月夜の君は夏の音
宵待
第1話
小さい頃から勘が良かった。
直感、予感、インスピレーションから虫の知らせ、第六感や洞察力に分類される範疇まで、これまでの人生において勘と足並みを揃えて二人三脚で歩んできたと言ってもいい。
どうやら六つか七つの頃に事故にあったらしい。生死を分かつほどの大事故であったにも拘らず、奇跡的にほぼ無傷で一命を取り留めた。思い返せばうっすらと三途の川やらお迎えの天使やらの残像を見た覚えもある。俺の勘はその日を境に天授されたようだ。
だからと言って宝くじや隕石が当たるわけじゃない。混同されがちだが運と勘は別物だ。
運は引き寄せるもので勘は選ぶものだ。運は降ってくるもので勘は閃くものだ。選んだ先で待っているのが吉か凶かは出たとこ勝負。まあ結果の良し悪しを比較するという点に限って言えば似たり寄ったりと言えなくもないが。
そして今朝、盛夏のもたらす尚早すぎる暑熱に身悶えながらベッドで体を起こすなり、その勘が告げていた。なにかが起こる。それが慶事か凶事かは判別できない。いつもそうだ。
到来の啓示はあるのに、それが起こってからしか是非も善悪も定まらない。
甚だ中途半端で曖昧模糊で、しかし勘だけは本物なのだ。
つまり今日、目覚めて挙措を開始するこの瞬間から、なにか常とは異質の事態が起こるのだという事実だけは、明白なのだった。それが些事であれ、大事であれ。
朝食の目玉焼きの黄味が二つだった。これは好事だろう。しかしこれじゃない、と候補にすら並ばず切り捨てる。さすがにこの程度で勘が働くなんてうそぶくのはおこがましい。
いつも右のもみあげ付近の髪が少し上向きに跳ねて整えるのに時間が掛かるが、今朝はやけにすんなりと言う事を聞いた。制服のネクタイは一発で決まったし、玄関から一歩足を踏み出した瞬間の心地よい南風は爽快な晴天をさらに念入りに洗礼した。
ここまでの潮流に乗って航行していく限り、この先に待ち構えている勘の正体は間違いなく最良の順風だろう。
庶民の拙い幸福に軒並み舌鼓を打ちながら、俺、橘(たちばな)秋(あき)空(ら)は七月の入道雲を低空に連ならせる、くっきりと濃い青空を仰いだ。
梅雨明けしたばかりの大気は熱と絡まるようにうだる湿度を存分に含んでいる。早くも夏仕様の白シャツの背中がしっとりと水分を蓄え始める。グレイ地の下部に白のストライプの二本線を斜めに配置したネクタイが、うなじに鬱陶しく食い込んだ。
その密着度が不快極まりなく、右手の人差し指を首元のシャツとネクタイの間に差し込んだとき、よく知ったテノールが後頭部を直撃した。
「っはよ!秋空!朝から熱いよな」
声と同時に顔が目の前に躍り出る。俺の前に回り込んで後ろ歩きしながら、前野(まえの)佑(ゆう)太(た)が真昼の太陽の如く破顔一笑した。
「おはよ、佑太。ったくこのネクタイだけでも引きちぎりてぇよ」
「まったくだ」
同意を示してネクタイの先を弄び、佑太は正面に向き直ると隣に並んだ。
ラニーニャ現象は今年も隆盛のようだ。年々異常気象を更新して地球を温暖化させていく気候にまるでそぐわない無意味な校則を恨めしく思いつつ、しかしそれに抵抗する気概も根性も持ち合わせていない自分たちに自嘲を感じつつ、冴えない小言をひとしきり語り尽くす頃に校門に到着した。白熱する日差しに共鳴するかのように降り注ぐ蝉しぐれにも飽き飽きしてきた頃合いだ。
上履きに履き替え、階段を上がり、一年A組のドアをスライドする。佑太とは同じクラスだ。揃って教室に足を踏み入れたところで、優雅に近づいてくるスリムな人影があった。
予想通り、そいつは白い歯を見せて汗一つ浮かべず爽やかに笑っている。
「秋空、佑太、おはよう。今日さ、何があるか知ってる?」
唐突な問いに挨拶を返すのも忘れて立ち止まる。何がある?何かあるのか?
まったく思い当たらない。佑太も同様の結論だったらしく、わざとらしく長考するふりをして額に当てていた指を離し、顔を上げた。
「・・・避難訓練か、身体検査か?」
面白くもない回答を挙げ、目の前の優男を失笑させた。
「驚くよ。夏は恋の季節だよね」
学年一のイケメンと名高い相馬(そうま)拓(たく)の瞳が上品な挑発性を秘めて輝いた。イケメンの上に裕福で育ちがいいので軟派な発言をしても嫌味にも下品にもならない。
「なんと転校生が来るんだ。それも女子の」
そして学年一のプレイボーイでもある。それすら勲章のようにぶらさげていても誰一人の反感も嫉妬も買わず、規定事項のように浩然と受け入れられているのだから、世の中不公平だ。
相馬と言う奴の人徳とか人望とかいうものの賜物だろう。かく言う自分も、けして相馬を疎ましく思ってはいない。男としても奥行きと言うか風格があり、どうしてか憎めないお茶目さまで併せ持っている非の打てない奴なのだ。フェミニストにカテゴライズされるのは間違いないが、しかしその割には一定の彼女を作ったのはみたことがない。身上なのか、案外ドライなのか、モテる男の真意は平民には知る由もない。
「マジで!?可愛いの?」
あっさり乗っかった佑太が食い気味に相馬ににじり寄る。すでに目の色が変わっている。
それもそうだ。こんな中途半端な時期の転校生なんて稀だし、しかも女子で、一学期も残すところ十日あまり。つまり、長い夏休み目前なのだ。多少なりともこの朗報に色めくのは必然と言えた。高一の、十六歳の夏だ。青春を桃色に塗りたくりたいのはなにも佑太だけではないだろう。
「顔は見てないけど、職員室に入っていく後ろ姿は見たよ。ヨゼフの制服着てて、長い黒髪が綺麗だった」
相馬は佑太の勢いに臆した風もなく鷹揚に情報を共有する。ヨゼフと言えば隣市にある私立の女子高だ。のきなみ医者やら弁護士やらの子女で構成される生粋のお嬢様校である。
そんな学校に通っていた令嬢が、高一の夏休み前にしがない公立の共学高校に転校?不自然に感じない方が難しい。
俺の怪訝な表情を鋭敏に読み取った相馬が相好を崩した。
「まあ、人生色々、事情も色々あるよ」
その事情を把握しているかどうかは別として、年寄じみた物言いにじじ臭さを感じないのは相馬の端正な口元から下知される言葉だからに他ならない。年齢の割に、常から妙に達観したところもあって、優秀ではあるが老獪な一面もある。単に温和な色男と分別されないのはそうした一種ミステリアスな側面がどことなく醸し出されているせいだろう。
佑太はと言えば、とにかくヨゼフと黒髪だけに妄執して他は脳外に締め出してしまったらしい。ぶつぶつと呪詛みたいに抱負だか願望だか計れない妄言を繰り返している。ちょっと危ない奴だ。
「担任の広瀬先生が連れてたからうちのクラスで間違いないよ。楽しみだね」
佑太の妄想に拍車をかけるように、相馬は品のいい茶髪をかき上げ一段と眩しい笑顔を振りまいた。
その女生徒が教室の戸口に立つなり、転校生の噂が広まりちょっとしたお祭り騒ぎだったざわめきが嘘のように鎮まった。そして次の瞬間には色めいた囁きが空気を隅々まで震わせた。
息を呑む、という熟語の本意を実感する。
悠然と教卓の前に立ち、担任の広瀬に紹介されながら微笑む姿に、誰もがまさに息を呑んだ。
『柊(ひいらぎ) 夏音(かのん)』
広瀬が白いチョークを筆圧高く黒板にこすり付け、その名を縦に筆記する。
深緑のワンピース型の制服に朱いリボン、装飾の襟は白で華奢な手足がその襟よりも透明な白さですらりと伸びていた。長い黒髪は腰ほどに届き艶やかで、まるで黒曜石のように濡れた瞳は銀河を閉じ込めたみたいに輝いている。理想的に通った鼻筋に桜色の嫋やかな唇。人形のように長い睫毛。
「柊夏音です。よろしくお願いします」
カナリヤみたいに澄んだ美声が、雑然と埃くさい室内を浄化していく様が見えるようだ。きっと吐息も甘いに違いない。どの角度からどう見ても、現実感がないくらい完成された美少女だった。
当然、その美少女はクラス全員の注目の的となり、ホームルームが終わるやいなや囲み取材さながらに包囲されての質問攻めがはじまった。
「その制服可愛い、ヨゼフのだよね?」
「こんな時期に転校って珍しいね。なんで?」
「家、どのへんなの?」
「髪綺麗だね、シャンプーなに使ってる?」
「兄弟はいる?」
「彼氏は?」
質疑は実用的なものから、ただの好奇心の野次まで含めて遠慮なく飛び交い続ける。
夏音は微笑みを絶やさず、こたえられるものには答え、時に曖昧に笑みを零したり頷いたり、嫌な顔一つ見せず応対している。大したものだとしばらく見守って、一限目のチャイムが鳴ると同時に後ろ髪かれる眼差しを引きずり三々五々席に戻るクラスメイトを見送った後、小声で忠言した。
窓際の一番後ろ、それが俺の席で、その隣が夏音の席だ。
「無理してこたえなくていいんだぜ。適当にあしらっとけばそのうち飽きるさ」
慰労のつもりだったが、夏音は質問の続きを聞いたかのように数秒前と寸分違わぬ微笑を形作る。
「平気よ。みんな悪気があるわけじゃないもの」
落ち着いた、余裕のある受け答えに半ば感心して頬杖をついていた手を浮かせた。
「慣れてんのな」
嫌味で言ったつもりではないが、口にした瞬間少し焦った。こんな美少女なのだ。きっとこれまでもちやほやもてはやされることくらいごまんとあっただろう。それが発言の端に意図せず引っ掛かってしまった。しかし弁解するほどのことでもないし、そうした方が逆に気を引きたくて見苦しく足掻いているように映りそうで、ぐっと弁明を溜飲した。
なんだか調子を狂わされる。美少女には常人とは違う磁場とか電極でも備わっているのだろうか。
「優しいのね」
しかし予想外の返答に今度は正真正銘黙り込む。優しい?どこをどうとったらそうなるんだ。そう考えて、ごくりと喉が鳴った。まさか心を読まれたりしてないよな。
「お気遣いありがとう」
夏音は俺の混迷をさらに読み取ったように先回りして礼まで述べると、楚々と一笑して前を向いた。
一限目、古文の中年男性教諭が入室してきたところだった。
さらりと肩に落ちる黒髪が窓からの陽射しで滑らかに色づく。白い横顔をそれとなく観察し、惚れ惚れするような美貌に思わず見入りそうになって、慌てて教科書を広げた。
転校生の美少女の隣の席。俺の勘はこれを示唆していたのだろうか。
若干腑に落ちないものを感じながらも、しかし客観的に見ればこれ以上ない至上の幸運でもある席次に、心ならずも納得するのだった。
放課後、俺と佑太、相馬、そしてⅭ組の鮎川(あゆかわ)孝(たか)順(より)が合流して一階の渡り廊下の入口にたむろする。今日は水曜日、部活の日だ。部活と言ってもメンバーはこの四人だけで特に活動はない。さらに言うなら活動日も決まっていない。なんとなく誰もバイトなり塾なりデートなり(これは相馬に限った行事だが。学内外に数人ガールフレンドがいるらしい)がない集合率の高い曜日が水曜なだけであって、条件さえそろえば月曜でも木曜でも大差ない。
男ばかり四人が雁首突き合わせて揃うのは単にだべったりゲームしたり、暇つぶしの為のたまり場として部室を流用したいだけであり、部活動とは名ばかりの、全員が幽霊部員と等しいのだった。
ちなみに何部かというと天文学部である。部員がいなくなり廃部寸前だったところを中学時代の腐れ縁四人組で一挙に入部届を出し、首の皮一枚で部名を継承した。
無論、誰一人星にも天体にも興味はない。人並みに星空に感銘を抱くくらいの情緒はあるが、特段造形が深いとは言いがたく、それなのになぜ天文学部を存続させたかったのかと言えば、先般述懐したとおり放課後の気兼ねないたまり場が欲しかったからで、昨年同校を卒業した鮎川の兄貴から天文学部の優位性を教示されていたからに他ならない。
部活動として存亡し、定期的に活動報告さえしていれば、部室は自由に使え、かつ一分一厘と言えども部費まで進呈されるのだ。こんなに美味しい話はない。
そして、なにより俺の心を動かしたのは、その活動内容の一端である天体観測だった。とはいえ実際に観測したことなどあるわけがない。理科実験室から望遠鏡を拝借したことも無ければ、移り行く天体の記録を付けたり流星群を夜なべして観察したりもしない。
ただ、月に一度、夜の屋上へ繰り出しての観測行動が許可されているのだ。
午後八時から十時の二時間に限り、人っ子一人いない学校の(顧問の教師は引率の為残っているが、職員室だか用務室だかで居眠りするだけでいないも同然だ。この顧問からしておそらく天文学に興味はない)誰もいない屋上を貸し切っての饗宴が催される。それは得も言われぬ解放感と優越感だった。そして夜の学校の屋上と言う非現実的な高揚感。高一の男子の童心を誘惑するに十分なシチュエーションだった。
その観測日を今週末に控え、打ち合わせも兼ねての座談会が開催されていた。打ち合わせと言っても誰が何を持ち寄るかというレベルの瑣末な周知事項の確認だ。
「俺は今回スナック菓子な。前回はペットボトルで大変だったし」
鮎川が先制の一声を投じる。
「じゃあ飲み物は俺と佑太で受け持つよ、相馬はいつもの頼む」
六畳ほどの板張りの部室でパイプ椅子に腰掛けて、中央に一脚ある長机に両肘をつきながら隣の相馬に水を向けた。相馬はもちろん快く頷く。いつもの、とは活動内容の擬装レポートのことだ。
「なあ、酒は?」
「ばーか、ダメに決まってんだろ」
佑太の不道徳な提案をにべもなく却下し、このメンバーでは最も硬派な常識人である鮎川が椅子の上で背を反らせた。学校で飲酒なんて鮎川でなくても賛同などしないが。
「花火しようぜ」
「火器もダメだろ」
「どうせばれないって。河田(かわだ)は屋上(うえ)こないだろ」
河田とは俺たち以上にやる気のない天文学部顧問の頭頂部が淋しくなりつつある初老の英語教師だ。天文学部に英語教師、ここにすでに重大な齟齬がある。
「バレたら停学だぜ」
「夏らしいことしたいけどなぁ」
「夏らしいって?」
「ひと夏の恋とか、冒険とか?」
「なんだよそれ」
口々に提案と否定と戯言が錯綜し、そのうち誰からともなく話はすぼんでいく。あらかた決めることを決めてしまったら後は自由時間だ。憂鬱な一学期の期末試験も終わり、みな爽然と気分も軽い。
俺はイヤホンを耳に装着しスマホを手に取り、佑太は持参のゲーム機のスイッチを入れ、相馬は持ち込んだ電気ポットで人数分のインスタントコーヒーを淹れ、鮎川はバスケットボールの月刊誌を広げている。まさに常態化した光景だ。
しかし、その平穏を慎ましく破る音が室内に反響した。イヤホンをしていた俺が一呼吸遅れで反応した時には、すでに全員が同じ方向を見つめていた。そう、音の発生源である部室のドアだ。
部員はここにいる四人だけ。これまで顧問の河田が顔を出したためしなんてない。
すでに過不足なく集合しているにも関わらず、誰かが、しかもノックなんて礼儀正しい手順を踏んで訪ねてきたのだ。そんなこと、この三か月間一度だってない。まさかの入部希望者?いや活動自体眉唾な地味で存在感のないこの部に限って、途中入部しようなんて酔狂が校内にいるとは到底思えない。
なにか後ろ暗いことが無いにもかかわらず、背中の内側に冷たい雫が下る。悪いことはしていないが、いいこともしていない。活動費と称して下賜されている部費に対する諫言だろうか。それを言われれば弁解の余地もない。ほんの数枚の紙幣は、今週末の天体観測と銘打った宴の資金として変換される予定だ。
全員の頭脳が同様の杞憂を往来しているのがわかった。誰もが押し黙り、入室の許諾を発しない。すると、さらに追い打ちを掛けるように再度ドアを打つ音が三つ鳴った。
「柊です。A組に転校してきた柊夏音。ここ、天文学部の部室でしょう。開けていただける?」
丁寧な口調が薄いドア越しに依頼する。あのカナリヤみたいに澄んだ声の主がドアの向こうに立つという異例の事態に、誰もが唖然とした。
俺は隣の佑太、対面の鮎川、後方の相馬と顔を合わせ、頷き合うと席を立った。安普請のドアノブに手を掛けると、深呼吸してゆっくりと引く。
そこには間違いなく予想通り予想もしない人物が、確固たる意志をもって訪問する姿があった。慌てるというよりは呆気にとられ、本人を目の当たりにしているにもかかわらず狐につままれたような気分で立ち尽くす。
美しい黒髪に人形のように整った相貌。およそ場末の零小部の小汚い部室には似つかわしくない存在感に、にわかに羞恥心すら湧きあがる。
「・・・柊さん、何か、用?」
上擦りそうになる声音をどうにか立て直すが、視線はおそらく宙を泳いでいたのだろう。そのときの夏音の表情がまったく思い出せない。あの相馬ですら鳩が豆鉄砲状態で手にポットを持ったまま成り行きを見守っている。
「もちろん用があるからきたの。入部希望と、それから橘くん、あなたと少し話がしたい」
豆鉄砲どころがバズーカ砲の直撃を受けたがごとく意識が天空まで吹っ飛ぶ。
なんだ、俺の日本語の解釈が正しければ、入部したくて、しかもご指名で話がしたい?これはいったい何のどっきりだ。
「・・・冗談?」
慎重に確認する。どこをどうひっくり返しても何一つ心当たりがない。
しかし、彼女がわざわざここまで足を運んで冗談を言う理由も同じくらい見当たらない。
困惑を通り越して驚愕の様相を湛えた俺に対し、夏音は魂魄が抜けそうなほど魅惑的な微笑を浮かべた。
「冗談なんかじゃないわ。橘くん、私、あなたにすごく興味がある」
青天の霹靂とは今この瞬間以外にいつを指すのかと断じられるほど、そして朝から燻ぶっていた第六感の正体はここにあったのかと、答え合わせできた快感よりも震慄で体が震えた。
転校生の絶世の美少女に好意を寄せられるという青春映画さながらの急展開に、前頭葉が眩暈を起こしたようだ。急激に意識レベルの低下を感じる。
別に自分を過信も過小評価もするわけじゃない。身長は標準より高い方だし、勉強も運動も中の上か上の下くらい。顔は人それぞれ好みも拘りもあるだろうから明言は避けるが、性格もまあ人並みに気遣いも男気もあるほうだろう。バレンタインも本命として何度かチョコレートを拝受したことはあるし、誰それが気があるらしい、と言う噂を耳にしたことがないこともない。が、その程度だ。誰がどう見ても超一軍で一流の、しかも家柄も上流に違いない高嶺の花に好意を寄せられるような謂れはない。大体今日初めて会って、一言二言会話しただけだ。
「柊さん、誰かと勘違いしてない?」
努めて慎重に確認する。ようやく出た返答が情けなくもそれだった。勘違い、いまならそう言い直されてもダメージは小さい。己の身の程は己が一番よくわかっている。
「そうだよ、秋空とどこかで会ったことでもあるの?」
佑太がやっと目が覚めたとでも言うように椅子に座ったまま体を斜めに向けた。いつもよりオクターブは高いテノールが動揺を如実に表している。
「まあ、立ち話もなんだから、座ってもらったら」
いち早く平静を取り戻した相馬が、五つ目の紙コップを準備して安物のティーパックを浮かべた。
待て待て、そんなことをしたら俺たちの平穏な日常が乱れるではないか。
毎週ごとの集いも、月一の観測会とは名ばかりの屋上パーティも、今後の開催すら危ぶまれる事態に陥りかねない。
俺の含蓄の眼差しを軽く受け流し、相馬は椅子を引いた。あくまで来訪の真相を解明したいのだろう。めんどくさい好奇心に灯をともしてしまった相馬は、物腰は柔らかくともなかなかにしつこい。
「ありがとう」
我が意を得たりとばかり、俺に意味深な視線をよこして夏音は部室に足を踏み入れた。隣を通り過ぎる一瞬に、ふわりと甘い香りが鼻孔を撫で、思わずどきりとしたが顔には出さない。
いったい何を考えてるんだ?真意を計れない美少女の闖入に、部室は一気に雰囲気を一変させた。
たゆんだ糸が四方八方から万力で引き延ばされたように張り詰める。鮎川が気を利かせたのか席を立ち、俺の対面に夏音が座る形になった。相馬が入れたての紅茶のコップを差し出し、一応クーラーの利いた部屋で熱い液体に息を吹きかけながら、夏音は上目遣いに俺を見た。
「それで、話って?」
一口紅茶を啜った頃合いを見計らって訊ねた。どうにも尻が落ち着かない。
「まずは改めて自己紹介をするわね」
夏音は大きな瞳を少し細めて柔和な笑みを浮かべた。それだけで卒倒する輩も続出しそうなほどに破壊的な笑顔だった。現に佑太はすっかり惚けて鼻の下から口から下あごまで顔の半分が伸び切っている。硬派な鮎川でさえやや頬が赤い。
「柊夏音。ふたご座、B型。身長百六十センチ、両親健在、一人っ子。趣味は読書とお菓子作り。聖ヨゼフから転入、転校理由は内緒。彼氏なし、もちろん今までも付き合った人はいないわ」
いったん話を切って、また紅茶のカップに口をつける。なんてことの無い紙コップすら瀟洒なブランド品に見えてくる。
「天文学部に興味を持ったのは、特に星が好きなわけじゃないわ。むしろ夜は苦手なの。私が興味を持ったのは、橘くん、あなたよ」
てらいもなく真っ直ぐに本題を撃ち抜いて、またも昇天しそうな笑みを投げかける。
「そういわれても・・・なんで?会ったばっかだし、よく知りもしないだろ」
少しずつ冷静さが戻ってくる。確かに夏音はとんでもない美少女だとは思うが、いまいち実感と言うか実際感がない。まるでスクリーンを通して見ている他人事みたいに現実とは思えない。
夏音が美しすぎるせいなのか、はたまた俺が鈍感すぎるのか、推量するにも視準も定まらず手ごたえすら掴めない。
「理由なんて些末な事よ。あなたが私にとって他の人とはちょっと違って見えた。ただそれだけ。でもそんな人めったといないわ。だから興味を持った。もっと言えば、好意に近いかしら」
おしとやかそうに見えて語調には一寸のためらいも恥じらいもない。やけに肝が据わっている上に、なんとも形容しがたい説得力があった。まあ恋愛なんて結局そんなものなのかも知れない。どうしてあの二人が!なんて思うようなカップルは世の中ごまんといる。
「いや、でも俺はとりたてて興味を持ってはいないし、いや、そりゃあ綺麗だとは思うけど・・・」
要領を得ない返事をにこやかに受け止める姿が菩薩のように見える。何だか仏の手の上で懐柔される孫悟空の気分だ。
「秋空っ!何言ってんだよ!柊さんがこうまで言ってくれてるのになんて勿体ないことを!」
俺以上に情操を掻き立てられたらしい佑太が気色ばんで口出しする。
勿体ないかどうかは別として、流されることだけはしたくない。綺麗だと思うことと、好意とはまた別次元の話だ。
「どうして夜が苦手なんだ?」
一番当たり障りの無さそうなフレーズを抜き出して訊ねる。好きだの何だのをこの面子の中でこね回して平然としていられるほど俺のメンタルにその手の耐性はない。
夏音ははじめてほんの少し驚いたように目を大きくした。そこを掘り下げられるなんて夢にも思わなかっただろう。男子連中も同感だったようで、何ともしらけたムードが漂う。悪かったな、空気が読めなくて。
「・・・やっぱり、橘くんは面白いわ」
夏音はやや顎を引き、ひっそりと囁いた。声が艶っぽく色めく。美人は何をしても絵になる。
「そのこたえは、これから私を知ってもらううちに話すわ」
夏音は立ち上がった。引き寄せられるように、全員の視線が追随する。まるでスポットライトを背負った女優みたいだ。
「とりあえず、今日一緒に帰らない?」
放課後。七月の太陽は午後六時ではお情け程度にしか翳りを見せない。西に傾きつつも燦然と熱波を放射する陽射しを背景に、夏音は文字通り後光がさして見えた。
相馬が回さなくてもいい気を回して、椅子の下に無造作に投げ出されていた俺の学生鞄を拾い上げ、押し付けるように手渡した。見渡すと、佑太も鮎川もすでに共犯の顔で俺に退室を促がす鋭い光線を送っている。もはやこの場に俺の居場所はないようだ。
やれやれと肩で息をつき、鞄を左手に持ち替えてドアに向かった。そのすぐ後ろから夏音が付いてくる足音がする。どうにも思惑通りに誘導されているような状況を不本意に感じつつ、しかしあの時ドアを開けた時点から、すでに夏音の術中にはまっていたのではないかという疑念が脳内を占拠していた。
背中で安っぽい音を立ててドアが閉まり、その直後、部室からは歓声とも嬌声とも取れる奇声が轟き、空前絶後の盛り上がりを呈していたことは、言うまでもない。
「家どっち?送るよ」
なし崩し的に一緒に下校することとなったが、すでに下校時間を大幅に過ぎているため生徒の姿はまばらだ。同じクラスの面々の好奇の視線にさらされないだけでもセーフだったが、人の口に戸は立てられない。きっと明日には誰彼ともなく風聞が広がるだろう。今晩電話で釘を刺すつもりだが、相馬や鮎川はともかく、佑太の紙風船みたいな口は断然信用できない。。先の徒労を鑑み、いくらか憂鬱な思いでため息をついた。
「ごめんなさい。ちょっと強引過ぎたわよね」
思いがけず殊勝な声が聞こえて、はっとして顔を上げた。ため息なんて、本人の前でつくものじゃない。そんな気遣いすらできなかったことに無性に恥じ入る気持ちが湧いた。どんな理由であれ、いい気はしないだろう。
「ごめん、一緒に帰るのが嫌とかじゃなくて、その、ちょっと人目が気になって、いや、ちっちゃいよな、俺」
言いながら、本当に自分の短慮と小心に嫌気がさしてくる。別に悪いことをしているわけじゃない。無理やり連れだしたわけでもないし、校則だって破っていない。堂々としていればいいのだ。
「橘くんはやっぱり優しいわ」
夏音は少し影のある微笑を見せた。それがまた薄幸の美少女のようでくらっとする。
「別に、普通だろ」
俺は平常心を石柱に緊縛する思いで返した。しかし地盤からぐらぐら揺れては意味がない。
夏音は無言で校門を出て東へ足を向けた。自分の家とは逆方向だったが、送ると言った手前黙って追従する。こういう場合は隣に並ぶべきなのか、自問しつつもその一歩が踏み出せず、仕方なく半歩ほど遅れて斜め外側を歩いた。真後ろだとストーキングっぽい絵面になりそうで気が引けた。ギリギリ一緒に下校している風に見える距離だ。
「聞いていい?」
肩越しに振り返った夏音が訊ねる。俺は頷いた。まさかこの段階で拒否は出来ない。
「橘くんは、私のことどう思う?」
「どうって・・・」
またも直球だ。ボールとか敬遠とかいう球種を持ち合わせていないのか、やはり見た目とは裏腹に豪気というか大胆と言うか、もしくは自尊心が強いのかもしれない。きっと今まで玉砕したことなどないのだろう。
「さっきも言ったけど、綺麗だと思うぜ。すごく」
俺も腹をくくって打ち明けた。それは本心だ。
夏音はそっと笑って小さく「ありがと」と付け足した。
「でも、好きになってはくれないの?」
またもやの剛速球にスイングすらできず見逃しのツーアウトだ。いったいなんだってこんな展開になっているのか。これはなんだ、モテているのか。それともからかわれているのか、自制心が判断能力を搾取されて悲鳴を上げている。
夏音は舞うように身を翻すと急についと一歩前に出た。そして次の瞬間には目の前に銀河の輝きを宿す黒曜の世界が広がる。俺は棒立ちのまま固まった。背伸びをした夏音が俺の目をじっと覗き込んでいる。それもごくごく近距離で。すぐ後ろを歩いている奴らから見たら、往来の真ん中でキスでもしているように見えたに違いない。
「橘くんのこと、教えて」
夏音は踵を地面に戻すと、なに事もなかったかのように前を向いた。相反して俺の心臓は激流のごとく血液を圧出し続けている。初心(うぶ)なハートを翻弄するのはお手の物といったところか。
「俺のことって言っても・・・」
語るほどのこともない。ごくありふれた普通の人生で単調な高校生活だ。悲愴な過去も劇的な運命も持ち合わせていない。トラウマの一つでもあればよかったか?こういう時の為に。
「じゃあ、私が聞くね」
夏音は口角を持ち上げて少し悪戯っぽく微笑んだ。余裕たっぷりといった風情だ。
「誕生日は?」
「十一月」
「血液型は?」
「O型」
「身長は?」
「百七十五」
「兄弟は?」
「妹が一人」
「趣味は?」
「音楽と映画鑑賞」
「彼女は?」
「いない」
「好きなタイプは?」
「・・・・・・」
黙り込んだ俺の目の前で、夏音はまた振り返って立ち止った。
「なかなか強敵ね」
満ち足りたような優艶な声音が残照に溶ける。ほんとにいったいこの奇想天外な状況はなんなんだ。全力で全霊で明解な取説の譲渡を所望する。明らかに関心を持たれているとは思うが、いかんせん前触れも取り留めもなさすぎる。過去を振り返れば、恋愛という恋愛なんてとんとご無沙汰、と言えば、見栄を張り過ぎているほどだ。
中学時代にはそれなりに好きな子もいたし付き合ったりもしたことはした。しかし形ばかりが先行して心がついて行っていたかと言えばそうでもない。夜も眠れないとか別れてすぐに会いたくなるとか、他の男子としゃべっているだけで胸を掻き毟りたくなるとか誕生日には身を粉にしてサプライズをするとか、そんな情熱的な恋なんて一度だって経験はない。つまるところ、これは世間一般で言うなら高校デビューとなるのだろう。
しかしだ、目の前の美少女は魅力的には違いないが、やはり好きとは違う。よく付き合ってから好きになるとかいうが、じゃあ好きになるまではどうすればいいんだ。我慢して手を繋いだりデートしたりするのか。
煩悶する俺の目を見て、夏音は興味深そうに反応を窺っている。さすがに気づまりだし申し訳ないような気にもなってきて、俺はいったん思索を中断して口を開いた。
「夜、何で嫌いなんだ?」
夏音の黒目の奥がしんと深さを増したように見えた。こんなにも美しい夜空のような瞳をしているのに、と素直に疑問に思う。
「だって、夜は幽霊が出るでしょう」
「幽霊?」
「そう、真っ白で不気味な」
「ぷっ・・・」
思いがけない告白に思わず吹き出してしまった。真剣な顔で、先ほどまであれほど強気で流暢に私心を綴っていた口から出た以外にも幼気(いたいけ)な理由に親近感すら湧く。はじめて夏音を少しだけ身近な、生身の人間として感じられた気がした。
「笑うなんて・・・本気なのに」
白い頬が憮然と紅潮してそっぽを向く。いや、それはちょっと可愛いかもしれない。
肩の力が抜け、止めようすればするほど笑いの虫は勢力を増して喉の奥をくすぐった。
「いや、いいね、そういうの・・・そっちの方がずっといいよ」
途切れ途切れに感想を零すと、夏音がふと俺の腕に自分の腕を絡ませた。ぎょっとして呼吸が止まる。
「秋空くんって呼んでいい?」
「へ?」
「私のことも夏音って呼んで」
「いや、それはちょっと・・・」
夏音はますます絡めていた腕を巻き付け、ぐいぐいと自分に引き寄せてくる。細い腕に似合わず、思いのほか力強い。
「彼女にしてって言ってるわけじゃないの、ただ、ちょっと特別になりたいの。ダメ?」
上目遣いに懇願されて、ダメと言える奴がいたらそれはもう男じゃない。
ほんの間近で掴み取れそうな宇宙を覗き込みながら、俺は導かれるように頷いていた。
かくして、友達以上恋人未満の関係が一夕にして始まった。昨夜の電話で佑太に打ち明けた時の驚きたるや、明日世界が滅亡すると言ってもこうはさてありなんという驚嘆っぷりだったし、当然のことながらその夜のうちに相馬と鮎川の知るところとなった。
転校生の美少女が一日のうちに準彼女たるポストに就任したのだ。天変地異ともいえる地殻変動にどこから広まったのか教室中が鳴動を繰り返していた。
大体からしてこういうときの詰問は格下、ようは俺の方に向く。一日にして不倫報道のインタビュアーに詰られる加害者扱い然となった俺は、蒼天を憎々しく見上げるほどに心が鬱積していた。騙してもいなければ脅してもいない、どんな陳述も半数は半分も信用していないようだった。
もう面倒だし好きに解釈してくれたらいい。放課後には悟りの境地に到達し、俺は禅僧のように瞑想に耽って外界の雑音を軒並み遮断した。
「モテる男は大変だねー」
諸悪の根源と思しき佑太が軽薄に労って肩を抱く。明らかにすっかすかの同情心に心底うんざりするが、もはや憎しみすら諦念の彼方に放逐している。俺はただ力なく肩に掛かった手を払い除けた。
「いや、ごめんって、怒るなよ。ていうか、なにも悪いことないじゃん、こんなにかわいい彼女が出来て、俺が言わなくったってすぐに広まることだしさ」
悪びれもせずに言うと、佑太はそそくさと帰り支度を整えて教室を出て行く。今日はバイトの日だろう。
俺はのろのろと椅子から立ち上がった。教室には三分の一くらいの生徒が同じように惰性で残ったり待ち合わせをしたり昼間の話題はすでに忘れ去ったみたいにそれぞれの帰途に付こうとしている。人の噂なんてそんなものだ。おそらく一週間後には忙しなく新旧交替し続ける時事ネタに埋没して重宝される話題でもなくなるのだろう。七十五日など待つべくもなく。
俺が立ち上がるのと同時に隣の席の椅子が引かれる音がする。人影が近づいて肩近くにぴったりと寄り添った。
「秋空くん、帰りにお茶しない?」
聞き耳を立てずとも教室中の邪気を濾過しそうに降り注がれる可憐な声。どこからともなく羨望ともひやかしとも祝福ともとれるざわめきが沸き上がる。俺はたまらなくなって夏音の腕を掴むと、ライスシャワーみたいに浴びせられる声援の雨あられの中を搔いくぐるように校門を後にした。
「ちょっと、まじで勘弁して」
走ってもいないのに肩で荒く息をつきながら俺は両手を膝について立ち止った。疲労感が半端ない。もちろん精神衛生上の。
「彼女じゃないんだからさ」
もはやオブラートに包む余裕すらなく、無情に言い捨てる。こんな神経の摩耗が蓄積すれば間違いなく寿命を縮める。俺にはやはりハードルの高すぎる難題だったのだ。
「誰にも彼女になったなんて言ってないわ。それに、いつか本当になるかもだし」
面の皮が厚いのか、のうのうと言ってのける。ほとんどふてぶてしいとも言えるが、天使みたいな美少女が口にすると、はたからはくすぐったい睦言くらいにしか聞こえない。
「心臓に悪いって・・・」
なんとか体を起こすと、驚くほど近くに夏音がいた。サラサラの黒髪が腕に触れる。物理的にも、精神的にもさわりと情動が疼く。
「仕方ないわ。私は秋空くんに興味があるんだから」
超絶美少女の殺し文句に飽きもせず打ちのめされて、俺はますます疲労困憊の憂き目でうな垂れた。
「そうそう、天文学部、正式に入部したわ。水曜日、楽しみね」
さらなる追い打ちに重りを追加された滑車の如く懊悩は急速に降下の一途を辿る。それと反比例するように浮き上がっていくのは夏音の清澄な声音だけだ。
「門限があるから七時までしかいられないけど、帰りは送ってくれるわよね」
彼女じゃないのにどうにも断ることが出来ず、俺は声もなく放心したまま頷いた。
翌金曜日、今日は毎月恒例の屋上パーティ、もとい、天体観測の日だ。一応活動報告として虚偽の観測内容をしたためたレポートの提出はするが、一度だってその場に望遠鏡の一台とて鎮座した日はない。
レポートは相馬が前もって既製品を引用し、それらしくコピーして作成したものだ。真面目に星空と向かい合って天体談義する高尚さなんてあるわけがない。そもそもの部の存続理由自体が不純から始まっているのだ。
金曜日の放課後、夜の打ち合わせを兼ねて短いミーティングをする。部室はいつだって使えるので、集まれるメンバーだけで集まり、来なければラインなりなんなりで連絡すればいいだけだが珍しく欠席者はいなかった(というよりは相馬にデートの予定がなかったようだ)。事前に取り決めたように菓子系は鮎川、俺と佑太が飲み物、相馬はレポート係なのでいつも役目は返上だ。時折家にあったという高級そうな菓子を持参してくれたりする。
しかし、今日はいつもと違うメンバーも顔を並べていた。言わずもがな、夏音だ。
俺にくっついて部室まで参上し、優雅に相馬お手製の紅茶を啜っている。まあ確かに入部したのだからその資格は当然あるのだが、今まで男だけの気軽さと適当さに馴染んでいただけに紅一点混ざるだけで常とは違う緊張感がみなぎる。それがけた外れの美少女とあってはなおさらだ。
「柊さんも観測会には参加する?」
相変わらずオクターブ高い声を躍らせて佑太が落ち着き無さそうに椅子を揺らず。本当に分かりやすい奴だ。
「門限があるから、夜は出られないの。残念だわ」
夏音の返答にどこか安心している自分がいて、狼狽えた。
別に邪険に思っているわけではないが、男同士の集まりには首を突っ込んで欲しくないという漠然とした拒絶心があった。子供じみていると自粛しつつも、やはり照れ臭くもこの四人での集いはかけがえのない時間だと感じている自分がいる。
「いやいや、そうだよね、女の子だし」
大げさに顔の前で手を振りながら、佑太がちょっと残念そうに取りなした。たぶん佑太みたいな奴と付き合ったら幸せなんだろうな、と何気なく分析する。正直で一本気で、情が深い。単純で口が軽いのが玉にキズだが。
「柊さんは、徒歩通学なの?」
相馬が突然妙な質問をした。まだ二回だが夏音を送っている。門前までではなく途中までだが、当然徒歩圏内だ。
「北町なの」
さらりと告げた町名が、徒歩では二時間はゆうに掛かりそうな地名で呆気にとられて開いた口を閉じ忘れた。せいぜい送ったのは学校から十五分程度の距離までだ。
「だよね。ヨゼフは北町だし」
相馬がそよ風みたいに自然に受け止める。どういうことだ、夏音は俺と別れた後徒歩二時間の道のりを一人で歩いて帰っているのか。それじゃあ帰宅はいったい何時になるんだ。いや、朝は何時に登校するんだ。
俺がぐるぐると疑問を周遊させているのを可笑しそうに眺めて、夏音は頬を緩めた。
「黙っててごめんなさい。少しでも一緒に帰りたかったから。途中から迎えに来てもらっているの。だから心配しないで」
つまり送迎付きの登下校というわけだ。ますますこんな無名の公立校へ転校してきた理由が分からなくなる。内緒、てまさか言うに言われぬ問題でも起こしたわけではないだろうな。
訝しむ俺の葛藤を治めるように夏音が細い指先を絡ませた。鮎川が目のやり場に困ったといった具合に腰を浮かして意味不明のストレッチを始める。佑太はひゅうと口笛をならし、相馬はにこやかに微笑んだ。
「日曜日、デートしない?」
目測五センチの距離で、夏音の瞳が瞬いた。
午後八時、濃紺の空に半月が煌々と白光を降らし、変わりばえなくスナック菓子とジュースと男子四人の顔ぶれが殺風景な屋上に出揃った。
吹き過ぎる風はゆるくて温く、人気のない校舎は音という音が反響しそうなほどに神聖に静まり返っている。これこそ天文学部に在籍する醍醐味と言うものだ。照明すらない四角のコンクリート空間を、くっきりと近い距離で煌めく月明りが十分な光源を放って照らし出していた。
「晴れて良かったなー」
コーラのペットボトルの蓋を捻りながら、佑太が空を見上げる。天候に感謝する余興程度には星空を見上げるようだ。
「なんかニュースねえの?秋空以外で」
鮎川がポテチを三枚重ねで口に放り込んだ。一人別クラスの鮎川は、定型句のように毎度冒頭に口上を投じる。今夜は余計な修飾がぶら下がっているが。
「そういえば、体育の古賀、結婚するんだと」
佑太が満を持して最新情報を放り込む。ゴリラみたいな体育教師の古賀は、年中半袖短パンで女子のみならず男子にも煙たがられていたが、よもや結婚とは、と一足飛びの祝砲にたいした信望がないにもかかわらず祝辞を述べたい気分になる。暑苦しいが、けして悪い奴ではない。
「古賀と結婚するとはどんな類人猿だ」
鮎川が合いの手を入れ、半透明の夜空を揺らすような笑いが巻き起こった。
「そういえばバイト先にさ・・・」
「B組の山内と板見、別れたらしいよ」
「マックの近くのゲーセン、改装するって」
各々口々に仕入れた情報やら話題を惜しみなく披露する。中にはちょっときわどい内容もあったりして、やはり男同士の気安さというのは何にも代えがたい有意義かつ濃密な時間だ。
普段の校内でも憚りなく話しているようでいて、やはり夜の、閉塞的で独占的な空間での親密感、その浸透力は普遍の昼日中の比ではない。破らないでおこうと一枚決意をもって打ちたてた頑強な塀さえも軽々と捲ってしまう魔力すらある。
「俺さ、ちょっと柊さんいいなと思ってたけど、秋空なら気持ちよく譲るわ」
佑太が脈絡もなくコーラのげっぷとともに宣言する。譲るも何もお前のものでもまして俺のものになったわけでもない。
「彼女が転校してきた理由、ちょっと見当つくんだよね。密告みたいで気が引けるけど」
相馬までもがアイスバーンに足を取られたスノーボーダーみたいに口を滑らせる。
「なんだよ、全部吐いて楽になれよ」
口振りは冗談めいて、しかし目はしっかり本気の鮎川が促す。たぶん今夜でなければ、明日の朝ではけして誰も口外しないことだ。この夜の魔法の時間だけが自戒と良識を解き放って本音を自由自在に羽ばたかせる。
「でさ、秋空はどう思ってるの?柊さんのこと」
鮎川の重厚なバリトンが体中を駆け巡り、出口を求めて渋滞した。
どうと聞かれても、二日前に会ったばかりだ。しかしそれにも関わらず、どうにも根深く夏音という存在が生活の一部分に侵入してきている気はする。不快ではないが、落ち着くわけでもない。まだまだ未知数だ。
「俺のことはいいだろ。相馬、転校の理由、聞かせろよ」
ねちっこい視線を薙ぎ払うように言い置いてコーラを傾ける。少し温くなった炭酸が喉に纏わりつくように発酵してゆっくり流れ落ちていく。
相馬は陽だまりみたいに温容な笑顔を崩さず、敷物の上で伸ばしていた膝を片方立てて両腕を絡めた。星空をバックにシャッターを連射たくなる構図だ。
「聖ヨゼフでの事件、知ってる?」
相馬の問い掛けに三人とも首を傾げた。言わずと知れたお嬢様校だ。淑女の巣窟であり、下世話な不祥事など蚊帳の外の珍事であるに違いない。その校内で、事件?いったいどんなことが?疑問は興味と期待をない交ぜにして発展し、俺たちの心を一つにした。
相馬の家は資産家で情報通だ。ちまたには出回らないネタにも精通している。いつもは聡明で軽々しく漏洩しない相馬も、やはりこの会合の前では雄弁だった。酒を飲んだわけでもないのに、我先に希少記事を暴露したいような衝動に憑りつかれてしまうのだろう。
「五月の連休明け、ヨゼフの二人の女生徒が行方不明になったんだ。何の問題も、変容も見られなかったごく普通の女の子たちだ」
相馬の語り口調に、引き寄せられるように前のめりに入り込む。緩急つけた話術は眉目秀麗な顔立ちと相まって、絶妙な真実味を帯びて心を掴んだ。
「一人は生きて、一人は死体で見つかった。死体の心臓にはナイフが突き刺さっていた、そして、生きて見つかったもう一人は、真っ白だった」
「真っ白・・・?」
意味がわからず声を揃えて反芻する。なんだ、ミステリーじゃなく怪談か?
