第7話:LiME
午前7時08分、目を開けた瞬間に「起きた」と判断できる程度には、平日の疲労は回復していた。思考が良く回る。
この日が存在する理由はそれだけでいいのかもしれない。
だだ、身体の奥に何かが詰まっている感覚が残っていた。睡眠では解消されない、何か。
身だしなみを終え、リビングに戻るとテーブルの上に置かれた端末がわずかに震える。
彼はコーヒーを淹れながら、声を出さずに受信画面を開いた。
宛先 Eido社 イズミ──
感情記録型SNSを展開する、log-me社を支援するプロジェクトのマネージャーだ。
"log-me"は新世代を中心に支持を集めている企業。彼も関心が高かった。
だが彼の目には、それは“感情”ではなく“感情の代行”にしか映らなかった。
デスクに座るとすぐに端末からディスプレイを開き、対応事項を確認する。
log-me-AssistBot(自動音声)
「UX-V3.2.1の再構築による影響ログを通知します」
「#タグ:#共感ズレ #内向スリップ」
「行動完了率 +3.7% / 感情偏差 -1.1ポイント」
「想定外の満足感低下が観測されています」
「原因特定と修正フローのご提案を、本日12:00までに希望」
「休日出勤」なんて言葉は2045年にはもう死語である。ただ問題が“発生する瞬間”に即座に応じられる人間だけが、仕事と呼ばれるものに関われる。
「……行動は伸びてるのに、気持ちが離れてるってことか」
呟くように言って、彼は一口だけコーヒーを飲んだ。微かな酸味と苦味。どちらも舌の上で曖昧に混ざり合い、喉を通り抜けた。
仮説はすぐに立った。
ユーザーの「気づきの瞬間」が予測されすぎて、感情が置いていかれた可能性がある。
おそらく、インプレッション設計が正しすぎたのだ。
彼は画面をタップし、UXログツリーを呼び出す。
感情傾向チャートの差分を比較しながら、ログにタグを付ける。
「接近」でも「拒絶」でもなく、「スルー」。
──“引っかからない”という名の違和感。AIが最も苦手とする領域だった。
彼は「言語化できない微差」を拾い上げることが得意だ。定量ではなく、定性的な違和感を編み直す。
いわば、人間の“ズレ”を観測し、非合理を肯定するUX設計だ。
彼はスタイラスで数行だけメモを残した。
・期待される感情を先に提示しすぎている
・選ばされた感覚の残留
→ 決められた幸福は、幸福じゃないかもしれない
ふと腕時計を見る。9:36。
提出期限まではあと数時間はある。
「ま、提出は10時半でいいか……」
彼は軽く伸びをして、静かにデスクから立ち上がった。身につけていた殻が解けた瞬間。
ただ、「クライアントに見られている感覚」が、わずかに心臓に舞い戻り、鼓動を早めていた。
昼、吉祥寺の裏路地。
商店街を一本外れただけなのに、時間が止まったような空気が漂っていた。
煤けた看板と油のにおいが混じる。彼は迷いなくその店に入った。
扉の奥、スーツ姿の男が手を挙げる。
「おーい、こっちやこっち!」
カズキだった。
ジャケットの前を開け、ネクタイを少し緩めた姿は、“信頼されたい誰か”の模倣のようにも見えた。
営業帰りなのか、ビジネスバッグが椅子の背にかけられていた。
「お前……その格好、日曜にしてはちゃんとしすぎ」
「午前中、このへんで商談あってん。あんまりこんしな。せっかくや」
「商談?スーツ着てるだけで信頼される時代じゃないぞ」
「わかってへんな、昭和スタイルもまだ一部では効くねんて」
そう言いながら、カズキはメニューを指差す。
「この店懐かしいな。やっぱ麻婆豆腐いっとくか。痺辛食いたい気分やわ」
