第11話:倫理透明性の極限
水曜日の朝。
“落ちる予感”は、予測より先に皮膚が知る。
壁面のディスプレイから、政府広報の次にニュースが流れ始めた。
《今年のトレンド部門1位は、“ログ推し”。──総投銭数:3.2億スコアに到達》
画面には、端末を高く掲げる群衆と、空間に浮かび上がる“青白い数値列”の洪水。
ログスコアの一部──《倫理適応》の数値だけが抽出され、個人IDを持たないまま舞っていた。
「“ログ推し”とは、信頼・尊敬・共鳴といった非数値的感情を、
倫理スコアの一部として可視化・送信する新しいファン活動です」
キャスターの淡々とした声が続く。
「今や、タレントや政治家に限らず、教師や友人、恋人にも“倫理”を贈る時代。
人々は“誰に倫理を捧げたか”で、個人の価値を測るようになりました」
解説者がうなずく。
「ある種の“思想的親和性”をスコアで構築する仕組みです。
社会倫理学の専門家によると、共感ではなく、倫理による“接続”。つまり、一体化と分析をしています──」
( “誰に捧げたか”が個人の値札になる社会 )
彼はぼんやりと呟き、画面を見つめる。
贈与するのは“気持ち”ではなかった。
共有されるのは“正しさ”だった。
“正しさ”が個人を離れ、他者に渡る世界に──自由はあるのか。
彼はディスプレイの音声をミュートにし、スリープボタンに指をかけた。
画面の奥では、誰かが倫理をばらまいていた。
彼はいつもより静かな気配で会社に着いた。
Strawsの缶をデスクに置く。昨日と同じ。だが、今日の味は違う気がした。
関口から出社後すぐに声をかけられる。
「アキくん、おはよう」
「おはようございます」
「今日のMTGなんだが、午前に変更になったんだが、問題ないかい?」
関口から形式的な確認が入る。
端末の予定表を見ると、13:00からのMTGは10:00へと変更されていた。すでにその予定は正式なスケジュールとして同期されている。
「はい。問題ないです」
「ありがとう。それでは、この後の会議はよろしく」
時間が3時間も前倒しになった意味。たまたまスケジュールが合わなかったのか。
それともこの会社の姿勢そのものなのか。
彼は会社の温度とスケジュールに共通点を感じていた。
端末を開くと、ひとつだけ未読の通知が残っていた。
差出人は「柏木/Noēsis.inc」
《初回MTG:4/3(月)10:00》
添えられたのは、たった一行のテキストだけだった。
──だが、その一行に、空気がひとつ層を変える感覚があった。
柏木が「日付」を提示する。それは単なる予定ではない。
“動き始めることが、もう選ばれている”という、無言の確定通知だった。
彼は、何も思わぬふうに端末を閉じた。
だが、その内側では、呼吸の速度だけがわずかに変わっていた。
──来客専用会議室。
通常の会議室とは違い、会議室内は白を基調としたガラス張りの空間で、シックに整えられている。控えめな装飾や大型ディスプレイが来客者への"おもてなし"を演出していた。
その会議室に12人が揃っていた。
主導は関口部長。
端末を操作しながら淡々と状況整理を進める。
「本MTGは、GAIH提案枠の状況整理とメンバーの役割定義。ネクストアクションの決定をアジェンダとしております。
コンペ用の中核チームは、直近のログ情報を元に最適配置いたしました」
関口の配置にはこう書かれている。
提案責任者:榎田
マネージャー:関口、手島、飯島
倫理監査 :浅野、西山
プロジェクトリーダー::小川
営業:鈴木、小鳥遊
エンジニア:中村、吉田
事務サポート:秋
彼の名前は、最後に小さく表示されていた。
ただの文字だった。理由も意図もない。あるだけの文字。
「事務サポート」
彼は表示を見つめるふりをしながら、顔を動かさずに周囲を観察する。
関口の声が続く。
「ログ解析によるスコアベース配置にて、この構成が最適と判断されました。
特に今回、提案規模の大きさを考慮し、構成は現時点でのスコア・安定性を重視しております」
最適化は、可能性を最初に削る。
目の前のディスプレイが、その証明だ。
だがその”最適”は──予測可能な人間たちで組まれていた。
榎田が手を挙げて口を開く。
「関口さん、ありがとう。
要はですね。今の時点で戦える人材で進めるってことですよね?」
「はい。その通りです」
「そうですか。
皆さん。
まずはじめに、我が社はスタンダード市場を目指す立場にあります。
今回のNoēsis社のコンペは千載一遇の機会です。
採用されれば、会社の信用力の向上は確実です。
特に政府系システム構築、倫理基盤設計に携われば、グロース市場を抜け出すだけではない。
"プライム市場"へ上がることも確実だと考えています。
皆さん、このチャンスを“適材適所”で掴み取りましょう」
榎田は少し笑みを浮かべながらも、意識は確実に彼に向けられていた。
"千載一遇"。まるで、天から降ってきたような言葉に、彼は違和感しか覚えなかった。
(……配られた言葉、だ。笑えない)
だが、誰も指摘はしない。
その代わり、静かな空気が全体を包む。
彼は水を一口飲み、会議室の空気を“待たせた”。
榎田は彼に目線を少し向けながら続ける。
「今回、アキさんのNoēsis社の与件獲得は評価に値します。
引き続き、初動フェーズのログ整理と、事務管理系の整理をお願いできますか?
後方からの支援を期待しています。
またNoēsis社の主担当は、今後はビジネスコンサルティング部門の小川に任せます。
今回は専門性の高い領域を横断的に推進するプロジェクトです。
今後Noēsis社との協業、パートナーシップを構築するにあたり、"小川"を担当に置くことで、効率的に推進可能です。
ログ情報を見ても、適切という評価になります」
ログという正義を片手に、圧倒的な暴力が会議室内に響いていた。もはや室内の装飾もディスプレイも、彼を攻撃対象としているようだった。
彼はうなずくふりをしたが、返事はしなかった。
榎田は間髪入れずに続けた。
その口調。徐々にリズムが生まれている。
それは喜びからなのか、別の意味も含んでいるのかは、彼にはわからない。
ただ、善意は感じられなかった。
「アキさん、
今後"小川"への引き継ぎにあたり、ログ整理もお願いできますか?
それと、Noēsis社のリレーションを継続するために、円滑なコミュニケーションをお願いします。
アキさんは素晴らしい仕事した。
後はプロフェッショナルの私たちに任せて欲しい」
彼はそれでも静かにうなずいた。
元々、Noēsis社との関わりを持つきっかけになったのは、彼の逸脱した行為。そして再適応。
数値では測れない微妙なズレを修正し、プロジェクト全体に新しい示唆を与えたことが、柏木に評価された。
log-me社のプロジェクトもそうだ。
数値だけでは捉えられない、ユーザー心理に示唆を与え、最善のアクションに落とし込んだ。
イズミからの評価も厚いのは、その数値化できないところへの感性所以だ。
"これはプロフェッショナルではないのか?"
最適な人材を最適な分量で、最適な期間で最適なアウトプットを出す。それだけがプロフェッショナルなのか?
それは"諦め"ではないか。
「正しさを“作る”には、捨てる勇気が要る」
昨日の柏木の言葉が蘇る。
だがこの会議には、“捨てる勇気”は何もなかった。強いて言うなら、"可能性"を捨てていた。
「榎田さん。ありがとうございます。
私が主担当、ということで、承知しました」
小川は頷いたあと、会議室を見渡すように軽く一礼した。
「それでは私からも一言。
私が今回の提案においては、GAIHにとっての公共性と技術的革新をセットで訴求すべきだと思います。
倫理って、要は“透明性”ですから」
小川が、手首の端末をタップしてディスプレイを展開した。
「……方向性としては、今回の提案──“倫理透明性の極限化”を掲げたいと考えています」
小川の視線が、ふと彼女のほうへ流れた。短い、けれど熱を含んだ目線。
彼はそれに気づいていた。だが、何も言わなかった。
「“極限化”?」
関口が目線だけを上げる。
「はい。端的に言えば、全ユーザーの倫理スコアの処理遅延を極限まで圧縮することです。それを行政判断や法人審査、教育方針など、あらゆる判断の精度を高めます」
小川は一拍置いて言った。
「言い換えれば、“ズレ”の是正。社会の透明化です」
手島が低く笑った。眉をしかめたまま、腕を組み直す。
エンジニア部の中村が手を挙げた。
「......小川さん。技術的整合性は誰がどう確認されますか?」
「倫理フレームにシステムを合わせる設計は、非現実的な負荷を生みます。
“現場”が回らない可能性が極めて高いです」
中村の無造作な言葉に、ゆっくりと指を組み直した。
「──倫理社会の処理基盤は、緻密なリアルタイム同期によって成り立ってます。
体感ですが“可視化”の粒度を少し上げるだけでも、システム負荷は現在の6〜8倍は増えると考えています。
分散構成を調整したところで、遅延のリスクは避けられないです。」
「そもそも完全な透明化なんて無理...」
横にいた吉田が呟く。彼女の声は、誰にも届かないかのように小さかった。
手島も続く。
「ふむ...。我々が組むべきは“適正化”であって、“形式的最適”ではない。
その違いを、Noēsis側はどう捉えているのか。確認した方が良いのではないかい?」
システム部門の言葉の応酬に、小川の表情が一瞬濁りが見えた。
すかさず榎田は「わかります、わかります」と手をあて小川のフォローに入る。
