異世界キクミ-カフェへようこそ〜転生バリスタは眠らない〜

@Kikumi144

第1話 ようこそ、はざまのカフェへ

ざらり、と誰かがページをめくるような音がした。けれど、そこに本はなかった。


目を覚ますと、キクミ-は白いテーブルの上に置かれていた。いや、正確には“浮かんでいた”。直径30センチほどの、ふわりとした存在。まるで風鈴のようにふわふわと空中に浮いている、自分自身の頭部だけの存在に、ほんのりとした違和感はあったが、思ったよりも快適だった。


「――また、転生しちゃったんですね」


ふと漏らしたその声は、柔らかく、そしてコクがある。ちょうど一晩寝かせた水出しコーヒーのような、落ち着いた声だ。


周囲を見渡せば、そこには小さなカフェがあった。天井は高く、壁は木目。窓辺にはやたら背の高いカウンター。そして、棚には一面に並んだマグカップ――それぞれ異なる種族の手にフィットするよう、形も大きさもてんでバラバラだ。


「よくできてますねぇ。ハクスラで手に入れたおうちより、だいぶ上等」


どこからか、湯気の立つマグカップがすっと運ばれてきた。それはまるで、キクミ-の気配に応えるかのようだった。


「へぇ……自動給湯精霊までいるなんて、サービス過剰じゃないですか?」


その瞬間、カラン、と入口のベルが鳴った。外はまだ明けきらぬ霧の中。カフェのドアがゆっくりと開き、背の高い来訪者が一人、足を踏み入れた。


――角。

 ――片翼。

 ――黒いマントの隙間から覗く、鋼の義手。


「ここは……どこだ。酒場でも、聖堂でもないな……?」


「いらっしゃいませ。お疲れなら、コーヒーにします? それとも――人生相談?」


宙に浮かぶ、頭部だけの妖精がにっこりと微笑む。

 その姿に、魔族の男は目を細めた。


「……首だけか。なかなかの呪いだな」


「呪いじゃなくてデフォルトです。あと“首”じゃなくて“頭部”ですので」


どこか懐かしく、けれど見たことのない空間。

 それは「世界のはざま」にぽつんと開かれた、誰にも見つけられない喫茶店――


『キクミ-カフェ』の、記念すべき最初の朝が始まった。


カウンター席に腰を下ろした魔族の男は、鋭い目つきで店内を見回していた。片目には深紅の眼帯が巻かれ、全身は黒の布で覆われている。どこからどう見ても「物騒」な風体である。


「ふむ……砂糖と毒の匂いが混ざったような場所だ」


「褒め言葉として受け取っておきます」


宙に浮かぶ頭部――キクミ-は、空中をくるりと回転しながらカウンターの内側に移動した。体はないが、器用にカップを浮かせ、珈琲豆を挽き始める。香ばしい音が店内に広がっていく。


「注文は?」


「……コーヒーなど飲まん」


「じゃあ、コーヒーで」


「聞け」


「じゃあ“魔族のくたびれた男用に、よく効くやつ”で」


「……勝手な……」


口では不満を述べながらも、男はしっかりと両肘をカウンターに乗せていた。ふと、何かに気づいたように鼻をひくつかせる。


「この香り……まさか、アラビカ?」


「転生特典で持ってきました。“異世界持ち込み可”って書いてあったので」


「……禁制品だぞ」


「じゃあ内緒にしておいてくださいね」


キクミ-が静かにドリップを始める。お湯が注がれるたび、粉が膨らみ、芳醇な泡がふつふつと立ち昇る。その様子に、魔族の男のまぶたがほんの少しだけ緩んだ。


やがて、目の前に一杯のコーヒーが差し出される。琥珀色の液体が揺らぎ、湯気がくるくると渦を巻いている。


「……毒は、ないな?」


「あっても、それを“おいしい”って言わせるのがプロってもんです」


言いながら、キクミ-のまわりで小さな金属音が鳴る。スプーンが宙に浮かび、砂糖壺のふたが勝手に開いた。コーヒーの香りは、まるで心をほぐす魔法のように空間を包み込んでいく。


男は静かにカップを取り、ひと口。

 そして……動きを止めた。


「……これは……」


「“ただのコーヒー”ってやつです」


その言葉の中には、どこか自信と、少しだけ寂しさが混ざっていた。


――しばらく、二人の間に静寂が流れた。


外の世界では、騒がしさが支配しているというのに。このカフェの中だけが、まるで時が止まったようだった。


「……この店、名前はあるのか?」


「ありますとも。『キクミ-カフェ』」


「……お前の名か?」


「そう。キクミ-さんと申します。配信者からカフェの妖精になりました。転職、いや転生ってやつですねー」


魔族の男は、ごくりと喉を鳴らし、二口、三口とコーヒーを口にする。そのたびに、肩の力が抜けていった。まるで長い間、甲冑を着続けていた戦士がようやくそれを脱いだかのように。


「ここは……どこなんだ?」


「“はざま”の中。この世界とあの世界の隙間。迷子になった心だけが、たどり着ける場所、でございます」


「では……俺は、迷ったのか」


「うん、きっと。迷いに迷って、喉が渇いたのでしょうね」


そう言って、キクミ-は微笑む。その表情には、どこか達観した優しさがあった。まるで、何千人と話してきた“配信者”の目。


「ここにはいろんな人が来られるんですよ。ドラゴンも、精霊も、神様も」


「……神、だと?」


「“推しです”って言って、紅茶に蜂蜜をドバドバ入れてたました。あれ絶対血糖値ヤバいですよね」


男の眉がひくつく。笑いそうになるのをこらえている顔だった。


そしてふと、カウンターの上に光がともった。まるで舞台照明のようなスポットライト。キクミ-の頭部が、その中心に浮かぶ。


「……あれ?また始まった?」


店内に、かすかに響く音――


それは、遠く遠く、どこか別の世界に届いている“配信”の始まりの音だった。


『――おはようございますいらっしゃいませ。本日は異世界からお届けさせていただきます。キクミ-カフェと申します!まずはシェアもぐさせていただきますので、お好きなお席にお座りになってお待ちくださいませ』


魔族の男は、その光を見上げた。

 彼の目に映ったキクミ-は、まるで夜明けに浮かぶ月のように、穏やかに輝いていた。


「……また来ても、いいか?」


「もちろん。“おかわり自由”って書いてありますよね?お代は無料のハートでお願い致します」


こうして、キクミ-カフェの最初の一日が、静かに始まった。

 その香りは、異世界の風にのって、今日も誰かの“迷い”を迎えにいくのだ。

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