第24話 夏の予選、来る
結局三年生は、背番号発表の日を迎えた今日まで一度も部活には来なかった。三年の担任からの話では、あの後から吹っ切れて楽しそうにやっているとのことだった。それはせめてもの救いかと青嶋は思ったが、それはそれで少し寂しい気持ちにもなった。
ただ、そうとだけは言っていられない。夏が来る。
放課後の練習の最後、二年と一年が青嶋に注目する中、彼はいよいよその時を告げた。
「これから背番号を渡す。この背番号がこの夏の大会での背番号になる。名前を呼ばれたら前に出てくれ」
高校野球は背番号がレギュラーの証でもある。キャプテンが10番のチームもあるが、一桁の背番号はレギュラーの名誉を背負った証しとなる。つまり、実質的にレギュラーの発表でもある。緊張な面持ちのメンバーの中、期待に胸躍らせているのは鷹助だ。初めての背番号、何番になるか。期待している。
「まずは背番号1だ」
そう。背番号1、エースナンバーだ。自分がエースになり、父の行けなかった甲子園に哉那斗を倒して勝ち上がる。これが自分の目標であり、背番号1はその始まりとも言える。名前を呼ばれたい、呼んでくれ、彼はそう願っていた。
「背番号1……堤優心!」
「はい!」
だが、期待は裏切られた。背番号1、それはまだ叶わなかった。くそ。まだ足りないのか。いや、客観的に見ればそうかもしれない。フィールディングや打撃、走塁、そして投球術も全部がまだまだだ。彼は悔しくなっていた。優心には届かなかった事実は、そのまま背番号1をもらえなかった事実になっている。
「背番号11。冬野鷹助」
「……!はい!」
悔しさのあまり考え事をしていた鷹助は名前を呼ばれて我に返った。返事をして背番号を渡された。両手で持っている四角の中の「11」。映像の中の父と同じ、背番号11だ。
エースナンバーを逃した悔しさは確かにある。ただそれでも、鷹助は嬉しかった。父と同じユニフォームで、同じ背番号で野球ができる。これをつけてマウンドに上がれるかもしれない。嬉しさのあまり彼は少し震えていた。
「今渡した背番号、一桁がレギュラーなのはもちろんだが、背番号二桁だからと言って試合に出ないわけでもない。全員で戦い抜くぞ。総力戦で勝ち上がるんだ。いいな!」
「はい!」
これが始まりだ。いよいよ初めての夏が来る。鷹助は二週間後の初めての試合に期待を込めて、大きな返事をした。
背番号を渡された帰り道。鷹助と友希は自転車を押しながら、最近整備されたばかりの堤防沿いの遊歩道を歩いている。夕暮れ時を見計らって走っているランナーや帰宅のために自転車を飛ばすサラリーマンとすれ違ったり追い抜かれたりしながら、二人は話していた。
「背番号、もらえたね。おめでとう」
背番号がもらえたのを喜んでいるのは鷹助だけでなく、友希も同じだ。彼の三年近くに及ぶ努力がようやく報われた瞬間でもあったからだ。彼女は改めてそう言うと、鷹助は前を見たまま頷いて「ありがとう」と言った。
「なんか……やっと始まったって気がする」
鷹助はこれまで数試合練習試合を経験したが、公式戦は初。中学時代は公式戦に出る前にクラブを辞めてしまったため、負けたら終わりの真剣勝負の場に上がるのは小学生以来だ。彼は背番号をもらえたことで、ようやく始まった、ようやく戻って来れたと感じている。背番号をもらえた喜びは計り知れない……が、それと一緒に、重圧も感じ始めていた。表情が少し曇っている。
「けど、プレッシャーが全然違う。負けたら甲子園に行けないって思うと……」