「...初めて来た」
「いや、前一緒に行ったやろ。お前、消しゴムと同棲でもしてんのか」
カズキは笑って頷き、麻婆豆腐と餃子とチャーハンを注文した。軽快なリズムと言葉が場の温度を高めてくれる。
厨房からは中華鍋の重い音と中国語の怒鳴り声。壁には古びた芸能人のサインが並んでいた。
「お前、今なにしてんの?」
「平日? 」
「基本平日やろ」
「今は、e-ADのクリエイティブ周りが中心だけど、ほとんど何でも屋みたいなもんだな。」
「何でもってなんやねん」
「んー...。UI/UX設計もそう。セキュリティからサーバー周り...。営業推進みたいなこともやってるかな」
「もうそれ全部やん」
「全部ではないけど...。休みとか平日とかの感覚はあんまりないかも」
「お前も俺と変わらんな...まぁ、なんや、ずいぶん"社会的"な人間になったな」
カズキは少し前がかりな姿勢から、重心を椅子の方へと預けた。
「昔はもうちょいこう、"野性"やったやん」
「野性?」
「せや。夜中の公園で“人間ってなんだろうな……”とか言ってたやろ。...そのままベンチで寝てたけどな」
当時の彼を真似たような口調でカズキは語った。
「いや、鮮明すぎるだろ。記憶…」
「俺、あん時のアキは、おもろいと思ってたで。今はもう“まとも”って感じやわ。」
カズキは目線を少し熱気に満ちた厨房に移し、中華鍋を振る料理人を見ていた。
「まあ...社会ってそういうものだからな」
3秒間、彼は過去の自分を思い返した。ただ、あの頃の輪郭は遠いものに感じた。
料理が運ばれ、ふたりはレンゲを手にする。
「ところでさ、アキ。“LiMEの都市伝説”知ってる?」
カズキが汗をぬぐいながら、急に顔を近づけた。額の汗と話の熱量がリンクしているように感じた。
「なにそれ」
「え、知らん?最近、選ばれた人にだけ“リンク”が届くらしいで。それ押すと、世界が変わるらしい」
「どこ情報だよ」
「いや、めっちゃトレンドやで。今どきの女子高生は全員知ってるわ」
「もう男子高校生でもねぇよ」
カズキは彼の相槌に不適な笑みを浮かべる。
「あと。 ...俺もきたで」
カズキの言葉に少し息をのんだ。脈打つ音が、喉の奥でゆっくりと広がった。
──記憶の奥で、何かが起動音のように点滅した。
「……え、開いたの?」
「ちょっとは信じる気になったか?もちろん、開いたで。
そしたら次の週から、流れ変わった。今月の営業成績、すごいで」
「それって、偶然なんじゃ……」
彼が答えるまでの間。それが少し長くなった。
「偶然とか必然とかはええねん。おもろいか、おもろくないかやろ」
「おもしろい...」
面白いという感覚を彼は振り返る。仕事での評価、社会への適応。安定した日々。どれも一定の充実感はあった。
だが、それらは"面白い"ものなのだろうか。
「...面白いってなんだろう?」
カズキは今更かという表情で彼に語る。
「そりゃ決まってるわ。ワクワクするかやろ。
シンプルやけど、これが俺の中の"面白さ"や」
シンプルな回答ほど、彼の考えは深くなってしまう。その言葉は期待や予感を示す未来の言葉だ。
カズキの定義を参照するならば、昨日の彼女との会話。
それは、少し"面白い"出来事だったことになる。あの会話こそ“野生”に近かったのかもしれない。
「あとな、今度昇進すんねん。この年齢で副部長。やばない?」
カズキの手の中にあるものや言葉、姿勢、それらがいつもよりカズキを大きく見せていた。少なくとも彼には大きく見えていたはずだ。
「...まぁ、お前にも届くかもな。知らんけど」
「どうだか。俺、LiME自体使ってないし」
