はひとり雨の夜道を走っていた。


やってしまった。

あんなことを言いたかったんじゃない。

あんな顔させたかったわけじゃない。

こんなの子供の癇癪だと、自分でもわかっていた。

ノエルは、きっと私のことを心配して言ってくれたのに。

幼すぎる自分が、嫌で仕方なかった。


環は、近くの建築資材置き場の前で足を止めた。

鉄の支柱や木材などがいくつも積み重なっていた。


雨で頭が冷えていく。

私の癇癪なんて、ノエルにとってはたいしたことじゃないんだろうな。

きっと謝ればすぐ許してくれる。

そう思っている卑怯な自分が嫌だった。

いつまでも甘えてちゃだめだ。

すぐに戻ろう。

戻って、ノエルにちゃんと謝らなきゃ。

来た道を引き返そうとした。



――その時、

不意に全身が総毛立つような寒気に襲われる。


「……っ?」


細い路地に、背の高い男が立っていた。


「お前……ノエルの、においがする……」

「え…」


聞いたことのない低い声。

異様な気配を纏っていた。

なんでノエルの名前が出てくるの?


男はゆっくりと環の方へ近づいてくる。

暗闇なのにはっきりわかった。その男はこっちを見て笑っている。


「……!」


まさか、例の事件の?