彼は公式戦に対してプレッシャーを感じている。負けても士郎たち二年生は引退するわけではないが、甲子園への道は閉ざされる。ミスの許されない戦いで投手が背負う責任は重い。背番号はそのままプレッシャーとなって背中にのしかかっている、そんな心境が彼の言動に現れている。
「鷹助だけじゃないでしょ。先輩たちも同級生のみんなもいるんだから。鷹助にだけプレッシャーがかかってるわけじゃないよ」
「わかってるんだけど……だけどな」
友希の励ましも、すぐには心に落ちていかない。プレッシャーはそのまま不安に変わっている。そのせいで励ましの言葉は染み込んでいかない。
「不安に思うのは仕方ないけどさ、考えてみてよ。まともに野球ができなかったのに、あの佐武さんから三球三振がとれるんだよ? 普通なら無理でしょ。自信持っていいんじゃない?」
紅白戦で、鷹助は士郎から三球三振を奪った。
鷹助はあんな手に汗握る対決を制したのだ。いまだに動画を見返してしまうほどに心震える対決だった。首を振ってまで投げた高めのストレートは見事としか言いようがない。あれほどの勝負をできたのだから、自信を持ってもいいはずだ。
「……確かに。けどさ、あれ無我夢中だったから。狙って三振取りたい」
「そうそう。トーナメントで勝ち上がれば、佐武さん並みのバッターもたくさんいるから。そう言う人たちからも三振たくさん取れるように、あと二週間たくさん練習しよ」
「うん。ありがとう」
これも、エースになるための通り道だ。エースの責任は重い。エースの出来は試合の勝敗をそのまま左右してしまう。そのプレッシャーに打ち勝たなければ、甲子園は見えないのだ。背番号を変えるには、ここで負けていられない。これは始まりなのだ、つまづいている場合ではない。
友希は、夕日に照らされた彼の顔が不安を払拭して少しだけ明るくなったように見えた。それに少しだけ安心して、笑みをこぼしていた。
「ただいま」
友希と別れた後、自転車で少し走ったところに鷹助の家がある。玄関扉は帰宅を知らせる鷹助の声と共に、カラカラと乾いた音で閉められた。
鷹助の家は昔からここに建っている家で、庭が広いのが特徴の二階建ての家だ。外壁や意匠を見ても古さが拭えない。それでも、ここは大切な家。待ってくれている唯一の家族がいる。
「おかえり」
廊下を少し行ったところにあるリビングというより居間、という部屋では鳶男がテレビを見つつ待っていた。部屋の卓の上には、山盛りの肉がどんと乗っていて、ご飯と味噌汁も置かれている。野菜は行方不明だが、これは普通だ。鳶男の手料理にサラダという概念はほぼない。野菜炒めの野菜がいいところであるが、それは今に始まったことではない。鷹助はカバンを置いてすぐに手を洗い、戻ってきて席に座る。
「では食べようかね。いただきます」
「いただきます」
と言うと、食卓は戦場になる。鷹助はものすごい勢いで肉を食べ、ご飯をかきこむ。うかうかしていると肉を全て食われるので、鳶男も負けじと肉を食べる。二人しかいない食卓でそんな戦いをしている。これも冬野家では普通だ。
「鷹助。今日は背番号発表だったんだろ?どうだったんだね」
ご飯中にしゃべることは少ない。喋っている暇があるなら食べなければ肉がなくなる。が、今日は珍しく鳶男がそう尋ねてきた。鷹助は咀嚼もやめないまま答えた。
「もらえたよ。11」
「ほう。11か……鷹志と同じだな」
「うん。父さんと同じ」
「どうかね。やれそうかね」
「大丈夫。もっと練習するから」
「ほうかい。なら問題ないわな」
思春期らしく彼はぶっきらぼうに答えていたが、肉を食べるのはやめない。話している間にてんこ盛りだった肉がほとんどない。
「あ! 鷹助! 肉がないがね!」
「食わないのが悪い」
