第13話:Singularity⭐︎Smile

帰宅ラッシュの歩道は、音のない水面のようだった。

彼はEido社から駅へ向かう道を、ゆっくりと歩いていた。


スコアも会議のログも通知も──今日は、何も見ない。


落選という事実よりも、自分の反応に違和感があった。

ログによる選別...区別。かつてなら壁に拳を叩きつけ、冷蔵庫を無意味に開け閉めしていただろう。

だが今は、ただ静かに観測している自分がいる。


(……俺、前より落ち着いてるな)


その冷静さは、諦めなのか、それとも成長なのか。ただ、イズミとの会話は確かに過去の自分にはなかった。


…成長ではなく変化なのかもしれない。

具体的な答えが出ないまま、交差点に差しかかったときだった。


巨大スクリーンに、光が弾けた。

──「Tonight 20:00 “YUNA LIVE - Singular You”」


胸の奥に、小さな火花が散った。



20:00、部屋を暗くしたままPCを起動する。

画面の向こうで、宇宙のような舞台にユナが立っていた。


「おはやう!みんな、生きてる〜?」


光の粒が無重力の中を舞い、音が鼓膜を直接揺らす。額にそっと手を置かれたみたいな錯覚。


観客の歓声が自分の鼓膜の内側まで押し寄せる。

ステージ上のユナは、観客の群れに少し目線を向けながら、マイクの握りを変えた。

それらの軌道は、自分に対してメッセージを向けられる期待を掻き立てた。

刹那、ユナの表情が切り替わる。

「……ねえ、さ。

 今日、帰り道にすごく泣いてる人を見かけたんだ。

 理由はわかんないけど──でも、放っとけなかった」


客席の歓声が一瞬、呼吸のように静まる。

「だから今日は、全部忘れていい時間にする。

 あんたたちが笑うまで、歌うから」

マイクを下げた一瞬、遠くを見る目が観客を通り越した。

その焦点は、画面越しのこちらに触れる距離にまで、静かに近づいてきた。


曲が爆発するように始まった。

机のすみに置いたStrawsの苦味が、画面の甘い熱に薄まっていく。

その瞬間、画面の中の“アイドル”は、ただの偶像じゃなくなっていた。ユナの声は、こちらの体温を乱暴に上げてくる。

イントロと同時に、ステージの上空に感情ログの花粉が舞い始めた。

それは色でも光でもない、感情そのものの可視化——視覚神経を直接撫でる微粒子。

ファンひとりひとりのログが会場中央に吸い上げられ、

巨大な球体ホログラムにリアルタイムで書き込まれていく。


《Singularity⭐︎Smile / YUNA》


「イメージも外れるから

 バラバラでもいいのさ

 ピースを入れ替えて」


球体ホログラムに新芽が一斉に浮かび上がる。

前列から後方まで、芽どころじゃなくて庭と化したAR空間。


球体には「崇拝値MAX超えた」「感情APIバグって一生笑ってる」の文字が光の軌跡になって走る。色は高揚で赤、共鳴で金、涙で蒼へと変わっていく。


「正解も間違いも

 結局くだらないのさ

 だから笑えばいいじゃん」


ユナが笑う。

その瞬間、AIが観客全員の感情をスキャンし、

「#推し宗教成立」「ありがとう女神」「魂レイ完」などの言葉が空間全体に立体投影される。

一部のコメントは声に変換され、合唱のように響き渡る。


観客の脳波同期率は98.6%。右上のHUDが、数値を跳ね上げて見せる。

まるでひとつの生命体が笑っているかのようだった。


「Singularity

 Singularity

 私を誰も決められない

 私を誰も決められない」


球体ホログラムが破裂し、

文字も色も粒子も全方向へ飛び散る。

視界全体が光に包まれた。

残像は残留ログに変わり、今夜そのものを保存する。


右側の滝が加速する。

崇拝値MAX超えた

脳味エモグリッチして視界ジャックされたまま泣いてる

ARスキンが虹にバーストした。感情ログ保存した #⊂記

これ記憶ごと推し確定。残留ログで死ぬ未来見えた

ガチ魂レ歌詞すぎて、感度1.0超えたわ

ありがとう、女神

※この感情ログ、永久保存申請しました(公式AI承認済)

芽どころじゃなくて庭🌱🌱🌱

共鳴バーが振り切れてAI笑すら越えた

「誰も決められない」でログからアラート出た

残留ログが心臓ごと震わせてくる

倫理すべりゼロでこの破壊力

もはや人類ファーストの奇跡

睡眠AIがオフになった

あなたに私の倫理を捧げます

魂レイ完。



だが彼の耳には、ユナの声しか届かなかった。

感覚が一気に引き上げられる。

胸の奥で鳴っていた鈍い音が、別のリズムに同期していた。


ファンじゃない──はずだ。

なのに、この胸の奥の温度を、否定する理由が見つからなかった。


感情の起伏が、加速帯に乗ったみたいに増幅していく。ああ...。


(これが……“持っていかれる”ってやつか)

胸骨の内側がひと呼吸ぶん、彼女のテンポに奪われた。


──あの渋谷でぶつかった彼女。

広告の中の偶像と、目の前の彼女。

そのズレが一瞬で消えていく。


(……違う。ズレてたんじゃない。両方か)


観測と視線。その境界が壊れていく。



激情のパフォーマンスを終える。ユナの汗ばんだ表情がそのまま会場の熱量を表していた。


斜め下の視線が徐々にこちらに向かい、ユナと視線がぶつかる。いや、そう錯覚させられた。


ユナは真っすぐ前を見据え、吐き出すように言う。


──「泣いてる暇があったら——私を見てなさい!」


その瞬間、胸の中の迷いが吹き飛んだ。

コメントを閉じて余白に戻る。そこに、ユナだけを置く。


光の粒の嵐の中で、彼女は確かに“ひとり”のアイドルとして立っていた。

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