『ナイト・クロス・インヘリタンス』ノクターン・兄妹編

Paul_Cognac

第1話 深紅の夢

 ――音が消えた。

 ひとつの鈍い心臓音だけが、暗闇の奥で不規則に響いている。

 それが誰の鼓動なのか、悠人にはわからなかった。自分のものか、美咲のものか、あるいはもっと別の――。


 視界は血に溶かされた水の中のように赤く濁っていた。

 地面の感触はない。歩いているのか、浮かんでいるのかも判然としない。

 ただ、遠くから水滴が落ちる音が、深い井戸の底でこだまするように響く。

 それが一歩ごとに近づいてくる。


 気がつけば、そこに彼女が立っていた。

 美咲――妹のはずだった。

 白いワンピースが闇の中に滲み、輪郭を曖昧にしている。

 肩まで垂れた黒髪は湿ったように艶を帯び、額の影が瞳を覆っていた。


 「……にい、さん」

 囁きは、氷を舐めたように冷たく、耳の奥を震わせる。

 声と同時に、彼女の顔がわずかに上がる。

 赤く濁った瞳――血の色にも似て、けれどそれ以上に、底なしの深みを持つ色。


 笑っているのか泣いているのか、判別できない口元が、ゆっくりと開いた。

 白い牙が、月明かりのような光を返す。

 その瞬間、足元に見えぬ鎖が絡みついたように、悠人の身体が動かなくなった。

 逃げられない。


 「……来て」

 美咲の声がそう告げたとき、赤い世界がゆらぎ、彼女の姿が瞬きの間に目の前へ迫っていた。

 爪先が床に触れないまま滑るように近づき、首筋に影を落とす。

 牙の先端が肌に触れ――。


 その刹那、白い手が横から差し込まれた。

 細く長い指先が、悠人と美咲の間に境界を描くように立ちはだかる。

 その手は夜の冷気を凝縮したように冷たく、触れた瞬間、空気が一変した。


 悠人はようやくその主を見た。

 色の抜けたような白い肌。

 肩口まで流れる銀糸の髪が、赤い光を切り裂くように揺れた。

 瞳は氷の底に閉じ込められた炎――冷ややかでありながら、奥底で静かに燃えている。


 青年は一言も発さず、美咲の肩を掴む。

 その手の動きは滑らかで、まるで舞踏会で相手を誘う仕草のように優雅だったが、次の瞬間には美咲の動きを完全に封じていた。


 赤い世界が音もなく崩れ始める。

 足元から亀裂が走り、光の粒が零れ落ちるように闇に吸い込まれていく。

 耳鳴りが増し、遠くで波の音が混じった。


 ――これは夢だ、と悠人はようやく気づく。

 だが、気づいたところで終わる夢ではない。

 視界の端で、美咲の瞳が形のない何かを訴えるように揺らめいた。

 助けて、と言ったのか、それとも――。


 やがて、全てが白く塗りつぶされた。


 ――低く唸る音が、耳の奥に入り込んできた。

 白に塗り潰された視界の隅で、淡い光が瞬き、ゆっくりと形を結ぶ。

 悠人は、まぶたの裏を押し広げるようにして現実へと引き戻された。


 開け放たれた視界には、機内の天井。

 真上にある読書灯が、小さな月のように淡く光を放っている。

 両隣の乗客は毛布を肩まで掛け、静かな寝息を立てていた。

 耳に届くのは、一定のリズムで回るエンジン音と、時折響く機体の微かな軋みだけだ。


 指先に残る冷たさを確かめるように、シートポケットの水を取り出す。

 一口含むと、喉を滑る感触が、夢の残滓を洗い流すように鮮やかだった。

 肺の奥まで澄んだ空気が入り、意識が一気に覚醒する。


 ふと視線を上げると、通路ではすでに機内サービスが終盤に差しかかっていた。

 香ばしいパンの匂いと、温かなトマトソースの香りが漂う。

 どうやら自分は完全に寝過ごしていたらしい。

 悠人は慌てて手を上げ、近くの客室乗務員に声を掛ける。


 やがて、彼の前に大きなトレーが置かれた。

 湯気を立てる白身魚のトマトソースに、太めのペンネが添えられ、想像以上のボリュームだ。

 小皿には米の入った酸味の効いたメキシカンサラダ。

 デザートには濃厚なチョコレートムースが鎮座し、さらにチーズとクラッカーが別袋で付いてくる。


 「……これ、エコノミーで出す量じゃないな」

 思わず独りごち、フォークを手に取る。

 若い食欲は迷いなく一口目を運び、魚の柔らかさとトマトソースの酸味に、思わず頬が緩んだ。

 

 窓の外には、漆黒の海の上を滑るように進む機影。

 そこに見える光景は確かに現実のはずなのに、どこか夢の続きのようでもあった。

 ケープタウンまで、あと数時間。

 そこにいるはずの美咲は、一週間前から消息を絶っていた。


 食事を終えると、トレーが下げられ、前方の通路が静けさを取り戻した。

 腹の奥に温かさが残り、身体が少し緩む。

 悠人は背もたれに深くもたれ、首を小さく回してこわばりをほぐした。


 窓の外には、黒い海の上に街の灯りが点々と浮かび、波のリズムに合わせるように瞬いている。あの灯りのどこかに美咲がいる――

 そう思いながら、これからの足取りを頭の中で描く。

 空港から市街へ。NGOの事務所を訪ね、関係者に会い、最後の足取りを追う。現地の治安や交通事情を考えれば、計画通りにいく保証はない。それでも動き出せば、何かが掴めるはずだと信じていた。


 やがて、低い電子音とともに機内アナウンスが流れる。

 ――当機はまもなくケープタウン国際空港に着陸いたします。

 周囲の乗客がシートベルトを締め直し、背もたれを起こす。


 悠人は左手首の時計を軽く二度叩いた。

 それは時間を確認する動作であり、同時に気持ちを引き締める自分なりの合図でもあった。

 次いで、胸元のファスナーをゆっくりと引き上げる。

 背筋が自然と伸び、眠気の残る身体にわずかな緊張が走った。


 窓の外の光がゆっくりと近づき、これまでの空の静けさとは違うざわめきが、胸の奥で膨らんでいく。

 「……よし」

 小さく息を吐き、リラックスの膜を破るように意識を切り替えた。

 これから始まるのは旅ではない――探しに行くのだ。

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