第19話 煙の狩人
外の冷たい空気が肺に流れ込んだ瞬間、栞は思わず胸を押さえた。
ノクターンの重苦しい匂いから解き放たれても、まだ耳の奥には鼓動のような重低音が残響している。
細い路地を駆け抜け、先頭に立って囚われの女たちを導く。
振り返れば、痩せた東洋人の男――篠森が、しんがりを務めていた。荒い息を吐きながらも、鋭い眼差しで背後を警戒し続けている。十五年ぶりに見たその背中は、変わらず真っ直ぐで、彼女をどこか安堵させた。
路地の先で、協力者のハンターたちが待ち構えていた。
無言で頷き合い、女たちを受け取ると、抱きかかえるように闇の中へ消えていく。
ひとまず、囚人たちは安全だ。
だが、安堵はほんの一瞬に過ぎなかった。
石畳に重い足音が響く。湿った夜気を裂くように、二つの影が迫ってきた。
黒服の男が二人。ノクターンの入口に立っていた護衛――いや、今は獲物を追う狩人の眼をしている。
栞は喉を詰まらせた。
人間ではない。第七世代。
その目が、自分と篠森を交互に射抜く。
「下がってろ」
篠森が低く言い、足元に重心を沈める。
ポケットの中で何かを掴み取ると、黒い小袋を地面へ叩きつけた。
瞬間、土臭い煙が弾け、黒服の動きがわずかに鈍る。
栞は目を見張った。
ただの探偵だと思っていた彼が、こんなものを扱うなど想像もしていなかった。
だが、煙の効果は長くは続かない。赤い瞳が揺れ、黒服たちがすぐに前進を再開する。
退路は、ない。
栞が思わず息を呑んだそのとき――別の匂いが風に混じった。
甘く、乾いた草の香り。
それは夜気に溶け、ゆらゆらと二人の黒服を包んでいく。
彼らの足がわずかに止まり、視線が宙を泳いだ。
栞の目が、路地の奥へ向かう。
月明かりの切れ間から、ひとりの少女が現れた。
深い褐色の肌に、短く刈られた銀色の髪。
その輪郭は夜の闇に浮かび上がり、手には白い煙を立てる細いスティックを握っている。
年端もいかないように見えるのに、その立ち姿は異様に落ち着いていた。
「間に合った」
快活さを含んだ低い声が、耳に届く。
次の瞬間、少女は煙を深く吸い込み、吐き出した。
吐息とともに広がる煙は温かみを帯び、胸の奥に懐かしさを呼び覚ますようだった。
栞の心臓が不意に軽くなる。圧迫していた恐怖が一瞬だけ和らぐのを感じる。
黄金色の瞳が暗闇に灯る。
褐色の肌に淡い紋様が浮かび上がり、波紋のように肩から指先へ流れていく。
その姿は神秘的で、目を逸らせないほど美しかった。
「倒すよ」
少女の声は年相応のものではなく、硬質な響きを帯びていた。
黒服が動いた。煙を裂き、影のように距離を詰める。
篠森が栞を背にかばい、短剣を構えた。
次の瞬間、少女が地を蹴り、流れるように横から滑り込む。
栞の視界に映ったのは、二人の連携だった。
黒服の腕を少女が払うと、その体がわずかに沈む。そこへ篠森が蹴りを叩き込み、壁際へ押しやった。
もう一人が背後から迫るが、少女は短く煙を吸い込み、吐き出す。白い靄が篠森の手に絡みつき、短剣がほのかに光を帯びた。
「試してみて」
低く囁く声に、篠森は即座に反応する。
刃が黒服の脇腹を裂き、呻き声が漏れた。
――人間のはずなのに。
栞は目を見開いた。
彼の動きが明らかに研ぎ澄まされている。少女の煙が、力を与えているのだ。
壁際に叩きつけられた黒服が膝を折る。
だが、すぐにもう一人が篠森へ突進した。
栞は叫びそうになったが、その前に少女が滑り込み、相手の軸足を払う。
体勢を崩した瞬間、篠森の刃が深々と突き立った。
赤い瞳がかすかに揺らぎ、呻き声が夜気に散った。
栞は震える手で口元を押さえた。
自分の目の前で繰り広げられているのは、人間と吸血鬼の戦いではない。
人間と――そして、人間を超えた何か。
白い煙が夜気に揺れ、甘やかな香りが石畳に滲んでいく。
黒服の二人はその匂いを吸い込み、わずかに足を止めた。宙を泳ぐような瞳。その隙を、篠森と少女は逃さなかった。
篠森の短剣が閃き、肩口を裂く。黒服は呻き声を上げ、血を滲ませながら後退した。
もう一人が怒りに任せて踏み込む。だが、少女が低く沈み込み、しなやかに回り込んだ。褐色の脚が弧を描き、相手の足首を払う。体勢が揺らぐ。そこへ篠森が横から体重を乗せた蹴りを叩き込み、敵を壁際へと押しやった。
栞は思わず声を呑んだ。
――速い。
篠森の攻撃は確かに人間のものだ。だがその動きは、少女の煙に導かれるように研ぎ澄まされていた。まるで彼の体が、見えない糸で操られているかのように。
少女は短く息を吸い、再び煙を吐き出した。
今度は篠森の短剣に絡みつき、刃先が青白く光を帯びる。
栞はその不思議な光景に目を奪われながらも、理解した。
――これはただの煙ではない。力を流し込む術。
「いまだ!」
篠森が低く叫ぶ。