「手島さん、我々は開発会議をしてるんじゃないんですよ(笑)
僕らは未来を提案してるんであって、今ある処理能力の話はあとにしましょうよ?」
さらに、気づいたかのように榎田は続けた。
「あ、もちろん、そこは重要です。
ただ、今日の議論は“方向性”なので。
そこは、システム部門のほうで取りまとめてもらえますか?」
すると、小川がまるで他人事のように肩をすくめて笑った。榎田のフォローに息を吹き返した様子だった。
「たしかに。皆さん、難しく考えすぎですよ笑
そこまで気にしてたら、何も動けませんからね。
私たちは、まず“見える成果”を出さなきゃ──そうでしょ?」
その言葉に、小鳥遊がふと目を細めた。
「……というか、今の倫理制度の全体像って、チーム内で共有できてないですよね」
その空気に、少しだけ沈黙が走る。
「小鳥遊さん、それは“前提”の話ですよね?」
小川が食い気味に入る。
「今回は“設計”なんです。EX4.0の仕様に“合わせる”んじゃなくて、設計“する”側に回る。そのつもりで議論したいんです」
(また出たな、“する”側の意見。……)
すると彼女がふと、こちらを見た。
目は、何も言わない。
ただ、“何か”を言っているような気がした。
彼はそれに応えた。
緊迫した会議の場面──
なのに、その目は彼女を甘やかすようだった。
張っていた背筋が、少しだけ崩れた。
心の奥に、小さな破れ目ができて、そこから何かがこぼれ落ちていくようで。
彼女は不意に、唇を噛んだ。
「現状把握せずに設計しても、“乗せられない”んですよ。
リアルタイム処理の整合性もわからないまま、よくそこまで──」
中村から少し熱い息が漏れ出た。
甘い時間は、何の前触れもなく断ち切られる。
小川が中村を手で静止するような、ジェスチャーで笑っていた。
「中村さん笑
技術的な課題もわかります。わかります。
だから、そこはあとで詰めましょう。まずは方向性を話しましょう」
「……“方向性”が破綻してたら、全部死にます」
中村が淡々と返す。だがもう、誰も聞いていないようだった。
──ただ、彼女の視線は、その場の全員を“記録”しているようだった。
指の動き、唇の湿度、皺を産むブラウス。
一つひとつが、意図せず彼の“内側”に火を点けていく。
飯島が、静かに口を開く。
「RFP……拝見しましたが、“要件”ってまだ明文化されていない部分も多いですね」
「そうなんです、だからこそ」
小川が、すかさず言葉を繋ぐ。
「“新しい座組”が必要なんです。Noēsisに提案して、EX4.0の倫理設計そのものを、“共創”するんです」
その言葉に、アキの背筋が微かに緊張した。
(……よくも。まぁ)
だが今、この会議室においてそれは──小川の言葉だった。
まとめに入るかのように、榎田が口を開く。
「皆さんのご意見は本当に素晴らしい。
意見が出るのは、議論が出来ている証拠です。
全体の整理は、そうですね。
関口さん、お願いできますか?」
関口が静かに、時計を確認する。
「わかりました。
……予定時刻となりました。議論は一旦ここまでとさせていただきます。
アキくん。次のNoēsis社とのMTGはいつだったかな?」
久方ぶりに彼に話題が移る。
「4月3日の月曜日、10:00からですね。
...関口部長。要件は私が束ねますね。まずはチームで進められればと」
無駄な力は入っていない。なのにその声は場にしっかり届いた。
榎田の眉が、ほんのわずかに動いた。小川は一瞬だけ、口を閉じる。
言葉の奥に、役割を選ばずに引き受ける重さがあった。
その言葉に視線が吸い込まれる。
ほんの少し、太ももに力が入った。
エンジニアたちの視線も一斉に動いた。
誰も声には出さないが、わずかな安堵が混じった表情が、数秒だけ会議室に浮かんだ。
盲目的に突き進む榎田や小川の熱とは違う、静かな求心力。
彼の気配に、身体が勝手に向いてしまう。
倫理という名の正義に押し流されても、まだそこに立ち、呼吸し、役割を全うしようとする。
計算でも義務感でもない。“主役じゃなくても折れない”という在り方。プロフェッショナルの立ち振る舞いだった。
その姿勢に身体の芯にまで届くものがあった、理性では抵抗も、回避もできない。