「つれんな〜。こういのはノリと勢いやで」
間髪入れずに、カズキの言葉の波が押し寄せてくる。語らずにはいられないそんな雰囲気だった。
「それにな、やっぱ“ログスコア”やろ。結局」
「……え?」
「お前、ログスコアいくつなん?まだ低いんか?」
「最近は見てない。気にしてないよ、そういうの」
「ほら、見てみ。1720。上位15%や」
誇らしげに端末を差し出すカズキ。アキは視線だけ送り、自分の数値を口にしないと即座に決めた。
「高いな...」
「やろ?...会社でもほぼトップ層らしいわ。土日も同期オンにしてるで」
「土日って...全部記録されるのは、ごめんだな」
通常、ログのリアルタイム同期は平日のコアタイムのみ行われる。土日もログ同期しているのは、経営者かカズキのような人たちだけだろう。
「そうか? 見られてるほうが、スコア上がるやん。俺、最終的には芸能人と付き合いたいし」
「いきなりブレたな」
「いや、全部繋がってんねん。2000超えたらめっちゃエリートやぞ。アイドルとも付き合えるで」
カズキの目はギラギラと輝いていた。熱量は本物だった。ただ燃えすぎているようにも見えた。
「……2000なんて理論値だろ。人間には出せねぇよ」
「でもな...俺はやる。会社立ち上げて、上場して。 ...ユナみたいなアイドルと付き合うねん」
カズキは汗をぬぐい、グラスの水を一気に飲み干した。日本一のアイドルと付き合う、その熱量は冷めていなかった。
彼は心の中で笑いかけてしまった。ただそれは嘲笑というより羨ましさを否定する心からである。
「やっぱ、それが動機かよ。でも、アイドルと付き合えたとして、それでどうなるんだ?」
「…それはわからんわ、正直。」
カズキは、笑ってごまかすような表情を浮かべた。その笑いの奥に、かつての自分が潜んでいる気がした。
「逆にさ、お前はどうなん?そのままでええんか?」
「....うん、それは。...いや、投資話は受け付けてないぞ」
自分の話題になった途端、彼は急速に鼓動の落ち着きを取り戻し始めた。ペースに呑まれまいと、言い聞かせているようにも見えた。
「曖昧やな。それじゃ、やっていけへんで」
「なにがだよ」
「今や、今。足元のこともわからんやつが、未来語れへんやろ」
「...それ、語る必要ってあるンカイナ」
カズキの熱量が場の空間を支配した。彼はそれに無意識に影響された。
それを見透かしたように、続けざまに言った。
「はっ。世の中、言ったもん勝ちやで。言わないのは居ないのと一緒や」
カズキが話す、語ることの重要性。彼には、その理解よりも、違う思考で埋まっていた。
(……語らないという選択肢も、“選ばれる”ことのひとつだったら。)
「....そうかもな。それにしても...相変わらず辛口だな」
彼はこの会話に薪を焚べることをやめた。
部屋に帰って、彼はソファに背中を預けると、みぞおちの奥がわずかに熱を帯びているのに気づいた。
まだ、カズキの熱量のある語気と言葉が耳に残っている。
指先がじんわり汗ばんでたのも気のせいじゃない。
呼吸は整ってるのに、心拍が少しだけ速い。
なんだか、自分だけ置いていかれた気がした。
自分が社会に適応しようとする中で、カズキは社会に立ち向かっていた。
それでも平然としていたのは、負けたくなかったからだ。嫉妬や羨望だと思いたくなかったからだ。
──だけど。
今より頑張る理由はあるだろうか?
今の自分は、昔よりログスコアも高い。
クライアントからの信頼もある。
“ちゃんとした人間”として、社会に組み込まれている。
だが、それが──“完成形”か?