黒服の一人が振り上げた腕を、少女が柔らかく払う。その瞬間、篠森の短剣が閃き、相手の脇腹に深々と突き立った。赤い瞳が大きく揺れ、呻き声とともに体が崩れる。
だが、もう一人が背後から襲いかかる。
栞が思わず叫びかけたとき、少女が一歩前に出た。
黄金色の瞳が夜を照らし、淡い紋様が腕に浮かび上がる。
彼女の動きは風のように速く、黒服の首筋に斜めの蹴りを叩き込んだ。
乾いた音が夜気に響く。
黒服の身体がぐらりと傾いた隙に、篠森が追い打ちをかける。短剣が胸を裂き、呻き声が掻き消えた。
膝を折った黒服の体が崩れ落ちると、その輪郭が灰に変わり始めた。
皮膚が剥がれ、骨が砕け、形を失いながら夜風に散っていく。
もう一体も、壁際に倒れ込んだまま灰となり、静かに消えた。
栞はその光景を見届け、背筋を震わせた。
――これが、彼らの戦い方。
人の身でありながら、人を超えるもの。
篠森と少女が肩を並べる姿は、まるでずっと前から組んできた戦友のようで、そこには迷いも隙もなかった。
少女はスティックを口元から離し、吐息を落とす。
黄金色の瞳はまだ光を宿し、肌の紋様は淡く揺らめいている。
その立ち姿は、同じ“人間”の枠に収まらないものだった。
栞は唇を噛み、胸の奥に言葉にならない感情を抱え込む。
安堵と、恐怖と、そして奇妙な羨望。
――人を守るために、この力を使えるのなら。
だが同時に、その力が人から遠ざけてしまうことも、痛いほど分かっていた。
短い静寂ののち、篠森が短剣を下ろし、荒い息を吐いた。
「……助かった」
少女は顎をしゃくり、短く答える。
「まだ、終わってないよ」
その言葉に、栞は夜気の冷たさを取り戻した。
静寂を裂くように、重い足音が路地へ近づいてきた。
ノクターンの奥から姿を現したのは、異様に長い手足を持つ長身の男。
蒼白な顔に深紅の瞳。全身から溢れる圧に、栞の背筋が粟立つ。
「篠森さん! 彼は第六世代です、気を付けて!」
思わず声が漏れた。
篠森が短剣を構え直し、黒人の少女は細い煙の立つスティックを握りしめたまま低く沈む。
栞もまた一歩前に出た。逃げ場はない。ここで立ち止まらねば、誰一人として帰れない。
長身の男が首を傾げ、次の瞬間、地面を弾き飛ばすように踏み込んできた。
速い。赤い閃光のように距離を詰め、篠森の刃を軽く払う。衝撃が走り、篠森の腕が痺れてよろめいた。
そこへ拳が振り下ろされる。
「……っ!」
篠森が受け止めたが、体ごと押し潰されそうになる。
横から空気が唸る。少女の蹴りが男の膝へ叩き込まれた。だが膝はわずかに沈んだだけで、逆にその脚を掴まれ、片腕で持ち上げられてしまう。
少女は宙で体をひねり、無理やり着地したが、息が荒い。握っていたスティックの火は弱まり、漂う煙も薄れていた。
(このままでは、二人とも……)
栞は唇を噛みしめた。
胸の奥で渦巻く熱が、抑えきれずに溢れ出そうとしていた。
――隠してきたもの。けれど、いまは。
「——逃げないわ」
自分の声が、夜気に震えた。
篠森が驚いたように振り返る。その眼に、自分の変貌がどう映っているかは分からない。だが、もう躊躇はなかった。
体内のマナを解き放つ。
血が脈動し、四肢に熱が巡る。肌の下に淡い光が走り、指先が爪のように変じる。
人の姿を保ちながらも、確かに人を越えた力がそこにあった。
「ヴァンパイアはね……体内にマナを蓄えて、力に変えることができるの」
その告白は、篠森に刃を突きつけるに等しかった。
だが彼は何も言わない。ただ目を見開き、震える腕で短剣を握り直した。
「合わせろ!」
「了解!」少女が低く応じる。
三人は同時に動いた。
篠森が正面から突き込み、男の意識を引きつける。
少女が左から滑り込み、低い姿勢で足を払う。
体勢がわずかに揺らいだ瞬間、栞は右から滑り込み、鋭い爪を首筋に叩き込んだ。
低い唸り声が響く。長身の体がぐらりと揺れる。
篠森が胸へ短剣を突き立て、少女が背後から膝蹴りを叩き込む。
男の喉奥から呻きが漏れ、体がのけ反った。
栞は最後に額へ掌を当て、全力でマナを叩き込んだ。
「——終わりよ」
閃光が走り、長身の男の体が灰色に崩れていく。
皮膚が剥がれ、骨が砕け、影のように解けて夜風に舞い散った。
静寂が戻る。
栞は大きく息を吐き、爪の形をした指を見つめた。
これが自分の現実――もう人間には戻れない証。
「……生きてるな」
篠森の声が背に届いた。
彼は肩で息をしながらも、短剣を下ろさず、こちらを凝視していた。
その眼差しに浮かんでいたのは、感謝でも安堵でもなく――戸惑いと痛みだった。
栞は小さく笑みを作り、視線を逸らした。
心臓の奥に冷たい棘が突き刺さる。
彼に真実を知られてしまった。その重みが、戦いの勝利よりもずっと苦かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます