第13話:Singularity⭐︎Smile
帰宅ラッシュの歩道は、音のない水面のようだった。
彼はEido社から駅へ向かう道を、ゆっくりと歩いていた。
スコアも会議のログも通知も──今日は、何も見ない。
落選という事実よりも、自分の反応に違和感があった。
ログによる選別...区別。かつてなら壁に拳を叩きつけ、冷蔵庫を無意味に開け閉めしていただろう。
だが今は、ただ静かに観測している自分がいる。
(……俺、前より落ち着いてるな)
その冷静さは、諦めなのか、それとも成長なのか。ただ、イズミとの会話は確かに過去の自分にはなかった。
…成長ではなく変化なのかもしれない。
具体的な答えが出ないまま、交差点に差しかかったときだった。
巨大スクリーンに、光が弾けた。
──「Tonight 20:00 “YUNA LIVE - Singular You”」
胸の奥に、小さな火花が散った。
*
20:00、部屋を暗くしたままPCを起動する。
画面の向こうで、宇宙のような舞台にユナが立っていた。
「おはやう!みんな、生きてる〜?」
光の粒が無重力の中を舞い、音が鼓膜を直接揺らす。額にそっと手を置かれたみたいな錯覚。
観客の歓声が自分の鼓膜の内側まで押し寄せる。
ステージ上のユナは、観客の群れに少し目線を向けながら、マイクの握りを変えた。
それらの軌道は、自分に対してメッセージを向けられる期待を掻き立てた。
刹那、ユナの表情が切り替わる。
「……ねえ、さ。
今日、帰り道にすごく泣いてる人を見かけたんだ。
理由はわかんないけど──でも、放っとけなかった」
客席の歓声が一瞬、呼吸のように静まる。
「だから今日は、全部忘れていい時間にする。
あんたたちが笑うまで、歌うから」
マイクを下げた一瞬、遠くを見る目が観客を通り越した。
その焦点は、画面越しのこちらに触れる距離にまで、静かに近づいてきた。
曲が爆発するように始まった。
机のすみに置いたStrawsの苦味が、画面の甘い熱に薄まっていく。
その瞬間、画面の中の“アイドル”は、ただの偶像じゃなくなっていた。ユナの声は、こちらの体温を乱暴に上げてくる。
イントロと同時に、ステージの上空に感情ログの花粉が舞い始めた。
それは色でも光でもない、感情そのものの可視化——視覚神経を直接撫でる微粒子。
ファンひとりひとりのログが会場中央に吸い上げられ、
巨大な球体ホログラムにリアルタイムで書き込まれていく。
《Singularity⭐︎Smile / YUNA》
「イメージも外れるから
バラバラでもいいのさ
ピースを入れ替えて」
球体ホログラムに新芽が一斉に浮かび上がる。
前列から後方まで、芽どころじゃなくて庭と化したAR空間。
球体には「崇拝値MAX超えた」「感情APIバグって一生笑ってる」の文字が光の軌跡になって走る。色は高揚で赤、共鳴で金、涙で蒼へと変わっていく。
「正解も間違いも
結局くだらないのさ
だから笑えばいいじゃん」
ユナが笑う。
その瞬間、AIが観客全員の感情をスキャンし、
「#推し宗教成立」「ありがとう女神」「魂レイ完」などの言葉が空間全体に立体投影される。
一部のコメントは声に変換され、合唱のように響き渡る。
観客の脳波同期率は98.6%。右上のHUDが、数値を跳ね上げて見せる。
まるでひとつの生命体が笑っているかのようだった。
「Singularity
Singularity
私を誰も決められない
私を誰も決められない」
球体ホログラムが破裂し、
文字も色も粒子も全方向へ飛び散る。
視界全体が光に包まれた。
残像は残留ログに変わり、今夜そのものを保存する。
右側の滝が加速する。
ー
崇拝値MAX超えた
脳味エモグリッチして視界ジャックされたまま泣いてる
ARスキンが虹にバーストした。感情ログ保存した #⊂記
これ記憶ごと推し確定。残留ログで死ぬ未来見えた
ガチ魂レ歌詞すぎて、感度1.0超えたわ
ありがとう、女神
※この感情ログ、永久保存申請しました(公式AI承認済)
芽どころじゃなくて庭🌱🌱🌱
共鳴バーが振り切れてAI笑すら越えた
「誰も決められない」でログからアラート出た
残留ログが心臓ごと震わせてくる
倫理すべりゼロでこの破壊力
もはや人類ファーストの奇跡
睡眠AIがオフになった
あなたに私の倫理を捧げます
魂レイ完。
ー
だが彼の耳には、ユナの声しか届かなかった。
感覚が一気に引き上げられる。
胸の奥で鳴っていた鈍い音が、別のリズムに同期していた。
ファンじゃない──はずだ。
なのに、この胸の奥の温度を、否定する理由が見つからなかった。
感情の起伏が、加速帯に乗ったみたいに増幅していく。ああ...。
(これが……“持っていかれる”ってやつか)
胸骨の内側がひと呼吸ぶん、彼女のテンポに奪われた。
──あの渋谷でぶつかった彼女。
広告の中の偶像と、目の前の彼女。
そのズレが一瞬で消えていく。
(……違う。ズレてたんじゃない。両方か)
観測と視線。その境界が壊れていく。
激情のパフォーマンスを終える。ユナの汗ばんだ表情がそのまま会場の熱量を表していた。
斜め下の視線が徐々にこちらに向かい、ユナと視線がぶつかる。いや、そう錯覚させられた。
ユナは真っすぐ前を見据え、吐き出すように言う。
──「泣いてる暇があったら——私を見てなさい!」
その瞬間、胸の中の迷いが吹き飛んだ。
コメントを閉じて余白に戻る。そこに、ユナだけを置く。
光の粒の嵐の中で、彼女は確かに“ひとり”のアイドルとして立っていた。
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