「……"野性"、か」
カズキの目。
あれは、どこか下に見ていた。
いや、昔の自分なら、ああいう目で他人を見ていた気もする。
ギラついてて、どこか軽くて、でも正直。目の前のことだけを見ていた。
それは"面白かった"のかもしれない。胸の奥にも確かな火があった。
ただ、スコアが低いことで随分と苦労もした。
進学、就職、人間関係。スコアが低いということだけで分類され、区別された。それが嫌だった。
だから"社会に適応"した。内側から湧き出る感情に蓋をした。見ないようにした。
すると、いつしか安定が訪れた。その"火“と引き換えに。
そして何も感じなくなった。
── その火は、どこへ行った?
そんなことを考えていたときだった。
「ピロン」──
くぐもった鈴のような電子音。それは命の呼び水のようだった。彼は反射的に身体を起こす。
空気がひとつ、ずれたように思えた。
スマホが熱を帯びていく。
見なかったことにすれば、今までのままだ。
見てしまえば、戻れない。
数秒の間をとって、恐る恐る緑のアイコンをタップした。
通知はLiME公式アカウントからだった。画面には、無骨なUIにただテキストが記載されている。
【LiME 招待通知|Private Observation Network】
あなたの準備が整いました。
https://……
▼アクセスキー:LME-VXN1-72FQ
▼登録期限:2045年3月31日
“リンク”──
カズキが言っていた、あの都市伝説。
届いた者には成功が訪れる。実際カズキはリンクを開いてから成功の道を進んでいた。
(……いや、都市伝説なんか、ただの噂話だろ)
画面を見つめる。
心臓の鼓動が、跳ねるようなリズムに変わった。“選ばれた”という言葉が、胸の内側にひっかかる。
(……偶然、じゃない?)
──アサノの言葉が、脳裏をかすめた。
あのベンチでの静かな会話。
彼女の視線は柔らかく、まっすぐだった。
まるで、すべてを見透かしているかのように。
偶然ではないかもしれない。
そう、言っていた。
じゃあ──これも?
(選ばれたのか?)
画面の下の「リンクを開く」ボタンが、こちらを誘っているように見えた。
押せば、何かが始まるかもしれない。
これまでの出来事が瞬間的に思考を高速回転させた。その瞬間ふと思い出した。
夏祭り。初めてくじ引きをした時の気持ち。
くだらないとは思ったが、それが適切な表現だった。
思考が"野性"に戻っていく感覚が強くなる。
呼吸は整っている。なのに、胸郭。やや左奥の小さなエンジンが回りはじめていた。
送られた血流の音も聞こえる。
これは焦りではない。もっと、前のめりな何かだ。
思考と身体が混ざっていくような感覚。その感覚を探るだけで、少しだけ心が軽くなった。
LiMEの光が、部屋の暗がりを切り裂いていた。
彼は、ひと通りくだらないことを考え尽くした。それらは何も生み出さないが、まとわりつくモヤは少し晴れた。
「……"きっかけ"かもな」
”何も選ばない”ことが、一番のリスクな気がした。いや、本当は気づいていたのかも。
ゆっくりと、指先をリンクの上に重ねる。
重なった瞬間、時計の針が──わずかに狂ったように思えた。
タップ音すらなかった。代わりに、部屋の静けさが異様に大きく膨らんだ。
パスワードを入力画面にキーを入力すると、画面が白く切り替わった。
演出も、エフェクトも、ない。
表示されたのは、
**「申請を受け付けました」**という、
味気ないテキストだけ。
──何も起きない。
けれど。
静けさの中で、たしかに足元から這い上がるように自分が鮮明になっていく感覚があった。
手足の末端から徐々に熱が帯びていく。
時計の針が1秒1秒、時を刻む。
ここ数日の言葉や風景が浮かんでくる。
一際、彼の心に印象が残ったシーン。
「嫌いじゃないですよ」
彼は画面を閉じ、ソファにもたれかかった。
何も起きない。
ただ、耳の奥で、自分の鼓動と重なる微かなざわめきがあった。
それは知らない命が、内側から皮膚を撫でるような感覚だった。
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