第9話 覚醒の檻

 石の回廊を抜けた先に、ひとつの扉が待ち構えていた。

 厚い鉄の蝶番から漏れる燭火の光が、まるで紅を溶かしたかのように、闇を滲ませている。

 悠人は息を詰め、隣に立つ女の面差しを盗み見た。


 栞はただ、静かに微笑していた。

 夜に濡れた黒髪が肩を撫で、瞳は闇を吸いこんだまま柔らかな光を宿している。

「……怖れないで。見えるものはすべて、真実のかたちよ」

 その囁きは、胸の奥にじんわりと染みわたる薬のように、悠人の動悸を和らげもした。


 扉の隙間から覗く広間は、異様のほか言いようがなかった。

 天井高く吊された燭台の炎は、煙を吐きながら揺れ、朱の靄が宙を漂う。

 黒衣の一団が円を描き、低く喉を鳴らすような詠唱を繰り返している。

 その声は言葉というより、骨と血を震わせる律動であり、ひとたび耳に入れば、理性の鎖を解き放つ魔の旋律だった。


 円の中央、白い祭壇に若い女が横たえられていた。

 肌は雪解け水に濡れたように蒼白で、金の髪が血に濡れ、赤と金とが混ざり合って艶やかに輝く。

 両腕両脚は革紐で縛められ、呻きは詠唱に呑まれ、細い胸はかすかに上下するのみ。


 悠人は一歩、前へ出そうになった。

 その肩に、栞の指がそっと触れる。

「急いではいけないわ。見届けること、それが今のあなたにできる唯一のこと」

 彼女の声は、恐怖を宥める母の子守歌のように、耳朶を撫でて過ぎた。


 そのとき、太鼓が鳴った。

 低く、湿った革の音が、腹の底から身体を打つ。

 広間全体が震え、燭火が一斉に脈打つように明滅した。

 血の匂いが濃くなり、鼻腔を侵す。湿った鉄の匂いに混じって、どこか甘やかで、吐き気を誘う芳香さえ漂った。


 悠人は、壁に手をついた。

 冷たい石の感触だけが、この場の現実を教えてくれる。

 しかし視線は、祭壇から離れなかった。

 女の滴らせる血が床の溝を伝い、幾何学の文様を赤く染め、黒衣たちの足元で渦を描いていた。


「恐れるのは自然なことよ」

 栞の声が、闇の奥からやわらかに響く。

「けれども、あなたは知らなければならない。妹さんを救いたいのなら」


 悠人の胸は高鳴り、汗は背を流れ落ちる。

 心臓の拍動が、太鼓の律動と重なり合い、彼の身体は祭壇に吸い寄せられるようであった。

 そして彼は、自らの内に、今まで感じたことのないざわめきを覚える。


 詠唱は次第に高まり、太鼓の律動は心臓の鼓動を模すかのように速まっていく。

 燭火は赤く脈打ち、影を大きく膨らませ、黒衣たちは怪物の群れのように歪んで見えた。


 悠人の耳には、もはや意味を持たぬ響きが奔流となって流れ込んでいた。

 けれど、その奔流の奥で、どこか懐かしい律動が鳴っている。――血の記憶。

 彼は理解できぬまま、自らの身体が応じてしまっているのを感じた。


 視界は澄み、燭火の揺らぎのひとつひとつが赤い軌跡を描く。

 黒衣の唇が吐く異言が、耳の奥で波紋を打ち、空気は皮膚にざらりとまとわりつく。

 すべてが濃密で、輪郭が鋭く、まるで世界そのものが変質したかのようだった。


 祭壇の上の女が、喉を引き裂くような叫びをあげた。

 血を吸い上げる器具に腕を貫かれ、紅は滝のように流れ落ちる。

 黒衣の一人がその血を鉢に受けると、詠唱は一層高く響き、床に描かれた陣は赤々と輝いた。


 悠人の胸に、鋭い痛みが走る。

 心臓が軋み、裂けるような衝撃。

 彼は膝を折りかけ、咄嗟に壁へ手をついた。

 汗が頬を伝い、背筋を這う。だが、それはただの発作ではない。

 痛みの奥で、何かが覚醒しようとしていた。


 ――神代の血。

 その名を知らずとも、彼の肉体は応えていた。

 詠唱の声が波となり、彼の血潮を揺さぶり、胸の奥から紅の炎が吹き上がる。

 視界が赤に染まり、女の苦悶も、黒衣の影も、ひとつの巨大な心臓の鼓動として脈動していた。


 女の身体が痙攣した。

 血に濡れた指が宙を掻き、目は虚空を彷徨う。

 一瞬、彼女の瞳が紅に輝いたかと思えば、次の刹那にはその光が掻き消え、力尽きたように首が垂れた。


 広間に沈黙が訪れる。

 黒衣たちの詠唱は止み、太鼓も息絶えた。

 女の肉体はもはやただの屍であり、儀式は不完全なまま潰えたのだった。


 悠人は荒い息を吐きながら、その光景を見つめた。

 胸の痛みはなお残り、心臓は火の玉のように灼けていた。

 ――何かが始まってしまった。

 その確信だけが、彼を恐怖と共に縛りつけていた。


 広間には、しばしの沈黙が支配した。

 祭壇に横たわる白人女性の亡骸は、なお温もりを残しながらも、その身からは生気がすっかり抜け落ちている。

 黒衣たちは失敗を悟ったのか、声を潜め、互いに符丁めいた言葉を交わし合っていた。


 悠人は荒い息を吐きながら、その光景を凝視していた。

 胸の痛みは収まらず、鼓動はなお火花を散らすように強烈だった。

 その熱に目を焼かれるかのように、視界が歪む。


 ――そのとき。

 祭壇の脇に、淡い光が立ち上った。

 揺らめく煙のように形を結び、やがて一人の影となる。


「……美咲?」


 悠人は思わず声を漏らした。

 そこに立つのは、妹・美咲の姿にほかならなかった。

 肩までの黒髪、凛とした瞳、かすかな微笑み。

 だがそれは実体ではなく、透きとおる幻影。

 燭火の揺らぎとともに、輪郭は波打ち、今にも崩れそうに淡かった。


 美咲の唇がわずかに動いた。

 言葉を紡いでいるように見えたが、その声は届かない。

 悠人は一歩、足を踏み出そうとした。だが、膝は痺れるように重く、体は石に縫いとめられたかのように動かなかった。


「今夜は……彼女ではなかったの」

 背後から、栞の穏やかな声が響いた。

 彼女は祭壇を見つめながら、静かに言葉を重ねる。

「幻に見えたのは、あなたの血が呼応したから。妹さんは、まだ完全に捕われてはいない」


 悠人の胸は締めつけられた。

 安堵か絶望か、判断のつかぬ思いが胸を満たす。

 幻影の美咲は、なおこちらを見つめている。

 その瞳は深く、遠く、彼を責めるでもなく、救うでもなく、ただ静かに「見ていた」。


 やがて、その輪郭は燭火の煙に紛れ、溶けていく。

 伸ばしかけた悠人の手は、虚空を掴むばかり。


 「美咲――!」

 その叫びは虚しく広間に響いたが、答える声はなかった。


 黒衣たちの動きが再び活発になり、亡骸を片づけ始める。

 儀式の失敗を隠すかのように、広間は再びざわめきに包まれた。


 悠人は額に滲む汗を拭い、歯を食いしばった。

 妹の姿を確かに見た――その事実が、彼の胸を焼いていた。

 それが幻影にすぎないと分かっていても、彼女がこの闇の只中に囚われていることは否応なく確信に変わった。


 そして、己の血が確かに反応したことも。

 今夜を境に、もう後戻りはできないのだ。

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