「言葉通りだよ。聞いただけだけどね。見た目も、中身も、全部真っ白になってたんだ。そして、柊さんは同じクラスで、その直後彼女は転校した」
頭の中がそれこそ真っ白になった。背筋はうすら寒く氷結し、真夏の外気のなか総毛だつ。夏音が関わっているか否かは別にして、ひやりと悍ましい衝動が押し寄せた。
そして、そんなことがあったにも関わらず、おくびにも出さず平然と振る舞う夏音に少しばかりの違和感を覚えた。もちろん軽率に話題にすべきことではない。しかし、転校したという事は、何らかの関わりがあったのではないか、と考えるのは早計だろうか。
漂流する憶測の旅程を読み取ったように、相馬が申し訳なさそうな笑みを浮かべ注釈を加えた。
「たぶん、変な事件が起こった学校にいたくなかっただけだと思うよ。柊さんの家は古くからの名家だしね」
「まあ、だよな」
まるっきり感情の籠らない共感を示して、俺は空を見上げた。
地上から跳ね返る光源の無い夜空には、大小の見分けがつく程度の疎らな星々が、華麗な銀色(ぎんしょく)を纏って明滅していた。
十時を待たずして何となく気まずくなった集いは解散となり、途中まで方向が同じ鮎川と、佑太・相馬ペアに分かれて家路に着いた。
真面目な鮎川は相馬の話が尾を引いているらしく、物憂げな面持ちで押し黙っている。
俺にしたってまだ彼女という訳でもなく、出会って数日の女友達くらいの相手のことで中学時代からの友人に心労を与えたくはない。無言のまま黙々と歩を進める道すがら、気のきいた話題も浮かばず暗澹とため息をついた。
「鮎川、そんなに気にするなよ」
中学生時代バスケットボール部の主将を務めた屈強な長身が頼りなく揺れる。いたって硬派ではあるが同時に潔癖でナイーブでもある。そのせいで、中三の県大会初戦で敗れた無念を引きずりすっぱりバスケとは決別してしまった。
思い返してもあれはいかんせんくじ運も無かったと思う。相手は全中出場常連の強豪だった。万年地区大会予選落ちの弱小校だった我が母校のバスケ部が何十年かぶりに県大会まで駒を進めたのはそれだけでも輝かしい功績だ。ひとえに主将を担った鮎川の統率力と指導力、情熱の賜物で、たとえトリプルスコアの惜敗だったとしても恥ずべきことではなかったはずだ。
それでも鮎川にしたら痛恨の極みだったのだろう。あの日の夜は、珍しく荒れてやさぐれた鮎川を囲んで一晩中飲み明かしたな。コーラを。
その回顧録を皮切りに、人肌の夜気に沁み出すように次々と懐かしいエピソードが思い出されてくる。小学校から一緒の佑太、クラスは変われど大抵いつも行動を共にしていた。
そして恒例行事みたいに年一で失恋するあいつに付き合って、振られた日には決まって海に出向いて「バカヤロー」と叫び倒した。中学になって相馬と鮎川も加わり、もはや月末の風物詩みたいにそれは今も続いている。いい加減学習しろと言いたいが。
完全無欠に見える相馬にも忘れられない思い出がある。あれは中二の修学旅行。それまで皆勤賞だった相馬が季節外れのインフルエンザで旅行に参加できなくなった。無双もウイルスには勝てなかったらしい。俺たちは迷わず全員修学旅行をボイコットした。今となっては何の意味もない連帯感だが、まるでそれが義理立てとでも乳兄弟の契りだとでも言わんばかりに、少しの疑念も躊躇いも無かった。
もちろん相馬はそんなことは望みもしなかったが、俺たちは旅行の日程返上で、相馬を連日見舞った。うつるとまずいからと隣室でモニター越しの対面だったが、それでも登校可能の免状が下る日まで毎日続けた。そして復活した翌月の週末、四人で近場へ一泊旅行した。気を利かせた相馬家の資金をありがたく頂戴して、相馬家お抱えの、初対面の初老男性運転手(相模さんだったか駿河さんだったか)に引率されて。実に親切に名所案内も写真撮影もこなして往年のツアコンさながらの気遣いと手筈でアテンドしてくれたっけな。
あの日々の結束、満足、充足感は、いまも俺たちを繋ぐ枢軸であり、ともすれば回帰点で、原点だとも言える。と、まあ大袈裟に吹聴しているが、早い話が抜群に気の合う奴らが驚異的な確率で集結したってだけの手前みその青春奇譚だ。
そんなこんなが大なり小なり積み重なって、今の俺たちがいる。
感慨にふける俺を知ってか知らずか、頭一つ高いところから誠実な声がぽつりと降ってきた。
「俺さ、女子とかほんと分からないから、なんもアドバイスできないけど」
朴訥な口振りが心に染みて、懐かしい残り香のように胸の中枢に浸透する。
「柊さん、なんか、ちょっと怖いよ」
呟いた鮎川の口元が不自然に引き締まって、俺は目を逸らした。
相馬から聞いた話、鮎川の心象、そして俺の総評。
夏音は常軌を逸した美少女で、行動的で、理知的でもある。そしておそらく俺になんらかの 特別な感情を抱いている。その源泉がなんなのか、俺が感じていた違和感、もっと言えば不信感。なぜだかそれが一箇所に集約されてくような気がした。まだ、ただ気がしただけの予感に過ぎないが、俺の予感はいろんな意味で、現実に繋がる。
鮎川と別れた帰り道、等間隔に街灯の灯る街路樹の間を ぶらぶらと歩く。人っ子一人いない、金曜の夜だ。人だかりは歓楽街へと殺到しているのだろう。まだまだ宴もたけなわ、飲兵衛達にとってはほんの宵の口だ。
そう思った途端、俄然このまま家には帰りたくなくなった。元より門限や外泊にも寛容、と言うよりは杜撰な親だ。信用されているのか放任なのか、一日くらい帰らなくても意にも介さない。(妹はそうはいかないようだが)
俺は方向転換し、自宅への道のりを逆行した。行き先は決めていなかったが、さっきの屋上で見た星空が頭の隅にこびり付いていた。もう一度あの星を見られるとしたら、屋上と同列の高台、それも光源の少ない場所だ。
何故今日に限って星なんて見たくなったのか、見慣れない街並みを辿りながら頭の片隅で理屈を巻きとっていく。思い当たる節としては、ここ数日、日常を攪乱する面妖な事態に予想以上に疲弊し一種の癒しを求めていたのかもしれない。あるいは、そういったしがらみを忘我できる圏外の拠り所を探していたのかもしれないし、単なる気紛れの思い付きだっただけなのかもしれない。
歩を進めながら、しかし自然と望む場所へ足は赴いている。屋上とまではいかないが、人がいなくて静かな場所。小学生の頃遠足の舞台ともなった、小高い丘陵があるだだっ広い公園。坂を上りきると市内を一望できる開けた草地があって、芝生の野は寝転がると毛布みたいに心地よかった。
もちろん照明なんてない。夜の丘陵なんてお忍びのカップルか逃走中の犯罪者か、家出少年くらいしか足を踏み入れないだろう。あれ、結構需要があるな。
俺は彷彿と湧き上がる先客の可能性に見てみぬふりを決めて行軍を断行する。すでに向かい始めた行く手に迷うことなく強引に突き進んでいく。
誰がいたって関係ない。俺が見たいのは星空であってヒューマンドラマではないのだ。
黒々と波打つ常緑樹に囲まれた公園の入口に辿り着き、一歩足を踏み入れる。
昼間とは百八十度趣を変えた、憩いの場とは真逆の空間。太陽の元では彷徨えない森羅万象が漆黒の闇で彷徨う異世界。
まるで物語の主人公になったみたいにナレーションまで聞こえてきそうだ。マニュアル通りの人間模様が繰り広げられる場面もあり、また自分が主人公から端役に転落しそうな緊迫したシーンにも遭遇し(自意識過剰でなければ痴情のもつれからの刃情沙汰に巻き込まれる通行人Aとなるところだった。未遂で済んだが)足は順調に登頂を目指す。それにつれ、気のせいか徐々に闇が白んでいく気がした。
夜空が近づき、星明りは木々の影を克明に縁取り、梢から漏れ落ちる月光で足元も危なげない。瞳孔が開き、目が慣れてきたのだろうとは思う。
実際には、深まる夜の、ほのかな月明りの情景だ。
やがて目の前がぽっかりと開け、平たい草地に足を踏み入れた。眼下に無数に散りばめられる人工の電飾を見下ろした後、目を閉じたままおもむろに首を反らす。そして、十分に空に向かって視線を馳せられたと感じた瞬間に、瞼を開けた。
呼吸すら忘れ、ああそうか、とただ思う。見下ろす丘の袂には湖面に映り込むような煌びやかな夜景。でもこれはフェイクだ。イミテーションだ。本物は、いつだって手の届かない場所で汚れることなく普遍の輝きを損なわない。何にも妨げることのできない、超自然の神秘。星空を隠すことも塗り替えることも出来るはずはない。これは何万何億光年もの先で紡がれた違えられない約束なのだ。
細筆で掃いたような白い雲が立体的に浮かび、月光に照らされて船みたいに輝いていた。
星々は水面で無限に踊る乱反射のようだ。天空に住まう生き物のようにちらちらと、身を震わせて夜空に生気を宿し続ける。
たっぷり五分は見上げていただろうか。一息ついて顔を正面に戻した時、視界の端に白い影が映りこんだ。
瞬時に背筋がマイナス五度くらいの体感で冷えこみ、どっと冷たい汗が吹き出す。
数日前に聞いた夏音の弱音が深淵から浮上して、みっともないくらい心中でこだました。
―夜は幽霊が出るでしょう。真っ白で、不気味な
首から下が凍ったみたいに動かせず、目を閉じた。確かめることを放棄し、受け入れないことを選んだ。誰もいない、深夜の公園の丘。考えてみれば、鬱蒼と人気のないロケ―ションはいかにも死体なんかが埋まっていそうだ。
俺は下界に続く階段にカニみたいに平行移動した。素早く回れ右をする勇気もなかった。大げさな動きをしたら、予感が本物に様変わりしてしまう気がした。気のせいか見間違いのまま終わらせたい。思えば空に近づきすぎたのだ。こんな夜更けに、山になんて登るもんじゃない。生者は地を歩くものだ。努めて慎重に、着実に歩を進めた。息を詰めて、闇の中を無音のまま横滑りしていく。
階段に近づき一旦息を付いたとき、目の前にふわりと白光が広がった。視界がすっかり墨色に占拠されていた折、網膜が痙攣したみたいに焦点がばらつく。横移動の足を止め、直立不動の姿勢でしばし視力の回復を待った。瞬きを意識的に数度繰り返し、強く瞼の上下を密着させてからゆっくりと開く。
「あ・・・」
はっきりと見えた景色に、けれど言葉にはならなかった。
それを表現する語彙力が欠如していることに、受け止める度量が不足していることに、精神が立ち往生した。
「―星を見てたの?」
眼前の白い影から漆黒の闇すら溶かしそうな透明な声が聞こえた。
「・・・夏音?」
全力疾走後の第一声くらいのかすれ声が、間抜けな愚問を綴る。夏音の訳がない。こんな時間にこんな場所で、いや、それよりなにより、これが夏音のはずがない。
「僕は、夏音(ナオ)だよ」
月光みたいに真白い髪に肌、そして金色の瞳。顔は生き写しと言ってもいいが、目の前にいるのは少女じゃない。同じ容貌でも純然とした隔たりを感じる。
さらりとほどけ揺れる髪は短く、すらりとしなやかな体つきは、いかに細身といえど少年のそれだ。まるで仄白い月華の薄膜を纏っているかのように、紺藍の夜に淡く浮かび上がってすら見える姿。
突如月から舞い降りた精霊のように、ナオは清廉に微笑んだ。
二日前から続いていた予感、俺の勘はバグっているのか。それとも究極に研ぎ澄まされているのか。夏音じゃない。これだ。こいつが勘が騒いだ正体だ。一片の疑いもなく本能と全能が訴えている。
人間なのか、生きているのかすら定かでない、いまだ朧気な映像としてしか処理できない危うい存在。
しかし喋ったし聞こえた。幽霊だったら喋るか?聞こえるか?人間じゃなければ言語を使うか?しかも日本語だ。
混沌の境地で二の句を告げない俺を待ってでもいるように、ナオと名乗った少年は月の光を浴びながら動かない。まるでその白い肌が、降り注ぐ光彩を吸収しているかのようだ。
「夏音の、兄弟?」
それとも双子か?しかし夏音は一人っ子だと自己紹介していた。親戚とか何らかの血縁者、あるいは本当に他人の空似?どうにも夏音に固執しすぎる推測に、活路が見いだせず閉口する。
「夏音に聞いてみたらいいよ」
ナオはひっそりと微笑して、繊細な氷の粒子のような声をそよがせた。
夏音のことは知っているらしい。だとしたらやはり全くの他人ではない。
しかし、それ以上踏み込むのは、つまり、夏音についての話題を口にするのは無粋な気がした。ナオが本人に聞けと言った時点で、この命題には終止符が打たれている。無理に掘り起こそうとするのなら野暮でしかない。
「君は、秋空?」
白く幻みたいにぼやけていた輪郭が、ようやく線を象って現実の景色におさまり始める。
声が聞こえる。意味のある会話が出来る。これは生きている人間だ。
情けないくらい大きく嘆息し、膝に手を付いて肩を落とした。今になって心臓がビートを刻み始める。我ながら愚鈍な反応だ。
そして、ナオは俺を知っている。顔は知らなくとも、名前くらいは聞いているといった様子だ。疑問形ながらも、正答を確かめているだけのような響きがある。
「橘秋空、夏音と同じクラスで、」
言いかけて、その後の語句を飲み込む。夏音との、どの枠にもあて嵌め難い関係性を説明するボキャブラリーのストックがない。曖昧で不確かな表現をしたくないと思った。夏音の為というよりは、あまりにも清廉な存在感を醸すナオに対して。
「知ってるよ」
なにをどこまで知っていて、どう解釈しているのか。言葉少なに返すナオに、どうしてか焦燥が駆け巡った。
「お前は、ここで何してるんだ?」
幾分落ち着いたトーンで切り返して、俺は体を起こした。
なんだってこんな時間にこんな場所で、夏音の知り合いらしい夏音とうり二つの人間に出くわすのか。偶然なんてあやふやな可能性を信用できるはずがない。人為的な力か、もしくは人智を超えた力が働いている。
いったん終息した第六感が再びうなりを上げた。
「夜の世界が好きだから」
夏音とは反対のことを言う。あいつは夜が嫌いだと言った。幽霊が出るからと。
「月とか、星が好きってことか?」
天文学部にしてなんて稚拙な問い掛けかと自省するが、生臭部員にはこの程度の浅慮が関の山だ。
「そう、夜空だけが味方なんだよ」
空を見上げたナオの横顔が、月光よりも透んで見えて、一瞬で雑念が霧消し息を呑んだ。
水晶体に浸透してくる情報が唯一で正しいのだとしたら、そして心の揺動が視神経と直結しているのだとしたら、俺はたぶん、その姿に見惚れていた。
いやいやいやいや・・・その後エンドレス・・・
俺はノンケでいたってノーマルな健全男子だ。恋愛対象はあくまで女子でなんなら健康的にスタンダードなエロ本だってベッドの下で息を殺している。
あれは、あの感情はそうだ、たぶん綺麗なものを見た時の感動とか感銘とか、珍しいものに触れた時の感慨みたいなものだ。けして未知の領域に覚醒したわけではない。
月曜日、窓から差し込む朝日を鬱陶しく払いながら、俺は自席で頭を抱えてうんうん唸っていた。登校してくるクラスメイトも一番隅の末席で静かに苦悶する俺に注目も心配もする奴はいない。今日ばかりはそれが有難かった。頑なな放っておいてくれオーラが輪を掛けて姿をひた隠しにしてくれているに違いない。もっとも、理由を問われたって概略すら成り立たないから返信しようもないのだが。
しかしだ、空気を読めないというか無神経な奴と言うのは大勢いれは一人くらいは紛れているものだ。そして俺の場合は災難なことにごく身近にいた。
「どうしたよ秋空、朝から陰気だねー。なんかあった?あ、腹でも痛いの?」
破滅的に能天気なテノールが、耳障りに鼓膜を侵略する。鈍感と言うのは時に美徳で時に大悪だ。
「保健室なら付き添うよ」
爽やかボイスが頭上から降ってきて、脳内闖入者が二人に増えた。
相馬、お前は絶対わざとだろ。その人畜無害なスマイルの裏にある好奇心と言う名の害虫を俺が見破れないとでも思うか。
ひとまず無視を決め込んで頭を抱え続けた。そのうち諦めるか飽きるかするだろう。
俺はいま今後の人生をどちらに操舵するかの瀬戸際で呻吟しているのだ。思い煩うことのない暇人に構っている余裕は一秒たりともない。
しかしそこではたと思い至って、顔を上げた。気楽なおちゃらけ顔と、しかめつらしく心配顔を作り込んだ清涼感溢れる二枚目が並んでいる。立ってるものは親でも使え、使い古された格言だか慣用句だかが横切って、弱った判断力が口腔を迷走させた。
「お前さ、男に見惚れたことってある?」
ぼそりと問うと、佑太は一瞬きょとんとし、次の瞬間には盛大に笑い飛ばした。
「ばっかあるわけないじゃん、見惚れるっていうのは女に対してだろ。そりゃかっこいいな、て思う男(やつ)もいたりはするけど、見惚れたりはしねーよ。なにお前、もしかして相馬に見惚れたりするの?」
面白半分、冗談半分の爆笑に、一瞬で失言を後悔し吐息した。相馬に至ってはまんざらでもない顔つきで模範的に微笑んでいる。確かに相馬は美形だ。男から見ても間違いない。だけどそれとは違うんだよな。
俺は二人にそれぞれ一瞥をくれてやると、再び視線を机に落として凝着した。もうすぐホームルームだ。チャイムが鳴ればこいつらも糸の切れた風船みたいに離れていくだろう。
「そういえば、今日柊さん遅いね。休みかな」
空いたままの隣席を眺め、相馬が首を捻った。滑稽なくらいその一言に反応し、がばりと顔を上げる。そうだ、夏音。彼女に聞きたいことがある。そんなことすら、なんと夏音の存在すら忘れていた。隣に座っていない事に気づきもしていなかった。
「なんだ、柊さんが来てないから元気なかったのか」
とんちんかんな解釈の直後にチャイムが鳴り響き、訂正の間も無くにやけた佑太としたり顔の相馬が席に戻っていく。まあそれならそれでいいだろう。これ以上詮索されなくて済む。
陽光を浴びて所在無げに主を待つ真横の椅子を眺め、なにから質問しようか、とそればかりを考えていた。
夏音は二時限目の現国がはじまる前にやってきた。要するに遅刻だ。真面目な優等生然としたキャラかと思っていたので、普通に驚いた。しかし、当の本人は何食わぬ顔で朝一から着席していたかのような澄ました顔をしている。案外図太い。いや、わかっていたことか。こいつが見た目通りの淑やかで大人しい美少女じゃないってことは。
「秋空くん、おはよう」
例のごとく澄み渡った声と笑顔で挨拶され、まじまじとその整った顔を凝視した。
やっぱり似ている。まさにそのものだ。髪と瞳の色と性別は正反対だが、そのほかの造形は寸分の違いもない。
煌めく陽射しの中、それにも勝る輝く美貌を振り撒く姿にクラスから密やかな感嘆の声が湧く。しかし、俺の心は一ミリだって、動いたりしなかった。そればかりか、落胆すら感じていた。この夏音にときめきさえすれば、きっとあの時の感情は容貌の酷似した夏音に対する恋慕を投影しただけの、ただの誤認だったと裏付けられると思っていた。
期待は粉砕し、あろうことか対極に確立してしまった。
推察が振出しに戻り、嘆息した。夏音の視線が、訝し気に、そしてどこか疑わし気に、射貫く様に向けられている。そういえば挨拶も返していなかった。
「おはよ。遅かったな」
一応一言付け加える。夏音は満足したように天女の微笑を浮かべた。
「昨日夜更かししちゃって、起きられなかったの」
ふふっと小さく声に出して笑う。自分が寝坊したことを面白がっているようだ。
現国がはじまるまでまだ五分ほど休み時間が残っている。少し迷って、睡魔との戦いとなる五十分間をさらに煩悶まで交えて乗り越えるのは拷問に近い苦行だと悟り、口を開いた。
「・・・お前さ、ナオって知ってる?」
その名を初めて声に出し、発音した直後に思いがけず狼狽えた。あの出会いが夢でも幻でもなかったのだと改めて思い知った気分だった。
「ナオ?」
しかし夏音の反応は予想していたものとは違った。不可解な、まるで異国の単語でも聞いたみたいに怪訝な表情をして首を傾げる。
「真っ白な髪で、瞳の色は薄くて・・・」
肩透かしを食らった気持ちになってさらに言い募ろうとした時、無情にもチャイムが鳴り響き、一秒の遅れもなく現国教諭の橋谷女史がドアを開けた。
俺はその後の五十分間を、睡魔と煩悶と、戸惑いまで追加して悶々と過ごす羽目になった。
舵を取り落としたような、ルートを見失ったような、茫洋とした覚束なさに暗迷として。
現国終了の合図とともに会話を再開しようと夏音を振り向いた。
しかし、ほぼノータイムでの動作だったにもかかわらず、そこに着席していたはずの黒髪の美少女の姿は忽然と消えている。幻覚でも見た気分で両眼を擦ってみるが、そこにはやはりホームルームで見たとの同じ、主を失くした椅子が虚しく取り残されているだけだった。
慌てて入り口や廊下に視線を馳せて捜索するが、影も形もない。そればかりか通学鞄も消えていた。
ちょっと待て。どう良心的に解釈しようったって不自然だろ。遅刻して揚々と登校してきた矢先、もう下校。それも俺になにも告げず、文字通り姿を眩ませた。理由なんて火を見るより明らかだ。ナオ、その名を聞いたからだ。やっぱり無知なフリをしていただけで、夏音はナオを知っている。
俺は考えるよりも先に椅子を蹴って立ち上がり、廊下に飛び出した。何事かと佑太や相馬の声が背中から追ってくるが、一切を振り切るように猛然と昇降口に向かう。
外靴に履き替える手間すらもどかしく、はやる思いでスニーカーをつっかけると前のめりに転がりそうになりながら校門へ駆けだした。もし迎えの車とやらを呼んでいたら、どうあっても追いつけない。夏音の自宅も知らないし、会う術がない。
勢いのまま急角度で門を東へ曲がると、今度は急ブレーキをかけてつんのめりそうになる。
両足首を踏ん張ってなんとか体勢を立て直し、速度を増す脈動に急激に息が上がった。
門を通ってすぐの所に、夏音はいた。鞄を膝の前で両手を添えてきちんと持って、まるで待ち合わせでもしているかのように微笑んで。
「夏音・・・」
肩で息をつきながら、ようやくそれだけ言うと、夏音はくるりと背中を向けた。
「送ってくれるんでしょ、秋空くん。やっぱり今日はちょっと調子が悪いから、帰るわ」
すたすたと歩き始める華奢な背を追って、なにがなんだか思考が纏まらないまま俺はあとに続いた。
「調子悪いって、風邪とかか?」
顔色は平常通りに見える。足取りもしっかりしているし、どう見ても仮病ではないのか。
「寝不足で、疲れてるの」
夏音は教室での説明を繰り返す。言われてみれば、ほんのわずかに目元が気怠いように見えなくもない。
「そんなに遅くまで何してたんだ?」
歩調を合わせながら、定位置と定めた斜め後ろから艶やかな黒髪に向かって問い掛けた。
「うーん、覚えてないのよね。たまにあるの。気が付いたらベッドに寝ているんだけど、でも体も頭もずっと動いていたような感覚。開けた覚えのない窓が開いてたりとか、読みかけの本の栞が進んでたりとか」
変でしょ、と言い添えて、夏音は微笑んだ。
俺の脳内はまた別の要素を取り込んで混乱し始める。いったい何なんだ。今日は、いや昨夜から混乱しっぱなしだ。いい加減疲労困憊の貧弱な脳みそが休息を申請している。もうなんでもいいから誰かタオルを投げてくれ。ひとまずリングアウトして頭を冷やしたい。
それでも俺は往生際の悪い最後のひと匙の気力を絞り出してその名を口にした。
「ナオって名前、聞いたことあるか?」
「さっきも言ってたけど、それなに?人の名前?」
夏音は正真正銘存じないと言った顔をする。
お前にそっくりな、あの真っ白な人間に心当たりがないのか、喉元まで出かかった訴求をなんとか飲み下す。人間、というフレーズが急速に現実味を失っていく。
あれは本当に人間だったのか。俺はなにを見てなにに会ったんだ。
胡蝶の夢のごとくその輪郭が曖昧に霞む。意識がぐらつき自分の頭が偏狭したのではないかと錯覚する。
すべての手掛りを消失し、凋落したままとぼとぼと夏音の後に従った。
取っ掛かりを失ったのなら、また掴みに行けばいい。
この愚直な前向きさはどこから湧いてくるのか、俺は今夜も決意も新たに深夜の登頂を目指す気概でいた。端的に言えば、会いたいのだ。ナオに会って、確かめたい。
なにをって、何もかも全部だ。結局本人に会わなければ埒が明かない。
頼みの綱だった夏音は白旗だったし、俺は己の記憶回路の故障すら疑い始めていた。こんな苦悩を何日も持ち越すほど俺の心臓はタフではない。
時計の針を指で推し進めたい衝動を押さえ夜を待ち、十時を回ったところで家を出た。そうすれば、昨夜と同じくらいの時刻にあの公園の丘に到達する。
しっとりと潤いを孕む夜気が中空に架る月を色濃く滲ませていた。
美しい金色。ナオの瞳の色だ。そこからまんべんなく振り撒かれる光は透明度の高い白色で、穢れを払うように街を包容している。
夜に近づくにつれ、そして夜の色に身を沈めるにつれ、記憶の中のナオが鮮明になってくる。
ナオは夜の中に生きていて夜の間だけこの世界に存在する。俺はある仮説を立てていた。
非論理的だが、すべてのつじつまが合う仮説だ。その結論の行方は、ナオが人間かそうじゃないかによっても違ってくる。馬鹿々々しいと思いながらも、その一つの説を握り締め、鬱蒼と暗闇の統べる公園の頂を目指した。
ナオはいた。月を見上げ、膝を立てて草地に腰を下ろしていた。白い面差しが、月明りに透けて消えてしまいそうなほど儚く見えた。
緩い風が伝い続ける丘陵で、白い髪が神秘的に揺らめく。そしてやっぱり、綺麗だと思う。
ゆっくりと振り向いたナオが薄く微笑んだ。
「来ると思ってたよ」
俺は少しだけ顎を引いて頷き、ナオの右隣に座った。柔らかく水分を吸った草がふくらはぎをくすぐる。
「夏音に、お前のこと聞いたよ」
ナオは正面に視線を戻し、少しだけ目を伏せた。長い睫毛が目元に淡い影を落とす。
「知らないって、言ったんでしょ」
想定内の会話だったのだろう。動揺も、そればかりかどんな感情も読み取れない。俺は黙って首肯した。
夜がどんどん深まって、どんどん透明になっていく。草木は眠り、沈黙の時間がこんなにも心地いいと思えるのも不思議だった。
「秋空は、夏音が好き?」
微細な旋律がすぐ傍で耳を撫でる。その音色に無防備に聞き入りそうになって、慌てて首を振った。
「好きとか嫌いとかはわかんねえよ、と言うより、あいつがよくわかんねぇ。なんでか急に俺に興味あるって言いだして、それに会ってまだ数日しか経ってないし」
第一の仮説を胸に抱き、正直にこたえた。立てた仮説は一つだが、分岐は二つある。
最もリアリティの無い枝道をまず潰すように、俺はそっとナオの腕に手を伸ばした。触れるか触れないか、ぎりぎりのところで押し留めて、しかし確かにそこに腕はあった。擦り抜けることも消えることもない。俺は深呼吸して声もなく胸を撫でおろす。
「幽霊だと思った?」
意図を正確に読み取って、ナオは微笑した。いや、もっと正確にこたえれば、幽体じゃないかと疑っていた。オカルト少年さながらに、夏音が夜な夜な幽体離脱でもして丘に飛んできているんじゃないかなんて妄想していた。しかしさすがにそれを言い出すのは頭の螺子の緩み具合を露呈しそうで憚られた。俺にもなけなしの見栄や沽券がある。しかしこれで一つの分岐は途絶えた。残る一つは・・・さらに妄誕かもしれない。
「お前さ、もしかして・・・」
意を決して顔を向け、言い掛けた言葉があるものに目が留まった瞬間に飛び散った。
真夏のぬるい夜更け。俺は半袖ハーフパンツで夏仕様なのは言うまでもない。ナオは、昨日と同じく長袖の白い襟付(シャツ)に長いパンツスタイルだ。そのシャツの袖から、かすかに手首が覗いていた。俺は反射的にナオの左の手を掴んだ。ひんやりとした華奢な指が僅かに強張るが、抵抗することはなかった。
掴んだ手を目の前まで引いて、俺はそこを凝視した。声が震える。
「・・・これ、どうした?」
朱く爛れた白い手首が生々しく、痛々しかった。幽霊でも幽体でもない、天使や精霊でも。ナオは正真正銘、人間だ。
「火傷(やけど)」
ナオは静かに告げた。
俺はもう一つの馬鹿げた枝道を岩塊で埋め尽くした。
夏音の手にはこんな跡はなかった。深緑の夏服から伸びた細い腕は、どこまでも白く滑らかだった。あの下校後に負ったのか、たとえそうだとしても、一日でこうはならない。症状が進行し、水疱が損壊した後のように表皮が千切れて張り付いている。
「ひどいだろ、それ。ちゃんと手当しろよ」
「平気。慣れてるから」
ナオは手を引っ込めて傷をシャツの中に戻した。
「慣れてるって・・・」
掛けるべき言葉を探しあぐね、結局彫像のように押し黙った。発語したら沸き上がったある疑惑が口をついて飛び出しそうになる。
「傷を隠してるわけじゃないよ」
俺の頭の中はプロジェクターみたいに外部に投射されているのだろうか。よもや長袖のシャツの下には無数の傷があるのではないか、などと邪推が過ぎったことを言い当てられ、右往左往と心中で狼狽えた。
「肌を隠してるのは、ほんとだけどね」
ナオはさらりと言い足すと、少しだけ寂しそうに瞳だけで微笑った。
「どういう意味だよ」
「この体は太陽に嫌われてるから。陽射しに当たるとこうなるんだよ」
「え・・・」
夜の世界にしかいられない、その言葉通り、ナオは本当にいましか存在できないのか。
「陽の光を全身に浴びて、人魚姫みたいに泡になって消えられるならそれでもいいって思う。でも実際は、醜く焼け爛れて苦しむだけなんだ」
ナオは月を見上げた。薄雲の掛かりかけた歪な半月が、ナオを見つめ返すように低空に移ろっている。
「僕はここでしか生きられない」
ナオは立ち上がった。その姿を視界に刻み込むように切り取って、思う。やっぱり夏音とは違う。まったくの別人だ。
もう一つの説、それは夏音の幽体でなければ、夏音自身で、別の人格なんじゃないかというものだ。本人には記憶が無く表出される、解離性同一性障害、そう言った類のものではないかと考えていた。その手の書籍で読んだように、性別すら超えて、幾人もの人格が一つの精神の中に分裂して存在する。
しかし目の前のナオは、夏音じゃない。顔は同じでも、上手く説明がつかないが、十数年の経験値で培った勘が強烈に訴えていた。
俺は夜の丘で凛然と佇むナオに見入った。月と星に見守られ、ひっそりと息づく白い命。
月下のさやけさに溶け込むように、その静けさに取り込まれていくように。
そのとき、不意に見せてやりたいと思った。清浄な朝日も、輝く真昼の太陽も、抒情的な夕日も。
きっとこの場所は月や星々ばかりではなく、朝焼けも夕焼けも美しいに違いない。
「秋空は自分の世界へ帰って」
俺も立ち上がった。手を伸ばせば届くくらいの距離で向かい合って、ナオの眼差しを受け止める。もう会えないんじゃないか、そんな予感がした。ナオはそれを伝えるために今夜来たのではないだろうか。
「俺は明日もここへ来る。夜にしか会えないっていうんなら、そうすればいいだけだろ」
みっともなくも追いすがった。手を離してはいけないと思った。これはきっとナオの本心ではない。本心じゃないとしたら、何が理由だ?俺の為か、それとも別の誰かの為か?だとしたら、誰だ。浮かぶ顔は一つしかない。
「僕は、気持ち悪いでしょ。―幽霊みたいで」
夏音―
夜は嫌いと言った夏音、ナオなんて知らないと平然と言ってのけた。平然と、嘘をついた。あいつは知っている。それもごく近くで、密接に関連している。
屋上での、相馬の声が魍魎のように脳内を跋扈(ばっこ)する。死んだ生徒、真っ白になった生き残り、転校した夏音。そして突然俺の前に現れ、近づき、俺はナオに出会った。
何かが起こっている。それは直感だった。ナオに会うためにここへ導いた俺の勘は、間違っていない。俄かに夏音という偶像が音を立てて歪む。
「気持ち悪いわけないだろ」
これは恋愛感情じゃない。見惚れたのは本当だが、姿形にじゃない。もっと本質的で超自然的なもの。もしもこの出会いが運命的なものだというなら、きっとそうだ。愛欲や庇護欲や独占欲とは対照的で、背中合わせのもの。俺の勘は、この時の為に与えられたんだ。ヤマ勘でも霊感でも使えるものはフルに動員しようじゃないか。
俺はナオに一歩近づいた。少し戸惑ったような不安げな瞳が見上げている。ナオとしては今日を最後に手を切るつもりだったのだろうが、俺はそう易々と手綱を離すつもりはない。それなりに粘り強いのが唯一の取り柄ってものだ。
「雪みたいに真っ白な髪も、月の光みたいな金色の瞳も、全部綺麗だ」
若干トチ狂っているか悦に浸っていたのかもしれない。間違いなく真昼間には吐けなかっただろう胸やけ級の甘言に舌の付け根がむずむずしたが、後悔はなかった。
夏音と言う呪縛から解放してやりたいと思った。その火傷だってもしかしたら・・・
「―秋空、夏音に気を付けて」
俺の熱意が流れ込んだのか、ナオは声を翳らせ静かに告げた。
しかしその意味をつぶさに理解できてはいなかった。俺はまだ気付いていなかった。
夏音の、正体に。
翌日、俺は死刑宣告を待つ囚人くらい緊張していた。ナオと別れてから一睡もできず、早朝から無意味に走り込みまでして朝練の陸上部よりも早く登校した。あれだけ心奥に大風呂敷を広げておいて己が蚤の心臓っぷりに慨嘆する。
八時を過ぎ、続々と登校する生徒で教室が賑わい始めた。
「おっはよっ、秋空、今日は元気か?」
佑太の変わらぬ軽薄さが心を軽くする。俺は珍しく感謝を込めて笑顔を向けた。
「おう、絶好調だ」
「ははっ、そりゃよかった」
口にするセリフはポジティブな方がいい、と高名な野球選手が言っていた。それが潜在的な力に作用して、顕在化する。自分自身に掛ける暗示みたいなものだ。実際寝不足にも拘らず、脳細胞はギンギンに冴えていた。あと二日くらいは不眠不休でもいけそうだ。
その時、隣の席の椅子が軋んだ。瞬時に息が止まり、俺は二倍速で首を曲げる。
長い黒髪が、さらりと背中で揺れた。姿勢良く着席した夏音は、清純に微笑んだ。
「おはよう、秋空くん、前野くん」
「あ・・・お、おはよう柊さん」
もじもじしながら気色の悪い裏声で返す佑太を横目に、俺は夏音の挙動を吟味する。なに一つ変わったところはない。その表情も、仕草も、そら恐ろしいほど順当にいつもどおりだ。
昨夜ナオと会った事を知っているのだろうか。いったいなにをどこまで把握していて、ナオとはどういう関係なのか。しかし聞いたところで正直に答えるはずはない。こんなに間近にいながら、どうにも現況を打破する手立てがないことに苛立ちが募る。夏音の真意を暴き、ナオを自由にしたい、そう思うのに、革新的な手段が見つからない。
純白の笑顔の裏で、謀略を企てているかもしれないこの美少女の本性をどうやって引きずり出して止めることが出来るのか、深謀は暗礁に乗り上げる。
一時限目、世界史。ここぞとばかり懸案を作戦錬成に向けて全力で投資できる。どの科目だったら意欲的に取り組むのかと問われたら藪蛇にはなるが。
見るとはなしに教科書を広げ、取るとはなしにノートをなぞり、聞くとはなしに若作りの中年小太りのふくよかな顔面を眺める。
視界の端に黒髪の美貌をそれとなく注視しながら、黒板をぼんやり見上げた。
孫子の格言が教鞭をふるう本人の風貌に似つかわしくない達筆でしたためられている。あれはどういう意味だったか・・・
俺は机に寄りかかっていた上半身を、しならせた弓のように敏捷に起こした。反動でシャーペンが転がり落ちるが、拾い上げる手間すら煩わしい。啓発された信者のように板書に手を合わせる。そうだ、まずはそれからだ。ありがとう孫子!!