逃げなければ。

環は踵を返す。


その男は、鋭い爪をちらつかせた。刃物のように鋭利で長い。

街灯に照らされ、ギラギラと光っている。

あれは、やばい。


環は駆け出した。


しかし、手遅れだった。


男は一息で環の背後に迫ると、獣のように腕を振るい、彼女の腹部を貫いた。


「っ……!」


赤黒い血が、濡れたアスファルトに滴り落ちる。

環は膝から崩れ落ちた。


痛みよりも先に浮かんだのはノエルの顔だった。

ごめんね、ノエル。

心配してくれたのに、子供みたいに怒って……。


これは、罰なんだ。

と、環は思った。

ノエルが心配してくれてたのに、勝手に腹を立てて、困らせた私への。


視界が紅く染まっていった。



**



喫茶店のドアの前で、ノエルは立ち尽くしていた。

彼女に、どんな言葉をかければ分からなかった。

何もばれていないと思っていたけど、僕が何かを隠していることなんて、お見通しだったんだ。


外は雨が降っていた。 

あの子は傘を持たずに飛び出してしまった。

追いかけなければ。

ドアノブに手をかけた瞬間、


ノエルの体がビクリと跳ねる。

血の匂いが、彼の鼻先をかすめた。


「……環ちゃん?」


カタン――

ノエルが握っていた傘が床に落ちた。


雨に濡れるのにも構わず、血の匂いのする方へと駆ける。

眼鏡が雨にぬれて、視界を遮る。

眼鏡を外してポケットに突っ込む。

早く、彼女のところへ行かなければ。


そして──


彼が目にしたのは、倒れ伏した環と、嘲るように振り返る男の姿。

見覚えのある顔だった。遠い昔に対峙した。

しかし、もうこの世には居ないはずの人物だった。


「っ…!」

「久しぶりだなあ、ノエル。

ひどい顔をしてどうした?」

その男は旧友に話しかけるように、ノエルに語りかけてきた。そして、足元の環に目を向ける。環の髪を引っ張り、頭を持ち上げた。

「ひどい怪我をしてかわいそうだなあ。

もしかしてお前の知り合いか?」

「貴様…!」

「でも、お前は俺にもっと酷いことをしたよなあ……!」


男は怨嗟の目でノエルを見る。片目に傷があり、潰れているようだった。

男は乱暴に環の肩を抱き、上体を引き寄せる。

ノエルの目が鋭さを増す。怒りで目を見開き、牙を見せる。


「その子を離せ!お前が恨みがあるのは僕だろう」

「だから、だよ。

この女を俺の玩具にしたら、お前は、どういう顔をするかなぁ」

男はノエルを嘲笑うかのように、環の首元に牙を立てようとする。


その刹那。


──視界に赤が弾けた。


次の瞬間には男の首が宙を舞っていた。

男が起きたか理解するより早く、肉の裂ける音と共に鮮血が雨に混じり、夜の路地を染める。


「……その子に触れるな」


ノエルは血に濡れた爪を払うように腕を振り下ろし、立っていた。

瞳は金色に妖しく輝いていた。

動きはあまりに速く、気配すら残さなかった。


断ち切られた首から噴き出した血潮は、瞬く間に黒い霧となり、遠ざかっていく。

支えを失った環の体が、力なく地面に落ちる。

男の嘲笑うような笑い声がこだまする。

『…そうだ、人間に紛れて生きてきたようだが本質は、昔と…変わらない……!俺と同じ、殺戮を好む化け物だ…!』

声に呼応するかのように、周囲の街灯がチカチカと明滅した。


『お前を必ず絶望の底に叩き落してやる…!』


怨嗟の声だけを残し、男の気配は完全に消えた。


ざあざあと降る雨の音だけが、あたりに響いていた。


ノエルは声が去った方角を睨みつけていたが、気配が消えると同時に環の方へと視線を戻した。


「……ああ」

声が漏れた。

雨の音がひどくうるさかった。


環に近づき、ノエルは膝から崩れ落ちた。


「環ちゃん、そんな…」


環の腹部からはとめどなく血があふれていた。


雨と血液が混ざり、赤く濁った水が周囲に広がっていく。

その匂いがノエルの喉を焼く。

強烈な渇きに酔いそうになる。

だが彼は必死に理性を保つ。

「の…え…る…?」

呼吸は浅く。意識はすでに朦朧としているようだ。


膝をつき、ガラス細工を扱うように優しく彼女を抱き上げる。

環の血が、ノエルの服を汚したがそんなことは気にしていられなかった。

雨と血に濡れた華奢な体。

軽すぎる体温。あまりに弱い鼓動。

その儚さが、心に重くのしかかる。


環を抱きかかえたノエルは、喫茶店の奥の部屋へ駆け込むと、そのまま膝をついた。

ソファに環を横たえ、毛布をかける。


夜は深く、冷たく、ひどく静かだった。

オレンジ色の照明の下で、環の胸がかすかに上下するのを確認した瞬間、ノエルはそっと目を閉じた。


「……よかった、まだ……生きてる……」


震える声が喉を突いて出た。

だけどこのままでは、環は数分ももたない。

頭では分かっている。

けれど、心が拒んでいた。


──僕は、取り返しのつかないことをしようとしている。

きっと君の未来を奪ってしまう。

君は僕を恨むかもしれない。


それでも。


ソファに座り、自分の腕に環の上体をもたれかけさせた。


その顔は、どこか安らいでさえ見えた。

それがかえって胸を締めつけた。

環がうっすらと目を開けた。


「ノ……エル、ごめ……私…」

「環ちゃん…!もういい、喋らないで…」

口の端から血が溢れていた。

息をするのも苦しいはずだ。

「――ひど…い、こと、言って…ごめん…」

ノエルの肩が震える。



「…環ちゃん。僕の方こそ、ごめん…」

君を僕の業に巻き込んでしまった。

歩み寄って来てくれた君を、臆病な僕は遠ざけてしまった。

環はゆっくりとノエルの顔を見上げた。

いつもの眼鏡を掛けていなかった。

金色の瞳が、より近くに感じられた。

瞳は哀しみと後悔に揺れていた。


環はノエルの頬を撫でて“大丈夫だよ”と伝えたかった。抱きしめて泣かないでと言いたかった。なのに、もう声が出せない。

意識が遠のいていく。


「……ごめん……ごめんね、環ちゃん……」

ノエルは、今にも泣き出しそうな顔で、そっと環の頬を撫でる。


「僕を許さなくていい……でも」


──その目に、静かな決意の光が宿った。


「君を、絶対に死なせたりしない」

言葉は小さく、夜に溶けるように淡かった。

けれどそこに込められた想いは、揺るぎなかった。


ノエルは、環の体を引き寄せた。



そして──



その首筋にそっと牙を立てる。

ひとしずく、ふたしずく。

環の血を飲み込んでいく。



そして自らの指を噛み切り、血を滴らせた。

それを環の口元に持っていく。

しかし環には、それを飲み込む力も残っていないようだった。

口の端からこぼれ落ちていく。

それを見て、ノエルは自らの血を口に含む。

そしてゆっくりと環の唇に重ねた。


その光景は、まるで儀式のようで、

どこか神聖で、どこか背徳的だった。


環の喉が、ゆっくりと動く。


数呼吸すると、環の呼吸が荒くなった。


そして、


「ああ…あああぁぁあああ!!」

環が絶叫し、体がガクガクと痙攣し始めた。

内部から体の構造を無理やり作り変えているのだ。

耐え難い痛みが環に襲いかかっているはずだ。

ノエルは環を掻き抱いた。

何度も、ごめんね、と呟く。

こんな言葉、何の意味もないことはわかっていた。

「うううううう!!!」

錯乱状態の環は、ノエルの背に爪を突き立て、肩に噛みついた。

「――くっ…!」

よかった。こうしていれば、舌を噛まないで済む。

ノエルは痛みに耐えつつ、環の背をさすった。

「…大丈夫、大丈夫だよ」

そして祈る。


(――神様、もしいらっしゃるのなら、どうかこの罪のない少女をお助けください。)


しばらくすると、環は落ち着き、静かな寝息をたてた。


彼女の唇に薄紅がさし、弱々しい呼吸が少しだけ整う。

それを見届けたノエルは、安堵の息をつき、環をそっとソファに寝かせた。



そして、血で汚れた自分の手を眺める。

「僕のエゴで、君の人生を奪ってしまった…」


(君を、僕の血で縛りたくなんてなかった。……でも、もう後戻りはできない)



ふと窓の外へ視線をやった。


――やつだけは許さない。

どこかに潜んでいるはずだ。

環を巻き込んだ元凶が。

環が生きていると知れば、また襲ってくるかもしれない。


「もう、終わらせよう」



静かに立ち上がり、環に背を向ける。

胸の奥に鈍い痛みが広がった。

環の寝息が、あまりに穏やかだったから。


ノエルは、眠っている環に自分のコートをかけた。さらに環が目覚めた時に吸血衝動を紛らわせるよう自分の血液をコーヒーに滴らせてテーブルに置いた。

懐中時計を、取り出す。


コーヒーカップの横に懐中時計を置いた。

なぜそうしたかは分からない。もう二度と会うつもりはないのに。

小さく息を付き、ノエルは扉を開けた。

夜気が冷たく頬を撫でる。

その冷たさを受け止めるように、ノエルは一歩、闇へと踏み出した。



「目が覚めたら、僕のことは忘れて」

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