鷹助は祖父に対して本当に容赦がない。それもいつも通りだが、鳶男は、いつも通り振る舞う彼の表情がいつもよりも引き締まっている、そんなふうに見えていた。
「……鷹助。お前はやっぱりノスリだわ。狙った獲物は逃さんわ」
「じいちゃん、それいつもだけどわけわかんない。ノスリなんて鳥は知らない」
「ええか、鷹助。ノスリは低く飛んで獲物を捕らえるんよ。鷹助の球はおんなじなんだわ、ノスリと。低めは生命線だでね、覚えときん」
「……!」
鳶男はいつも、何かしらを鳥の行動に例える。鷹助の投げるボールに対してもそうだった。鷹助は別に鳥が好きなわけではないが、いつも「お前の球はノスリと一緒」と言ってきた。それが訳がわからないといつも言っていたが、今日は最後にえらく具体的なことを言った。
「なんだよ急に」
「鷹志はな、低めの球が決まらん時はよう打たれとった。アンダースローは高低差も大事にせんと打ち取れん。じいちゃんはずっと見てきたから知っとる。お前のボールもそう、ノスリのように低くないといかん」
「……!! ……よくわかってるよ」
これが初めてだった。
鳶男は、初めてちゃんと野球の話をしてきた。今までそんなことはなかったのに。それに……鷹助の前であまり名前を出さなかった息子の名を出してまで、そんな話をした。
もしかしたら。彼は父と同じ背番号だったと聞いて、発破をかけたのかもしれない。鷹志は三年でようやく背番号をもらったが、ついに背番号1には届かなかった。鷹志はそのことを悔やんでいたと聞いた事がある。
鳶男はもしかしたら、背番号1をもらえなかった父の無念を晴らしてほしいと思っているのかもしれない。叶わなかった夢を叶えて欲しいと思っているのかもしれない。
ただそれは、自分が一番そうしたいと思っている。父から教わったこの投げ方で甲子園に出ることは、確かな目標の一つだ。三年間努力してきたその成果を見せる時が来たのだ。
鷹助は部屋の隅、戸棚の上を見る。写真たての中で、鷹志が笑っている。
自分の力で、父から教わったこの投げ方で甲子園に出られたなら。きっと鷹志は、こんなふうに笑ってくれるだろう。舞台は整った、あとはやるだけだ。鷹助はそんなことを考えながら、味噌汁を飲み干した。
県立草薙高校はいよいよ甲子園を目指して戦いに挑む。
背番号発表から二週間後、六月ももう終わりを迎えるころ。開会式を無事に終えた数日後、梅雨のどんよりした曇り空の下、ついに県予選は開幕する。
草薙高校がノーシードの初戦で対する相手は、同じ弱小校の県立明治農林高校。地元草薙球場で行われる試合だ。
こんなところでつまづいている場合ではない。今日は甲子園を賭けた初戦だ。試合開始前、一塁側ベンチ前に円陣を組んで集合している草薙ナインは、皆緊張の面持ちである。
彼らを前に、円陣の中央にいるユニフォーム姿の青嶋が、全員を見回して静かに話す。
「今日からいよいよ夏の県予選だ。負けたら終わりの厳しい戦いが始まる。だけど、今日をしっかり勝って勢いに乗って勝ち上がるぞ! 遠慮なく暴れて来い!」
全員揃って返事をして、今度は士郎が円陣の中央に立った。
「監督の言うとおり、ここで勝って勢いに乗ろう! 俺たちは強い!」
そして、全員が膝に手をやる。
円陣の中で一際目を輝かせているのは、鷹助だ。
父の心残りも。鳶男の想いも。そして、自分の想いも。全部背番号11と一緒に背負い込んで、戦うんだ。決意は闘志となって、瞳の輝きに変わった。
「草薙! 勝つぞ!!」
「おおおっ!!」
ナインの声が、球場にこだまする。
今日ここに、いよいよ夏の県予選は開幕したのである。
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