俺の無駄なオーバーリアクションを級友が気に留めることはなく、授業はつつがなく進行していく。一人躍動する興奮を抑えきれず、一刻も早い休み時間の到来を待ちわびた。
隣席からの視線が頬に突き刺さる気もしたが、もはや無視だ。無論問われても説明するつもりもない。隠し事はお互い様だ。
ふてぶてしく腹黒な美少女より、儚くて清廉な美少年を選ぶのは自明の理だろ、などと無茶苦茶な弁明を時間つぶしにあげつらいながら、のろのろ動く秒針に焦れて忙しなくシャーペンの先端を貧乏ゆすりさせた。
やがて救世主の鶴の一声のような終業の音色が響き渡り、俺はとっくに片付け終わった机に荒々しく両手を付いて立ち上がった。向かう先は最左翼、廊下側の前から二列目、学年一のイケメンにして資産家の息子、相馬の席だ。相馬は手際よくテキストたちを纏め、通学鞄を開いている。鼻歌でも聞こえてきそうなほど柔和な表情だ。俺は合戦に乗り込む切り込み隊長の如き猛進でその席に近づくと、相馬が振り返るのも待たずにずいと顔を近づけた。
さすがの相馬もいつもの余裕のスマイルの形成が間に合わず、俺の必死の形相にたじろぐ。
「・・・どうかした?」
引き攣りながらも温和にこたえた細マッチョの腕を引っ掴むと、そのまま大股で教室を出た。半ば引きずられるように付いてくる後方を気にする事もなく廊下の突き当り、階段の踊り場まで連行する。脈絡もない狼藉に、温厚な相馬もさすがに立腹やもしれないとやや火照りの落ち着いた頭を急速冷蔵して後ろを振り返った。腕を離すと、意外にも肩で息をついた相馬が微笑んでくれたのでほっとした。やはり出来ている奴はこういうときに真価を発揮する。これが佑太だったらまず不平の罵声が飛んだだろう。などと他人事みたいに推論したところで、本題に入った。休み時間は僅か十分だ。すでに一分三十秒は経過している。
「調べてほしいことがある」
前置きもなく通告した。相馬は微笑を崩さない。俺は肯定と捉えて先に進んだ。
「夏音のこと、調べてほしいんだ。出来れば出生から今までのこと。どんな些細な事でもいい」
「わかった」
一つの疑問も不満も挟まず、相馬はまるで掃除当番を代わるくらいの気軽さでこたえた。佑太だったら掃除当番の交代ですら延々と愚痴を拡散しただろう。
「なんでかとか聞かねえの?」
余りの素直さに逆に不安になってきて、自分から寝た子を起こしにかかる。こういうところが実に庶民の狭量だと痛感する。
「秋空を信じてるからね。それに、僕がけしかけたところもあるし」
屋上での暴露話のことを言っているのだろうか。しかし前半のセリフは柄にもなく胸に染みた。実に坦懐で頭が下がる。
「俺を仲間外れにするなんてひどいじゃねーか」
恨めし気な声が聞こえ、相馬の肩越しに胸中で引き合いに出してダメ出しした佑太が立っていた。
「柊さんのこと、疑ってんのか?前の学校のことで?」
俺は黙って頷いた。いずれ佑太にも話すつもりではいた。鮎川にも。味方は多いに越したことはない。なんといっても相手は得たいが知れないからな。ずっと燻ぶっていた不穏、それが明確な像を成して俺の中でリアルな会敵となって出没する。俺は自分を過信も過小評価もしないが、勘だけは十二分に珍重する。
夏音とナオは無関係じゃない。それだけは確かだ。夏音は自分が夢遊病かのような嘘をついてまでナオの存在を隠そうとした。きっと夏音の足跡(そくせき)の中に何らかの形でナオがいる。
戦に勝つには敵を知り、己を知る。サンキュー孫子、目が覚めたぜ。まずは外堀から埋めなければ。夏音の弱点が一つでもわかれば儲けものだ。
予鈴が鳴り、廊下でたむろしている生徒の群れがぞろぞろと教室内に吸い込まれていく。
人気の消えた廊下のその先で、黒髪の深緑色の影が立っているのがわかった。白い頬は微笑んでいるようにも見える。俺は目を逸らさずに直線の先の夏音を見据えた。
視線に気づいた佑太が後ろを振り返った。すると夏音はついと横を向くと、興味を失くしたように教室へ戻っていく。
「やっぱキレーだよな・・・」
うっとりと目尻を下げた佑太の呟きが空虚に漂う。
「・・・ナオの方が綺麗だよ」
我に返った時には遅かった。放たれた音源はどんな手管を弄したってもはや回収不能だ。
俺は自分の迂闊さを呪い、にやにやとほくそ笑む佑太を呪った。こいつを味方につけるには、ナオに関する情報開示と言う最も厄介な弊害を乗り越えなければならない。
その骨折りと辛酸を漬物石みたいに両肩に乗せ、フランクに微笑む相馬の笑顔に救済を求めた。
水曜日、自称天文学部の活動日だ。放課後、正式に入部した夏音が帰り支度を始めている。部室に向かうのだろうか。牽制気味に所作を監視していると、夏音の視線とぶつかった。
「初部活動ね」
しゃあしゃあと言ってのける。予期していたことなので俺は派手なため息とともに行動を共にした。夏音は俺の剣呑な態度にも少しも動じない。お前の悪事はわかっているんだぞ、と息巻きながらも、その実なにもわかっていないのでそれすら露骨に透視されていそうだ。
たしかに今の段階では夏音を糾弾できそうな材料はどこにもない。あるのは漠然とした疑惑と空論だけだ。
「秋空くん、なんだか最近上の空ね」
最近もなにも出会ったのがつい一週間前だが。俺はとりあえず黙然と歩を進める。下手にこたえて揚げ足を取られたくもない。
「他に好きな人でも出来たのかしら」
意味ありげな微笑みが魔女の幻惑のように映り、こめかみの熱が引いた。うすら寒くなるほど妖艶な微笑。初対面の男ならイチコロで虜だろう。
俺は無言で部室を目指した。そこに行けば佑太も相馬も鮎川もいる。一人じゃないと思えることがこんなにも心強いのかと改めて痛感する。そして同時に、何らかの束縛を受けているナオはずっとひとりだったのだろうかという憂慮に胸がささくれ立つ。
夏音に弱気なところを見せてはいけない。屹然と背筋を正し、足早に廊下を闊歩した。
部室の前でいったん立ちどまり、勢いをつけてドアを押す。一足先に来ていた鮎川が雑誌から顔を上げた。拍子抜けするほど変わりない、平穏な日常だ。
「お、柊さん、いらっしゃい」
鮎川は片手を上げて気さくに挨拶する。
「こんにちは」
夏音は何食わぬ顔で返礼し、椅子に腰を下ろした。佑太は掃除当番で、相馬は日直だ。しばらくはこの三人での会合となる。が、特に何も活動らしい活動はしないので、ただ漫然と時間が過ぎるのを待つだけだ。鮎川はそれっきり雑誌に意識を戻し、夏音は鞄から出した文庫本を読み始め、俺もイヤホンを装着する。
音楽に耽るふりをしながら夏音の動向に目を配った。傍目には読書に勤しむ可憐な美少女だ。定期的に頁を捲る細い指先が、けして読んでいるふりではないと証明している。
「そういえば、柊さん聖ヨゼフから来たんだよね」
最近のイヤホンは外音取り込み機能が進歩していて、話し声や外界の必要な生活音を明瞭に伝えてくれる。俺は聞こえながらも聞こえていない体(てい)で耳目を傾けた。
鮎川の問い掛けに、夏音は本から顔を上げた。そして瞳だけで頷いて、続く設問を待つ姿勢を保つ。
「転校前にあった事件、知ってる?」
知ってるも何も同じクラスの生徒のことだ。鮎川はわかっていて表情を崩さない。俺の方が動揺して動悸を押さえるのに気合がいった。さすが泰然としている。もしかしたら相馬か佑太からもう事情を聞いているのかもしれない。
「ええ。同じクラスの女子が亡くなったの」
夏音は悲愴な声調を震わせた。思いつめたように青ざめた頬に、悲し気に潤む双眸。とても演技とは思えない。俺は努めて冷静に聞こえないふりを続投する。これが擬装ならどこかに綻びが生じるはずだ。
「死因は?」
精神衰弱状態の女子に追い打ちのような無神経な追究。鮎川はやっぱり事情をすでに承知している。
「・・・わからないわ。私はすぐに転校したし、その子ともそれほど親しいわけじゃなかったから」
涙ぐむ目元をそっと拭う仕草は圧巻だ。カンヌも目じゃない、大女優も目指せるさ。
俺は脈拍が鎮まり客観的に現状を把握し始めていた。鮎川の冷静さが乗り移ったのかもしれない。
「そう。じゃあもう一人のことは知ってる?」
「もう一人?」
夏音は怪訝そうに繰り返す。まったく初耳とでも言うような素朴な顔つきをする。いったいどこまでがフィクションなんだ。
「真っ白になったって子」
「真っ白・・・?」
「見た目とか、中身、たぶん記憶とか感情とか」
夏音は俯いた。頬に掛かる髪で表情はうかがい知れない。俺は注意深くその横顔を見守った。その先で、不意に口元が僅かに、本当に一瞬だけ、薄く笑んだ。
「わからないわ。でも、それじゃあ生きてるって言えないわね。―まるで幽霊みたい」
カッと頭に血が上って沸騰したのがわかった。スマートフォンを持つ手が小刻みに震える。
落ち着け、とかろうじて灼熱の血流の侵入を逃れた頭蓋の一部が警鐘を鳴らし、神経の鎮圧を命じた。悟られてはいけない。会話を盗み聞いていたことも、ナオとの疎通も、全霊が反応したことも。
息遣いが見る間に加速するのがわかった。脳内が酸素を求めている。平静を保つための養分が欠乏している。見てはいけない、けれど俺は、夏音の顔を確認せずにはいられなかった。
欲望に敗して視線を移ろわせかけた時、能天気な発声と共に勢いよくドアが開いた。
「遅くなってわり―、掃除さぼってんの見つかって広瀬にインネンつけられてさー」
それはインネンではなく正当な説教なのでは、と突っ込そうになりながら、俺はナイスタイミングと胸中で佑太を歓待した。すっと脳幹の興奮が冷えた地面に着地する。
「その因縁を待っていたせいで日誌の提出が出来なくて参ったよ」
続いて相馬が苦笑しながら白い歯を覗かせる。ようやく全員集合だ。一人、異分子が紛れてはいるが。
「あ、柊さん、ちゃんと参加するなんて感心感心。なにか困ったことあったら遠慮なく言ってね」
佑太にしては完璧なポーカーフェイスだ。さては相馬に何か秘儀を伝授されたか。
佑太は単純だから思い込みからの習得が早い。そしてそういった特性をうまく操るのが相馬は実に上手い。
相馬がいつも通り人数分の飲み物の手配を始め、佑太は漫画を取り出した。老人ホームの娯楽室のような整合性のない平和な空間が拠出する。夏音が異議を唱えることもなくすんなり馴染んでいるのには少しばかり驚いたが、軋轢を生まない為の策略かもしれない。もうあらゆる挙動が疑念で構築されていた。
西日が差し込みはじめ、室内の光度がゆっくりと弱まっていく。相馬が蛍光灯を付けると、人工的な明かりに満たされた部室がにわかに見知らぬ場所に思えて、何かを失ったような寂寥感が立ち込めた。
夏の日暮れは嘘みたいに遅い。七時前になっても、外はまだバドミントンの羽根だって明瞭に追えるくらいに明るい。それでも一定時刻になれば明かりを灯すのは、人間のⅮNAに刻まれた太古からの習性なのだろうか。翳りを憂う、なんらかの本能の具象化。
夏音が本を閉じた。七時、本当かどうか定かでないが、門限がある為帰宅の時間だ。自動的に俺も帰る羽目になる。実質、なにも状況は変わっていないのだ。夏音を送らなければならない。互いにまだ手の内、腹の内は明かさず、素知らぬふりを通しているのだから。
もし不用意にこの均衡を崩せば、なにをするか分からない。小康状態だからこそ自由に動けるし、無謀にことを荒立てたりすれば、ナオの身が心配だ。
「そういえば、一つ思い出したわ」
鞄を引き寄せて夏音は立ち上がり、ほんのついでみたいに言い残す。
「目撃した人がいるのよ。死んだ子の傍から離れる、真っ白な幽霊を」
挑発なのか、カマを掛けているのか、それとも本当に思い出しただけなのか、しかしその告白は、想像以上に俺の心を打ちのめした。
夏音を送る道すがら、その道程をまったく覚えていないくらいに。
その日の夜、俺は凝りもせず公園の丘陵へ赴いた。
ナオに会って話をしたかった。問い詰めるつもりはないが、しかし、真っ白になった生徒、ナオと同様の容姿に変貌して植物状態になったその人物が、ナオとまったくの無関係とは思えなかった。経緯も方法も見当もつかないが、直接的なり間接的なり、なんらかの繋がりがあるのは畢竟だ。夏音も絡んでいるに違いない。
たぶん夏音に踊らされているのだろう。こちらの出方を見極めて、なにをするか、どこまで本気か、なにを知っているか、探っている。もちろんまだ何の見通しもなく、全力で本息で、まったく何も掴んでいない。
夏音の方が俄然上流にいて、下流のさらに末端の俺たちがその水流になにが流れるか、どう揺らぐかであからさまに翻弄される状態だ。だが川の先には海があると相場は決まっている。起死回生俺たちが川を呑んで大海へ打って出る可能性だってあることを忘れてはならない。
そうこう自分を鼓舞し続け足取りも勇ましく進むうちに、いつの間にか頂へ辿り着いていた。今宵の月も、満月に近づきつつあるふくよかな楕円を描き、煌々と白く輝いている。
「ナオ」
正直、今夜も会える可能性は五分五分と思っていた。昨夜の会話と、今日の夏音の態度からして、俺たちが接触しているのを知っているのは間違いない。夏音がなにか悪だくみをしているとして、俺とナオが繋がるのは望ましくないと考えているはずだ。
見つめる先で、ナオがゆっくりと向き直り、近づいてくる。手首には包帯が見えた。良かった。ちゃんと手当をしたようだ。それとも、目にした俺の心痛を慮ったのだろうか。
「もう会わないつもりだったのに」
ナオが寂しげに微笑む。青白い月光のように透明に澄み切った声が、優しく耳に触れた。
「お前も来ただろ」
目の前で立ち止ったナオの月色の瞳にこたえる。
「もう、ここへは来られない。秋空に会えるのは今夜が最後だよ」
「夏音のせいか」
もはや言葉を選ぶつもりはなかった。ナオを縛っているのは夏音のほかにあり得ない。
根拠はなくともありったけの勘がそう叫んでいる。
「夏音がいるからお前は自由になれないんだ、そうだろ。あいつが何かしてるんだ。ナオ、なにをさせられてるんだ」
冷静さを保つつもりが次第に語気が強まっていく。焦りにも似た衝動、ナオは、すべてを諦観しているように見えた。なにもかも、俺のことも。いま目の前にいるにも関わらず、煙濤に霞む最果ての彼方で遠く心を隔てているように。
「違うよ、夏音が僕を自由にしてくれる。僕は夏音の傍でしか生きられない」
悲しそうに、しかし律然と言い切って、ナオは背を向け、草地に膝を付いた。
夜の闇に萎れた野の花の群れ。その中に手を差し伸べる。蝋燭かあるいは蛍の灯にも似た燐光がナオの白い手のひらに生まれた。その光耀を浴びた、しなびた草花の群生が、息を吹き返したように首をあげ、やがてゆっくりと白い花弁を開いてく。
花が開く情景につられるように、俺の目も見開いていった。植物観察の早送り映像を見ているような、現実感のない、幻想的な光景。およそ自然界には存在しえないと思えるほどの、壮麗な白。
そしてふと思う、その花は、記憶の中で咲くその色は、濃い青色ではなかったかと。
少なくとも闇の中で浮かび上がるような淡い色彩ではなかった。
色が、失くなった。
記憶が混ぜ返される。白くなって見つかった、少女。
ナオが翳した手を弱く握り、光は消えた。白い花は、真白いままで咲き続けている。
「僕がやったんだよ」
緩い風に揺れる花びらを見つめたまま、ナオは水音(みずおと)のように囁いた。
頭の中はねっとりと蠢く濁色のマーブルに染まり、文節が体を為さない。
何か言わなければと思うほどに、粘着質に纏わりつく声は喉の奥から離れない。
信じたくなかったもの、聞きたくなかったこと、それがほんの微細な隙間も埋めて、歪みもなく綴られる。否定したいのにその根底が空疎に消えていく。
「僕のことは、忘れて」
ノイズや不協和音、そんな風に聴覚が拒絶する響きならよかった。
それなのに、あまりにも澄んだ細い音色が真っすぐに鼓膜を震わせる。
「ナオ・・・」
自分の心音だけが、やけに低く立体的に体内を満たした。月が翳ったのかと思うほどに、視界に灰黒の緞帳が降りる。
一陣の突風が円を描いて流れ込み、一体を取り巻いて草木を揺らし、葉を散らす。
清澄な水鳥のさえずりのような音階が耳を掠め、その中に小さな声がまざるのを聞いた。
「もう一度秋空に逢えて、よかった」
なにを眺めていたのかもわからない。ほんのわずかだけ瞬きが長かっただけなのかもしれない。しかし気が付いたときにはもうナオの姿はなく、白い花だけが揺れていた。
「おーい秋空、秋空って」
人が気持ちよく現実逃避にしけこもうとしているのに無粋に踏み込む不届き者はどこのどいつだ。あーこいつか。気分によっては神経を甲高く逆撫でるテノールを憎悪にも似た視線で半殺しにし、俺はまた冷たい机の平面に顔を押し付けた。柔らかい羽根布団なんて今の俺には無用の長物だ。
「やさぐれてんなぁ~、昨日はあんなに息巻いてたのに。さては愛しのナオちゃんに振られ・・・うぐっ・・・」
俺は電光石火のスピードで佑太のネクタイを掴み力まかせに引っ張った。首をキめられた佑太は真っ赤な顔で息を止め、死にぞこないのフグみたいに頬を膨らませている。
「その名前を学校で口にするな」
俺は声を潜めながら半死半生の面持ちの佑太の耳に唇を近付ける。そして素早く教室中に目を走らせ、夏音がいない事を確認した。念のため机の中や椅子の裏、窓枠のサッシを確認し、盗聴器らしきものがないことも調査してようやく一呼吸ついた。俺はいったいどんな秘密結社を敵に回しているのだろう。
「いや、でもどうしたんだよ」
どうにか空気の軌道を確保できた佑太が鬱血した顔面を近づけ、わざとらしく息を殺す。まるで密談を交わすスパイの真似事だ。
そこへ重役登校した相馬が現れ、にわかスパイ会議に颯爽と参戦してくる。
「中間レポートの出来を批評してもらいたいんだけど、放課後いいかな」
絶妙なのか微妙なのか焦点をぼかした隠語風の提案を明示し、屈託ない笑顔を見せた。
昨日の今日にして実に迅速な対応に頭が下がる。俺は是非もなく頷いた。母親の鬼の形相がちらついたが、塾なんてくそくらえだ。
「もちろんだとも。最重要課題だからな」
バイトがあるはずの佑太も快諾し、鮎川にもラインで知らせると速攻で『りょ』と短い返信がきた。
夏音がドア付近に現れたのを見て、まさに阿吽の呼吸で一同は散開する。もちろんごく自然に。つかつかと席に戻ってきた夏音はなにやら機嫌が良さそうなオーラを振り撒いて俺に顔を向けた。
「私たち、ちょっと誤解があったと思うの」
誤解?誤解ってなんだ。寧ろ一度だってわかり合えたことがあったか。
「もう無理に付き合ってほしいとか言わないわ。でも、せめて友達としては仲良くできないかしら」
あまりもに常識的な提案に茫然とする。そして、常識的過ぎて不自然さと不気味さが際立つ。
いったい何が狙いだ。難解すぎて思考回路の入口すら見つけられない。可憐な笑顔がプライスレスどころがぼったくりの罠にはまっていくようで戦慄する。
「そういう目で見るのも、やめてくれない?なにも取って食いはしないんだから」
どちらかというとその方がわかりやすくて対処のしようもある。どこからいつ狙撃されるのか憶測すら成り立たない緊迫の方がよほど恐ろしい。撃たれた時には即死だ。
俺の心の喧騒が煩雑過ぎて読み取るのに苦慮したのか、夏音は諦めたように前を向いた。
そろそろホームルームの時間だ。
「それでね、仲直りの印に放課後パフェでも食べに行かない?おごるから」
あくまで付け足しと言った口振りだが、どう気楽に見積もってもそれが真打だろ。
担任広瀬がドアを開け、騒めいていた空気が鎮まる。
俺は相馬の闇レポートと夏音の毒パフェを天秤にかけ、この一週間平定しない懊悩に一段と拍車をかけて悶絶した。
結局闇レポートを選んだ。それの真価を見極めてから毒パフェに挑む方が効率的だろう。
夏音には塾があると本当の理由を偽って伝え、別日を指定した。嘘は真実がまざると俄然信用度が上がる。夏音は疑う素振りも見せず、承諾した。もしかしたら俺の日常の行動パターンはすでに掌握済みなのかもしれない。
いったん自宅に帰る風に見せねばならず、終業の合図と共に急ぎ足で教室を後にした。
夏音には塾のある日は送れないと伝えてある。万が一塾を張られていることを見越し、開講直前に体調不良の連絡を入れる予定だ。ただ家の中に居座るのはまずい。母親の早く行けビームが痛烈に背中に突き刺さる。俺は塾鞄を抱え、夏の夕暮れの道路を歩いた。真っ赤に焼け落ちていく太陽が、中天を焦がすように薄墨色の空を呼び起こして沈んでいく。
落ち合う場所は決めてある。電車に乗ると見せかけてのフライングで、雑踏に紛れ駅構内のファミレスに入った。
本当にいったい何から逃げているのか、命懸けの亡命者の気分になってくる。穿ちすぎの杞憂かもしれないが、しかし念には念をいれて間違いはない。
混雑したファミレスの左奥の座席に見知った顔を見つけ、俺は足早に近づきソファに滑り込んだ。
佑太、相馬、鮎川、全員いる。俺はほっとして鞄をソファの端に投げた。
「注文は?」
相馬が訊ね、見るとめいめい目の前に飲み物が置かれていた。俺は少し迷って備え付けの端末でアイスコーヒーを注文し、あらためて大きく深呼吸して背もたれに凭れた。変に力んでいたせいか関節の節々までギシギシする。
「おいおい秋空、大丈夫かよ」
からかい半分の佑太が笑う。
「今からそれじゃ先が思いやられるぞ」
鮎川が大人びた吐息と共に腕を組んだ。
「これからもっと大変な思いするよ」
相馬がさらりと言い添えるが、それは聞き捨てならない。
俺は運ばれてきたアイスコーヒーを脇に押しやり、相馬を促した。相馬は一縷の齟齬もなく要望を理解し、学生鞄から数枚綴りのまさにレポート用紙を取り出した。
全員の視線が注力するなか、声を落とすように無言の指示をする。俺たちは神妙に頷いた。壁に耳あり障子に目ありだ。一見して平凡で平穏なファミレスの一角の、どこに狡猾でハイテクな肉食獣が潜んでいるやもわからない。
相馬は声音を極限まで落としながらも、テーブル内には正確に聞き取れる発音で内容を開示し始めた。一応全員に見えるようにテーブル上にレポートは置いたが、相馬の講説のほうがよほどわかりやすい。
「柊夏音、六月一日生まれ双子座B型、これは自己紹介と相違ないね」
相馬が確認するように言い、俺たちは頷く。
「双生児として出生した長子、次子は産後間もなく死亡。以後柊家の一人娘として育てられる」
相馬が淡々と読み上げる。兄弟はいないのではなく、失っていたのだ。それも生後すぐ。では夏音はその事実を知らなかったのだろうか。
「興味深いのはここからだよ」
相馬は切れ長の瞳を英明に磨き、普段の爽やかな様相が一瞬だけ冷徹に偏った。
「幼稚園、小学校と付属のお嬢様学園に通学、しかし小学三年生の秋、突然転校、以後、二、三年ごとに転校を繰り返してる。うちに来たのも変な時期だったよね、そして、公表されていない奇妙な事件の直後」
相馬がレポートを捲ったが、ただの格好だとわかる。相馬の目は活字を追っているわけではなく、なにをどう表現して話そうかという思慮の按排が伺えた。おそらく内容は全てインプット済なのだろう。
「転校直前の学内や周辺の状況を調べると、類似点があった。小学三年生、同級生が夜間自宅に放火、一夜にして全焼、同女子は意識不明の重体、室内で発見された母親は死亡。同級生は一命をとりとめたが全身麻痺で言語も発せず現在も入院中。五年生、担任が深夜の学校で自殺未遂。同時刻に心中と思しき女生徒が飛び降り自殺。担任教師は一命を取り留め回復後、鬱を患い何度も自殺未遂を繰り返している。中学二年生、クラスの女子が外出先の夜の海で溺れ、助けようとした同クラスの男子生徒が死亡。心肺停止状態だった女生徒は蘇生。しかし心を病んで現在も通院中。そして高一、深夜の公園で同学年の女生徒同志の殺傷事件により両名重症の後一人が死亡、もう一人は心神喪失で文字通り真っ白な廃人になった」
俺は内容を咀嚼しながら焼き切れるほどに脳を猛転させる。類似点、不快感が意識を席巻する。
「・・・毎回死ぬのは片方だけか」
健常な状態ではないにしても、一方は命が助かっている。
「事件は夜に起こる、だな」
鮎川が遠い目をして独りごちた。
「それ、なんで誰も知らないんだ・・・?」
佑太が抑揚なく呟く。確かに、いくら転校し続けていたとしても、事件自体は公になったり、どこからか知れ渡るはずだ。
「ありていにいえば握りつぶされてるってやつだよ。柊家は財界・政界・警察・報道にまで顔が利く。もしかしたら可愛い愛娘の人生にキズがつくかもしれない汚点は根こそぎ摘んでおきたいのさ」
「だからって噂くらいたつだろ」
「事件の噂が立っても、彼女に結びつかなければ問題ないよ」
鮎川はそれを聞くと反芻するように目を閉じた。
他の異論がないと認めた相馬が次なるレポートを捲り目を落とす。その手元にある見知ったA4コピー用紙が、重要文化財並みの古文書にすら見えてくる。
「住居は隣のK市北町の外れ。古くからの名家で地域の有力者の娘。高塀に囲まれた広大な敷地は要塞の如き大邸宅で、しかも年々増改築されている。でも地元の人々からは幽霊屋敷と揶揄されているようだね」
「幽霊屋敷?」
佑太が疑問符と共に復唱し、相馬は形のいい顎を小さく引いた。
「ここ十年、人気(ひとけ)がなくなったみたいだ。両親も外界に姿を見せなくなり、送迎の車の出入りはあるけど塀の中での乗り降りだし誰も姿を見ることはない。車には暗幕が貼られ。さらに屋敷の窓という窓に常にカーテンが降ろされてまったく中の様子はわからない。まるで誰も住んでいない、幽霊屋敷みたいに」
俺はごくりと喉を鳴らした。幽霊、その単語を最近何度となく耳にした。
「さらに目撃談もある。深夜、屋敷を出入りする真っ白な幽霊を見たっていうね」
心臓がこん棒で強打されたみたいな衝撃と共に酩酊する。打たれ続けて狭い肋骨の間を縫って皮膚を突き破ろうとしている。俺は過呼吸状態で下を向いた。クーラーの利いた店内で冷汗が滝のように溢れて流れ落ちる。体温が急速に下がり、質(たち)の悪い細菌に感染したみたいに過剰な悪寒が襲った。
「・・・秋空、大丈夫か?」
佑太が肩に置いた手をゆすり、俺の顔を覗き込んだ。よほどひどい顔色をしていたんだろう。全員の視線が瀕死の曽祖父を看取るみたいな憐憫に満ちている。
俺は浅い息を意識的に減らして二酸化炭素の摂取を図った。息苦しさに負けて深く息を吸い込みそうになるのをぐっと堪え、しばらく静止して呼吸が整うのを待つ。
「・・・悪い、続けてくれ」
どうにか顔を上げ、出来そこないの笑顔まで浮かべてみた。なけなしの色のない笑顔なんて誰一人一ミリグラムも信じてはいない。自分の惰弱さに唾を吐きかけたくなる。
相馬は最後のレポートを捲り切り離すと、テーブルに置いた。自然と視線がその一枚に集中する。なにか、表のようなものが記されていた。
「柊家のここ数年の仕入れと改築リストだ。高額だったり大量だったり、あるいは不自然だったりするものをまとめた」
思わず瞠目する。相馬、お前はいったいどこの手のものでどういったルートでどんな後ろ盾をもっているんだ。称賛を超越し、驚天動地の釣果にリアクションが停滞する。
そういえば資産家の息子という事以外、相馬に関して知っていることはほとんどない。俺は期せずして最難関の攻略キャラをすでに籠絡出来ていたのだろうか。その手の情報通だとは了知していたが、期待の遥か上空を滑空する機密事項の羅列に圧倒される。どう控えめに見繕っても一般人の調査の範疇を逸脱しているだろ。
思い返せば相馬との出会いは中学一年の春、今となれば安直な出席番号あいうえお順に万歳だ。
初対面の時は某ファッション誌から抜け出してきたような抜群の容姿と完璧なスマイルに一瞬気後れしたが、会話してみるとすぐさまこいつとは気が合うな、とピンときた。インスピレーションてやつだ。
なんとなく前後の席で話す機会が多くなり、そのうち学祭の担当や委員会、授業の班分けなんかで一緒になることが増えた。それが偶然から必然に変わり、一年の終わり頃には鮎川や小学校から一緒の佑太も加わってなんとなくいつもつるむ面子になった。
部活動も俺はやる気そこそこの陸上部員、がっつりバスケの鮎川、モテ重視のサッカー部佑太、趣味の延長のテニスで県大会二位の相馬と違う道をだどったが、いったん意気投合した絆が崩れることはなく、同じ高校を志望するに至った。俺と鮎川は成績から順当に、相馬はなぜか有名私立を蹴り、佑太はランク外からの必死の猛追で合格した。腐れ縁と言うよりは、もう少しウェットで尊い縁だと思っている。
などと過ぎし日に思いを馳せ、目の前の美形の微笑に心酔しそうになって、右側頭部にパンチを入れて目を覚ますとレポートに目を滑らせた。演目はいよいよ佳境だ。
「十年ほど前から、ちょっと気になる項目が増えてる。まずは自宅地下室の改築、拡大して防音設備を整え、シャワールームや洗面室も誂えてるし、もう一部屋増設してる。まるで人が住めそうな具合にね。あとは大量の遮光カーテンの購入、完全な暗室を作れる高密度の仕様だ。あとはそうだね、電化製品だったり家具だったりいろいろあるけど、気になったのはこれかな」
相馬は表の一点に人差し指を添えた。
「紫外線照射装置。医療現場での治療や殺菌、美容業界では日焼けサロンなんかでも使われることがあるけど」
確かにこのリストの中では浮いているが、広大な屋敷内の清掃などで使用されている可能性はあるだろう。日焼け?まあ夏音は色白だし興味も無さそうだが。
心の声で感想を言い終えた頃合いを見計らって、相馬は爽やかな笑顔を向けた。
「使用目的が判然としない」
どこか楽しそうににこにこしている。何だかうすら寒いものを感じた。
「もう少し詳しく調べてみたらさ、これ、特注なんだよ。わざわざ三百二十ミリ以下の短波長に合わせていて、さらに規定値を大幅に上回る強度まで設定できる」
「どういう意味だ?」
俺はレポートから顔を上げた。なにか、水面下でもやもやと移ろうものが形を成そうとしている。勘が、警鐘を鳴らす準備運動に入っている。
「機能が冗長過ぎるってこと。屋敷の清掃に使うにしてはサイズも小さすぎるし。使途不明の無用な産物ってことさ。しかも特注なだけあって購入ルートも怪しくて高額だ」
使途不明。頭の中枢にある芯が、一瞬で凍り付いた。胸騒ぎが胸中を猛打し侵害する。繋がりそうで繋がらない細く揺蕩う糸が、暴風に巻かれ悲鳴を上げ乍ら引き千切れる。
薄青い闇に浮かぶ、白い手に巻かれた白い包帯。それが瞼の裏で蜉蝣の羽のように揺らめく。
目の前がぐにゃりと造形を乱し、眩暈がした。頭を押さえたまま力なく肘をテーブルに付いてうな垂れる。
一口も飲んでいないアイスコーヒーの氷がからりと虚しい音を立てて崩れ、水滴が大粒の汗のように伝い落ちてだらしなく広がっていく。表面にたまった薄茶色の上澄みが、恨めしそうに視界の中枢に紛れ込んだ。
「お前ほんとに平気か?顔色がすげー悪いぞ」
佑太は腹の底から心配そうに眉間にしわを寄せた。そのくらい俺の顔色は青銅色だか土気色だかに染まっていたのだろう。
俺は頭をガシガシと掻いて嘆息した。外部から刺激を与え、鬱蒼と圧縮された憤りを放散したかった。そうでなければ義憤が膨らみ過ぎて爆発してしまう。
どうにか平常心を整え顔を上げると、奇跡みたいに整った満面の笑顔が待ち構えていた。
「じゃあ今度は秋空の番だね」
俺の葛藤とは対極の爽快な口ぶりで相馬は温くなったアイスティーを啜った。
「・・・番って?」
嫌な予感と言うのは往々にして良い予感よりも的中率が高い。例に漏れず、俺の場合もそうだ。いや、相対的には一般の上を行くと言ってもいい。虫の知らせと分類する方のやつだ。
「最近の君の情動の浮き沈みの元凶、いや、原因か。麗しのナオ氏のことだよ」
一斉に火のついた矢のような視線が突き刺さる。期待と好奇心と、若干の悪ふざけがまざったような六つの眼(まなこ)に磔にされ、逃げようとした時には二秒遅かった。暗黙の意思疎通がなされた集合体は、俺をなんなくファミレスの自白席に固定する。
俺は黙秘を決め込み、トム・クルーズさながらに口を引き結んだ。
「レポート代、安くないよ。紙幣に換算したらわりと生々しい金額になるけど、聞く?」
晴朗な微笑みが悪魔のささやきを繰り出す。
自白剤すら必要とせず、俺は奈落に落ちるように魂を売った。
「へ~~~ほ~~~~は~~~~~」
どつきまわしたい衝動を踏み拉いて(しだいて)地べたへめり込ませ、憤然と口を閉ざしたまま膝を見つめた。その目つきは俺をすっかり高校ルーキーの遅咲きのゲイだと認定している。弁解も釈明もすれぼするほど真実味を欠いていく気がして、げんなりと広いテーブルに撃沈した。ナオ、巻き込んですまん。
佑太は飽きもせず間延びしたわざとらしい「は行」の感嘆詞を連ね続けている。「ふ」と「ひ」は無理があるだろ。
「つまり、お前が見惚れたのはその”ナオ”って奴で、柊さんにそっくりで、ドッペルゲンガーだか別人格だと思ってたけどまったくの別人で、おまけに不思議な力があると」
「そっくりだけど、全然似てねえよ」
一箇所だけ抜粋して訂正する。逐一すべてを否定する気力はいまやどこにもない。
いずれ話すことになるとは思っていたが、それが今日になるとはまるで予測できなかった想定外の奇襲に、全砲弾をノーガードで食らったようなものだ。せめて事前に暗号くらい撒いておいてくれ。それとも相馬に依頼した時点で見返りの必要性を読めなかった俺に落ち度があるのか。
なんにせよ失敗した諜報部員の俺には、もうボロしか出すものはなかった。
「まあでも、これで大体わかったな。秋空が何割か隠してる部分を差し引いても」
鋭い、と俺は無反応を装いながらも、鮎川の卓見に腰が二ミリほど浮きそうになる。
ナオの容姿について、髪の色など目撃談と直結するような情報は意図的に避けてしまった。怪我をしていたことや、最後に交わした会話も。たぶん、庇ってしまった。そこから派生するであろう疑いの目から。