ただ一言、それだけで。喉の奥まで入り込んだ気がした。
「そうか。ありがとう。
初回のMTGまで時間がないので、まずはRFPを元に仮説を構築し、当日のMTGですり合わせをしよう。
参加者は、榎田さん、小川さん、私、アキくんでいかがでしょうか?」
榎田は確かめるように言葉を放った。
「問題ないですね。
アキくん。くれぐれもNoēsis社に粗相のないようによろしくお願いします。
あと、明日までにシステム部門とビジネス側でロードマップの草案を用意してください。
細かいところは私がフォローに入ります」
会議が終わり、空気が緩む。
会議室の椅子が一つ、また一つと音を立てて戻されていく。
誰も間違っていない。
でも、誰一人として、EX4.0が何のためにあるのか、口にしなかった。
誰も“最善”を語れなかった。
ただ、それでもログを元に選抜がなされる。
それがログ社会の構造。
彼の中では何かが崩れていた。
「……結局、なにもなかったな」
"最適"という名の理想論だけが空中を浮遊している会議室。
そして──彼女は、この会議では何も発言していない。
それが、逆に重かった。
会議が終わり、重たい扉がゆっくりと開いた。
会議室を出る直前。彼女はふと立ち止まり、視線をわずかに横へ送った。
その先には、まだ席を立っていない彼がいた。
会議中、彼の姿勢はどこまでも冷静だった。
端末に閉じこもるわけでも、うなずくでもない。
なのに、その一言だけ。
それだけで、どこよりも“熱"を持っていることを理解できた。
その熱が、肩甲骨のあたりを、ふいになぞってる。
触れられていないのに、奥の方で何かが芽吹く気配。
おおよそ、勤務中に放たれるバイタルサインではない。
口を開きかけた──何を言うべきか、迷った。
ただ、今回の選定の意図を、きちんと本人に伝えておくべきだと、そう思った。
それは弁護でもあり、単なる理由づけでもあった。
「アサノさん、ちょっといいですか? GAIHの件で、少しだけ」
そこへ、小川がすかさず割り込んでくる。
その声は必要以上に明るく、妙に軽い調子だった。
彼女は一瞬だけ小川の顔を見て──それからほんの少し間を置いて、視線を外した。
その動作の流れで、ほんの刹那だけ、後ろを振り返る。
しかし、彼はすでに会議室の片付けをしており、視線はディスプレイの方向へ流れていた。
目が合うことはなかった。
彼女は、残された彼の輪郭を胸の奥に焼き付けていた。
振り返らない——勤務中だ。
「あ、はい……仕事のことなら」
小川の口角が、わずかに持ち上がった。
「ありがとうございます。ちょっと、向こうのラウンジで話しましょうか?
いや、そんなに時間はとらせませんよ。すぐ終わりますから」
言いながら、自分で会話を完結させていた。
彼女はそれ以上は何も言わず、ただ歩き出した。
廊下に響く二人の足音。そのうちの一方だけが、どこか浮き足立っていた。
──彼は、数メートル後ろからそれを見ていた。
音は聞こえない。ただ、その温度差だけが伝わってきた。
小川の声、仕草、間の取り方──どれも、“誰かに届かせる”ためのそれだった。
彼の目には、そう映っていた。
何が話されているのかは分からない。
けれど、小川の声がやけに響いているのは分かった。
言葉ではなく、“膨張した意識”だけが浮き上がって見えた。
彼女の返事はほとんど聞こえなかった。
それでも──その沈黙すらも、彼には意味があるように感じられた。
(別に……気にすることはないか)
彼はそう言い聞かせるように、180度体の向きをかえて、歩き出した。
(これは、スコアの話だ。
俺はできることを。俺は俺の"やるべきこと"をやろう)
心のどこかで、そう納得しようとしている自分がいた。
でも、それとは別の場所で──
“感情”が、言葉にならないかたちで反応していた。
そのぶつかり合いの中。隙間から漏れ出た“空白”だけが、妙に胸に引っかかっている。
ただ、すぐに彼は歩き出した。
背筋を伸ばして、何もなかったように。
けれど、足元だけが、会議室の扉よりも少し重かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます