第13話 血脈の予兆

 かすかな明滅が、瞼の裏を撫でていた。

 悠人は深い水の底から浮かび上がるように意識を取り戻す。重く張り付いた靄を払いのけると、天井に映る揺らめきが視界に広がった。蝋燭の灯りだろうか、薄暗い部屋に小さな炎が呼吸のように瞬いている。


 胸の奥に、まだ太鼓の残響が残っていた。

 祭壇の響きが耳の奥を叩き、血の流れを乱す。現実と夢の境目が曖昧になり、身体の感覚は定まらない。


「……目を覚ましたのですね」

 耳元で優しい声がした。

 枕元に座っていた栞が、そっと身を屈めて微笑んでいる。その目元に浮かぶ陰りが、どれほど長い間、自分を見守っていたのかを語っていた。


「ここは……」

 掠れた声で問うと、栞は小さく頷いた。

「安心してください。レニさんの部屋です。あなたが倒れたので、運んできていただいたのです」


 視線を巡らすと、窓際の椅子にレニが腰掛けていた。月光を背に受け、白いグラスを手にしている。彼は軽くそれを回し、悠人の目覚めを待っていたかのように口を開いた。


「やっと起きたか。いやあ、さすがに昨夜はきつかったろう? 普通ならあの場で命を落としていたっておかしくない。君は運がいい」


 飄々とした言葉。だが、瞳の奥に揺らめく光は冷たい観測者のものだった。


 悠人は上体を起こし、喉の奥のざらつきを押し殺すようにして言葉を吐き出す。

「……なぜ俺を、あんな場所へ連れて行った」


 レニは口角を上げ、わざとらしく肩を竦めてみせる。

「んー、好奇心? それに、確かめておきたかったんだ。君の血が、どれほど響くかをね」


 その一言で、悠人の胸に冷たい衝撃が走った。

 やはり――自分は彼に導かれ、意図的に儀式の只中に近づけられていたのだ。


 栞が小さく首を振り、悠人の手に触れる。

「気を揉まないでください。彼の言い方は不親切ですが……結果的に、あなたが無事だったことが何より大事なのです」


 その声音は心を宥めるように柔らかで、悠人の動揺をわずかに和らげた。

 だが、レニの視線だけはなお、悠人の奥底を射抜くように注がれていた。


 レニはグラスを机に置き、長い脚を組み直した。

「さて――君に説明しておかなきゃならない。昨日の儀式を見た以上、何も知らずにいる方がよほど危ういからね」


 悠人は無言で頷いた。胸の奥ではまだ鼓動が不規則に跳ね、血流がざわめいている。昨夜、意識を奪われたときの余韻がまだ残っていた。


 レニは立ち上がり、指を折りながら淡々と話し始めた。

「まず、僕らヴァンパイアは“世代”という区分で語られる。始祖の血を最も濃く受け継ぐのが第二世代――“六柱(シクス=アーキタイプ)”と呼ばれる存在たちだ。人間の文明や価値観を象徴するかのように、それぞれが宗教、戦、秩序、知識、快楽、無……といった概念を背負っている」


 悠人は眉をひそめた。彼の言葉は荒唐無稽であるはずなのに、どこか脳裏にこびりついて離れない。


「その下に第三世代、第四世代……と続いていく。血は代を経るごとに薄まり、力も散っていくが、必ずしも単純な上下ではない。稀に強く覚醒して、上位に匹敵する者も現れる」


 そこでレニは肩を竦め、微笑を深める。

「君の妹のようにね」


 美咲の名を出され、悠人は思わず拳を握りしめた。


 レニは続ける。

「血のつながりは“サングリア”と呼ばれる。世代を越えて流れる力の系統だ。ただしサングリアは必ずしも思想や生き方を縛らない。だから、血筋と生き様がねじれている者も少なくない」


 悠人はその言葉に自分の血の疼きを重ね、無意識に胸を押さえた。


「そして“アーク”。これはサングリアとは別の枠組みだ。思想や掟に従って形成された共同体であり、宗教を旗印にする者、経済を操る者、戦を美徳とする者……それぞれがひとつの社会を築いている」


 悠人は混乱した表情を浮かべた。

「世代とサングリア……それにアーク……」


 栞が優しく言葉を添える。

「血筋と共同体は、似ているようで別物なのです。あなたがもし兄妹であっても、選ぶ場所が違えば、必ずしも同じ運命にはならない。けれど美咲さんは……強い資質を持っている。それゆえに狙われています」


 その説明は淡々としていたが、悠人には鋭い棘のように胸へ突き刺さった。


 レニは机の端に腰を預け、軽く指を鳴らす。

「君が足を踏み入れたノクターンは、本来“漆黒連盟”の領域だった。だが二十年ほど前からヘカトリカが入り込み、今では奴らの実効支配に近い。漆黒は交戦を望まず、領域を放置した結果だ」


 そして自分の胸を指で叩いた。

「僕の属する“灰翼協会”は三年前、ヘカトリカの動きを観察するために僕を派遣した。表向きは漆黒に“人工マナ”の技術を提供する名目でね。その任務の中で、栞を見つけた。彼女は半覚醒という、滅多にないサンプルだったからだ」


 その言葉に、悠人は息を呑む。

「サンプル……」


 栞はわずかに顔を伏せた。彼女の眼差しには反発ではなく、受け入れた諦念が揺れていた。


 レニは一拍置いて、愉快げに笑みを漏らす。

「おっと、ちょっと喋りすぎたかな」

 軽い調子で打ち切るように肩を竦める。


 だが悠人は引き下がれなかった。

「それじゃあ……妹は?」


 レニは彼の問いを待っていたかのように、真っ直ぐ見返す。瞳は観察者の冷徹な光を帯びていた。

「美咲も同じだ。儀式を受けずに兆しを見せるほどの資質。だからこそ、ヘカトリカは彼女を手放さない。僕は彼女を観察し、必要なら保護するよう命じられている」


 栞が静かに頷く。

「そして悠人さん。あなたもまた……血の反応を示した。だから、彼の観察対象になったのです」


 悠人は唇を噛んだ。逃げ場はもうない。

 昨夜の儀式で心臓を焼かれるような感覚を味わった瞬間から、すでにその世界に引き込まれていたのだ。


「……つまり俺は、もう逃げられない立場にあるってわけか」


 声に出すと同時に、胸の奥で冷たい重みが沈んだ。


 栞はその苦しみを受け止めるように、そっと言葉を添えた。

「そうかもしれません。でも、逃げないからこそ救える命もある。……美咲さんも、そのひとりです」


 悠人は目を伏せ、震える手を膝に押し当てた。

 血が熱を帯び、答えの出ない葛藤だけが彼を縛り続けていた。


 しばしの沈黙が落ちた。

 レニは机に腰をかけたまま、指先でグラスを転がす。氷が解け、淡い水音を立てる。


「……さて、本題だ」

 軽く息を吐き、彼は悠人をまっすぐに見た。

「三日後。――君の妹、美咲の儀式が行われる」


 その名が告げられた瞬間、悠人の胸が跳ねた。

「……三日後だって?」


「そう。昨夜見たのは、ただの予行にすぎない。実験体は第七世代にも至らぬ失敗作ばかり。けれど本命は別にいる。資質が強く、儀式を受けずとも兆しを見せ始めた存在――神代美咲だ」


 悠人の呼吸が荒くなる。

 脳裏に、祭壇の脇に立つ幻影のような妹の姿が甦った。

 ただの幻ではなかった。あれは確かに、彼女の血が呼応していた証なのだ。


「ヘカトリカは、完全な覚醒を望んでいる。三日後がその時。だが、裏を返せば――それが彼女を救える唯一の機会でもある」

 レニの声は冷静だった。淡々と、だが逃げ場を与えぬ響きがあった。


 栞が口を開く。

「……美咲さんだけではありません。他にも囚われている人々がいます。儀式のために連れ込まれ、命を弄ばれている。私たちは、彼女らも救わなければならない」


 その声音は柔らかく、それでいて揺るぎない。悠人の視線を受け止め、真剣に訴える。


 悠人は額に手を当てた。

 頭の奥で血のざわめきが止まらない。

「……俺に、そんなことができるのか」


「できるかどうかじゃない」

 レニが言葉を挟んだ。

「やるしかないんだ。君はもう選択の外にいる。君の血はすでに反応した。第七世代であるはずの君が、儀式を前にしてあれだけ揺さぶられる……普通じゃない」


 悠人は顔を上げた。

「第七世代……俺が?」


「そう。君と妹は人間に混じって暮らしてきたが、サングリアは嘘をつかない。君たちの血には、第六世代を超える資質が宿っている」

 レニの瞳が細く光る。観察者としての冷徹な光だ。


 悠人は唇を噛み、栞に視線を移した。

 彼女は穏やかな目で頷く。

「私は不完全な半覚醒に過ぎません。でも、あなたと美咲さんは違う。まだ可能性があります。だからこそ……彼女を見捨てないでください」


 その言葉は、悠人の胸に深く突き刺さった。

 逃げたい。信じたくない。けれど――妹を奪われることだけは耐えられない。


 レニは立ち上がり、手を広げる。

「三日後が決戦だ。君が決意するなら、僕は協力しよう。灰翼の名の下にね」


 部屋の中に、重苦しい沈黙が広がる。

 悠人は拳を握り、目を閉じた。答えはまだ出せない。だが胸の奥では、決意が形を取り始めていた。

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