鮎川は腕を組んで背もたれに背を預け、足も組んだ。大柄で引き締まった筋肉質の膝が狭そうにテーブルを押す。低いバリトンが心地よく未処理の糸をまつっていく。
「曖昧な部分もあるが、柊は十中八九黒って気がするな。もしかしたら他にも余罪があるかもしれない。秋空に近づいたのにもきっと裏がある。そしてその”ナオ”って子も無関係じゃない」
鮎川はちらりを俺を見た。反応を見ているのか、それとも気遣っているのだろうか。硬派な真顔は微塵も動じない。
「事件をもみ消せるんなら、やりたい放題だよな」
佑太がようやく冷やかしを中断して本腰を入れる。
「だけどいくら娘の為とは言えやりすぎじゃねぇ、下手したら殺人に関わってる可能性もある」
「だけど証拠はどこにもない。あったとしても、もう出てこないな」
鮎川は苦々しく眉間に皺を寄せた。正統派のスマートな熱血漢の苦悩顔だ。
「事件はまた起こる。そこを押さえるしかないね」
何食わぬ顔で相馬が言い添えた。堂に入っているというか肝が据わっているというか、いまいち飄々と掴めない。
「それじゃ秋空が危険だろ。それにナオって子も・・・」
「”ナオ”は夏音の味方かもしれない」
佑太の懸念をにべもなく跳ねのけた相馬の指摘に、俺は反射的に挑むような視線を向けた。しかし否定できない。あの時、ナオは夏音の傍にいる事を選び、俺を遠ざけた。俺は力なく押し黙り、ソファへ身を沈めた。
「柊夫妻も十年前までは普通だったんだよ。普通に社交界にも町内にも顔を出してた。雲隠れしたのは事件が起こり始めてからだ。まるで人が変わったみたいにね」
俺の反駁を宥めるように、相馬はデフォルトの微笑みを絶やさない。
「娘が妙なことを始めたから、おかしくなったんじゃないか」
鮎川が顎に手を当てて知的なポーズを決めた。敏腕刑事みたいに妙にしっくりと似合う。
「ことが起こって為されたのか、あるいは為されたから起こったのか。もしくは外因的な理由か」
相馬が哲学的なセンテンスを軽妙に放つ。理知的な微笑が、名うての名探偵のように絵になる。
「なんだよ、もうちょっとわかりやすく言ってくれよ、なあ秋空」
佑太は安定して凡庸な聴衆の立ち位置を維持している。必要だよな、こういう演者も。
そして俺を巻き込むな。せめて切り札の尻尾は最後まで隠しておきたいんだ。
「事件の類似点はもう二つ」
相馬は半分減ったアイスティーにガムシロップを投入した。ゆらゆらと、琥珀の液体の中に透明なうねりが尾を引く様に落ちていく。
それが沈み切ったところで、俺たちの視線を束ねた。
「一つは動機がないってこと。放火も心中も夜の寒中水泳も刃傷沙汰の理由も。一様に前触れも脈絡もなく突発的に起こってる。もう一つは、対象に関係性も一貫性もないってこと、ビンゴゲームみたいにランダムな人選だ」
「だから、夏音の名前は出てこない」
俺はぽつりと言った。
「誰でもいいってことか・・・?」
佑太が何気なく落とした一節に、頭の奥が熱くなる。そんな不埒で短絡的な娯楽の為に、ナオは利用されているというのだろうか。
「猟奇的ってやつか」
「まだ憶測の域をでないけどね」
「それにしては今回は趣向が違うな。がっつり足跡を残す真似をしてる」
確かに鮎川が言う通り、俺の彼女に立候補してまであけすけに近づこうとした。
「フェイクか、あるいは完全犯罪の自信があるか」
二枚目名探偵ががさらりとそら恐ろしい推理を巡らせる。ナオは、関わっているのだろうか。そして俺にも手を掛けるつもりなのだろうか。夏音が命じれば。
「正直信じられねえけどな・・・あの可憐で美しい柊さんが・・・」
佑太が斜陽のプールサイドで夏の名残を惜しむような哀愁を移ろわせた。
俺は消沈した面持ちをすり替える余力も失くし、肩を落とす。夏音が黒かどうかなんてどうでもいい。ナオの真意が測れないことに対して当惑した。
「秋空、ナオはお前に気を付けてって言ったんだよな」
半死半生と言った有様で憔悴する俺の背中に、突如佑太の力強く熱い手の平が押し当てられる。
「お前のこと、心配してるんだよ」
聴衆の温かい声援が背中をとおして沁み渡って、不覚にも泣きそうになった。
その夜、俺は性懲りもなく公園へ向かった。自分でもいい加減大人げないしダサいことこの上ないと辟易する。それに、ナオはもうけして現れないだろうとわかっていた。
ナオの不在を感じて、それを思い知り、脳に叩きつけて、心臓が捻りつぶされるような絶望的な虚無を受け入れたら、何かを決断できる気がした。
月夜(つくよ)見(み)の丘、と名付けられているその場所は、肌に馴染む緩い風が青々とした草を揺らし樹木の葉を散らして弱々しく巻き上げていた。
無人の、ひたすらに静穏な空間。そこに集うのは月と星が撒く白く静謐な光だけだ。
足首に柔らかな緑の感触を受け止めながら、誰もいない野をゆっくり歩いた。紺青の遠い闇にあらゆる音が吸い込まれていくように、後には静寂だけが残った。
空を見上げていた視線を下げ、俺はふと足元に目を留めた。白い揺らめきが、そこにも見えたからだ。震えそうになる足腰をぎこちなく曲げ、その場に膝を落としてそっと手を差し伸べる。
ひそやかに高潔な、ナオが咲かせた花々が、凛と顔をあげ星空と向かい合っていた。
瞬間、全身を打擲する衝動が襲う。ナオがいるのだと感じた。たとえ夏音のところへ戻ったのだとしても、ここに、心を置いていったのではと思えた。
花は枯れていない。夜になっても、きっと明日の朝になってもまた夜を迎えても。
俺は固く目を閉じ、透明な闇にまざる花の香りを深く吸い込んだ。
そのときには、ナオを取り戻す、そう誓っていた。
夏休みに入った。
初日の今日は、夏音との毒パフェ実食の日だ。はたから見ればリア充全開。夏休みの恋を謳歌する幸せな高校生カップルだろう。俺の心中はどす黒い暗雲からさんざめく土砂降りの暴風域だったが。
約束を果たすと言う使命感より、何かを探りだす絶好の機会と銘打って自分を奮い立たせ、挫折に傾きかける士気を騙し騙し出掛けた。まじかよ、と思わず二の足を踏む、カップルばかりがひしめく噂のデートスポットへ。
待ち合わせ場所に時間ぴったりにやってきた夏音は見るからに上機嫌で、清楚な白のワンピースにヒールのあるミュールを合わせ、いかにもデートスタイルの抜け目ないおしゃれ女子と言ったいでたちだ。バレッタでサイドの髪を後ろで緩くまとめた姿は新鮮で、眩しくもある。ただし、相馬のレポートを知るまではの話だ。
「どうしたの秋空くん、なんだか難しい顔して」
半径五メートル以内の男子が瞬殺されそうな華やかな笑顔に後ずさる。うっかりペースに乗せられては思う壺だ。
夏音は先に立って歩きながら、目当てのスイーツ店を目指していく。俺は当てもないので仕方なく従順に後に続いた。
「秋空くんって、前を歩かないわよね」
肩越しに振り返った声が面白そうに揺れている。俺は歩調を緩めながら無言を貫いた。
「”夏”の後が”秋”だからちょうどいいわね。でも、あの子は違うこと言うの」
にわかに自分の表情が強ばるのがわかった。さも愉快とでも言いたげな夏音の笑顔とかち合う。
「秋の後、待てば夏が来るって」
ただのリリックのようなものだと思う。夏音の意図は知れないが、それでも十分に心を循環し、充足する。”あの子‘が誰を指すのか、説明もなく質問もないことがすでに不文律として成立しているのは、均衡を保つ今の戦局を夏音も看過しているのだろう。もしかしたら少年誌の戦闘狂のように俺たちがもっと強敵になるまで虎視眈々と待っているのかもしれない。
安穏にかこつけて、忘れてはいけない。夏音は普通じゃない。
「パフェの店、まだ?」
俺は巷のカップル然とした会話を模倣した。彼女に連れられておすすめのパフェを食べに付き合わされた、と言う彼氏の憂鬱を。
「もうすぐよ。秋空くんも気に入るわ。フルーツがたっぷりで見た目も可愛いの」
そして急遽渡された台本を即興で演じることになった実力派俳優なみの柔軟さで、言外の腹の探り合いに神経をすり減らす。
お前はなにをしようとしているんだ
なにが目的なんだ
ナオをどうしようっていうんだ
夏音は海面を跳ね上がる陽光のように鮮烈に微笑んだ。
「パフェって食べ方に性格が出るわよね。好きなものから食べようとしても下の方に埋まっていて苦戦したり、上に載っているのに最後に食べたくて取って置いたり、見た目を重視して順番に食べる人と、醜くても食べたいように食べる人」
夏音は無邪気な声を弾ませた。
「私は食べたいものから食べるの。秋空くんはどう?」
「ぐちゃぐちゃになって好きじゃないものが残ったら?」
「もう食べる価値もないでしょう」
旬のマンゴーを使った看板メニューのフルーツパフェ。夏音は行儀よく上方に飾り付けてあるマンゴーからずぶずぶとフォークで射止めて上品に咀嚼していく。
俺は食欲もすっかり失せ、苦いアイスコーヒーを舐めるように啜って時間を潰した。
やがて夏音がフォークを置き、満足げに口元をナプキンで拭う。
その前にポツンと置かれたパフェグラスには、水分を吸って本来の食感をなくした汚れたフレークが、捨て子みたいに残っていた。
油断をしていたつもりはない。
しかし実際には些細な気の緩みがあったことは否めない。夏休み三日目、それまでは平穏に過ぎていた。しかし嵐なんて言うのは予兆もなく予報も無視してくるものなのだ。
その夜、我が天文学部の部室が盛大に吹っ飛んだ。木っ端みじんに跡形もなく。
日曜日の未明、星の無い死んだような夜空の黒が、そのまま地上に分厚いベールを落としたような陰鬱な夜。焼夷弾の襲撃を受けたみたいな衝撃が無人の学校を轟かせた。一瞬の強い閃光、その後には、黒煙をあげ赤黒い舌を無数に蔓延させた炎の軍勢が、未練の欠片も残さないほどの貪欲さですべてを消し炭に変えた。
夏休みも序盤、当然俺たちは呼び出され、学校から警察から保護者同伴でみっちり事情聴取を受けた。言うまでもなく部室に火器など置いていない。火種になりそうなものはマッチ一本だって思い当たらない。執拗な追究は明らかに俺たちが喫煙を常習していたか爆竹や火薬類を持ち込んでいた不良に仕立て上げようとしていたが、どれも該当するはずもなく、話は平行線を辿る。
俺たちは健全にだらだらと部活動をしているふりをして部室を根城にしていただけだ。
その正直な弁明すらも胸を張って進言できず、一向に解放されない堂々巡りに心底疲弊した。むしろ期待に応えて過失か実行犯だと白状すれば楽になれるんだろうか。冤罪とはかくあって生まれるのだろうなと渋滞する脳みその疲労が蓄積して朦朧としてくる。躍起になって不条理な誘導尋問を繰り返す警官の職務に憤慨を飛び越えて同情すら感じながら、俺は各々別室で取り調べを受ける三人の同志を思って胸中で失笑した。
佑太は憤然としているだろうが、そろそろ相馬か鮎川が理路整然と汚名返上を成し遂げてくれる頃合いだろう。
そう思い始めた矢先、不愛想なスチール製のドアが開き、警官に続いて相馬と鮎川が現れた。後ろには仏頂面の佑太もいる。ようやく無罪放免と言うわけだ。
すっかり炭化した部室からはもはや火種の証拠が見つかるとは思えないが、これから調査が入るらしい。漏電か、悪ければ放火、ということになるようだ。幸い類焼がなかったのは、この部室が元理科学実験室で、耐火壁で囲われていたせいらしい。初耳だ。
一応部員であるはずの、しかも真犯人であるに違いない夏音は呼びだされていない理不尽に憤りを感じつつ、すっかり夏の夕暮れを迎えた帰路の左右に生い茂る街路樹を見上げた。背の高い常緑樹が、葉先に夕焼けの鮮やかな陽射しを照り返している。
「ガツンと来たねー」
緊張感の欠片もない相馬の空っ風みたいに軽い声が通り過ぎた。
「警告か、宣戦布告か」
鮎川が声音に心持ち神妙な色合いを載せる。
「でも柊さんとも限らねえだろ。漏電か、放火だったら別の犯人かも・・・」
佑太が突貫工事みたいな自論を次第に尻すぼみにした。
別の犯人なんてあてがおうとする方が余計に複雑化の一途だ。確実に俺たちの部室だけを狙った爆撃だぞ。漏電?漏電したところでなにに引火して大爆発となるんだ。カセットボンベの一つも置いていない真夏の部室で。我慢大会の鍋パでもしていたら話は別だが、俺たちは日々青春を怠慢に置換して放流していただけだ。
思いあたる電化製品だって湯沸かしポットくらいだが、いくらこじつけても火の元候補には少々役が不足ってものだろう。夏休みだったんだから電源すら入れていない。
「僕たちが集まって何らかの情報共有したことがばれてるんだろうね」
「見張られてんの?怖くね?」
佑太が半オクターブ高めのテノールで怯える。
「でもそれはいい傾向じゃないな。こっちが風下になる」
鮎川が渋面を浮かべた。
「いや、情報捜査に関してはこっちの方が上手だよ。なにをどこまで調べたかは把握できてないさ」
相馬は余裕の面持ちで微笑む。お前のバックボーンが夏音の凶行の次に気になるが、それまで掘り下げると許容量を遙かに凌駕してにっちもさっちも行かなくなりそうなので、潔くスルーした。
「それよりさ、秋空、柊さんとなにかあった?なんかめっちゃ怒ってね?」
佑太の質問に俺は一瞬首を捻り、ああ、と思い出した。
「そういえば一緒に出掛けたわ。おごるからパフェ食べに行こうって言われて」
「なんだ結局付き合ってるのか?」
鮎川が気の抜けた相槌を打つ。俺は慌てて全速力で否定した。
「違うって!なんか、なんとなくだよ。お互い本心は隠して上辺だけって感じだったし。それにやっぱり不気味だったよ。それを確信した」
「でもパフェ食べたんだろ」
佑太がにやにや不謹慎な笑みを浮かべるが、そういえば、とはたと思い直した。
「俺は食べなかったな、コーヒー飲んだだけ」
「え、なんで?」
「だって食欲わかねえだろ。自分を狙ってるかもしれないイカれた女と仲良くパフェなんて」
「あー」
相馬と鮎川のため息が重なり、俺は困惑して口を閉ざした。二人とも冷めた目をしている。なんだ、袋小路に追い込まれた間抜けな小悪党を見るみたいな顔つきだ。
「それだろ、怒らせたの」
「は?」
「せっかく誘ってくれたのに、一緒にパフェくらい食べたらよかったじゃない。乙女心がわかってないなぁ」
なんだか憐れんでいるみたいに哀愁塗れの表情の二人に言い立てられて、俺はたじろいだ。
え、なに?部室消し飛んだの俺のせい?
夏音の言動は奇々怪々で支離滅裂だが、今回は素直にパフェデートが正解だったってことか。
「秋空ってたまに無自覚に地雷踏むよね」
言外に鈍感と言われている。俺の言語野が反論の口火を探すが、出てくるのは降参の二文字だけだ。金輪際勘がいいとは公言出来そうにない。色恋沙汰に関して言えば。
「今はまだ休戦中なんだ、和平結ぶ気なら友好的に食事くらいしとけよ」
つまり俺がトリガーを引いたのか。そして核弾頭のスイッチが押された?
「女心と秋の空だよ、秋空、名前負けだね」
ちょっと待って。なんかいろいろ自信無くすしどうもすみません。そしてこんな当て字を使った両親に対して見当違いの逆恨みの情までせり上がった。
「男の風上にも置けねえな」
佑太が俺の肩をポンと小突く。お前にだけは言われたくないが言い返せない。現に部室は消失したのだ。俺の過失?のせいで。
「まあでも月夜の君は、今回は完全に無関係だと思うよ」
凄絶な自責の念に駆られる俺を少しだけフォローするように、相馬は夕日に向かって慰めた。
八月に入った。連日火あぶりにされているような酷暑だ。数分灼熱に揺らぐアスファルトの上を歩いていると、豪快な水しぶきを上げて頭から冷水にダイブする幻覚が見える。生物の存続を拒むかのような熱波の真昼間(まっぴるま)、虫一匹飛んじゃいない。
ではどうして俺が体温をゆうに上回る猛暑日に外出をしているかというと、呼び出しが掛ったからだ。相手が鮎川なだけに無下に断れない。これが佑太だったら一昨日(おととい)きやがれと一蹴したところだ。知的で硬派で男気溢れる鮎川に、相馬とは違った意味で一目置いていると同時に全幅の信頼もあった。鮎川がしょうもない理由でわざわざ俺を指名するはずがない。
部室爆破事件以降、何となく謹慎状態だった俺は、数日ぶりに外出した。どこかで夏音に見張られているかもしれない危惧はあったが、今さら庶民レベルでこそこそしたって意味はない。鬱憤を晴らして気でも晴れたのか、あれから特に何の動きもないし、下手に逃げ隠れした方が逆に火に油を注ぎそうだ。今は放置状態、あるいは歯牙にも掛けていないと考えられる。
その気になれば学校丸ごと吹っ飛ばすくらいやってのけそうなやつだ。もうしばらくは大人しく茶でも啜っていてもらいたい。そうすればナオだってなにもしないで済む。
しかし、待ち合わせの駅前の喫茶店が目に入った途端、何かが引っ掛かった。
いつもと変わりない、見慣れた風景。上下線が間断なくすれ違う人混みの駅。その前の広いロータリー、暑熱に溶かされ陽炎のように立ち昇る濃厚なアスファルトの揺らぎの向こうに、亡霊みたいに集合して蠢く人々の影。
この違和感はなんだ。胸に氷塊が投げ込まれたようにすっと熱が引き、ざわめきが遠のいていく。代わりに、頭の中央で割れんばかりの警笛が響き渡り気が遠くなる。
影絵のように行きかう黒山の人だかりの向こうに、一人だけ瞭然と浮かび上がるしなやかな手足が見えた。胡乱な視点が線を編み、その全身を結んでいく。
蠱惑的なくちびるが妖しい笑みに変貌し、黒髪が翻った。
意表を突かれた。警告音がやかましく鳴り続け、じわじわと漸進してくる。
こんな白昼堂々、公共の、公衆の面前で何かを仕掛けてくるなんて、いささかも予見できていなかった。危険予知、これは遅すぎたのか。それとも間に合ったのか。
俺は一歩足を引いた。これ以上踏み込んではいけない、直感的に体が動いていた。
その直後、風を切るような耳ざわりなエンジン音が一瞬で近づき、目の前を高速で通過して走り抜けた。
前髪が疾風に煽られて舞い上がり、刹那停止した音声が大音量で再生されて、大勢の金切り声や怒号、悲鳴、喚声が群衆を更に引き寄せ羽虫のように密集させていく。
血液が逆流して心臓を一気に冷却する。頭の中は妙に冴えて、徐々に現実が浸透し始める。時系列に並んだ記憶の撚糸が平衡を失くし、不均一な切れ端を手繰る。やがて現在と絡み合う昔日の一糸が呼び寄せられ、俺の足元をぐらつかせた。
冷えた心室に反動のように遡上してくる生温い血。拍動が復活し、つんざくような耳鳴りがした。
十年前、俺は事故にあった。猛スピードで突っ込んだ車体に撥ね飛ばされ、小さな体は宙を舞った。どうしてあのとき、俺は助かったんだ。
突如として過去の記憶が色彩も露に奔流と化す。
惨劇の瞬間の、痛覚を認知する以前の激しい衝撃を思い出す。車両にぶつかったときの、そして地面に叩き付けられたときの。どうしたって無傷でいられるはずがない。
記憶の一部分が欠落している。欠落しているという事実を、いまはじめて思い出した。
あの生還を、ただの奇跡で終わらせていた。ほんとうにそうなのか。
重大な何かを見落としている、或いは忘却している。
目の前を擦り抜けていった白いセダンがブレーキを踏むことはなく、動線上のあらゆるものをなぎ倒しロータリーのガードレールへ衝突後、轟音と共に炎上した。
遠くから救急車と消防車、パトカーのサイレンが何重にも重なって急速に近づいてくる。
悲鳴に混ざって反響する呻き声が、地を這い無数の蛇のようにぬめって耳元まで到達する。
血を流し、骨が砕かれ、内臓を潰され助けを請う人々。あれが本来の姿だ。六歳の俺が迎える筈だった結末だ。
衝動的に倒れ込む人々の群れに駆け寄り、無我夢中で出来る限りの救命措置を試みた。そんな経験も知識も毛頭ない。勘を頼りにどうにか止血し心臓マッサージを施し、声を掛け続けた。
スコールに煙る川面のように折り重なる波紋を広げる狂乱。救急隊が到着し、逼迫した状況の中次々と搬送されていく人々。あとに残された夥しい血痕と靴やバッグなどの残骸、悲痛にすすり泣く声。
炎上し続ける車からの、むせ返るようなガソリンの臭い。
血まみれになったシャツから立ち昇る、人の匂い。
今まで夏音が起こした事件とはスケールが違う。今回あいつは、一人も助けようとしていない。
俺ばかりか無作為に、無造作に大勢を巻き込んで静観した。なぜ、どうやって。
急に吐き気を覚えてその場に膝を落とし両手を地面に付いた。ぬるい汗が滝のようにアスファルトを濡らし、蒸発し、またなだれ落ちる。
「大丈夫ですか、痛むところはありますか、声は聞えますか!?」
救急隊の声が頭の上から降ってきて、急激に視界がブラックアウトし俺は意識を手離した。
情けなくも気を失い、次に目が覚めたのは真っ白い天井に見下ろされた病院のベッドの上だった。
母親か妹が知らせたのか、佑太、相馬がその日のうちに見舞いに訪れ、少し遅れて鮎川も駆け付けた。
そしてもちろん鮎川は、俺に呼び出しの連絡などしていなかった。
虚脱感のうちに退院となった無傷の俺は、ことの顛末を三人に明かしながら、その場の全員の認識は一致していると悟った。規模も被害も比べるべくもなく甚大だが、あの爆破事件と同種の匂いがした。隠蔽など到底不可能なほどあまりにも野蛮で冷酷で、動機もモラルも感じられない残虐な事件。
翌朝のニュースと朝刊の一面を網羅する凄惨な映像と写真。
昨日の記憶が鮮明にフラッシュバックし、朝食が逆流しそうになって思わず目を背けた。
当然そこに夏音の関与を示唆する文言は一文字もなく、持病もない運転手の原因不明の意識喪失による、過失致死と報じられていた。
ナオは関わっていない。それは贔屓目や擁護からではなく、確信だった。
でもそれならば、ナオはいったいどうしているのだろう。
これが夏音の独断か、もしくはナオが拒絶したのかはわからない。
夏音の傍で、無事でいられるのだろうか。
そんな場所に、もう片時だっていさせたくはない。
そしてこんな惨劇を、二度と繰り返してはいけない。
俺はスマホを手に取った。もはや乗っ取られているかもしれない端末だが、一件だけは、正確に用件を伝えられるという確証があった。
二度のコール音の後、電波の先で受信の息遣いが聞こえる。
「もしもし」
出来るだけ淡々と発声した。
「そろそろ掛かってくる頃だと思ってたよ」
五キロ先の整頓された部屋から、抜けるような明朗な声が聞こえた。
相馬のスマホから佑太と鮎川にも連絡してもらい、翌日の午後、憩いのオアシスかつ基地だった部室を失った俺たちは、相馬邸に集った。いまとなっては最も快適で堅固な避難所だと言っていい。
およそ近代の防犯システムやら設備とは対極にあると言っても過言ではない純和風の広大な日本家屋。庭も含めれば平米数は学校の敷地をゆうに上回るだろう。年輪を感じる檜の梁が荘厳な瓦葺の屋根を支え、磨き込まれた板張りの廊下は果てしなく続いている。平屋であるにも関わらず、部屋数は十本の指を超えたところで数えるのを断念した。
庭に面して開け放たれた廊下を歩いていると、鹿威しののどやかな音とともに清澄な風が吹き込んできて、時折愛らしい鳥の囀りまで聞こえてくる。
桁橋の掛かる透き通った池には、五色の鯉が優雅に回遊している姿が見えた。
まるで現代のテクノロジーからは取り残されたような旧家だが、しかしここにはどんな凄腕のハッカーでも諜報機関でも不正にアクセスすることも攻撃することも叶わないという信頼があった。そればかりか逆に追撃されて返り討ちに遭うだろう。
まあ俺の勝手な脳内設定だが、あながち誇大妄想でもないはずだ。
玄関に戻る道程が怪しく思われてきたころ、ようやく相馬の部屋に到着した。家の中を十分近く歩行した気がする。
「秋空が喧嘩っ早くなくてよかったよ。おかげで大体準備が出来た」
部屋に入るなり、相馬は電気をつけて素早くドアを閉めた。
十畳ほどの、すっきりとモノトーンで統一されたしたフローリングの洋室。屋敷の外見とは裏腹に、いまどきの若者の洗練された部屋だ。
「準備?」
簡易冷蔵庫から取り出されたペットボトルを受け取りながら、俺は勧められるままにソファに腰を下ろした。
佑太と鮎川もてんでにラグやらクッションの上に陣取り、相馬はデスクの肘付きの回転イスに腰を落ち着けて体をこちらに回した。
「柊家のことは、こっちの業界では少し噂になってたからね」
冷たい緑茶で喉を潤しながら、どっちの業界だ、と問い正したい本音を押し戻すようにさらにボトルを傾けた。脇道も周り道も極力避けて本題に入りたい。
「資産家同士ってのは横で繋がってるんだな」
「そういうわけじゃないけど、まあ噂くらいはね」
鮎川はラグの上で胡坐をかいていた片方の膝を崩した。
「それで、どうするの?」
相馬が足を組み直して俺を見た。佑太も鮎川も続く発言に注目している。
俺は深く息を吸って背筋を伸ばした。真剣な沈黙が漂う。
「ナオを助ける」
それだけ言うと、相馬の瞳に満足げな笑みが浮かんだ。
「助けるって、でもどうやって?どこにいるんだよ」
「柊の家だろ」
佑太の問いに間髪入れずに鮎川がこたえる。そう、そこ以外にない。太陽を遮断した家。整備された地下室。そして白い幽霊の目撃談。なにより、ナオがそう言ったのだ。夏音の傍でしか生きられないと。
夜の公園に現れなくなったナオは、もしかしたら監禁でもされているのかもしれない。皮膚を、焼かれているかもしれない。ともすれば暗鬱とした妄執に憑り殺されそうになり、俺は力まかせに頭を振った。
「警察に頼った方がよくねえか」
佑太がもっともな意見を弱気な声で言う。こいつにしてはまともな発想だ。
しかし俺は即座に首を振った。そんなことはとっくに考え尽した後だ。
「警察は動かないよ。前にも言ったけど柊家は顔が利くし、通報したとしてもなんの確証もないんだ。せいぜい形だけの事情聴取程度の訪問で終わるよ」
俺の反論を待つまでもなく、全編の構成を見通した映画監督さながらに、相馬が一刀両断に斬り捨てる。もはや神の視点か。
「具体的にはどうするんだ?まさか不法侵入しての捜索か」
「げ、それって犯罪じゃねえの」
「ほんとうに監禁でもしてるんなら、犯罪じゃないだろ」
「いなかったらどうすんだよ」
鮎川と佑太のやり取りを聞きながら、俺の頭も整理されてくる。不法侵入、もしナオを作為的に、無理やり隠しているのだとしたらそれしかない。しかし、万が一ナオが監禁などされていなくて、自分の意志でそこに留まっているのだとしたら。俺の行動が無意味で迷惑なものだとしたら。
そう思うと、濁流に呑まれたように決意が揺らぎ、目の前の道を蒼然と見失う。
それでもー
「秋空、どうする?」
俺の顔を覗き込み、相馬が研いだ視線を向けた。いつもの柔和な眼差しではなく、真意を見透かすような鋭利な眼光だった。
俺は深く息を吸い込んだ。
「行くよ」
ナオは待っている気がした。ただの勘だ。いや、待ってはいないのかもしれない。関わらないでほしいと、危険には、夏音には近づかないでほしいと望んでいるかもしれない。
しかし本心は、その奥に眠らせたまま隠した本当のナオは、きっと俺を待っていると、どうしようもなく思えた。ただの独りよがりの妄想かもしれない。そうでなければエゴか偽善か自己中の我欲か。なんでもいい。とにかくあの場所からナオを連れ出したい。たとえ余計な事と疎まれても、拒絶されようとも、自由にしてやりたい。
「乗るぜ」
力強い、胸をすくような一声が迷いなく飛翔する。
たとえるならジャイアン的な立ち位置の鮎川からの気持ちのいい許諾。常から強欲でも独裁的でもない人格者なだけに、ただただ頼もしい。
「まじかよぉ~」
間違いなくスネ夫を彷彿とさせる臆病風を吹き荒らして佑太が頭を抱える。どうせ最後には仲間になるんだ。早いとこ観念しとけ。
「作戦会議といこうか」
まごうことなく明晰な策士、出木杉君がまさかレギュラー参戦してくれるとはチート的な展開だ。毎回こうなら年一の長編でのび太たちも苦労しないだろう。しかしそれじゃあ何か、四次元ポケットなんて持ち合わせがない俺はのび太か。若干不本意だがそれなら射的でももっと真剣に練習しとくんだったな。などど言うふざけたアテレコをいったん中断し、俺は意を決して全員の顔を見回した。悪ふざけに逃避したおかげか、幾分精神のコンディションが整った。
「その前に、いくつか話しておかなきゃならないことがあるんだ」
かねてより隠蔽していた事実を公開する時だ。ナオを確実に安全に連れ出すには、必須条件だからだ。
「まず、侵入は深夜だとして、どれだけ長引いても夜明け前には撤収したい」
「それだとせいぜい四~五時間だな」
鮎川が顎を撫でる。
「理由は?」
問われて息を詰めた。頭の中にナオの容姿と言葉を鮮明に思い浮かべる。
俺はナオの容貌、真っ白い髪と肌、金色の瞳、そして夜にしか外に出られない事、手首の火傷についてを話した。そして、花の色が白くなったことも。
「アルビノか」
相馬が得心した様相で呟く。たぶんそうなのだろう。それもおそらく重度の。俺だってその存在については漠然とだが知っている。
「じゃあ柊さんが言ってた、死んだ子の傍にいたって幽霊は、ていうかそれをしたのって・・」
佑太の声が慄く。この期に及んで隠し立てすることはできない。しかしやはり簡単に受容されるのは難しいだろう。もし翻意されたとしても、騙すような形で手を貸してもらう訳にはいかない。
俺は黙って頷いた。途方に暮れたように佑太の視線が壁を向いて固定される。
「屋敷で目撃された幽霊ってのもそうだな。つまり屋敷内にいる事は間違いないか」
鮎川は無表情のままだ。さすがクールで豪胆だ。
「白い花か・・・」
相馬が思案顔で口元に指をあてた。そしておもむろに立ち上がるとスマホの画面を操作しながら俺の前に腰をかがめた。
「今朝、事故現場に行ってきたんだ」
初耳だった。俺は返す一語もなく、差し出された相馬の端末の画面を見て、息が止まった。
「これだけ、なんだかちょっと浮いてて気になったから」
無数の献花が手向けられた駅前のロータリー、そのほんの隅に、ひっそりと横たわる白い花。手折られて、野ざらしに横たわり、しかしその花弁は今だ枯れず、美しく花開いたままだ。
「勿忘草だよ。出回ったり群生するのは青色が主で、白は珍しい」
佑太と鮎川も寄ってきてスマホの画面を覗き込んだ。
「白い勿忘草の花言葉は、”私を忘れないで”」
―僕のことは忘れて
そう言ったナオの言葉が、つい今しがたのように蘇る。
全部忘れて、自分だけ何事もなかったかのように平穏な日常に戻る、風化し、いつしか跡形もなく流れ落ちる砂城のように捨て去る。そんなこと、出来るわけがない。
ぐっと心肝に染めて顔を上げた。一片だけしつこく喉に引っ掛かっていた魚の小骨みたいな迷いをすっかり胃の底へ追いやって消化する。
この花は、たしかにナオが持ち帰ったものかもしれない。しかし、この場所へ置き去りにしたのはおそらくナオじゃない。こんな風に無遠慮に投げ捨てるような真似をするはずがない。
これ見よがしに置いたのは、おそらく夏音。全部知っているのだと、知らしめるように。そしてまるで花と同じようにナオを支配していると誇示するかのように。
打ち捨てられても凛と枯れることのない花が、儚くも清冽なナオ自身を反映しているように見え、震えそうになる。
「無理にとは言わない、でも、出来るなら協力してほしい」
「あったりまえだろっ!」
食い気味に佑太の元気な声がして、俺は面食らった。てっきり降りたとばかり思っていた。
「健気だよなぁ、、ロマンチックじゃねえか。花に想いを託すなんて」
なにやらうっとりと目を閉じ、気持ち悪く両手を組んで自己陶酔している。なにかがドンピシャに刺さったようだ。まあいい。賛成票だけありがたく頂いて黙殺しよう。
「夜明け前に撤収っていうのが必須だとすると、首尾よくやらないとな」
鮎川はいったん決断した意志を曲げるなんて了見は端から持ち合わせていないらしい。心底惚れ惚れする男前だ。マジでリスペクトだぜ。
「それに秋空の頼み事なんて、滅多とないことだしな」
「それなっ!ここで逃げたら男じゃないぜ」
数分前に賊軍となり掛けていた佑太が調子よく同調して肩を組む。
言われて初めて自分についてを思い返した。そう言えばそうなのか、不明瞭な自伝を掘り起こし、苦笑する。俺の人生において突出したエピソードの欠落が浮き彫りにされた気もする。
「じゃあまずこれを見て、頭に叩き込んで」
相馬がフローリングにA3のコピー紙を二枚重ねたくらいのサイズの図面を広げた。
四方から囲むように俺たちはそれを見下ろして息を呑む。
「これ、もしかして・・・」
「柊家の間取り図だよ」
涼しい顔で言ってのけて、指をさしながら解説を始める。俺たちは呆気にとられる間も無く、引き込まれるようにその指南を傾聴した。
「深夜だし屋内に人は少ないと思う。両親と、住み込みの使用人が数人、それから柊夏音とナオ氏くらいだろう。でも油断はできない。警戒して人を増やしてる可能性もあるからね」
広範な敷地を連想させる入り組んだ地図。迷路みたいにも見える。人の住む家と言うよりは、何らかの基地内部のようだ。
「随分広いな、それに構造が複雑だ」
鮎川の見解に相馬は頷く。
「後から壁や通路を増設してる。これは一応最新の地図だけど、もしかしたらさらに増やされたり変形している箇所もあるかもしれない」
四階建ての居宅は、もはや家と言うよりは学校か社屋のような規模だ。郊外のさらに外れに聳え、殺風景なコンクリート仕立ての外観に、エレベーターや食堂、書庫まである。
「これ、セキュリティとかやばくねぇ?」
佑太がごくりと喉を鳴らす。顔面蒼白だ。
「もちろん最新鋭の防犯システムだよ。ネズミの子一匹通さないくらいのね」
「じゃあ・・・」
「準備は大体できたって言ったでしょ。そっちは得意分野だ」
だからそっちはどっちなんだ。俺は度重なる疑問をさらに積み上げたまま放置して相馬の端正な横顔を見つめた。一ミリのずれもない、お手本みたいな笑顔だ。
佑太や鮎川もなぜ何も聞かないんだ?俺が神経質なだけなのか?
「だけど当然正面からは入らない。僕たちは招かれざる客だからね。相応の手筈を踏まないと」
なんだかダンジョンに挑む冒険者たちを操るプレイヤーみたいなノリで教示する。頼むから演出はほどほどに最短でまっとうなルートを選択してくれ。
「どこから入るんだ?」
恐る恐る問い掛けた。ヘリコプターから降下して屋上から乗り込むとか何十メートルもトンネルを掘って床下から潜り込むとかはさすがに御免こうむりたい。
相馬は俺の鬼胎を知ってか知らずか、ますます笑顔が晴れ渡っていく。
「潜入って言ったら猫も杓子も屋根裏からと決まってる」
決まっているのか。何だか肝心なところでずれているような。それにこんな近代的な建物に屋根裏なんてあるのか。
俺の顔色がアオカビみたいに染まったのを見て、相馬はくくっと笑った。こいつは何でこんなに楽しそうなんだ。
「まあそれは冗談で、裏口からだね」
相馬は長い人差し指で一点を指した。
「駐車場に面した物資搬入なんかをする裏口がある。入口も広いし、扉の構造も単純だ。ナオのいる場所は特定できないけど、候補としては地下室が一番可能性が高い。この搬入口は地下への通路からも近い」
俺たちは開いた眼を皿より平らにしてその位置を頭に刻み付けた。一階の裏口、そこから右に折れ、左に折れ、分岐点をさらに右に折れ、扉の向こうにある階段を降りたら地下へ出る。そこからまっすぐ進み、左の通路に入った一つ目の扉が改装された地下室だ。それだけでも随分入り組んでいる。
「捜索は二手に分かれよう。もう一組は一階から居室と思われる場所をローラーだ。スマホで連絡を取り合って、もし地下にナオがいなければ速やかに合流する。もちろんその間に夏音が気づいて抵抗・交戦になる可能性もある」
まるでマフィアとの抗争を見積もったようにレクチャーする。相馬の澄んだ瞳が一際らんらんと輝いているように見えた。見かけに寄らず好戦的な性質(タチ)のようだ。
「組み合わせは?」
「僕と秋空、佑太と鮎川で行こうと思う」
互いが互いをフォローし合うと仮定して、順当な組み分けだろう。誰も異論はなく、綿密な作戦会議は続いていく。
「もし夏音もしくは誰か屋敷内の人間に遭遇したら第一に逃走、合流を図る。絶対に単独行動には走らない事。そして出来る限り誰も傷つけない事。あくまで目的は安全な救出だ」
深奥から震えが湧き上がってくるのを感じた。武者震いというやつだろうか。相馬の気迫が乗り移ったのかもしれない。佑太や鮎川も憑かれたように陶然と聞き入っている。カリスマ的指導者のオーラって言うのは、こういう感じなんだろうな。
なんにしても俺には有難かった。皆のやる気が同じベクトルを向くのはなにより心強い。
そこで相馬は急に声を潜め、莫大な財宝の在処を今際の際で打ち明ける海賊船の船長みたいな面持ちで言った。
「それに、ナオが言ったように、夏音には気を付けた方がいい。ナオに不思議な能力(ちから)があるんだとしたら、夏音にもあるかもしれない」
それはまさに目から鱗、寝耳に水だった。そうだ、だとしたらこれまでの異常な事件も、先日の事故も、にわかにつじつまが合ってくる。
「柊夏音には出来るだけ近づかない。それが鉄則だ」
「わかった」
俺たちはそろって首を縦に振った。西日が徐々に家屋を包み始め、南の窓を鮮烈に染めてカーテンの隙間から一筋の光芒を落とす。かすれた雲が光の池の中に朧気な魚影のような波を幾重にも生み、揺らいでは消えていく。
夕陽が月と交代し、闇が黄昏にとって代わって息づく頃、俺たちは再び集結する。
「本当に俺たちだけでやるんだな。警察とか、誰の力も借りないで」
佑太が誰もに、そして自分自身にも確認するように言った。
「ナオを、好奇の目に晒したくない」
俺は取り繕うことなく正直な気持ちを明かした。それが最低限の礼儀のように思えた。俺自身の見栄や虚栄なんて深海の微生物よりも矮小なものだ。
外見もしかり、もしかしたらナオはなんらかの罪にかかわっているかもしれない。フェアじゃないのはわかっている。それでもその場で司法の手に引き渡すなんて冷酷な仕打ちを与えなくなかった。その瞬間だけは、ナオを夏音から解き放ったそのときだけは、誰にも踏み込んでほしくない。
佑太が隣に陣取り、焼き立てのパンみたいな温かい手を俺の肩に乗せた。力強く、優しい重みが浸透する。
「姫の奪還だな。燃えるぜ」
子供のようにキラキラした瞳を糸みたいに細め、快活に笑った。
また少し調べたいことが出来たという相馬家を後にし、俺たちはいったん各々の家へと帰宅した。決行までなんらかの連絡を取る際は相馬のスマホを経由するという事で合意し、俺は来る深夜に向けて気合を入れ直した。もう後には引けない。幕は上がり、火蓋は切って落とされた。禁断のパンドラの箱は開け放たれたのだ。
午後七時を回ったところで、玄関を開けるとキッチンからあたたかな匂いが漂ってくる。生姜焼きだな、とあたりを付けて二階の自室への階段を上がった。なんとなく最後の晩餐の絵画が思い浮かび、縁起でもないと空想の吹き出しを手で追い払う。
隣の部屋からは妹の話し声が壁越しにぼそぼそと聞こえてくる。大方友達と長話でもしているのだろう。女と言うのは学校で会って放課後も連れ立って出掛けてさらに家に帰ってからも話すことが尽きないなんてまったくその社交性だかバイタリティだかに驚倒する。よくネタが尽きないものだ。
窓が開いていて、殺人的な温度で飽和する室内の空気が僅かに流れている。
間も無く夕飯の号令がかかり、妹も電話を終えて、父親の帰りは待たずの夕食が始まるだろう。
繰り返される、いつも通りの行程。食卓では妹と母が他愛ない話で盛り上がり、俺は所在無げに話題を向けられれば相槌をうち、一番に食べ終わって二階へ上がる。母たちは一緒に洗い物と片づけをして、まだ喋り続け、俺は部屋で一人の時間を気ままにのんびりと過ごす。
当たり前の日常をこんなにも逐一認識し、体感したことはない。もしかしたらこれは、この無益に浪費していただけの毎日は、最も貴重なものだったのだろうか。失ってから気づくって名言があるくらいに。
若干感傷的になりながら、ベッドに横たえていた体を起こした。予想通り、階下から夕飯の完成を告げる母の明るい声が聞こえてくる。俺と妹を呼び、ご丁寧に献立の披露まで付け加えて、パタパタとキッチンへ引っ込む足音までわかった。
俺はゆっくりと窓を閉め、ドアを出て、好物の生姜焼きの味を噛み締めようと決めた。
早めの風呂を終えたところで相馬からの一報が入った。
午後九時。結集の連絡だった。動きやすい服装という指定だけで、特に持ち物はいらないという警句に甘え、着の身着のまま一応財布とスマホだけ持って相馬邸へ向かった。
ちゃりを爆走させること二十分、丁度前方から同じく破竹の勢いでちゃりをドリフトして門扉前に乗り付けた佑太と正面衝突しそうになり、どうにか踏ん張って体勢を保ち佑太を睨み付けた。
「危ないだろ、もうちょっと安全運転しろよ!」
しかし自転車から降りた佑太の姿を見て、苦言は失笑に取って代わる。
「なんだよその恰好・・・」
まるで全身タイツみたいなダークグレーのライダースーツを着込んでいる。気合が気持ちよくあさっての方向へ寝違えていた。
「親父のを借りたんだよ。身軽だし、目立たないだろ」
胸を張る佑太にどこか心温まるものを感じて、それ以上の小言を飲み込んだ。確かに身軽かもしれないが、ある意味目立つぞ。
そんなやり取りが見えていたかのように、呼び鈴を押すまでもなくいかめしい木製の門扉が重厚な軋み音を鳴らしてゆっくりと開いた。それとなく木枠でカモフラージュしてあるが、ばっちり防犯カメラが付いている。きっと音声まで筒抜けだろう。
俺は佑太と顔を見合わせ、無言で頷き合って門をくぐった。
玄関には相馬が迎えに来ていて、鮎川もすでに到着していた。四人で連れ立って数時間前に訪れた相馬の部屋へ向かい、最終の打ち合わせをする。
「じゃあまず、これ」
相馬は三台のスマホを見せ、一台ずつ俺たちに渡した。
「連絡用のスマホだよ。屋敷内ではこれを使って連絡を取り合おう。僕たち四人の番号が登録されてる。もちろんハッキングの心配はないよ」
そう言うと、俺たちのスマホは没収された。ついでに財布も。本当に何もいらなかったようだ。アーミーナイフやら方位磁石やら呼び笛やらチョコレートやら・・・その他エトセトラ持参していた佑太の荷物も敢え無くすべて御用となる。
「地図は頭に入ってる?」
相馬は最後に図面を広げ俺たちの顔を見回した。スマホにも図面と連動して位置がわかるアプリが搭載されているらしく、随時各々の居場所は把握できるらしい。他にも邸内の暗闇に対応する暗視ゴーグル、いざというときの閃光弾(威力は正規品の三分の二くらいらしい。正規品のレベルは不明だが)等々まるでスパイ道具専用四次元ポケットだ。そうか、相馬は出木杉君兼耳を齧られていない未来の猫型ロボットだったのか。俺はこれらの非凡な装備の数々はいったいどこから支給されているのかという疑問をもはや脳内から大気圏外へ駆逐した。
「さすがに爆弾は用意できないけど、ゲリラと事を構えるわけじゃないからね。あくまでクラスメイト宅に不法侵入して仔猫一匹連れ帰るようなものだ」
気楽に行こうと朗らかに付け足し、めいめいにグッズを手渡していく。さらりと付け加えた注釈が土台正当性を欠いた物々しさではあるが、異議を述べても始まらない。正義の天秤が曖昧に傾くが丁々発止の時間も意欲ももはや蛇足だ。俺はありのままを納得した。元より正攻法が通じる相手じゃないし、言われてみればその通りだ。ドンパチが目的じゃない。あくまで救出、向こうからしたら誘拐か。
侵入先がモンスター校並みの敷地ではあるし、正体不明のボスキャラが現れる可能性が無きにしも非ずだが、それならサバゲ―かリアルロープレみたいなものだ。いや、やっぱりどちらも経験ないな。飛躍する設定を推敲し、やがて製作半ばで打ち消した。なにが出ようと、とっくに腹は決まってる。
「僕と秋空が地下室へ、鮎川と佑太が一階から探索して。使用人の部屋は一階東南の一角に集中しているから、そこは避けて出来るだけ穏便に速やかに。夏音の部屋はおそらく二階か三階。もし地下でナオを発見できなければ合流するし、上階へはそろってから進行しよう」
それからスマホや渡された装備の取り扱い説明をざっと受け、時刻は十一時を指した。
「もし降りるなら、これが最後のチャンスだ。もちろん責めたり笑ったりしないよ」
それは俺のセリフかもしれないのに、相馬が覚悟を代わるように代弁する。きっと当事者である俺が言えば、二人は本音を吐露し辛くなる。
相馬の穏やかな諮問に、言うまでもなく誰一人、席を立つものはいなかった。
深夜十二時。隣市の北端にある柊邸に集結する。念のため別々のタクシーに乗り、2ブロック離れた位置で降車して合流した。俺たちの誰かが尾行されている気配はなく、無言で再会を祝す。誰もが強ばった表情筋にどうにか平静と言う薄皮をまぶして、震えそうになる足を律するように踏み鳴らした。相馬だけは超然と笑みを侍らせていたが。
「非常灯、常夜灯を除くすべての照明が消えた。行こう」
弱い夜風が俺たちの緊張を拭うように、体温を模した温もりで吹き過ぎた。
予定通り邸宅の東側、物資等の搬入口となっている裏口へ向かう。
相馬が言った通り、刑務所か映画で見るサイコな研究施設みたいに白塗りの高い塀に囲まれた一角にある堅牢な鉄門は、見る限り数十台は設置されているカメラが一台も反応することはなく、あまつさえ僅かの力で難なく開いた。アナログな閂などない、全オートマで管理されるシステムロックの脆弱なところだろう。そして、そっち(・・・)が得意な相馬向きなのだ。
無人カメラの追随に遭わず、当然警報装置の金切り音も響き渡ることはない広く殺風景な芝地を抜け、ものの五分足らずで裏口に到着した。広々としたコンクリートの駐車場には一台の車両もない。送迎等に使用する自家用車は邸内に収納されているのだろう。間違いなく高級車だろうしな。
相馬は扉に設置された電子ロックの画面に迷わず二十桁を超すナンバーを打ち込み、更にスマホを取り出してドアに張り付いている液晶にかざした。なにかの認証なのだろう。二重のロック、柊家の、ひいては夏音の周到さを感じた。
小さな開錠音と共に扉を押して開き、俺たちは体を滑り込ませた。そして慎重にぴったりと閉める。
ここからは別行動だ。無言のアイコンタクトにジェスチャー、緊張感だけが音を立てるようにビシビシと空気を伝って全身に突き刺さった。
”グッドラック”
佑太が口パクで親指を立てて背中を向ける。俺はそれを見送って、相馬と共に地下への道筋を辿った。ナオが囚われているかもしれない、最有力候補のその場所へ。
一歩進むごとに心臓の音が早まる。足音は立てていなくても心音が回廊中を響き渡ってしまいそうだ。俺の固い挙動を感じ取ったのか、相馬は忍びの如くしなやかに翻していた動作を緩め、下校途中に談笑するくらいの気軽さで歩を緩めた。
地下への階段を降り、通路を進みながら、視界は暗迷の一途を下る。俺は促されて額の上に固定していたゴーグルを掛けた。オリーブ色に染まる通路が眼前に映し出される。
「僕たちどうして仲良くなったんだっけ?」
相馬から場にそぐわない気の抜けた話題が差し込まれる。どうして?どうしてだったか、俺は瞬間的に記憶の波を遡行し、形あるこたえを探す。どうして仲良くなったか、なんていうのは最も難解な謎だ。どうにか思い出しても、文章にした途端にうまく表現できず違った形状に捻じ曲がってしまう。本当に伝えたいことから遠ざかり、忸怩たる思いにもどかしくなる。
「席が、前後だっただろ。名前順で」
仕方なく定かな事実だけを述べた。そうだ。たったそれだけのことで三年間共に過ごし、同じ高校に来て、そしていまこんな大それた計画に賛同し、共闘し、リスクを顧みず地雷だらけの危険な橋を渡っている。
「そうだったね」
相馬は軽やかに微笑む。過ぎた日の、夕暮れに色づいた風が頬を撫でたような気がした。
「もし席が遠くて、そればかりかクラスも違って、もしかしたら学校も違って、出会う事すらなかった可能性もあったんだよね」
相馬の言いたいことは分からなかったが、わかる気がした。言葉にも形にもできないが、根源的に心奥に住まわって自由に徘徊しているもの、それが時折光に照らされて気紛れに顔を出し、思いがけずばったり遭遇する瞬間のように。
「偶然は必然なんだ」
柔らかい声が、浮き立ちそうになる俺の足元を打ち付けるように肯定する。
「僕たちがいまここにいるのも、必然で、必要なことだ」
相馬も佑太も鮎川も、ここに来る必要はなかった。俺がナオに出会わなければ、きっと今頃自宅のベッドで漫画かゲームか安眠中か、夏休みの当たり前の日常に疑うべくもなく寛いでいたはずだ。
この場にいるのは、俺の一存で手前勝手な自己満足と言われても仕方ない。けれど相馬の解釈は真逆だ。俺を励ますために言ってくれているのが痛いほど伝わった。危険なことは、こんな重装備を誂えた相馬が誰よりも承知している。俺が弱気になってどうする。
「それに、やられっぱなしは性に合わない」
相馬はそのときだけきらりと輝く少年の瞳に戻った。言ってることは若干ヘビーだけどな。
「ちょっと、殴ってくれ」
俺は頬を突き出した。外部刺激による強制執行だ。
相馬は目を瞬いて俺を見たが、すぐに涅槃像みたいに穏やかな顔で強烈な一発を(張り手で)右頬に炸裂させた。
「・・・サンキュ」
火花みたいな星の瞬きを数えながら、俺は精神が地に根を張っていくのを感じた。
前方に非常灯の灯る通路の角が見えた。そこを曲がれば地下室がある。
扉は一つではなかった。通路は先の見通せない暗闇の奥まで伸びていて、最深部と思われる箇所の非常灯が薄ぼんやりと四等星のような弱い光を届けている。その他の光源はなく、もちろん無音、無味無臭の、無機質な空間だった。顎先から滴る汗の一滴すら、床に触れた途端水紋を広げるように隅々まで波及してしまいそうな静けさ。
相馬がいったんスマホを取り出し間取り図を確認する。地下室は間続きで二つ、つまり入口は一つのはずだ。しかし、扉は左右対になるように五列は続いていて、その先は見えない。まだ先にも扉がある可能性もある。
「へー」
ややあって、相馬が短い感嘆詞を口にした。
「増築、というよりは即興のトラップだね、これ。しかも全部防音、内からも外からも声は届かない。開けなきゃ確かめようがないな」
どういう意味だ?目だけで問いかけた俺に、相馬は実に楽しそうに白い歯を見せた。なにか目に見えない重大な布石を叩き付けられた気がする。
「間違ったドアを開ければドカンか、蜂の巣か、あるいは火だるまか」
おいおい、クラスメイト宅で仔猫を攫うだけだよな。俺があんぐり開けた口を戻す間もなく、相馬は砕けた口調で言った。
「さて、秋空の勘の出番だ」
全弾丸が詰まっているやもしれない人生最大のロシアンルーレットを前に、マフィアとの抗争の方がもしや容易だったのではいう妄信に塗れ、天を仰いだ。
「勘って・・・あてずっぽうとか行き当たりばったりってことか」
「運を天に任すってことさ」
相馬は飄々と言ってのける。俺が仰いだ天は日輪の片鱗も見えない真っ暗な暗雲だが。
「ま、それはものの例えとして、秋空の勘はなかなか信憑性があると思ってるよ。原動力が何であれ、ごく短いスパンでここまで辿り着いたんだから」
そうおだてられてもここにきて命がけのあみだくじを引かされるなんて想像だにしていなかった。褒められても煽られても無い袖は振れないが、どうやら相馬的観測では俺にははためくサイズの振袖があるらしい。大枚が出ればもっと良かったけどな。
暗がりでぼうっと浮かび上がるスマホの間取り図には、俺たちの居場所がアルファベット表記で表示されている。
俺は秋空のA、相馬はS、鮎川は俺と被る為孝順のT。佑太はY。AとSは仲良く重なり合って点滅し、TとYは前後になりながら少しずつ一階を東へ進んでいる。そちらは今のところ問題はなさそうで、つまり完全に天国と地獄ってわけだ。
「いくらなんでも勘は無謀だろ。なんか他に手はないのか」
どこかで諦念しながらも代替案を僅かに期待して相馬の涼しい目元を見た。しかし相馬はアフタヌーンティーとでも洒落込みそうなリラックスした表情を崩さない。
「向こうが一枚上手だったね。あれだけ派手に挑発したくらいだからこのくらいは仕掛けてても確かに不思議はないか」
他人事みたいな口振りに、事態の深刻さが希釈され脳がプチパニックに陥る。相馬の慧眼を以てしても読めなかった夏音の偏執性にぞっと生唾を呑んだ。
「ブラフの可能性もあるけど、半分は本物かな」
サバゲ―でビービー弾が命中するのとはわけが違う。被弾すれば間違いなく不遇のアンデッドだ。
薄寒い地下室で背中のシャツがじっとりと汗ばんでいくのを感じる。もししくじれば俺ばかりか相馬も無事ではすまない。それに、ナオとの再会も叶わず人生敗退の流れとなる。
俺の逡巡は地球を二周するくらいのレベルで大回りに彷徨い続けた。
「やめる?」
そのとき、静かな声音が望外の選択を迫った。顔を上げると、相馬の視線が水平に俺を射ている。俺は両手の拳を親指が手のひらに食い込むくらい握りつぶし、声にならない渇を注入すると一つの扉を睨んだ。
やめる、そんな選択肢があるわけがない。ここで背を向けて無事に帰りおおせたとして、なにになるというのか。ナオをこんな狂った場所に残して、ナオのいない世界に、二度と戻るつもりはない。
肩をそびやかして暗いリノリウムの通路を進み、ドアの前に立った。白い、なんの変哲も所懐も感じない無表情なドア。相馬は何も言わずぴったりと後に付いて来る。一人で難を逃れようなんてさらさら思っていない。死なばもろとも、いや、死亡フラグなんて洒落にもならないな。
「いいか?」
まるで自分自身に言い聞かせるように、シルバーのレバーハンドルに手を掛けた。相馬が真後ろで頷いた気配がして、俺は最後の覚悟のピンを引き抜いた。ドカンか、不発か。
「もしハズレなら気づかれて鮎川と佑太も一蓮托生、玉砕だ。頼んだよ」
重量メーターを振り切るプレッシャーは親切心からの激励と受け取っておこう。成功時の賛辞に上乗せするためのな。
からからに渇いた唇を弛緩させるように舌で濡らし、意を決してハンドルを引いた。
爆風も銃弾も火炎も吹き出すことはなく、拍子抜けするほど呆気なく扉は開いた。その先は電灯の消えた暗い部屋。人の温度は感じない。
がちがちに硬直していた筋肉が一気に解放され、膝から崩れ落ちそうになりながらなんとかその暗闇に一歩足を踏み入れた。しんと、冷えた空気が肌を伝う。
相馬が横に並び、小型のサーチライトで室内を照らした。高強度のLED照明が部分的に刳り抜く様に内装を照らしていく。やはり誰もいない。しかし、誰かの居室であることは間違いなさそうだった。飾り気のない単調な部屋には、シンプルなベッドに棚、ただそれだけだったが、明らかに長期間放置されていたような埃くささはなく、ごく最近機能したであろう手触りが感じられた。
俺もポケットからライトを取り出し、右手に構えながら歩を進めた。八畳ほどだろうか。廊下と同じ、まるで病院のような白いリノリウムの床、パイプベッド、銀色のスチール棚、三段あるその一段目を照らし、俺は近づいた。
解かれた包帯があった。病的なまでに青白く、死んだ蛇のように放置された白い布。
ナオが使ったものだと、一目でわかった。それくらいひっそりと、同じ匂いがした。
間違いなくこの部屋にナオがいた。今日、もしかしたら数分前まで。
相馬を振り返った。その表情から同じことを考えているとわかる。
無言で頷き合うと、俺はスマホを取り出し鮎川に連絡を入れた。応答した声に、一階で合流する旨を伝える。
地下にナオはいない。俺の勘がそう告げていた。
一階の食堂の前で鮎川、佑太と落ち合い、まずは双方の無事を確認して称え合った。
一階組はとくに危険も不審も感じることなく、ただ不気味な幽霊屋敷の肝試しをしているくらいの緊迫感だったらしい。なにも無くて良かったと思いたいところだが、生死を分けかけた地下組との格差を感じるのは否めない。なんとなく温度差が伺えた。
「それにしても広い家だよな。まるっきり生活感はねえけど」
高い天井を見上げ、佑太が呑気に笑顔を見せた。
廊下の足元には等間隔に常夜灯の暗い灯りが落ち、僅かに表情も読み取れる。窓という窓には厚ぼったいカーテンが引かれ、寸分の月灯りも通しはしなかった。きっと昼間も同じ光度なのだろう。昼か夜かも判別できないのでは体内時計が誤認して自律神経が不調をきたしそうだし、なにより気が滅入る。親の敵と思えるほどの灼熱の太陽が恋しくさえ感じた。
裏口を入ってすぐの資材置き場、通路を挟んで対面に二か所ある六畳ほどの保管庫は確認したらしく、食材やら雑貨類が整然と豊富に備蓄されていたようだ。一か月くらいなら籠城できそうだと鮎川はあながち冗談とも言えない真面目な見識を述べた。
四人でキッチンと併設された広い食堂に入る。食堂内は予想に反してアンティークな調度品が並んだ中性貴族のダイニングのようだった。既存の映画で見たような長い食卓に、レンガ色の布を張った古めかしく重厚な椅子。壁には絵画に暖炉、その上には燭台まである。ここだけ別世界のようだ。素っ気ないドアとのちぐはぐさに、居住者の異質な偏狭を想起させた。
それは他の三人も同様だったようで、対話もなく淡々と室内を捜索する。おさまりの悪い椅子に無理やり腰掛けているような居心地の悪さを覚えた。
四本の白いサーチライトが交錯し、重なり、くまなく照射されたところで、隣のキッチンへ入った。給食室みたいに設備の整った広い空間には、しかしやはり人の影はなく、業務用と思われる巨大な三台の冷蔵庫が寒々とした水場を一層冷却させた。中に死体でも入っていそうだ。誰も口にしないが、去来した譫妄は同じだろう。
「人っ子一人いないな」
たしかに、この時間なら屋敷内でうろついている人間がいなくて当然かもしれない。しかし、不自然なまでに閑寂だった。まがいなりにも現行の居宅だ。少しは生活臭らしきものを感じてもおかしくない。まるで、あらかじめそういった痕跡をすべて抹消したかのような恣意的なうさん臭さが付きまとった。
「両親も住んでるんだよな」
「そのはずだよ」
鮎川の問い掛けに相馬が軽妙に応える。どこまでも余裕の表情が頼もしいが、いま一つ実感に掛ける。何も起こらな過ぎて、逆に胸がざわついた。嫌な予感なんて認めたらアウトだ。
俺は夢中で心中にのさばり始めた有象無象の魔物を押し戻した。けして実体化して解き放ってはならない。ただのヤマ勘で留めておかなければ。
キッチンを出て対面の洗濯場へ入った。干場も併設しているが、今はなにもない。数台の洗濯機と乾燥機、大小のカゴに窓もあった。カーテンは引かれていない。ナオがこの部屋に立ち入る事はないということだろう。
俺は目で合図し、意を察して全員が早々に次の部屋へ向かった。ぐずぐずと時間を掛けている暇はない。まだ二階三階四階とある。時計を確認すると一時間が過ぎていた。
深夜一時を回り、今日の日の出は五時七分。タイムリミットまであと四時間だ。相馬が邸宅外に遮光を施した車両を待機させてくれているらしい。運転は、まあ臨機応変に誰かがするさ。とにかくそこまで連れ出すためには、もう十分は早く見積もらなければならない。
決意を新たに先へ進む。向かう先は浴室、洗面室と続いている。そして、相馬が警告した使用人の居室にもぐっと近づく。小用で目覚めてこないことを祈りつつ、手早くかつ静粛に室内を探索した。
途中、足元の桶に躓きそうになった佑太を俺と鮎川で両サイドから神がかり的スピードで抱え、なんとかすっころんだ音を響かせずにすんだ。ほっと胸を撫でおろすと、けろりとした佑太がちろっと舌を覗かせる。どっかに緊張感を落としてきやがったようだ。
無言で睥睨すると、佑太は肩を竦めて口笛なんて吹きそうになるから、また高速で口を塞いだ。勘弁してくれ。
対面に三部屋続く使用人室を横目に階段に足を掛ける。いよいよ二階、夏音の部屋があるかもしれない階層だ。否が応にも心拍数が最高潮に達する。
常夜灯に照らされた段を覚束ない足取りで登っていく。途中の踊り場でほっと息をつき、いよいよ二階を見据えて足を進めた。ぎりぎり暗視ゴーグルは必要ない光量だ。しかしスムーズに生活するには心許ない。ここの人間はよほど闇に慣れているらしい。四六時中屋敷を遮光しているのだから当然と言えば当然か。
最後の段に足を掛けると、長く伸びる通路に究極に違和感を感じた。足の裏が感覚を認識するまでに数秒かかる。スニーカー越しに伝わるそれはふわりと柔らかで、無機質な階段の硬質さとは一線を画していた。
直線に伸びた広い廊下は食卓の椅子と同色のレンガ色の絨毯で敷き詰められ、足元の常夜灯ではなく頭上高くに燭台を模した暗い灯りがともっていた。
その極限まで光度を落としたセピア色の薄明りに浮かび上がる扉は、どれも凝った装飾を施された重厚なオーク材で、それこそ中世の宮殿のような嗜好だった。果てしなく続く様に見える赤茶けた通路が、炎竜の舌のように悍ましく燭台の明かりを受け止め揺れている。
「・・・行こう」
誰もが寡黙になり、互いの鼓動すら聞き分けられるほどに聴覚が研ぎ澄まされていた。
ここに夏音がいるかもしれない。そして、ナオも。
先刻生まれた嫌な予感ははやる気持ちですっかり塗り込められ、払拭されないままに埋もれていた。昂る情動を宥めるように撫でつけて、一つ目の扉の前に立つ。
ごくりと喉が鳴った。期待と警戒と畏怖。それらが綯い交ぜに体外で渦を為す。
しかし俺は一瞬後に後悔することになる。あの時感じた予感をないがしろにしたことに。突き詰めて凝望しなかったことに。
悪い方の予感と言うのは、良い方のそれよりも格段の精度で的中するものだ。あれほど熟知していたはずなのに、そのことをすっかり放念してしまっていた。あまりにも浅はかなミス。だってそうだろう。地下にあれほど手の込んだトラップを仕掛けるやつが、のうのうと安眠しているか。一階になにも無かったからと言って、油断していい理由になどならない。そう、本当に何もなさ過ぎた。二階に無防備に立ち入り過ぎた。作動しない邸内の防犯カメラ、しかしそれがすべての免罪符にはなりはしない。ここが、夏音の本丸なのだ。
竜の舌の付け根から、段階的に灯っていく橙色の明かり。真夜中に浮かび上がる滑走路のように、音もなく光は目の前まで到達し、暗闇から俺たちを引きずり出し、身を隠す間も無く全員の姿を曝け出した。
開いた瞳孔が収縮し視野が正常を取り戻すほんの一、二秒、そして同時に脳が事態を把握するまでのほんの束の間で、激しい衝撃と共に視界はぐるりと暗転した。
物理的な攻撃を受けたと認知した時、隣で佑太の呻き声を聞いた。曖昧に浮遊する意識の向こうで、どうやら相馬と鮎川はなんとか応戦しているらしい動画が見える。
俺は殴打された後頭部を押さえ、どうにか倒れ込まず片膝を付いて身を立てた。
「佑太、大丈夫か」
伏臥したまま動けずにいる佑太に声を掛けるが、反応はぱっとしない。俺よりも打ち所が思わしくなかったようだ。
顔を上げると、相馬が下手人を捉え、ロープを掛けていた。その華麗な手際に思わず感嘆しそうになり、慌てて鮎川を視認する。見事なフットワークで右へ左へどうみてもど素人の動きで繰り出される相手のパンチやらキックを躱し、最後には鮮やかな蹴りをみぞおちに決めてノックアウトした。いやはや御見それしました。俺は自分の不甲斐なさに恥じ入る気持ちを抑制し、現況を鑑みた。
鮎川に倒されたのは中年の男で、寝間着姿のようだ。どう見てもボディガードやら警護やらの相応の心得を備えた人材とは思えない。体つきも平坦な、ごく平凡な一般人だ。
相馬がロープで縛ったのも同年代くらいの女性で、こちらも手練れの女スパイや暗殺者には到底見えない。寝ぐせなのか髪は無造作に乱れ、表情は虚ろで死んだ爬虫類のように眼球が垂れて濁っていた。
一体どういうことだ。むしろ武装兵でも出てきた方が合点がいく。この二人はただの素人で、おそらく勤勉な使用人で、人を襲うなんて蛮行を好んで行うタイプとはまったくかけ離れている。だからあっさり捕えられたわけだが。
相馬が拘束した女の顔を覗き込み、人差し指と親指で眼孔を押し広げ、ため息をついた。
「駄目だ、意識ないね。起きてはいるけど」
「どういう意味だ?」
女は倒れ込むでもなく、床に座り込んだ状態でじっとしている。単に黙秘しているだけではないのだろうか。
「瞳孔が反応しない。何らかの原因で意識障害が起こってる」
「つまり、意図的じゃなかったってことか?」
佑太を助け起こしながら、鮎川が確認する。手心のかけらもない一撃を受けた佑太は、まだ意識が朦朧としているようだ。おそらく俺は女の方にやられて、佑太は男の方の攻撃を受けたのだろう。
「~ってぇ~~、なんなんだよ急に」
ようやく言語を回復した佑太が後頭部を両手で押さえて苦し気に片目を閉じた。大の男のフルスイングの一打をもろに受ければ自明だろう。俺は女の方で助かったと内心少しばかり幸運に感じたことは墓場まで持っていこうと決めた。
「こいつら、どっから出てきたんだ?」
憎々し気に男を見下ろして、佑太は鮎川に肩を支えられながら立ち上がった。軽い脳震盪を起こしていたようだ。
「ここに潜ませていたんだろうね。すっかり侵入は気取(けど)られてたか」
男にもロープをかけながら、相馬はこともなげに告知した。
「逃げる隙を与えちゃったな。もしくは迎え撃つ準備時間を」
起伏のない声音で考察し、男を縛り終えて立ち上がった相馬は廊下の奥へ視線を滑らせた。
「柊の性格から言って逃げないだろ」
鮎川の進言に頷き、俺たちは一方通行の行く手を見据えた。まるで誘うように照らされた赤茶けた道。腐敗した血液の川のように、グロテスクに地を這って続いている。
「三階ってことは・・・?」
佑太が後ろの階段に目をやった。馬鹿正直に進むのは危険と考えたんだろう。
「まずは二階を調べてからだね」
相馬がにっこりと、しかし有無を言わせぬ圧力で言った。佑太は力なく「だよな」とだけ答えてうな垂れる。さっきの一撃ですっかり意気消沈しているようだ。
「マジで殺されたりしねぇよな・・・」
佑太の弱々しい呟きに、今度は相馬はこたえなかった。
連綿と続くドアの間を進んで行く。いちいち律儀に開けて調べていたらきりがない。
要はなにか内部で異変を感じたり、ドア自体に変容があった場合のみ開ける。、と合意し、俺たちは横一列に広がって進軍した。真ん中が鮎川と佑太。右翼に俺、左翼に相馬で両サイドに連なる部屋をドア越しに伺う。鮎川と佑太はそれぞれ前後を確認する役だ。しかしひっそりと静まり返る廊下、部屋の中からも人の気配どころか虫一匹這いでてくる兆候はない。
刻々と過ぎる時間に、焦燥が募り始める。砂鉄のように巻かれた緊張の粉(こ)が、ほんの一点の磁力に向かって精巧な紋様を描いていくように、意識は過度な緊張状態に絡め取られていた。
その磁石を不意に持ち上げられでもすれば、なす術もなく一網打尽となるように。
そして俺の悪い予感はその虚妄を具現化でもするかにように、消え去ることなく居座り続けている。次は殴打くらいではすまないかもしれない。
「秋空、ナオの気配はする?」
佑太が直球で紡いだその名が、ミットを構える前の俺の胸を抉り込む。名前を聞くだけであられもなく動揺するなんて、己の虚弱さを憫笑しながら首を振った。
そもそも無色透明な風のような存在だった。俺は丘での邂逅を追想する。
ナオの、月光のように清廉な微笑だけが浮かんだ。
「早く会ってみてぇな」
憧憬を滲ませた所望がけして建前ではなく本心だとわかる。俺は少しだけ素直になって小さく首肯した。佑太の言葉は言外の含みも他意もなく、いつでも正直なことは誰よりも知っている。小学一年生から、かれこれ十年来の付き合いだ。
「そうだな」
穏やかに応じる鮎川も、心根は健やかに同じだ。
「もうすぐ会えそうだよ」
俺と佑太、鮎川が顔を見合わせ、一斉に相馬を振り向いた。その爪の形が綺麗な人差し指が指し示す先に、出来ることなら一生再会したくない怨霊のような女が、あの駅の雑踏の中で見たと同じ不敵な笑みを湛えている。トレードマークのような深緑のワンピースにブレザーを羽織り、スカートをはためかせて、まさに傲然と立ちはだかっていた。
けして喜ばしくはないが、会わなければ道理が立ち行かない。俺は相反する情操を出来るだけ表面に漏らさないよう、細心の注意を払った。
見た目には華奢で可憐な美少女。しかしそれはぺらっぺらの薄紙の上に垂らした一滴の墨液みたいなものだ。少し目を凝らせば、あっという間にその本質は露呈する。いくら薄めても汚濁は斑に染み広がり、けして誤魔化せはしない。
禍々しい毒香を無限にまき散らす妖花のように、圧倒的な負の存在感。まさにラスボスだ。
距離にして十メートル、いや、もう少しあるだろうか。一瞬畏縮した神経が再び猛り始めるまで、俺は夏音を一直線に睨み続けた。そして素早くその周辺にも目を配る。ナオの姿は見当たらない。
「親切に二度も警告してあげたのに、無謀なのかしら馬鹿なのかしら」
部室と暴走車のことか。警告?謙虚に受け止めても挑発だろ。
夏音はカナリヤの囀りのような美声で歌うようにころころと笑った。今更口車になど乗らない。聞きたいことは山ほどあったが、俺は迷うことなくその中から三重丸で囲われた最上位の質問を選んだ。
「ナオはどこだ」
思ったよりも落ち着いた語勢で発せられほっとした。力んだり狼狽えたり、焦慮を見せてはならない。一瞬頭上の燭台の灯が揺れ、俺たちの影も歪に揺れる。いや、実際に佑太の膝が曲がり、その場に這いつくばった。
「佑太!?」
さっきの後遺症だろうか。俺は咄嗟に手を貸そうとして、すんでのところで相馬に止められた。なにを思ったか、相馬はテグスを取り出して佑太の手足を素早く縛り上げ、自由を奪う。
「相馬、なにやって・・・」
異議を口走りかけた時、縛られたまま沈黙していた佑太が憤然と顔を上げ、不自由な体勢から猛然と立ち上がろうとする。俺は佑太の目を見てぎょっとした。さっきの、俺を襲った女と同じ目をしていた。死んだ爬虫類みたいに濁って垂れた、醜い眼球だ。
「なるほどね」
相馬は佑太の首の後ろを手刀で軽く打った。途端に佑太はぱたりと動かなくなる。それで気絶する奴を初めて見た。理論上可能だとしても、特殊な訓練とか必要なんじゃないか。前にバラエティー番組の実証で失敗していたのを見たぞ。それに「なるほど」の意味は?
俺はクエスチョンマークだらけの脳みそをこれでもかと回転させるが、所詮猿の浅知恵レベルだ。すぐに立場をわきまえ教えを請うスタイルをキープする。時間はないし謎ときは専門外だ。一秒でも早く次のフェーズに進みたい。
鮎川も同様に黙して状況を見守っている。さすが泰然自若としている。
「まさかこんなに身近にいるなんて。精神感応、いや、干渉か。発動条件は視線かな」
「ご名答。ずいぶん遅かったわね。フェアにいけるように全然隠さなかったのに」
風もないのに夏音の長い黒髪がメドゥーサの蛇頭のように脈打った。もはや形骸化した微笑には嫌悪しか感じない。
「鮎川、柊夏音と視線を合わさないで。秋空は・・・平気そうだね」
習得度の五十%の俺に対し、鮎川は一を聞いて十を会得したように安定の伸びしろを見せる。
何だ。目を見たら石にでもなるのか。俺は大人しくホームズとレストレード警部のやり取りを一読者として拝読する立ち位置を決めた。ポジション取りを誤るとアウェイのピエロになりかねない。精妙な推理ショーの頁はまだ先だ。
「心配しなくてもあなたたちを操って殺し合わせようなんて低能な遊びに興味はないわ。そういうの、もう飽き飽きなの。そこの彼を操ったのは単に煩そうだったからよ」
友情ごっこは食傷気味といった皮肉めいたニュアンスをちらつかせる。それを以て俺の愚考もようやくスタート地点に辿り着いた。
言い草から察するに、夏音の能力はおそらく人の意識を奪い操る類のものだ。鮎川が指摘していた通り、露悪的に余罪だらけと明言したも同然だった。つまり「そういうの」、とぞんざいに位置付けた多くの局面に倦厭するほど立ち会ってきた。友人や家族、恋人、親密な関係性を利用し、操り、疵付け合わせてきた。一方を、双方を、その絶望を愉悦の境地で堪能してきた。
相馬が列挙した学内での事件、それ以外にも世に出回らない不審死や変死、いわゆる怪事件は藪をつつけばいくらでも転がっている。そもそも相馬が略述しただけなのかもしれないが、その一部、または多数に関わっている可能性だってある。
思わず身震いしそうになって、俺は右手で左上腕をきつく掴んだ。指跡が鬱血し焼け跡のような不吉な陰影を刻む。
「情緒がないね」
人間の愛憎劇に無関心を隠さない論拠を、相馬は冷ややかに一蹴した。
しかしたとえこの場で俺たちを争わせなかったとしても、意識を乗っ取られれば目的は果たせない。イコールこちらの敗北だ。甘んじて警戒を解く理由にはならない。
それにしても俺は平気そうとはどういう意味だろう。たしかに現行も、これまでも何度となく夏音とは視線を交えている。操ろうと思えば機会はいくらでもあったはずだが、特段変調をきたすようなことはなかった。直接的な攻撃で精神をかき乱されることは多々あったが・・・。
記憶の歯車が急旋回する。突如防波堤が決壊したように厄災の遺恨が雪崩れ始めた。そうだ、こいつのせいで部室は消し飛ばされ、轢き殺されそうになって、阿鼻叫喚の人命救助に奔走した挙句昏倒し、見知らぬ女に殴り倒された。そして、なによりナオを、失った。
「どこがフェアだよ。ナオを人質に取っておいて」
激昂をどうにか汀で留め、やっとのことで自制心を保つ。ナオの居場所、俺の質問の答えを、夏音は意図的に無視している。
「人聞きが悪いわね。ナオは望んでここにいるのよ」
夏音の口からはじめてその名が繰られる。猜疑と懐疑が一点で結ばれ、怒りを通り越して冷めた俯瞰の視点が生まれた。シラを切り続け、煙に巻き続け、ようやく認めやがった。
「あなたが来たって迷惑なだけよ。だってそうでしょ。連れて行ってどうするの?あの子は普通では生きられないのよ」
夏音の言葉に思わず唇を噛んだ。否定したいのにその為の抗弁が出てこない。
日光を遮断し地下室まで備えて完璧に整備された環境。俺の決意にほんのすこしの亀裂が生じる。連れ出して、そのあとナオは無事に生きられるのか。安息を得られるのか。
「本当にそうかな」
清らかな水のような救済の辞が差し込まれ、俺のモチベーションが崖っぷちで踏みとどまる。
「どういう意味かしら」
あくまで高慢な態度を崩さない。声色まで高飛車に彩られていくようだ。いや、半音上がった音程、もしかしたら動揺したのか。
俺は夏音の顔色を凝視した。何故だかわからないが、俺だけは夏音のおかしな力に汚染されないらしい。目の動き、表情筋、、唇の形、一心に刮目し、ほんのわずかでもほころびを見つけようと注力する。
「君は、ナオが夜の世界でしか生きられないと思いこませてるだけなんじゃない」
「え・・・?」
俺は夏音への注視を外した。相馬の論旨が確信を得て滑らかになる。
「君はそうやってずっとナオを支配してきたんだ」
夏音のしっとりと濡れた黒曜の瞳が、コンマ一秒だけ無意味に動いた。
しかしそれで十分だった。十分に、決定的なヒントを漏らした。ようやく同じ土俵に並べたぜ。
「秋空!?」
鮎川の切羽詰まった呼びかけを振り切り、俺は夏音に突っ込んだ。相手は丸腰だ。それに俺に夏音の怪しげな力は通用しない。そんな過信がいっそう邁進を加速させた。
夏音の左後方の扉、そこに自身も把握できていないだろう反射レベル的な刹那で向けられた注意。きっと聞かれては不都合という深層心理が招いた揺動。
勢いを殺さないまま猛然と突進する俺の目の前で、夏音は凄艶に微笑んだ。
「秋空っ!!」
背中で相馬と鮎川の悲鳴とも取れる絶叫が聞こえ、その直後、俺の体は不可避の重力の襲来を受け床へ倒れ伏した。レンガ色の絨毯の柔毛に顔が沈む。
「精神干渉(ちから)が効かなくったって、物理的に攻撃すればいいだけよ。私、銃(こっち)も得意なの」
嫣然と振り撒いた微笑は今しがた俺に銃をぶっ放したとは到底思えない華やかさだ。
「でも感謝して。秋空くんには興味があるから殺さないであげる。ナオ以外で私の力がきかないのは、あなただけよ」
痛みに薄れそうになる意識を奮い起こし、伏せた姿勢で肘を立てて上半身を起こした。
どこを撃たれた・・・?激痛に気が遠くなりそうになりながら、冷静にその根源を探る。
やがてそれが左の膝下だとわかると、今度は火が付いたように更なる激烈な痛みが暴動を始めた。
足かよ・・・。
厄介だな。誘拐犯だって人質の足は撃たない。逃げるのに不便だからな。
俺は奇妙に達観して容態を受け入れた。銃で撃たれるなんて暴力的(ハードボイルド)な展開に現実味を感じ切れていなかったのかもしれない。だが紛れもなく、これは現在進行形の悪夢だ。
つまり俺は一瞬にして機動力を失った足手まといに成り下がった。
それにしも発砲なんてなんでもありか。フェアだなんてどの口がのたまいやがった。
俺は充血した目を剥いて夏音を睨み上げた。屈辱的なアングルだ。
相馬と鮎川も険しい表情で踏み出そうとはするが、うかうかと近づけない。弾倉にはあと何発残っているのか。本当に爆弾でも持って来るんだったと非現実的な後悔が去来する。
惜しみなく噴出し続ける自分の血の熱さに徐々に正気が戻ってくる。止血しないとまずい。
弾が貫通していてくれることを祈り、俺は膝を立ててよろよろと身を起こした。今脳天をぶち抜かれたらジ・エンドだが殺すつもりはないと言った。這いつくばらせて自由を奪うのが目的だったんだろう。つくづく悪趣味な奴だ。
「ハンカチを貸してあげましょうか」
「・・・間に合ってるよ」
右の靴下を抜いて、ズボンを捲った。被弾箇所と思われる場所のやや上を気力を振り絞って縛る。痛みと吐き気が追走し合って襲い、上手く力が入らない。足先まで卒倒しそうなほど血液でどぼどぼに濡れていて正視に堪えなかった。
どうにか自己流の処置を終え、ふら付きそうになる上半身を床に手を付いて立て直したとき、
音もなく、肩にかかる羽のような温もりがあった。俺の体を支えるように控えめに触れられる体温の低い指。白い、透明な月明りのような静けさ。一瞬痛みが遠のく。血の滴りすら時を止めたように凪いでいく。
雑然と搔き乱された空間が静謐に包まれる。
引き寄せられるように顔を上げた。この瞬間の為に、これを永遠にするためにここへ来たんだ。
「ナオ・・・」
美しい月色の瞳を悲しみに染め、ナオは俺の肩を抱いた。
「駄目じゃないナオ、言った通り部屋にいなくちゃ」
サイレンサー付きなのか銃声は鈍くくぐもり響かなかったが、辺りには嗅ぎなれない硝煙の残香が不快に居座っていた。空調もなく澱んだ蒸し暑い空気が燻されたように、いつまでも鼻に付く。
「秋空、足を見せて」
ナオは弾痕の底からしぶとく鮮血を表皮へ押し上げ続ける左足に触れた。俺は黙って膝を立て、躊躇いながらもその箇所を晒す。自分自身でも直視したくない血みどろの惨状に、ナオは臆することなくそっと手を翳した。
「ナオ、部屋へ戻りなさい」
冷淡に布告し、夏音が手にした銃を愛おし気に撫でた。恍惚とした表情に震慄する。
ナオが開いた右手の内側に白い光が満ち、膝の内部からあたたかな塊が抜け出るような感覚があった。しばらくの後、手のひらを結び、そしてその指をゆっくりと開くと鉛筆の先ほどの鉛色の飛礫が床に転がった。それが体内に留まっていた弾丸だとわかった瞬間、出血が止まり、痛みが緩和していく。
「ごめん、傷を治すことはできない」
ナオの示唆するところを黙考して受け止めるに、止血し、弾と痛みの除去をしてくれたという事だろう。十分だった。これでまだしばらくは動ける。
「勝手なことするわね、もう少し苦しむところをみたかったのに。ちゃんという事を聞かないとまた肌を焼くわよ」
「好きにしたらいいよ」
ナオは俺が結んだ靴下を外し、代わりに白い包帯を取り出して傷口に巻いた。慣れた手つきに、逆に哀傷が込み上げる。そして夏音が放った暴言に、抑えようのない憎悪が沸き上がった。
「誰も傷つけない約束だった」
手当を終えたナオが俺に寄り添ったまま夏音を見上げた。合わせ鏡の中に映り込んだように、酷似した容貌。しかしやはり、少しも似ていないと思った。ひどく抽象的で観念的だが、内側から発せられ全身に浮力のように纏わる、魂の色彩のようなもの、その透明度や彩度、むしろ質感そのものが。
「二度と会わなければ、ね。でも仕方ないわ。秋空くんが無理やり会いに行こうとするんだもの」
「・・・治療をしないと」
ナオが俺を振り返る。血と痛みが治まったとは言っても、銃創だ。このまま放置しては数日後にはおそらく膝下とおさらばしなければならなくなる。しかし、そんな恩赦があるはずもない。俺を撃った時から、いや、侵入した時から、もしかしたらもっと前、転校してきた日からか。夏音は狙った獲物の首を食い千切り仕留める瞬間を待っていた。まるでゲームのようにわざと手間と時間を掛け、入念に計画的に。
骨の髄まで強烈な不快感と虫唾が貫いた。とっくにわかっていたが、こいつはイカレテル。
「逃がすわけないじゃない。銃(コレ)も使っちゃったし、私と、あなたのことも知られてしまったんだから」
手にした銃をバトンみたいにくるくる回しながら、夏音は清々しいまでに開き直った。
媚薬のように中毒的な微笑、これをセンター街でやればスカウトが殺到するんだろうな。事態に順応し始め、俺は幾ばくか客観的な分別を取り戻した。
「秋空くんはまだ生かしておいてあげる。じっくり調べてみたいし。でもあっちの人達はいらないわ」
「随分な言われようだね」
俺が撃たれ血相を変えていた相馬がようやく既定値の涼やかな面差しを取り戻した。ひとまず応急処置がなされたことで落ち着いたのだろう。
「真実を明かされたら都合が悪いからでしょ」
そういえば撃たれる直前、相馬は聞き捨てならないことを夏音に問い詰めていた。
まさにそれがきっかけとなって、俺は夏音の反応を見極め、無鉄砲に飛びだして撃たれた。
「秋空、その人が”ナオ”で間違いない?」
相馬の問い掛けに、力強く頷いた。鮎川もナオに見入っている。事前に知らせていたとはいえ、夏音と同じ顔、その上白い肌に髪、金色の瞳はやはり目を引くものがある。
「十六年前、柊麻耶(まや)、君の母親は双子を出産した。その一人である君は無事に生まれ、もう一人は死産だった、とされている。それがナオだね」
ファミレスでの初会議を思い出す。うっかり聞き流していたが、考えてみれば顔立ちはこれほど似ているのだ。他人の空似なんてあるはずもなく、血縁であると考えて必定だ。
「よく調べたわね。どこにも記録は残っていないはずなのに」
居直るような口調が肯定を示している。
「秋空、ナオ、悪いけど、正直に話させてもらう」
相馬は言い置くと、話を続けた。
「おそらくその外見が原因で、両親はナオを受け入れなかった。もしや不貞の子だと疑われる恐れもある。古くからの名家であるが故にその名を貶める醜聞やゴシップはご法度だ。真相を確かめるよりも先に、隠匿に走った。その結果、出産に立ちあった医師を含め事情を知る者をすべて懐柔、いわゆる買収をし、一人は死んだことにされた」
伏せた美しい瞳からはなにを考えているのかは分からなかった。相馬の声に耳を傾けながら、微動だにしないナオの指先にそっと触れた。なぜそうしたかはわからない。一人ではないと教えたかったのかもしれないし、俺自身が平静を欠きそうだったからかもしれない。ナオがどう思うか、傷つきはしないか、みっともなく取り乱しそうだったのは俺の方だ。ナオはすでに相馬の語る内容は承知しているのか、ひどく落ち着いているように見えた。
「だけどやはり不貞の証拠も覚えもない。当然二人の子で間違いないとなってくる。次に浮上するのはアルビノという可能性だ。しかしそれでも奇異な目で見られることに変わりはない。今よりアルビノに対する理解も認知も薄かった頃だ。古くからの名家と言うのは科学的な根拠よりも心情に即した迷信や伝承に流されやすいからね。異形や双子は不吉なものとされ殺される因習だってあったくらいだ。結果ナオはいないものとして隠されることになった」
「そうよ。だから私が助けてあげたの。地下室の鍵を開けて、ナオを出してあげた。六歳の時よ。自分の力に気づいたのもその頃。親や使用人には私の能力でナオを見えない(・・・・)ようにした。目の前にいても感知できない、幽霊みたいに。だからナオはこの家で生きられる」
十年前、地下室の改築や屋敷全体を覆う遮光カーテンの購入。ナオは昼間でも屋敷内を歩けたのかもしれない。しかしそれは、生きた人間としてではなく・・・
やりきれない情動が襲う。幽霊と蔑んでおきながら、ナオを幽霊にしたのは、夏音自身だ。
「でも君は気付いたはずだ。ナオは不義の子でもなければアルビノでもない。ましてや迷信なんて不毛だ」
夏音はブレザーの内側に銃をしまい、、代わりにサーチライトのような形状の黒い筒を取り出した。俺たちが持っているライトよりも一回り位小さく、医者が喉の奥を検査するときに使用するくらいのサイズだ。
「それを使って確かめたんだね」
スイッチを入れたのか、夏音の手の中でライトが青白い光を放った。しかし明瞭に反照する光量はない。せいぜい手元を薄ぼんやりと照らす程度だ。
「それは特別仕様の紫外線照射装置だ。人体に有害な波長で作られ、かつ炎症を起こすレベルまで強度を上げられる」
「つまり、」
鮎川が当惑を抑え、眼窩を開く。
「誰でも火傷するってことか」
ようやく符合した。アルビノだからではなく、誰しもに危害をもたらす仕様。出力を巧妙に操作して、自分に影響はないがナオには害があると信じさせた。太陽のもとに連れ出せば、身体に変調がないことをナオ自身が確認できてしまう。真実に気づかせないために、、壁の内側で偽の実証をした。おそらく幼い頃に植え付けた、卑劣で狡猾な洗脳。
「それに金色に見える美しいヘーゼルアイ。ここまで金に近しい色は珍しいけど、目の色を構成するブラウン、ブルー、イエローの構成としては十分あり得るものだ」
夏音はゆらりと首を揺らした。無機的な美貌に対抗心が透けている。
「君も僕と同じように現実的なもう一つの可能性を考えた。父母以前の混血、つまり隔世遺伝だ。アルビノに特徴的な瞳の色や弱視ではないこと、そしてその照射機で通常のレベルの紫外線で傷つくかどうかを確認した」
「―それで?」
「君の祖父、柊廉人(れんと)は妾腹の子で、母親が白系ロシア人だ。父親の正妻に嫡子が生まれなかった為、廉人氏が正妻の子として柊家を継いだ。異人との混血が蔑まれた時代、当然一族として不名誉な事実は先の理由と同じく隠蔽され抹消された。おそらく君の両親も知らなかったんじゃないかな。だからナオを幽閉した。でも君は、どこからかその真相を知った」
「おじいさまは私に甘いのよ」
夏音は笑んだまま相馬を見返す。相馬は視線を上手く外し、口述を続けた。
「君はナオの自由を奪う為、真実を隠し夜の世界に閉じ込めた。嘘と痛みで幼い頃から信じ込ませたんだ」
聞くにつれ、怒りが混濁しはらわたが煮え滾っていく。胸が重苦しく圧し潰されて閉塞した。これほど強い瞋恚(しんい)に駆られたのは、生まれて初めてかもしれない。非人道的で利己的。人の権利も尊厳も横暴に淘汰し、あまつさえ不条理に使役した。己が我執の為に、ナオの自由を剥奪し続けた。
「仮にその通りだったとして、何か違いがあるかしら」
俺が堪(こら)えきれず浮かしかけた腰をナオがそっと押し留めた。そこには安らかないたわりこそあれ、静穏な眼差しに他の感情はなにも読み取れない。
「両親がナオの外見を厭って存在を隠したという事実は変わらないわ。不義の子かどうか、アルビノかどうかは二の次よ。真実を知ったとしても結果は同じだったんじゃないかしら。むしろ祖父の出自を慮ってほんとに殺していたかもしれない。結果私がナオを自由にした。それが事実よ」
「それで自由にしたなんて言えるかよ」
黙っていられなくなり、俺は低声を震わせた。理性と感情の臨界が溶解する。荒涼と迸る激情の総意を紐解くことすらできない。それでも何かを言わずにはいられなかった。もしくはもう、遮りたかったのかもしれない。これ以上、ナオを貶め傷つけるなにかから。
ナオはあの丘で夏音が自由にしてくれると言った。それが指すところがいまの話なら、そんなものは自由じゃない。捏造され、歪められた自己顕示欲の牢獄だ。
「ナオを幽霊に仕立てたのはお前だろ。姿を見えないようにして、夜しか出歩けないようにして、その機械で脅して」
ナオの痛々しい火傷の跡を思い出す。あれは故意に焼かれたものだ。ろくな手当もしていなかった。
「生まれた時から死んでいるのよ。ナオの存在を証明するものはこの世界のどこにもない。それは幽霊と同じでしょ」
夏音は手にした照射機を目の高さにかざすように持ち上げた。
「それにこれも、小さい頃はそれなりに効果があったけど、今じゃあ顔色一つ変えないから脅しにも使えないわ。この子の怪我、すぐに治ってしまうしね。でも白くて綺麗な肌が焼けるところを見るのは他にはない快感なのよ。だから時々やるの」
口を開くたびに救いようのない雑言を積み重ねていく。綺麗な花には棘だが毒だかあるとはよく言ったものだ。棘どころか刻薄のアイアンメイデン、毒なんて生温い、特級の劇薬だ。
「どうしてナオを匿って自分の近くに置こうとするの?」
相馬の如才ない諮問が冴え渡っていく。
「君が起こした事件と関係があるのかな」
聞いた瞬間緊張が走った。夏音が転校する先々で起こった奇怪な事件、あれにナオも関わっているのだろうか。
「そうよ。毎日退屈過ぎて、ナオとゲームするくらいしか楽しいことが無かったの。どんなゲームか聞きたい?」
「その前に、君の力の作用範囲は?」
「二人よ。距離は関係ないわ。時間もね。私が干渉を解けば終了。視覚操作に関しては特に条件はないわ。見渡せる範囲なら可能かしら」
「ナオ、君は?」
相馬はナオに落ち着いた視線を向ける。それが詰問のような独善性を含んではいないことにほっとした。
「―一人、同時に複数は対象に出来ない」
ナオの声が悲痛に沈んだように聞こえた。それが何を意味するか、俺にはわかりようもなかったが、相馬は納得したように頷き、鮎川も難しい顔をして黙り込んでいた。佑太はいまだ夏音の力とやらが解けていないのか悄然と沈黙している。
ナオの力とは、弾丸を取り出したり出血を止めたり痛みを和らげたことだろうか。
「ゲームの種明かしはこうだ。君は自分と同じようにナオにも何らかの特異な力があることに気づいた。だからゲームと称して確かめたんだ。君の力の対象は二人。君は同時に二人を操り、ナオがそれを救えるかを試した」
相馬の一語一語が疎らな点を成し線を辿り、次第に悪辣な像をなぞっていく。忌まわしくて不穏な、恐ろしく冷たい予感が疑心の防壁を突破して巣食い始める。形にはしたくない。けれど、どんな痛痒を圧してでも見極めなければならない。おそらくそれが、この邪悪な狂躁の序曲だ。
「ナオは体内から外因的に取り込まれた異分子を除去できる。そして血液のように必要な成分は留め置ける。それは直接的ではなくとも命を救う力になり得る。君はおそらく最初のゲームで、その力の効果と作用範囲がわかったはずだ。でも快楽の為か暇つぶしか執拗に続けた」
「そうね、人が死ぬのなんて大して面白くもないけど、そのときだけはナオが真剣に遊んでくれるから」
調律の狂った不快な旋律が神経を揺さぶる。夏音は、ナオが一人しか助けられないことを知っていて、二人を害し一人を死なせた。それを恥じることも詫びることもなく不遜に、驕慢に公言している。心中に薄暗い波紋が広がっていく。ナオがどんな思いで救えない一人を見ていたのか、おそらくそれすら夏音にとっては蜜蠟を燻らせるが如き悦楽だったのかもしれない。
「相馬君、あなたって何者なのかしら。相馬グループの単なる道楽息子ってわけではないわよね。秋空くんの次に興味があるわ」
冷めた目で枝葉的に微笑む。こっちとしてもそれについてはとっくに興味津々だが、夏音は大して関心も無さそうに長い黒髪を優雅に肩の後ろへ流した。大方自分の利にならない人間には爪の垢ほどの興味もないのだろう。
「光栄でもないしお勧めもしないな。僕は秋空みたいに優しくないからね」
きわめて事務的に返す。夏音の胸中などお見通しなのだろう。
「あら、なんだか振られてばっかりね」
肩を竦めて色めいた目線をわざとらしくたなびかせた。
相馬はやわらかな笑みを口元に湛え、主導権を握ったまま会話を続行する。
「ヨゼフでの最後の事件だけは少し趣向が違ったね。一人は容姿も精神も虚無に帰(き)した」
夏音はわざとらしく眉を寄せた。
「ナイフで殺し合わせたんだけど加減がうまくいかなくて。一人は即死、もう一人も虫の息だったのよ。もはや流れる血を止めても失血死は免れなかった。だけどおかげでようやくナオの力が見えたわ。やっぱり命を与えられるのよ。花を蘇らせるみたいに」
漆黒の瞳に陶然と虚ろな光が灯り、声域が一段と広がる。まさしくそれが真意だったといわんばかりに、興奮で声を潤わせた。
ナオはその言葉にはじめて反応を示し、かすかに首を振った。
「命を与える力はない、そう言ったはずだよ。僕はあの子から、人としての未来を奪った」
「説明してもらえるかな」
相馬が静かに促す。
「与えようとすれば本来の姿を失う。花は色を失い枯れる未来を無くす、人間も同じ。それは再生じゃない、喪失だ」
「いいえ、できるわ。コントロールがうまくいかないだけよ。もっと何度も実験を繰り返せば、」
「実験ってなんだよ」
ようやく自我を取り戻した佑太が声を上げた。どこから聞いていたのか、鼻息荒く息巻いている。相馬にテグスを解いてもらいながら、待ちかねたように立ち上がった。
夏音があえて干渉を解いたのか、もはや不要と言う概念が無意識に解き放ったのかは定かではない。
「また何人も殺して、その子になにをさせようってんだ」
言いながら血気盛んに振り上げた手でナオを指さすが、その顔つきが一瞬で惚けた。
「ほんと秋空が言った通り、見惚れるのもわかるわ・・・」
場違いに腑抜けた感想をしたため、佑太の声は収斂して空中分解する。せめて自分のターンは責任持って回収してから終われ。お前は一体なんの為に起きたんだ。
「簡単なことよ。ナオに命を操る力があれば、私は永遠に生きられる」
空前と渇いた沈黙が横たわった。傲岸、強欲というよりは荒唐無稽だ。そんな絵空事を本気で信じる奴がこの時代にいるのかと化石を見るような目つきを返すと、夏音は侮るような嘲笑を向けた。
「秋空くん、あなた、どうして今生きているかわかる?」
「は?」
「あなたが全ての証明よ」
「どういう意味だよ」
こたえながら、なぜか大海の真ん中に取り残されたような茫漠とした不安に襲われた。帰路を見失って遭難したような心細さ。それを埋めるように記憶の抽斗を片っ端から引っ張り出してこたえを漁るが、そこにはさっぱりなんの手掛かりも見当たらない。
確信に満ちた夏音の黒い大きな瞳が、俺を通り抜けいつしかナオに向けられていた。中途半端な立ち位置に挙動を迷いながらも、目の前に出没したブラックホールに捲かれるような緊迫感に息苦しさを覚える。
「ナオ・・・?」
思いつめたような表情に胸が詰まる。ナオは一瞬儚げな視線を散らして、目を伏せた。
「秋空くん、覚えていないの?あなた死にかけたでしょ。十年前に、事故で」
「事故?」
無造作に引っ掻き回した海馬の箪笥が一瞬で収納され、一つの明確な過去の扉を開く。
そうだ、事故。あの時の事故で俺は三途の川を渡りかけ、天使に手を引かれそうになり、そしてなぜだか無傷で助かり第六感(自称)にまで目覚めた。
ゆっくりとナオに視線を戻した。ナオが、舞い落ちる淡雪のように繊細に微笑む。
「秋空、あの時も言ってくれたね。雪みたいに綺麗だって・・・」
あの日の映像が、音声が、昔年の八ミリビデオのようにたどたどしく断片的に映し出される。
十年前の、雪の降る薄暗い黄昏時の住宅街。俺は母親と歩いていて、目前の横断歩道の信号が青色になった瞬間に一人で駆け出した。そして、轢かれた。相手が車だったかトラックだったか、バイクだったかなんてまるで覚えちゃいない。そればかりか轢かれたという自覚すらなかった。走馬灯が駆け巡るほどの懐古すべき年輪なんて持たない俺は、気が付けば体は流れる車両の上をスローモーションで背面飛びし、その下に通り過ぎる車の台数から色まで数えたし、母親の叫び声をこれまたスローモーション再生の音声みたいに低く鈍重にこだまするのを聞いていた。悠長になんで空を飛んでいるんだっけなんて訝しむ余裕まであった。それらをゆっくり一巡噛み締めたところで、現実の衝撃に見舞われた。幸いアスファルトの上ではなく、どこかの植え込みに落下したようで予想よりは痛くない。もはや痛覚も麻痺していたんだろうが、夢の空中遊泳とは比べるべくもない惨憺たる状況という事は、子供心にもわかった。
体を受け止めた冷たく乾いた土が、体内から溢れ出ていく血で生温く濡れていくのがわかった。確かめようにも手足も首も動かない。四肢のどの部分をしてもすでに神経とは断絶され、ピクリとも反応しない。うっすら開いている瞼の先に、白い綿毛が止まって揺れるのが見えた。黒々と林立する木立の隙間から落ちてくる小さな欠片。雪だ、と思った。自分の体が降り積もる雪に埋もれていくのだ。その想像に、呑気にもどこか特別なような、満ち足りたような高揚した気持ちに包まれたのを覚えている。
そのうち足元や腹の奥や頭の先が冷たくなって、虚ろに留まっていた五感が眠るように閉じていくのがわかった。ふわふわと心地好い浮遊感までして、抗う余地もなくそれにただ沈み浸っていく。
重く垂れさがってきた瞼を眠るように閉じようとした時、白い視界の中に揺れる影が見えた。
最後の力を注ぎ瞬きをすると、睫毛から落ちた結晶の向こうに真っ白な人影が佇み、俺を見下ろしていた。肌も髪も白くて、月の光のようにきれいな瞳をしていた。同じ年くらいだろうか。しかし今まで見たことも無いくらい、美しい容貌だった。
ああそうか、死ぬんだな。
そのときようやく正しい思考へ辿り着いた。きっと迎えが来たんだ。でもこんなに綺麗な天使と一緒に行くなら悪くない。
そっと伸ばされた白い手が、凍りかけていた俺の頭を撫でた。優しくて、温かくて、いまさら涙が出そうになった。
「真っ白で・・・雪みたいにきれい・・・、きみは、天使・・・?」
辞世の譫言に一瞬震えたように手が止まり、そして次の瞬間、その天使は、雪雲のあわいから差し込む星彩のように、玲瓏に微笑んだ。
俺は此岸と彼岸の狭間を行きかいようやく意識を現状に舞い戻した。
声が痞えそうになる。声ばかりじゃない、手も足も、あらゆる動作が如実に精彩を欠く。
鼓動までもが我を失くしたみたいに速度を落として血流を鈍らせる。
なぜ今の今まで思い出さなかったんだろう。あれは・・・
「ナオ、だったのか・・・?」
幼いころの、幻覚とばかり思っていたあの夜の天使。真っ白な髪、肌、金色の瞳。
あれは幻ではなかった。
「・・・はじめて、うれしい、ていう感情があることを知った。僕は誰にも受け入れられない、気味の悪い存在だと思っていたから」
あの日会った、その面影と目の前のナオが重なり、一つの存在として明瞭に輪郭を成していく。心が現実を吸い込み、頭が過去を包容して、潤沢に、克明に動き始める。
「死の淵にいた秋空くんをナオが助けた。ナオはあなたに命を与えたのよ」
夏音の告白に、相馬たちも呆然と立ち尽くしている。
俺はナオと見つめ合った。儚げな表情は、肯定とも否定とも取れない憂いを帯びたまま動かない。
「命を与える力はないよ」
ナオはそっと視線を外し、声を宙に放った。夏音の細い眉が持ち上がり、剣を含んだ曲線を描く。
「素直じゃないわね、秋空くんはあなたが唯一生き返らせた人間、もうちょっと調べてみたかったけど、言う事を聞かないのなら今すぐ殺してもいいのよ」
物騒なフレーズを闊達に紡ぎ、夏音は再度銃を手にして顔の近くへ掲げた。黒光りする銃身が白い頬に陰鬱な影を落とす。そして冷然とした笑みを浮かべ、芝居じみた仕草で俺に銃口を向けた。
「死んでからゆっくり解剖してもいいし」
まるで天気の話題でも口遊むようなさりげなさで悍ましい文節を諳んじる。狂気じみた発想にみぞおちから吐き気がせり上がった。
「どうするの?目の前で死ぬのを見たい?」
引き金にかかる夏音の指が無感情に微動する。瞬間、体が強ばり、額にはうっすらと冷たい汗が滲んだ。蛇にねめつけられたように足腰がフリーズする。
「秋空が死んだら、僕も死ぬ」
ナオが無表情のまま返した。
「なにそれ?脅してるの?」
「事実だよ」
夏音から笑みが消え、同時にいまにも切れそうな硝子の糸が二人の間に張り詰めるのがわかった。
「与えたんじゃない、・・・繋いだんだ」
「繋いだ?」
ナオが悲しそうに一瞬俺を見て、夏音に向き直った。
「僕は秋空と命を繋いだ。秋空が死ねば僕も死ぬ、僕が死ねば、・・秋空も死ぬ」
真空の沈黙が堕ちる。早まる心拍に四方から囲繞され、血潮の滴りが耳を打つほど純粋な静寂が満ちた。
「―なんだ、やっぱりできるんじゃない」
何がおかしいのか喉の奥で笑いを転がして、夏音は奇妙に歪んだ笑顔を見せた。
全身の毛穴が開き総毛だつ。最大級の嫌な予感が、このタイミングで大挙して押し寄せる。
「秋空くんとの繋がりを解いて、私と命を繋げればいいのよ。そしてナオを生きたまま凍らせれば、私は若さを保ったまま永遠に生きられるわ」
核シェルターでひしめき合う人々の悩乱でさえ、今この瞬間ほどの強迫観念はないだろう。
「人体(クライ)冷凍(オ)保存(ニクス)か、」
呟いて、相馬は表情を強張らせた。
どこぞの金持ちや研究者たちが不治の病の治療を未来に託し、死亡直後に凍結処置を施すという、非道徳的な都市伝説級の寓話。耳にした事はあるが、技術的にも倫理的にも不完全でカルト的手法という認識しかない。
「生きたまま凍結するなんて、ありえないだろう・・・」
鮎川が発言半ばで絶句したように唇を噛んだ。
自分の肉親にそれをしようというのか。そんな真偽も不確かな冷酷な儀式を。常人の発想からは乖離した狂人的な思想、そこに陶酔する姿に慄然とする。
「サイコじゃん・・・」
佑太もゾンビに出くわしたように顔色を変えた。
「狂ってるな・・・」
鮎川の声は弾けば砕けそうに硬直している。
「古今東西ファシスト、ナルシストってやつは不老不死になりたがるよな」
そして究極のサディストだ。恐れよりも憤懣が先行し、俺は銃口が牙を剥いていることも忘れて気炎を吐いた。人を、ナオを、ただの所有物、道具(モノ)としてしか見ていない。仮にも同時に生を受け、血を分けた双子であるにも関わらず。
「あら、永遠の美を求めるのは千古不易の女の本能よ」
唇に艶めかしく指をあてがい、夏音はナオに詰め寄った。
「ナオ、秋空くんとの繋がりを絶ちなさい」
「できない」
静かに、しかしきっぱりとナオは言い放った。
消えかえていた命をナオが繋いだ。それを切れば、おそらく俺はこの場で即死亡だ。分かっているくせに、冷淡な徴発に一切の躊躇もない。
「もしできたとしても、しない」
「ナオ、言う事を・・・」
「秋空は絶対に死なせない」
ナオは毅然と夏音を見上げた。
夏音は銃口をゆっくりとずらし、腕を体と水平に伸ばした。その先には・・・
「佑太!!」
俺が、相馬が、鮎川が叫び、佑太の肩から血飛沫が舞った。
「・・ぅあっ!」
ノールックで発射された弾丸は佑太の右肩を一直線に襲い、レンガ色の絨毯の起毛の中に深々とめり込んだ。硝煙と鉄錆がまざりあった独特の異臭が蔓延する。
「あら、またあなた。運がないわね」
悪びれもせず、標的さえも定めず、凶悪な弾丸を紙飛行機のような気安さで飛ばす。
「次は誰に当たるかしら」
「佑太、しっかりしろ!」
鮎川が膝をついて崩れた佑太を支え、傷を確かめている。歯を食いしばって耐える荒い息遣いが聞こえ、俺は恫喝を押し留め拳を握り締めた。
「鮎川!佑太は!?」
鮎川の背に大声で問いかける。相馬は背を見せることはなく、夏音の動向を見逃すまいと決然と正面を向いていた。心中は処置に当たりたいだろうが、三人ともノーガードになるわけにはいかない。
「掠っただけだ」
鮎川がこたえ、ひとまずざわついた胸を撫でおろした。
「夏音、お前いい加減にしろよ!」
「もちろん、私の言うとおりにしてくれれば何もしないわ」
カナリヤの美声がセイレーンの歌声を想起させる。惑わし、引き摺り込み、命を奪う、見ための美しさとは正反対の残虐な素顔。芳しい香りに誘われ、羽を休めればたちまち体ごと食われ血肉とされる毒花。忌まわしい、まがい物の美。
「ナオ、もう一度言うわ。秋空くんとの繋がりを絶って、私と命を繋げなさい」
ナオの瞳が呵責と罪悪感に打ちひしがれ、震えている。
「お前は、どれだけナオを苦しめれば気が済むんだよ」
喉の奥からどうにか声を絞り出す。ともすれば言語ではなく獣のように言を成さない咆哮を浴びせそうになる。まだ冷静さを保てているのが不思議だった。傍にナオがいなければ、とっくに理性を失くしていたかもしれない。別に命なんて今さら惜しくもないが、夏音の言いなりになるのだけは真っ平だった。そしてその為にナオが犠牲になるのはなによりも許せない。
「君さ、どっちにしても僕らを無事に返す気なんてないよね。こんなに色々喋っちゃったんだから」
夏音に銃口を向けられたまま、相馬は軽佻に言った。俺は無言の圧で相馬を制する。
余計な事言うな、撃たれるぞ。
しかし相馬は整然としたためた自論を怯むことなく展開した。窮地に晒されているにも拘わらず、大した精神力だと舌を巻く。
「僕は一つ勘違いしていたみたいだ。君の目的は永遠の命、対象は一人で十分検証できたはず、ナオに生か死かを問う場面で選択させる必要はなかった。それにも関わらず敢えて二人を標的にゲームと称した”実験”を続けた。死を弄ぶ優越感、ナオを苦しめる嗜虐心、さらに新たな刺激を求め、君は秋空を探し、近づいた」
「この時を待っていたのよ。永遠に留めるなら、高校生の今が一番素敵でしょう。若く健康で美しく、力も充溢している。時を止めるなら今しかないわ」
夏音は自信に満ちた、マネキンのように精巧な微笑を崩さない。死のゲームは時間潰しだったとでも言わんばかりに懶惰に切り捨てる。
「だけど誤算だったのはナオと秋空が出会ってしまったことだ。その為に秋空に君に対しての猜疑心が芽生え、しかも自分以上にナオに対して興味を持った。君としては面白くないし少なからずプライドも傷ついたはずだ。本来なら秋空を誘惑し夢中にさせて、命についての秘密を暴いたら始末するつもりだったんだろう」
「たいした想像力ね」
「そもそも秋空と恋人になる必要はなかった。あくまでゲームのオプション程度の遊びだったはずだ。だけど予想に反して簡単になびかない、それで君は意地になったんだ。媚びてもデートに誘っても上の空、薄っぺらい見せかけの美になんて騙されなかったってことさ。秋空を落とせないことに業を煮やした結果、腹いせに部室を爆破、談合する僕らへの見せしめに、駅前の虐殺。実に幼稚で一貫性のない、倒錯的な犯行だ。つまるところ君は主義も知性も欠いた、酌量の余地のない低俗で異常な殺人鬼だ」
完膚なきまでの指弾と愚弄に、夏音を覆う瘴気が澱んだように見えた。憎悪を孕み白目は白濁し、黒目が妖しくぎらつく。
そして朗々と断じた相馬が、ちらりと俺を見た気がした。なにか、すごく自然で、それでいて不自然な違和感が過ぎる。
鮎川が佑太の手当てを終え、肩を支えて立ち上がった。弾劾は処置の時間稼ぎとしての役割もあったのだろう。
見つめる先で、相馬の口元がほんの少しだけ、笑んだように見えた。
俺は瞬間的にナオに覆い被さり、小さな頭を抱いて視覚と聴覚を封じた。俺自身の目と耳はほぼ剝き出し状態だが、この際仕方ない。渡されていた耳栓を取り出す余裕すら儘ならなかった。
その刹那、直下に落雷したかの如き激しい爆裂音と閃光が周囲を震撼させた。
強烈な光と爆音の坩堝(るつぼ)に埋もれ、方向感覚も平衡感覚も壊滅する。判断はうろ覚えの残像に一任され、俺は事態を把握した一瞬の後、ナオの手を取ると、夏音の前を横切り一目散に相馬達と合流、階段へ向かって脱兎のごとく逃走した。
頭蓋に乱入した金属のボールが豪快にシャッフルされているように、激痛と大音響が輻輳する。右手でナオの手を握り、左手で暗転する網膜を揉み、こめかみを小突いた。まるっきり手ごたえがない。五感がばらばらに四散したようだ。
ナオのひんやりとした華奢な指だけが唯一の感覚だった。闇雲に進んでいるのではないかと怪しく思い始めた時、前方を塞ぐ屈強な壁にぶつかった。
慌てて立ち止まると大きな背中が見えた。続いて、その肩に腕を掛け、支えられている少し小柄な体。三倍の時間を掛けて瞼を二度開閉し、強張っていた肩の力を抜いた。
鮎川の背中だった。隣は佑太だ。着衣の右肩部分が裂け、肌が露出している。傷口と思われる箇所にはハンカチが何重にも巻かれていた。
どうやら二階の階段付近で立ち止ったようだ。後ろを振り返ると、遠くで夏音が頭を押さえてうずくまっているのが見えた。相馬の断罪で平常心を欠いていた、不意打ちでまともに食らったんじゃあいつだってただじゃすまないだろう。あの威力で三分二?ほんとか。
「ナオ、大丈夫か」
はっとして繋いだ手の先を辿った。真っ先に心配すべきだったのに、全神経が完全に麻痺して、機械的に手だけ引いていた。
ナオは落ち着いた様子で少し顔を上げた。
「うん、秋空は?」
「俺も、平気だ」
若干、いや、わりと無理して笑顔らしき造作を作ってこたえた。そして、さりげなく手を離す。まるで思春期の中学生みたいに妙な気恥ずかしさに襲われた。
「どうした?」
そして、自分の戸惑いを紛らわすように急ぎ気を取り直すと、動かない二枚の背中に問い掛けた。相馬は俺とナオを挟むようにしんがりを務めてくれている。
「降りないのか?」
てっきり裏口を目指して爆走するとばかり盛り上がっていた気勢が削がれた。もたもたしていたら夏音も回復してまた追ってくるなりなんらかの妨害をするに違いない。
「やられたな」
鮎川は階下を覗き見るようにして呟いた。その直後、発言の意味が露になる。階段の壁に朱い影が幾重にも揺らめき、黒煙を交えて焼け焦げた異臭が上がってくる。次第に熱気がいや増し、耳を澄ますと、炎が徐々に肥大し廊下や天井を舐めてさらに熱量を増して階上へ這い上がろうとする殺気がありありと伺えた。
「一階(した)が燃えてる、上がるしかない」
咄嗟に背後を振り返った。夏音が立ち上がろうとしている。
下への退路は断たれ、俺たちは三階への階段を見上げた。その先に光源はないのか、奥を探るほどに進路は闇に閉ざされ、行く手が見えない。
「ここもじきに火が回る、上へ逃げよう」
階段を這い上がる炎の触手が細く見え始めている。煙が充満し始め、目に沁みて鼻も利かなくなってくる。黒煙と火炎は群舞を織りなし爆ぜ広がり、飼い馴らされた獰猛な獣のように追手がかかった。
「行こう」
相馬の掛け声とともに三階への階段を駆ける。まだ汚染されていない空気が清浄に肺を満たすが、いつ業火に捲かれるともわからない。自分の家に火をつけるなんて、狂気の沙汰だ。
「下にいた人たちは?親も住んでるんだろ」
佑太が眉を顰めた。住み込みの使用人の安否は気になるが、すでに復路は隔絶され、救出に行く手段はない。
三階の踊り場に到達すると、二階と同じようにレンガ色の絨毯が敷き詰められた長く広い廊下が現れた。どこにいれば安全なのか見当もつかないが、各部屋を開け放ち、ついでに窓という窓を開け充満する煙を放散する。階下からは暴風が巻き起こり、壁が押され膨張し続ける熱波が轟音を無限に唸らせている。鎮火の気配など微塵もなかった。
「そういえば二階で縛った奴らもいなくなってたな」
足早に歩を進めながら、鮎川が呟いた。
あの男女はいったいどこへ消えたのだろうか。佑太が操られそうになったという事は、少なくとも一人は正気に戻っていたはずだ。あるいは二人とも正気に戻り、逃げたのだろうか。
相馬が前後左右を確認すると、肩で息をついた。束の間の安全を悟っていったん立ちどまる。
ナオが無言で佑太の前に進み出て、ハンカチの巻かれた肩にそっと手を翳した。光が灯り、佑太はまじろぎもせずにそれを見つめている。
「・・・ごめん」
手を離し、ナオは目を伏せた。痛みを取り除いたのだろう。そしておそらく、巻き込んで怪我をさせてしまったことで自分を責めているのだ。フォローしようと口を開きかけた時、おそろしく間の抜けた声が俺の平定をいち早く阻んだ。
「いやいやいやいや全然こんなのほんとになんでもないから。それに悪いのはあの夏音って奴だし、もうまったく一ミクロンも君が気にする事ないから」
有難い申し出だが足裏の絨毯よりも透明感のないレンガ色に頭の先から爪先まで染めて目を白黒させている姿はめっぽう見苦しい。いいからもうナオから離れろ。
「いや本気できみのためなら火の中だって飛び込むし何でも言ってよ」
こいつ俺がナオに見惚れた話をした時なんて言ったっけ?自尊心の欠片もない華麗な意趣返しにむしろ天晴と喝采を送りたくなる。。
俺はナオの肩に手を置こうとした佑太の右手をハエを払うように追っぱらった。
「冗談は置いといて、どうする?」
鮎川的には冗談と判定された佑太の有頂天の妄言をまだ腹に据え、佑太から何気なくナオを遠ざけながら辺りを窺った。
俺たち以外にこのフロアに誰かいるのだろうか。二階での騒動に加え、、一階ではよもや火事まで起こっている。もし残っている人間がいたとしたら、とっくに逃げだすか騒ぎだすかしているはずだ。しかしここまで、夏音と操られていた使用人の二人以外には遭遇していない。
「使用人はわからないけど、両親はもういないと思う。・・・この世にね」
「え!?」
俺、佑太、鮎川の疑問符が重なり、ナオは無言だった。
「十年前から柊夫妻は姿を見せなくなった。たぶんその直後だ。実質的に夏音が柊家を牛耳っていた。柊家当主、廉人氏を操って。そうだよね、ナオ」
ナオは俯いたまま、やがて小さく頷いた。
「あの子、マジでヤバくない」
レンガ色だった顔を青虫色に染めた佑太がわななく。
十年前と言えば俺が事故に遭った年、夏音もたった六歳だ。ナオを地下から出し、邪魔になった両親は排除した。おそらくナオの方が夏音にとって価値があったのだろう。血も涙も、温情も愛情もない。利用できるもの、自分にとって有益なもの、それがすべての選定基準なのだ。そしてそこからはみ出たものは、容赦なく切り捨てる。
「ナオ、外に出られる抜け道とかないのかな」
相馬がスマホで邸内の間取り図を開いた。俺たちのいる位置が点滅している。三階には客室や書庫、書斎、ホールがあるようだ。ホールには隣接して開けたバルコニーがある。一番西奥の部屋だった。
「僕の知っている道は夏音も知ってる」
ナオは弱々しく首を振った。
「まあ、そうだよね」
相馬はスマホから目を離さず何やら考え込んでいる。
耐火構造が施されているのか、延焼の時間が予想よりも遅い。僅かに余裕が生まれ、俺も肩の力を抜いた。だからといって火が消し止められたわけではないし、夏音も諦めてはいないだろう。嵐の前の静けさに違いはないが、少し落ち着きたかった。
思い出して撃たれた足を見ると、痛みも出血もないがやはり見るに堪えない紫斑を広げている。膝下とおさらばは極力回避したいので、何としても腐敗前に治療を受けたいところだ。
「夏音の力はどのくらい強い?意識は完全に乗っ取られるの?」
相馬はスマホを閉じて胸のポケットへしまった。階下から熱気を孕んだ空気に絡まり、煙の臭いが濃厚さを増し循環し始める。
「本人の意識は、完全に奪われる。だけど、記憶はかすかに残る」
「そういえば、俺もなんとなくさっきのこと覚えてる。うっすら、夢みたいな感じだけど」
佑太が合点がいったと言った風に首を縦に揺らした。意識の侵害を受けながら記憶が残る。その意味は、考えるまでもない。
「残酷だな」
淡白に告げた鮎川の横顔には、しかし歴然とした気鬱が滲んでいた。生き残った者に残る記憶、それは、夢と信じて逃避したいほどの耐え難い苦悶だろう。闇の帳が下りるように重い沈黙が立ち込め、俺はいたたまれずナオの薄い肩に手を置いた。
「君には効かないんだね。秋空にも」
ナオは頷いた。俺が特異体質と言うよりは、おそらくナオと命が繋がっている所以の恩恵なのだろう。
「君は、正気だった」
確認するように、相馬はもう一度噛み締めるように言う。
夏音の凶行を、ナオは目の前で見てきた。正常な人間なら、一度だって耐えられることじゃない。俺は殺伐としたやるせなさに両拳が痺れるほど握り尽くした。野放図に食い散らかしてしてきた凡庸な日々を呪った。惰性にかまけた瀞(とろ)のように平穏な毎日。無為と言う名の贅沢。ナオはそんな他愛ない、取るに足らない日常すら望めない場所にいた。
相馬はふと柔らかに瞳をほどくと、あやすようにナオの腕をポンポンと軽く叩いた。
「君が自分の命を絶たなかったのは、秋空の為なんだね」
ナオは静寂に身を委ねたまま、露とも動かない。
俺が生きていることが、ナオの心の支柱になれたのだろうか。繋いでもらった命が、わずかでも役に立ったのだろうか。いや、立てなければならない。これからでも、今この瞬間からでも、惰眠にピリオドを打ち開眼しなければ男としての矜持が廃る。
「僕たちだけでも逃がそうと思っても、もう無理なことはわかってるはずだ。僕らは多くを知り過ぎたし、夏音を非難し攻撃までして逆鱗に触れた。簡単には見逃してもらえないよ」
諦めや後悔ではなく、優しく諭すようにな言い方だった。
相馬は先般、まるでわざと夏音を逆上させるような言い回しをした。夏音の感情を乱し隙を作る為かと思ったが、それだけではなく、日頃は温厚な仮面の下に潜ませている相馬の素顔を垣間見た瞬間だったのかもしれない。夏音の不興をしたたかに買ったとしても、もしかしたら、ナオの為に怒ってくれたのかもしれない。
何気なく姿を追って目が合うと、拍子抜けするくらいいつも通りの飄々と掴めない美形に戻っていた。
ナオが何か言いたげに顔を上げたが、声にはならない。俺はともかく、初対面の野郎三人が出し抜けに救出に参上するという急展開、説明もなしではナオじゃなくても困惑するか。俺は手短に三人の名前と同じ高校の友人であるということを伝え、どさくさに紛れ握手しようとした佑太の手をはたいた。紹介が終わり、ナオは戸惑った様子で頷く。状況が状況なだけに、じゃあよろしくお願いします、とはならないよな。
人見知りと言うよりは、夏音との歪な関係以外常習的に人と接する機会を持てなかったせいなのか、そして抑圧的な環境に置かれていたせいなのか、感情表現が希薄で言葉も少ない。誰かに頼るとか甘えるとかの経験も、おそらくないのだろう。しかし沈痛な表情は俺たちの身を案じていること、そして事態の深刻さを仔細に物語っていた。
「俺たちは望んで関わって、意志的にここへ来た。けして不本意に巻き込まれたわけじゃない」
先の相馬の言葉を受け、鮎川が緩やかに続けた。ナオの心情を察してくれたのかもしれない。
「そうだよ、もう運命共同体ってやつ。な、秋空」
その後を更に佑太が受けて、俺にバトンを繋ぐ。俺は背筋を伸ばしてナオに向き直り、その揺れる双眸をしっかりとつかまえた。照れたりカッコつけてる場合じゃない。ここまで来た理由、それだけは俺の口から言わなきゃならない。
「必ずお前と一緒にここを出る。なにがあっても、絶対に一人にはさせない」
ナオの瞳に一際深い漣が押し寄せ、留まる。揺蕩う心を余すところなく抱懐するように、そして揺らぐことのない決意を標榜するように、固く眼差しを据えた。
「秋空を助けてくれてありがとう。君の苦しみを、今日で終わらせよう」
全員の意気込みを掬い上げて、相馬が真摯に宣言した。
「おう!秋空の命の恩人だ。てことは俺にとっても恩人だ」
「そういうことだな」
三人の声がグリッサンドのように連なって、なめらかな一体感を生む 。
俺は目を閉じ、こんな苦境に立ちながらも幸福感を覚えた。運命と信望を共にしてくれる盟友とも呼べる仲間に恵まれたこと。そして、その仲間とナオを迎えに来れたこと。
生きて帰れたら大盤振る舞いでなんだって奢ってやるさ。破産上等、男に二言はない。悪友たちの顔を見渡し、姿勢を正して自分自身に発破を掛けた。
俺はナオの細い肩に置いた指に力を込めた。一人きりではないと、伝えたかった。
少しでも、気持ちを浅瀬に導いて安らがせてやりたかった。
底の見えない海溝へ沈んでしまわぬよう、繋ぎ止めてやりたかった。
もしも自惚れでなければ、ナオは俺を生かすために心ならずも夏音の凶行に関わり続けてきた。抗うことも背くことも出来ずに、夜の世界に閉じ込められてきた。
泡になって消えたいと言ったナオの声が蘇る。あれはきっと本心だ。俺の命と繋がっていなければ、ナオはたぶん、とっくに消えていた。
命が繋がっていて、良かったと思った。それは自分が生きながらえることが出来たからではなく、ナオが生きる理由になれたからだ。たとえ苦痛の中に縛ったのだとしても、自ら死を選ばず生きてくれた。もう一度会うことが出来た。それだけであの時死ななかった価値がある。
その宣言を相馬に搔っ攫われたのはシャクだったが、当人の俺が言うのはおこがましくもあり、図々しくもある。俺は相馬の小粋さに胸奥で手を合わせ、誓いを立てるようにナオに深く頷いた。
「三階からって、飛び降りたらどうなんのかな」
階下からは先ほどから小さな爆発音が立て続けに聞こえている。その度に、スニーカー越しの足先から膝まで電流のようにびりびりと振動が伝わった。
「よくて骨折、悪けりゃ死ぬだろ。ここ天井高いしな」
佑太の問いに鮎川が沈着冷静に応える。先頭に相馬、次に鮎川と佑太が並び、俺とナオは少し遅れて続いた。
「ホールのバルコニーから駐車場に降りられるかもしれない。カーテンを繋げば一階まで届きそうだし。まあ下の火災の状況次第だけど」
「このままじゃ俺たちが放火犯で、自滅して事故死みたいに報道されるな。部室の一件まで前科として洗い直されて再逮捕になりそうだ。柊の思惑通りだな」
鮎川がもっともらしい青写真を算出し、唐突に足元が抜け落ちたようにひやりと鳥肌が立った。不名誉にもほどがある。
「賠償金とか請求されたりしてな」
「うげ~、うち絶対払えねえわ」
「マグロ漁船か内臓売るか」
「宝くじが手っ取り早くね」
「そりゃ当たればな」
鮎川と佑太のともすれば笑声まで飛びそうな平和な雑談が聞こえてきて、思わず頬が緩む。死地へ赴く兵士の気概から、街へ行商に繰り出す商人の気楽さへ転落しそうになり、慌てて気を引き締めた。隣を歩くナオに視線を移すと、なんとなく前を歩く二人を穏やかに眺めているように見える。
和んでくれたのならまあいいか、と寛大な心地になってクレームを飲み込んだ。
先頭を行く相馬がスマホでマップを確認していたが、やがて諦めたようにポケットにしまって振り向いた。
「携帯も繋がらなくなった。抑止装置なのか妨害電波なのか。まるで陸の孤島だ」
宿題忘れました、みたいにあっけなく言うと、鮎川を通り越して俺を見た。
「でもナオは取り戻せたし、脱出さえできれば僕たちの勝ちだ」
上がり目前の双六を振る小学生のような得意顔で口端を形よく持ち上げる。しかしそれだけで心強く感じる。相馬は当然一番で上がる心づもりでいる。
「夏音はいつから侵入に気づいてた?」
今度はナオに話を向けた。打ち解けようとしているのか、単なる好奇心なのか、やけに饒舌だ。それになんだか楽しそうにすら見える。非常事態には違いないのに、稀代の大物なのか、ドMなのか。
「裏口のロックを解除した時から。暗証コードは二十五桁。その最後の一桁を今朝変更した。だけど変更前のコードでも解除できるようにしてあった、そしてそれが入力されれば通知される仕組みだった」
ナオは淡々と、淀みなく説明する。口数は少ないが、けして怯えたり畏縮しているわけではないようで安心した。
「なんだ、最初からか」
相馬は両手の平を天井に向けて肩を竦めた。全然悔しそうには見えないが、こちらとしては盤石の態勢で挑んだつもりだったにもかかわらず、寧ろ誘い込まれた感すらある。多少は思うところもあるだろう。
会話が途切れた直後、全身を突き上げるような地鳴りがして、体が大きく揺れた。なんとか膝を踏ん張って転倒を免れたとき、床下からの激震と同時に、岩壁を裂く雷鳴のような轟音が押し上げ、瞬間的にナオの腕を引いて後ろへ飛び退いたその鼻先を、巨大な炎の柱が吹き上がった。
足元の床がドミノのように崩れ始める。粉塵が舞い上がり薄煙のように互いの姿を朦朧と覆い尽くした。俺とナオの二人と、相馬、鮎川、佑太の三人が分断された状態で崩壊した床を挟んで向かい合う。
火柱が穴の中へ吸い込まれるように落ちた時、俺たちの間には五、六メートルほどの不格好な大口がばっくりと開き、階下からは尚も間欠泉のように大小の火の手が蔓のように伸びては沈むを繰り返していた。
「・・・何かに引火したか、爆発物か」
相馬が至極冷静に分析する。覗き込む勇気はないが、威力からして二階の床も突き破っていそうだ。位置的に一階のキッチンあたりが怪しいが、相馬の言う通り爆弾の類かもしれない。夏音ならもうなんだってやりかねない。
俺たちが階段側、相馬達がホール側で対峙する形となり、しばらく思案顔で膠着する。
中学時代、短距離じゃなく幅跳びをやっとくんだったな。俺は無気力にタイムと向き合ってきた陸上人生をにわかに嘆いた。
「行けよ、俺たちは上へ行く」
沈黙を破り相馬より先に口を開いた。おそらく相馬はどうにかしてこの暗穴を渡る術を捻出しようとしているのだろう。連絡手段が断たれた今、別行動は極力避けたかったはずだ。
しかし立ち往生している時間はない。こうしている間に夏音に見つかる可能性も、また新たな爆発や倒壊が起きて巻き込まれないとも限らない。
「うまく出られたら助けを呼んでくれ」
いったん決別の腹を決め、ナオを促して階段の方へ戻る。急がなければそれすら使えなくなるかもしれない。
「秋空!」
振り返ると、相馬の双眼が俺を真っ直ぐに射貫いていた。俺は黙って親指を立てて見せた。鮎川と佑太も同様にサムズアップで応じる。
「また後でな」
再会を約して堅い頷きを交わし、背を向け合った。
四階はワンフロアぶち抜きの大ホールになっている。もし火に巻かれれば逃げる場所がない。ホールは素通りし、屋上へ向かった。床下からじわじわと忍び寄る遠雷のような轟きが全身に沁み渡り、神経を昂らせる。
「秋空」
肩にかかる静かな声に、振り向いた。ナオの白い肌が、薄暗い階段で花灯りのように幽遠に霞んで見えた。
「僕は傷の治りが早い。もし夏音になにかされても、僕を庇わないで」
ひたむきな懇願が、ひどく切なく感じた。きっと俺や皆を危険に巻き込んでしまったことを気に病んでいるに違いない。たとえ俺たちが口を揃えて否定したとしても、ナオは自分を咎めるんだろう。
しかしそれとこれとは別問題だ、どれだけ可愛くお願いされても聞けない相談もある。
「はいそうですか、て言うと思うか」
ナオの左手を取った。細い指が、さっきよりもさらに冷たく小さくなったように感じた。
先程は手に触れたことにやけに含羞を覚えたが、今はむしろ必要なことだと思えた。この手は、けして離してはいけない手だと強く感じていた。
「思わないけど、そうしてよ」
少し悲しそうに、困ったように、目を伏せてそっと微笑む。分断されたのがナオじゃなくてよかったと、思わずにはいられなかった。こんな状況でもようやく二人きりで話が出来る。
「秋空は、嫌じゃないの、気持ち悪いって思わない・・・?こんな力があって、勝手に命を繋げられて」
「お前と出会えたことが、俺の人生最大の幸運だと思ってる」
月明りに透けそうなほど美しい瞳が、ひっそりと見つめ返す。
「俺を生かしてくれて、ありがとな」
ナオの気持ちを少しでも聞きたいと思った。足を震わせる惰弱な危機感も警戒心も、今はなりを潜めていてくれ。
ここまで来た意味をちゃんと伝えなければ、ただ連れて帰ったってナオは救われない。
「ナオは、ここから出たら、行きたいところとかあるか?」
「行きたいところ・・・?」
「ああ、どこだって連れて行ってやるよ」
ケチ臭いことは言わない。地球の裏側だって、火星だって、ナオが行きたいと言えば一生を掛けたって叶えてやる。これまでを取り返して百倍釣りが来るくらい、色々なものを見て、聞いて、感じさせてやりたい。二度と死にたいなんて思わないように、隙間なく幸福で埋めてやりたい。カラフルに色づいた未来を想像させてやりたい。
「考えとけよ」
「・・・わかった」
ナオは少しだけ微笑んで、頷いた。
強風に押し戻されそうになる屋上の扉を開けると、思いのほか空が近くて虚を突かれた。
まるで囁き合うような平和な星空が見渡す限り頭上高く広がり、月明りがコンクリートの床を柔らかに浮かび上がらせている。一瞬、学校の屋上と景色が重なって、思いがけず郷愁に駆られた。
ほんの数日前までの一学期が、もはや遠い過去に感じる。夏休みからの数日があまりに怒涛の連続で波瀾万丈だったせいかもしれない。
階下から立ち昇る煙が風で透け臭気も薄らぐが、闇には薄赤い光がまざって大気を色づかせている。炎の影が真下に迫っているのは必至だった。相馬達と別れた三階はもう火の海かもしれない。骨組みがいくら頑強だからといっても、屋敷の崩壊が起こればひとたまりもないだろう。相馬たちは無事外へ逃げられただろうかという懸念が押し寄せ、俺は自身を律した。あいつらならきっと大丈夫だ。度胸もあるし悪運も強い。
立て続けにガラスが割れる音、何かが弾ける音、剥がれた壁が地に落ちる音が断続的に響く。そして音と言う音は真空の溟海へ吸い込まれるように、天高く昇っては消えていった。煙も、舞い上がる火の粉も、すべてが闇に返るように飲み込まれていく。
俺はぼんやりと空を見上げていた視線を下げた。ふと背中に違和感を感じ、身をよじった時には固い棒のようなものが押し当てられていた。飛びのく間もなく、焼けるような激痛を伴って体幹を失った体は半回転しながら仰向けに倒れる。だんだん下がっていく視界の中に、ナオの悲愴に青ざめる顔と、夏音の冷淡な微笑、よくわからん男二人の無表情が順番に通り過ぎて、途切れた。
どさっと自分が倒れた音がスイッチとなってようやく周囲の音が復活し、時間の流れが正常に戻った。どうも倒れる瞬間はスローになるらしい。絶え間ない痛みが神経を濁らせるが、かろうじて気を失わないで済んだ。背中からじわじわと血溜まりが広がっていくのもわかった。一日に二回も同じ奴に撃たれるなんてとんだ間抜けで厄日だ。
声を出そうにも舌が縺れる。手足もうまく動かせなかった。
「秋空っ・・・・!」
ナオの声が聞こえる。こっちに駆け寄ってこないのは、メンインブラックみたいな風体の男に体を拘束されているせいだった。仰臥しながらもむかっ腹が立って来る。気安くナオに触るんじゃねえ。しかし音声にはならない。
ナオの代わりに有難くもなく近づいてくる影があった。そいつは俺の真上まで来ると顔を除きこみ、俺の腹に片足を横着に置いて銃口を突き付けた。深緑のスカートが闇夜にはためく。
「・・・サービスショットかよ。興味ねえけど・・・」
笑みを浮かべようとしたが、ひどく頼りない仕上がりになった。しかし夏音の風で剥き出しになった両耳には届いたようだ。
「あなたって追われるより追いたい方だったのね」
「・・・俺にも好みがあるからな」
「浮気者にはお仕置きしなくちゃ」
「ぐ・・・」
「秋空っ!!」
低音の発砲音が響き、ナオの声と重なって、音を聞いたと同時に左肩に焼けるような激痛が走る。夏音は陶酔した眼差しを据えたまま、銃口を向け続けている。肩に開いた新しい風穴からは血潮が吹き出す音がひゅうひゅうと聞こえてきた。既視感のある痛みに意識が醒める。嫉妬じゃなくて三下り半を突き付けてくれないものか。
「軟弱ね、ナオはどこを撃っても声一つ上げないわよ。試してみる?」
沼の底から湧き上がるような暗い冷笑が温い空気を凍らせる。
そんなことをさせるわけがねえだろ。俺は精いっぱいの虚勢を張って煽動に反旗を翻した。許容しかねる謗言に怒気が全身を蹂躙する。かつては銀河を秘めたようだと比喩した瞳は、もはや蟻地獄の巣穴のように底無しに落ち窪んで見えた。
「よそ見すんなよ。俺だけ見てろ」
「あら、今さら口説いてももう遅いわよ」
夏音が引き金にかかる指に力を込めた。さすがにこれ以上穴が増えるのは勘弁だ。
「夏音、やめてっ!!」
ナオの悲痛な叫び声が渇いた闇夜にこだまする。何度も身を捩り男の腕から遁れようとするが、操られているであろう男たちの双肩は頑強なロボットのようにピクリとも動かない。
「放せっ・・・!秋空!!」
大丈夫だと言ってやりたかったが、そこまで声が届く気がしない。会心の一撃の泡を食った肺が捻転している。さらに失血の許容範囲を超えてきたのか寝ているのに眩暈がした。
「血を止めないと・・・夏音、お願いだから」
ナオの哀願に夏音が振り返った。冷たい薄ら笑いを張りつかせたまま、俺の腹から足を下ろし、囚われたままのナオへゆっくりと近づいていく。くそ、一歩だって近づかせたくないのに、体が言うことを聞かない。
「もう秋空を傷つけないで・・・、僕を、好きなだけ撃てばいい」
夏音はナオの目の前に立つと、労わるように左手を白い頬にあてがった。
「可愛いナオ、でもダメよ。それじゃ私の望みは叶わない」
ナオに触れるな、そして醜い言葉を吐くな。俺は胸中で懸命に妨害しようとするが効力があるはずもない。覇気は空回りし、虚しく地面を這いつくばる。
「かわいそうに、やっぱりあなたは呪われてる」
夏音は目を細めてナオの頬を愛撫した。
「秋空くんは死ぬしかないの、でもこのままじゃあ、あなたのせいで苦しむのよ。せめて少しでも綺麗に、楽に死なせてあげたいでしょう」
夏音は三度(みたび)俺に銃口を向けた。死なない程度なら今度は腕か、また足か。なんにしても避けられそうにはない。
「それとも、穴だらけになって苦しむ姿を見たい?」
耳が爛れそうなほどわざとらしい猫なで声が、耳孔を乱雑に嬲った。
「繋がりを解いて、秋空の命を絶ちなさい」
月の海のように澄んだ瞳が風に撫でられて雫を散らす。幾筋もの澄んだ涙が音もなく伝い、夜の粒子に溶けて消えた。静かな慟哭が、透明な瓦礫のように積み重なる。
「素敵、あなたの涙なんて何年ぶりかしら。でも少し妬けるわ。そんなに秋空くんが大事?」
悍ましい笑声が、毒蛾の鱗粉を撒き散らし月明りさえ汚す。
「はやく私と繋がって。世界一綺麗な氷のお人形にしてあげる」
うっとりと頬を上気させて、夏音はナオに極上の微笑を向けた。
「ナオを泣かすんじゃねえよ、イカれ女」
我ながら弱々しく吐き捨てて、僅かに首を傾けた。ナオの濡れた瞳と空中で交わり、俺は目だけでほんの少し頷いて見せる。
「最後に話をさせてくれ」
視線はそのままに、夏音へ要件を投げた。
「いいだろ、どうせ死ぬんだ」
「―一分よ。ナオを説得しなさい」
夏音がもったいぶった口振りで承諾すると、抑留を解かれたナオが真っ直ぐに駆け寄ってくる。俺の肩口に膝を落とすと、手を翳した。溢れていた血が止まり、痛みが薄れ、弾丸が床に転がる。背中からも痛みが引いた。
呼吸がにわかに軽くなり、一つ大きく息を吐いた。失った血の重み分、しばらく思考が滞留したが、息遣いが整うとともに明晰に研がれてくる。
「秋空・・・ごめん・・・」
ナオの細い輪郭を伝った雫がとめどなく落ちて、俺の頬を濡らした。悲しみが伝導し、自分の涙が流れたかのように錯覚する。穢れない、澄み切った祈りが心の琴線に触れる。
「行きたい場所は、思いついたか?」
夏音が腕時計を見る動作が目の端に映る。煽っているのか、ポーズなのか、俺は黙殺した。撃たれたって話を打ち切るつもりはない。
俺は穏やかな視線でナオを促した。
「・・・学校」
わずかな間を置いて、新しい涙の雫と共にナオが言った。
「学校?」
「うん・・・、同じ制服着て、一緒に登校して、勉強して、帰って・・・、毎日、当たり前に」
「いいなそれ、楽しそうだ」
俺は心から同意した。その光景が目に浮かぶようだ。ナオには制服もよく似合うだろう。
そして、今度こそ真面目に部活動に勤しんで星を見よう。天文学部の利権と意義を存分に駆使して屋上に望遠鏡を掲げて。月の地表や土星の環や木星の美しい紋様、銀河系や星雲だって、ナオと一晩中でも眺めよう。
「きっと、叶えてやる、・・・次に、会えたら」
ナオの冷たい手が、俺の顔に触れた。長い睫毛が凍えたように震えている。俺は右手をナオの手に重ねた。
「ナオ、俺との繋がりを解け」
恐怖に色を失くした表情で、ナオは首を振った。
「いやだ・・・」
殆んど声にならない拒絶が耳よりも早く体中に伝わってくる。全身で否定を訴えている。
「俺の命は十年前に終わってたんだ、ナオのおかげで今まで生きて、そしてまた会えた。もう充分だ。だけどお前は生きろ、相馬たちが、きっと、なんとかしてくれる」
繋がりを解けば、俺はたちどころに屍に返る。しかしナオを道連れにしなくて済む。相馬達なら、きっとうまく脱出出来ているはずだ。他力本願は望むところではないが、意地を張るつもりもない。頼れるものなら藁でも掴むさ。
「いやだ、秋空・・・」
「ナオ、」
「秋空がいたから、・・・二度と会えなくても、どこかで生きていてくれると思えたから、・・・秋空がいなければ、もうここにいる意味なんてない・・・」
「生きてればなんとかなる、ナオ、お前は生きてくれ」
涙に濡れた声がどこにも動けずに立ち止ったまま枯れ落ちていく。俺は右腕を伸ばし、ナオの頭を抱き寄せて耳元に口を寄せ、最後の言葉を囁いた。
ナオが力なく頷く。俺の腕は自我を失くし、重力に任せて床に落ちた。瞼も、呼吸も、全神経が生命力を失して弛緩し、完全に静止する。
灰が降り積もるような退廃的な沈黙が横たわって、沈滞した。
「よくやったわ、ナオ」
背後に立った夏音が満足げに銃をブレザーにしまった。ナオの隣に膝を落とし、俺の亡骸を確かめるように爪で頬をなぞる。
「安心して、秋空くんも隣で眠らせてあげる」
頬に掛かるナオの髪を優しく梳く指が、月光で蒼白く浮かび上がった。墨汁を垂らしたような重い雲が通り過ぎ、一瞬深闇が訪れる。
その瞬間、俺は渾身の力を振り絞って半身を起こし、右手を夏音の首元へ突き出した。
荼毘に付したと思った矢先の復活劇に不意を突かれ、俺の右手に握られた相馬印のスパイグッズ、スタンガンが夏音をとらえて鋭くスパークする。
「きゃあっ!?」
短い悲鳴と共にのけぞって仰向けに倒れ、夏音の体は目を開けたままかすかに痙攣した。
体を起こし、ふら付く膝を𠮟咤しながら起立してナオの手を引いた。どうにか立ち上がったナオは、俺よりもよほど消耗しているように見える。作戦だったとは言え心が痛んだ。
「驚かせて悪かった」
背中を撃たれて倒れてさらに肩を撃たれたのは間違いなく俺の失態だった。しかし衣服の下にはもしもの為の相馬直伝護身アイテム、防弾チョッキが着こまれていた。しかもご丁寧に血糊のオプション付きだ。
俺はあたかも大怪我をしたが如く血だまりを作ったコンクリの一角を見下ろした。万が一直に撃ち抜かれていたら間違いなく致命傷だったはずで、今更ながら背筋を蠍(さそり)が這いあがるような寒気が襲う。
もちろん衝撃はあったし背骨が砕けたかと思うくらい痛みもあったが、弾はチョッキを貫通せず背筋には傷一つ付いていない。見事な耐久性だ。左肩は正真正銘撃たれたが、この一発で済んだのなら御の字ってところだろう。ナオの力のおかげで痛みもない。腕は上げられないが、肘から下はどうにか動かせた。
俺はナオの涙の跡を不器用に手の平で拭った。泣きそうなのを堪えているのがわかる。
血まみれで瀕死の状態を見て、遺言めいたやり取りまでしたばかりだ。早々簡単に切り替えられないよな。最後に種明かしをして協力をしてもらったが、まだ余韻の中で心の整理はつけられていないようだ。しかし悠長にもしていられない。
夏音は呻きながら起き上がろうとしている。復活早すぎるだろ。まったくターミネータみたいな女だ。操られている男二人もまだ無表情で直立したままで、干渉が解けていない。
四階の窓から炎が吹き出し屋上の縁を朱に染め始めた。心なしか床面の温度も上がっている気がする。火の方も待ってはくれない。
だが夏音がここまで上がって来たということは、降りる方法があるという事だ。あの元はボディガードか何かしれないガタイのいい男二人も無事に逃がしてやらないと。操られて意識もないまま気が付いたら焼け死んでいたではさすがに不憫すぎる。
夏音がブレザーの内ポケットに再び手を入れた。
「その二人を捕まえて!心臓さえ動いていれば、どうなったっていいわ!!」
男たちが螺子を巻かれたように瞳を動かし、俺とナオの姿を視界に捉える。名前が分からないから仮に男A、Bとしよう。紛らわしいからな。
Aの方が背が高く、モーションも大きくて迫力があるが見た目ほど俊敏でもない、Bはやや小柄だが、こっちの方が動きが早い。俺は下へ降りる術を考え、ナオの手を引いて屋上を移動しながらどこかにそれらしき入り口や装備が備えられていないかと探索を巡らせた。
そうこうしている内に夏音が発砲し始める。今まで何発撃った?下で二回、屋上で二回、いま一回撃ったから、あと何発残ってる?
俺は走りながら装弾数を予測する。わかるわけがない。
「全部で十五発、あと十発だ。だけどたぶん、弾倉(替え)を持ってる」
俺の心を読んだようにナオが計算する。夏音の行動も性質も熟知しているのだろう。
俺は神妙に頷いた。けして楽観的な数字じゃない。
階下にはもう逃げられない上に、三対一プラス弾が十発残る銃だ。おかわりまであるらしい。しかもここもいつ崩れるかも分からない。耐火壁を溶解し、強化ガラスを蹴散らす炎の暴動が近づいてきている。大火の軍勢が迫るほどに焦燥が焦げ付くが、防戦一方で打開策が見つからない。
どうにか起き上がった夏音が、よろめきながらも俺たちを目で追い、銃口を定めようとしている。男たちもそれに合わせて連携を取り始める。
このままでは火に巻かれるより先に撃たれてオーラスだ。
「甘いわね、秋空くん、殺せばよかったのに」
平常の発声をいち早く取り戻した夏音が高らかに笑う。そうは言ってもこっちは一介の健全な高校生だ。たとえ人殺しでも殺したりはできない。だが縛るか銃を奪うかくらいはすべきだった。機転が回らなかった迂闊さに歯噛みするも、猛省すら容赦ない連射を浴びて霧散する。あと七発か。
男Aの腕がナオの体を羽交い締めにしようと伸び、俺はゲームで培った見様見真似の回し蹴りを食らわせた。そこへ夏音の一発がさく裂し、蜘蛛の子が散るようにまた距離が開く。味方に命中するのもお構いなしか。いや、そもそも味方とかいう概念すら持ち合わせがないだろう。
徐々に息が上がってくる。それもそのはずだ。痛みがないから忘れがちだが、足と肩に一発ずつ貰っている。それなりに出血もしているし、動きも心なしか緩慢となってきた。
「秋空、大丈夫?」
さっきの回し蹴りが堪えたのか、足元がふらついた。左半身がどんよりと重く、倦怠感が横槍を入れて反射を鈍らせる。
ナオが俺の不調に気づき表情を翳らせた。ナオ自身は身軽なのか、呼吸の乱れはない。
足元近くに銃弾が刺さり、我に返って顔を上げた。夏音は右前方にいる。しかし北の手摺を背に立つ俺たちから見て左手、東の端からの狙撃だ。
「マジかよ・・・」
思わず苦笑いを浮かべた。
男Bの手にも、月明りに鈍く胴体を黒光りさせる銃身が握られていた。この分だとAも持ってるな、と思いかけた矢先、案の定Aも示し合わせたように胸元から銃を取り出し正確に俺たちに狙いを定める。三方向から扇状に包囲された状態となり、断崖の手摺を背にまさに背水の陣で後がない。
階下からは熱風が拭き上げ、火の粉が巻き上がり、炎の舌が勢力を増して屋上を舐め上げるのも時間の問題だった。目の端で燃え尽きながら舞い散る炎の欠片を捕え、ナオを伴ってじりじりと西側へ足を進めた。呼応するように銃口も追ってくる。
こめかみから凍てついた汗が落ちた。ナオを庇う様に右腕を上げ、背後に回らせる。
もし一斉に撃たれたとして、どうすればナオへの被害は最小限に、いや、全身を以て全て受け止められるか、それだけを考えていた。その後の展開はぷつりと道を閉ざしている。続くストーリーが思い浮かばない。これじゃ駄目だ、これでは撃たれて終わりのバッドエンドのシナリオを自ら書き上げてしまう。
「そういえば、相馬君たちのこと言ってなかったわね」
炎の咆哮が空から渦をなして降り注ぐ。空耳ではなく、さっき昇ってきた扉の向こうに火の影が見えた。隙間から、赤黒い布切れのような断片が見え隠れし、いまにも吹き出しそうになっている。顎先に汗が伝った。蜂の巣か、蒸し焼きか、丸焼きか、身投げして心中なんて論外だ。
「三階で爆発があったの。仲良く吹き飛んだわよ」
俺は目を閉じた。瞼を開けていれば火の中に奴らの残像を見てしまいそうだった。耳を塞がなければ最期の断末魔が聞こえてしまいそうだった。心を閉じなければ、憤悶に押し潰されてしまいそうだった。懺悔しかけた時、ナオの指が俺の腕に触れた。正気に返って視線を向けると、一途な眼差しが意志を持って何かを語り掛けている。一条の光芒を見たようににわかに目が覚めて、思考が切り替わった。そうだ、夏音の詭弁を鵜吞みにして、俺が奴らの生存を信じられなくてどうする。
万に一つ、それが真実だったとしても後悔や自省は二の次だ。生きて帰ったらいくらでもできる。地獄からの嘆きも恨み言も一つ残らず聞いてやる。でも今は違う。生きなければ、無事にナオを連れて帰らなければ。そうしなければ、誰一人浮かばれない。ここで全滅でクランクアップなんて滑稽すぎてB級映画にもならない。
「ナオ、怖いか?」
月光のように静謐な瞳に問い掛けた。
「怖くないよ」
一欠片の曇りもないこたえが返る。
「もうなにも、怖くない」
ナオは時が止まったかのように静かな微笑を湛えた。俺の心が夕映えの湖面のように凪いでいく。
意識を立て直し、状況を再確認した。膠着状態が続いているのは、いつでも御せると思っているのか、それとも何かを警戒しているのか、迷っているのか、しかしこの均衡もいつまでも持たないだろう。相馬たちの訃報に絶望しているふりをしながら、俺は思索を巡らせた。
夏音は最大限まで恐怖を煽ってから屈辱と悔恨に塗れて失意の果てに力尽きる俺たちの末路を期待しているのかもしれない。とことん貶めてやろうといたぶっているのだ。それならば要望通りあいつ好みのスパイスでふんだんに味付けしてやれば、まだまだその美味を堪能してくれるだろうから時間を稼げる。
俺は精いっぱい仲間を失い打ちひしがれた一高校生男子を演じた。今ならオスカーも夢じゃない名演だったはずだ。案の定、夏音に愉悦で彩られた暗い笑顔が広がっていく。
それに反して頭の中はかつてないほど冷静だった。別人格を演じ使い分けることで、逆に切り離されたもう一方の現実の俺は自由に的確に現況を把握し ブラッシュアップすることが出来た。
男ABに自主性はない。つまり能動的に行動するのではなく、夏音の意志や命令で動くだけの傀儡で、謀反も無ければ暴走もない。忠実な分、残虐だが脆弱とも言える。実質夏音が判断を誤れば、残る二人も併殺可能だ。オートコマンドがなければだが。
夏音が一歩前へ出て、尊大に最後通告を下した。
「ナオ、あなたに名を与え、自由を与え、。愛したわ。あなたを受け入れ理解できるのは私だけ。私と一緒に永遠に生きましょう」
化けの皮が剥がれた途端三流の大根役者に成り下がったと見える。反吐が出るほど見え透いた二枚舌だ。手垢塗れの世迷い言などナオに一語たりとも聞かせたくはない。
俺は雑音を相殺する障壁と化してナオの前に立ち塞がった。
どの口が自由だ、愛だと語るってんだ。人形遊びがしたいなら箱庭で独りでやれ。ナオはお前の愛玩具(おもちゃ)でも奴隷でもない。
せせら笑いすら漏れそうだった。陳腐に脚色されたセリフに、砂粒ほどの誠実さもありはしない。
「もう一緒にはいられない。僕は、秋空がいい」
澄んだ声が迷いなくこたえる。夏音の顔からかりそめの女神の仮面があっさりと剥がれ落ちた。とうに分かってはいたが、その下に見えるのは虚無と酷薄の本性だけだ。
「生意気ね。あなたが望みを持つなんて」
ナオが、瞬時に俺から体を離した。その直後、三方向からの熾烈な連射が空隙を裂いて鳴り響き、それぞれを追尾するように執拗に追い縋る。ナオが東へ、俺が西へ引き離されたまま距離が開いていく。銃声は乱立し混ざりあい、間断なく飛び交い続ける。撃ち損じた弾が手摺に跳弾して耳障りな金属音が反響する。もはや植物人間でも構わないと思っているから慈悲もない。
「ナオ!!」
弾丸のゲリラ豪雨を紙一重で搔い潜りながら視線はナオを追った。Bからの乱射を受けつつも軽やかに身を翻すナオが一瞬俺を見て、方向を変える。Bの銃声が止み、ナオはその隙を縫って夏音の追従を交わしながら西へ向きを転じた。途端にAと夏音の二方向からの苛烈な猛攻を受ける。Bは弾切れで仁王立ちしていた。ナオは二人の前をわざと標的になりそうな距離で移動し続けている。そのうち俺もナオの行動の意図に気付いた。弾数を削る為の囮になっている。
やがてAも沈黙した。狙い通り弾切れだ。風のような水のような、まるで重力を感じさせない流麗な身のこなしに、夏音は忌々しそうに銃口をスライドさせ、ナオを通り越して俺に標的を定めた。
「秋空っ!」
ナオが俺の盾となるように弾道に滑り込む。夏音は獲物をロックオンした猛獣さながらに紅に濡れた唇を舐めた。
引き金が引かれるより一瞬早く、俺はかつての陸上部短距離走の雀の涙ほどの栄光を担ぎ出し、猛スタートを切ってナオに飛びついた。華奢な体を抱いたままコンクリートの床面を勢いよく転がる。人生何が実を結ぶか分からない、もっと真剣にやっておくんだった。
飛び退った足先を弾丸が二発通り過ぎ、やがて静寂が訪れる。回転を止めた体を起こし、腕の中のナオの無事を確認し、床に身を伏せた姿勢で夏音を見上げた。岩盤浴みたいに熱を持ったコンクリートが予断を許さない窮状を伝えている。
夏音が深緑のスカートのポケットを弄り、おもむろに何かを取り出すのが見えた。手のひらサイズの四角い箱、替えの弾倉(マガジン)だ。額から凍った汗がエンドレスに滴る。これでまた十五発の凶弾が装填されてしまう。
ナオを起こし、立ち上がった。何度も装填(リロード)されては埒が明かない。ぴったりと寄り添いながら、俺たちはさも追い詰められて後退するように西へ回り込んでいく。
「そうやって庇い合いながら、いつまで逃げられるかしら」
装填を終え、あろうことかABにもマガジンを渡した。これでは無尽蔵に放たれる鉛の刺客から丸腰で逃げ続けなければならない。それに加え猛火はすでに目と鼻の先だ。
喉がからからに渇き、万を期して脳内で没にした駄作の一つを慎重に拾い上げた。
「俺を、信じられるか?」
風に濃密な炎の匂いがまざる。体温よりも気怠い空気が足元を捉え病ませようとする。
「―ずっと信じてる」
一瞬、透きとおった夜風が通り過ぎた。
俺は空を見上げ、深く息を吸った。
北西の角に到達し、地上を覗き込むふりをして視線を西に泳がせる。目の端に三階のバルコニーの手摺が映る。相馬がそこからカーテンを繋いで降りられないかと模索した場所だ。、屋上からの高低はおよそ七~八メートルといったところか。俺は速攻で脱出案を研鑽した。
飛び降りて無事でいられるだろうか。まして足を負傷した状態で着地が出来るか。三階での鮎川の会話が過ぎり、躊躇いを掻き消すように首を振った。うまくして骨折で済めば安いものだ。
脳内でシミュレーションを幾通りも組み立てては打ち消しを繰り返し錬成する。
先にバルコニーへ飛び降り、すばやく態勢を整えてナオを受け止める。そしてバルコニーから地上へ降りる、それが最もシンプルかつスピーディーな方法だ。たとえ両足が折れたって、這ってでも敢行する。
問題はその隙を作ることだが、俺はそっと胸ポケットに忍ばせている閃光弾に触れた。通常よりも小型に誂えられた筒状の鉄の武器、これが有効なのはすでに立証済だ。その所在をしかと確かめて、手短に構想を固めた。うだうだ迷ってる時間はない。どのみち選択肢は限られている。
夏音はもう追い込んだ気でいるからじっくり時間を掛けて俺たちの恐怖をマックスまで引き上げてから垂涎の引き金を引くだろう。じわじわと蝶の手足を捥いでいくようなやり方で、狂気の冷笑を湛えるだろう。
時計盤を回すみたいに双方の距離を一定に保ちながら、その瞬間を舌なめずりをして待っている。俺たちが屠殺される家畜のように切実な瞳で震えるのを。
俺は夏音を睥睨し、心を決めた。
「お前との高校ライフ、絶対諦めないぜ」
ナオの形のいい耳元へ囁きかける。夏音には聞こえないように細心の注意を払いながら。その思惑を承知しているのか、ナオは一切の反応を示さない。頷くこともなくただ黙って聞いている。
作戦とも呼べない無謀なアイデアを伝え終わると、深呼吸して慎重にそのときを待った。
命綱のない屋上バンジー。出来れば一生に一度の戯事にしたいものだ。高騰するアドレナリンを全開注入、トリップして飛ぶしかない。完遂できれば一挙武勇伝、これぞまさしく火事場の馬鹿力ってやつだな。俺は出来る限り軽佻なモノローグでもって自身を奮起し続けた。
一際壮大な猛炎の歌劇(ミュージカル)が天高く響き渡り、ついに屋上へ繋がるドアが圧縮された熱波の膨張で開け放たれ、吹き飛んだ。その口を抉じ開け、破壊し、洪水のように火炎が噴出する。
屋上の縁(へり)にも油を差したように火の手が走り、外縁を緋紅の揺らぎが躍る。焼けるような熱気が肌に纏わりつき、急激な空気の消費で酸素が希釈されていく。放埓に燻された空気に喉が痞え肺が焼けそうになり、腕で口元を押さえた。炎に地表が食われ、広大な空まで狭まったような閉塞感に襲われる。
闇を染め上げる朱いオーロラに夏音の姿態が浮かび上がった。その一挙手一投足が黒々とした影を引き連れ鮮烈にとらえられる。夏音の指先が、微細に動いた。おそらくABの指も。俺はその瞬間に、閃光弾を放った。
ほとんどノーモーションからの投球。ナオを引き寄せ、全身を覆うように包み込む。
閃光弾は放物線を描き、空中で起動して神託の雷(いかづち)のように激しい可視光と大音響を轟かせた。
二番煎じだが効力は絶大だ。三度も弾を撃ち込んだんだから、この程度で謗られる謂れはない。
視覚が思うように効かないが、目測は出来ている。頭の中で描いた手順通り、ナオを伴って西側のバルコニーの上まで移動した。目視は出来ないが、おそらく真上だと思われる位置で停止し、視野を取り戻し切らないままナオの気配に呼びかける。
「俺が先に降りる。合図したら、飛び降りろ。絶対に受け止める」
チャンスは一瞬、当然一発勝負だ。夏音が計画に気づき、態勢を整える前に地上に降りなければ、頭上から雨矢(うし)の如く狙撃される。そうなればひとたまりもない。
ナオが頷いたかどうかわからない。けれど、離れる瞬間の手のひらに戸惑いはなかった。
俺は手摺を乗り越え、霞む視界の先のバルコニーの影に向かって身を投げ出した。
しかし、空中に放った体が四階の窓枠を通り過ぎる瞬間、爆風に見舞われた。
咄嗟に両腕を交差して顔をガードしたが、体は煽られて屋敷から徐々に離される。焼けつく猛風を受け不随意に流さる中、古今未曾有の警鐘が飛来する。
このままでは直接屋上から地上へ、しかも受け身すら取れないまま真っ逆さまに墜落だ。瞬時に最悪の光景が過ぎった。失敗、それは断固として思い描いてはならない習作だ。
ナオー
逆浪(げきろう)の重力に翻弄される中、屋上に残してきた手の温度が蘇る。俺は不安定な体勢で落下しながら空へ顔を向けた。赤く染まりつつある闇空、その中に、水鳥の羽根のように白い羽ばたきが見えた。夢を見ているような心地で、その姿を迎え入れる。
着地点としたバルコニーから遠く離されながら、大きく両腕を広げ、空中でナオの体を抱き留めた。落ちてきたんじゃない、まるで舞い降りてきた白い鳥のようなしなやかな体をしっかりと抱き寄せた。地上に打ち付けられたときに、少しでもナオを守る緩衝材となれるように、躍動に抗い背を地に向けた姿勢を保ち続ける。抱き合ったまま見つめ合い、その周りを炎が取り囲むように包み込んだ。まるで雲海のような、真綿のような、真白い炎。それは翼のように広がって、落ちているのか浮かんでいるのか、引力と無重力の狭間で満たされる。
黒煙を吐き続きる紅蓮の炎が屋上一帯を埋め尽しても、俺たちを覆うのは決して燃えることのない、むしろ温容に、柔らかに、実体のない水に抱擁されるような浮揚感。
炎は色を失い、本来の姿を失くす。
まるで天使の羽根のように、息を飲むほどに美しい。
ナオを腕に抱きながら、目を閉じてうすく微笑んだ。
惹かれないわけがない。頭じゃなく、心が覚えていた。色褪せることなどなく、真底に綴じられていた。
俺はあの日、あの雪の夜に出会った真っ白な天使が、初恋だったんだ。
もしも生きていられたら、そう伝えてもいいだろうか。ナオは、笑ってくれるだろうか。
三階のバルコニーを通り過ぎる時、その手摺の袂に何かが結わえられているのが見えた。
繋ぎ合わせたような布切れが、長く地上まで降りている。屋敷の中でさんざん見た、朽葉色のカーテンの色だ。俺は笑い出したくなるのを堪えて、口の端を締めた。
そうとも、あいつらが簡単にくたばるわけがない。俺と出会った時点で、悪運はお墨付きだ。
ゆっくりと遠ざかる屋上を見上げると、点のように見える影が炎に巻かれ、ぼんやりと薄れ消えていった。
眠ったのか気を失ったのか、時間が経ったのか一瞬だったのか、あらゆる感覚が遠のいて、いつのまにか地上に横たわっていた。微睡みながら腕を動かすと、胸の上にさらさらと指の間を滑る絹糸の様な感触があった。しっとりとした重みが半身に寄り掛かっていて、俺は首を動かしてそれを確かめた。ナオが身を寄せるように倒れている。その綺麗な髪を一撫でし、俺は小さく呼びかけた。
「ナオ」
落ちたところは敷地内の硬いコンクリートの上だったが、痛みはない。五体満足そうだ。ただ轟々と燃え落ちる屋敷の絶叫だけが地底から突き上げるように不穏に耳を弄る。
「秋空、怪我は・・・?」
身を起こしたナオが、俺の顔を覗き込んで真っ先に問い掛けた。柔らかな瞳に、胸が熱くなる。
「なんともねえよ。ナオが、助けてくれたんだな」
白い炎の残影が目の奥に焼き付いている。それに守られるように包まれた感触も、鮮明に思い出せる。
「よく覚えてない。ただ秋空のところへ行かなきゃ、て思った」
ナオはたぶんあの瞬間、一縷の躊躇いもなく柵を越えた。
俺は上半身を起こした。屋敷からは十メートルほど離れている。燃え落ちた残骸が時折地上へ破片を落とすが、ここまでは届かない。火の粉が塵のように夜風に舞って、目の前で消えていく。業火に囚われた四角い巨塔が、悶えるように怨嗟の号哭に塗れ灰燼へ帰していく。
「夏音は、どうなったんだ」
月に救いを求め、天を貫かんと屹立する炎が古の大蛇のように身をくねらせる。
「夏音は火を恐れない」
ナオは燃え落ちる屋敷に瞳を染めながら、こたえた。
「だけど、今は追ってこられないはずだ。身を守る為にはそれなりに力を使う」
ナオを囚わり、縛り続けてきた桎梏の檻。その忌々(ゆゆ)しき虚飾の空箱が、目の前で焼き尽くされていく。もう二度と、隠すことも閉じ込めることも出来はしない。
ナオは今、どんな思いでそれを見つめているのだろうか。
けして黙祷など捧げはしない。照り返す紅の滂沱(ぼうだ)を、ただ言葉もなく刻み付けた。
遠くから、炎と風の音にまざって何かが聞こえた。耳を向けると、それは次第に明瞭に、言語となって届き始める。その音声が意味を成し、記憶の中の声音と一致し、俺は不器用で曖昧な笑顔のまま、視線を転化した。
「秋空―!ナオ―!」
大声で手を振りながら駆け寄ってくる、三つの影が見えた。
手を挙げようとして、左腕が上がらないことに気づいた。肩の付け根に穴が見える。急に負傷の実感が押し寄せて、痛くもないのに顔をしかめた。再会の感動を隠す照れ隠しでは断じてない。
「脱出できたんだな・・・よかった、よかったよ、ほんと・・・・」
目の前まで来た佑太が涙声を絞り出して両目に腕を押し当てた。鮎川も涙こそ見せないが、感慨深そうにあたたかな眼差しで労ってくれる。衣服に所々焼け焦げたような跡と破れが見られ、顔にも煤が張り付いている。一筋縄ではいかなかった過程が見て取れた。
「お疲れさま」
最後に追いついてきた相馬が、まるでバイト上がりの一杯で乾杯するかのような晴朗な笑顔を咲かせた。
「そっちもな」
互いに決して苦労を競うつもりはない。俺たちは同志で、どちらも勝者だ。俺は隣に静かに佇むナオをそっと見やった。
見ると、入り口の門扉付近に黒塗りの車両が何台も止まっていて、そこからひっきりなしに人が降りてくるのがわかった。一瞬身構えた俺に、相馬が説明を始める。
「あれは僕が呼んだ救援だから、安心して」
救援、という事は警察ではないのだろうか。相馬家の関係者なのか、どうも正体が判然としない。黒一色の車体は確かにパトカーにも救急車にも見えない。そのうえ降りてくるのは黒スーツを着こんだ、しかし会社員とは程遠い一癖ありそうな風貌の男たちばかりだ。ほんとうにかたぎか?
「お前、いったい何者なの?」
今さらながら言及する。夏音は夏音で得たいが知れないが、相馬も大概だ。敵ではないにしても、安直に信用して手を借りてよかったのだろうか。正体の見当もつかない。
「僕自身は別に何者でもないよ。たまに叔父の仕事を手伝ってる、普通の高校生さ。でもその普通の高校生の方が動きやすいこともあるからね。それで重宝されてる」
「仕事?」
「今回の件は僕たちとの利害が一致した。だから全面的に協力できたんだ。柊夏音のことはこちらでも調べていたけど、どうも核心が掴めない。証拠も挙がらなければ目的も定かでない。今日、本人から話を聞けたのは大きかったよ。はじめから本体(こっち)が出て行ってたら正直に話さなかっただろうから。それに、こういうの一度やってみたかったんだよね」
難攻不落の堅城を陥落した戦国武将のように晴れ晴れとした笑みを浮かべる。
こういうの、とはひと夏の冒険か、スパイゲームのことか。まさか屋上で夏音の話題を初投稿した時点から俺を陽動していたんじゃあるまいな。もはや問い直す気力も揮発し無心に陥る。どうにも割に合わない気もするが、シャープで善良な恵比須顔にほだされて煩悩はうやむやに平定されていく。
「ちょっと独断に走り過ぎたから、あとで叔父から大目玉だろうけどね。でも秋空、自分で迎えに行きたかったでしょ」
俺とナオを交互に見比べて、ようやく肩の力が抜けたように心底安寧の面持ちを向けた。きわめて意識的に、利他的に、この場のムードを軽く融和させようとしてくれている。その気遣いに満身創痍の荒野で野花を見つけたように胸がすいていく。
涼しい顔をしているが、相馬だって必死だったに違いない。のしかかる責任も命の過重も、恐怖だってあっただろう。そして何より、俺の意志を最大限に汲んでくれていた。真っ先に迎えに行きたいという、確固たる決意を。
無粋な詮索も考証も必要ない。紆余曲折はあったがつまり相馬の目的は達成されて、俺の願いも叶った。掛け値なしのウィンウィンてことで手打ちだ。
「貸し借りはなしってことだな」
俺は上目遣いで念を押した。以前法外なレポート代を吹っ掛けられそうになったことを念頭にさりげなく防衛線を張る。今にして思えば、あの規格外に詳細なレポートの仕上がりは、すでに編集済みの調査内容の総集編だったのでは、と勘繰らなくもない。
「だね。でも、君たちをかなり危険な目に合わせた。想定外のことも多かったし、配慮も戦略も未熟だったことを大いに反省したよ。だから、利子分は返す」
相馬は俺の前に膝を落とした。
「殴っていいよ」
挨拶するみたいに爽やかに言われて面食らう。まったく、そんな風に言われて殴れるやつがあるか。相変わらず上等な性格をしてる。
「―貸しにしとくよ」
俺はため息と共にこたえた。それにしたって反省内容の重篤さの割には悲愴感が薄い。思わず懐疑的に相馬を窺うと、鮎川が場を取りなすように補足した。
「一定時間通信が途絶えたら、本部が介入する予定だったらしい。一応、最悪の事態は免れる算段はしての作戦だったんだよ」
「三階で吹っ飛びそうになった時、相馬のスマホが通じて起爆前に身を隠すことが出来たんだ。だからいま生きてるってわけ」
佑太も呑気に笑い飛ばす。鋼鉄の心臓か?死線をさまよったにも拘らず、揃いも揃って不退転の傑物だ。そして「本部」とはどこの何だ。
俺は脱力して薄らんでいく夜陰にから笑いを投じた。
聞くにどうやら遠隔で妨害電波の突破やら爆発物の検知、測定やらをしていたらしい。なんならもう少し早く加勢してほしかったところだ。誇張ではなくあと数分決断が遅れていたら、今ごろ焦熱の火炉の藻屑と成り果てていたかもしれない。
俺がしぶしぶ納得したのを確認し、相馬はゆったりとナオに視線を向けた。一瞬緊張が走ったが、その表情は思いのほか穏やかだった。
「君の身は、、いったん僕らの方で預からせてもらいたい」
俺は言っている意味がわからず、というよりはその内容を思わしくない方向に捉え、ナオを庇う様に右腕を広げた。その心中を察したのか、相馬は落ち着いた声で続けた。
「夏音の行方は引き続きこっちで追うけど、僕たちは警察じゃない。君を捕えることも裁くことも出来ない。それに君は今はまだこの世に存在すらしない状態だ。存在しない人間に罪は犯せない」
「だけど僕は、止めることも、救うこともできなかった」
ナオは全てを受け入れるように言った。深遠な眼差しが静かな覚悟を宿している。
「君はあの環境下でも自分の意志と感情を失わなかった。夏音に教唆されても体を焼かれても命を助けようとした。それは並大抵のことじゃない。心身ともに真っ白になった少女・・・あの子も少しずつ回復して来てるよ。思うんだけど、君の力は君の心や相手の願いを映すものなのかも知れない。花は白くなって君の本心を表し、枯れないのは花の意志だ。そして少女は友人を刺し殺したことで無に、ゼロに戻りたいと願った。そこから進めるかどうかは本人次第だけど、でもこれは喪失じゃない。再生だ」
ナオは言葉を閉ざし瞳を伏せた。もし相馬が罰すると言ったなら、ナオは躊躇いなくその宣告に従っただろう。
「奪われた命の数を比べるべきではないけど、君の存在いかんにかかわらず、夏音は殺戮を繰り返していたはずだ。むしろ、より無差別に被害が広がっていた可能性もある」
夏音のあの虚空の瞳を思い出す。殺人すら退屈な遊戯としか思わない。破綻した人格。
ナオの力で永遠の命を得るという目的がなければ、、悪夢のような惨劇がさらに拡大していたかもしれない。歯止めを失くし、息をするように人を殺していたかもしれない。ゲームと称した検証に没頭していなければ、あの駅前の大事故のような惨事が何度も起こっていたかもしれない。
そして俺にも、とうに危害が及んでいたかもしれない。
ナオはそれがわかっていて夏音に真実を明かさなかったのだろうか。
そのために、身を焼き心(しん)を蝕む磔刑を受け入れたのだろうか。
深層で生まれた波紋がうねりを増して表層に押し上げられていく。抑えられない情動に魂が揺り動く。
俺はナオに、あの日からずっと守られてきたのだろうか。
「それに、君はもう一人じゃない」
相馬は俺に含蓄の目を向けた。言われなくても、わかってるさ。
俺は迎え入れるように静粛にその本懐を受け止めた。とっくに心は決まっている。
ナオが贖罪を負ったと言うのなら、それは俺も負うべき十字架だ。
金色の澄んだ虹彩を見つめ、そこに映る自分自身と対峙する。
たとえナオが頑なに拒んだとしても、俺はその半分を、いや、全部だって背負いに行く。何年、何十年かかったとしても。二度と一人で苦しませたりしない。瑕疵も罪も、救いも悲嘆も、すべて受け止め、受け入れる。使命感とか責任感、ましてや恩返しなんかじゃない、それは本能が切望する願いだ。打ち寄せる波のように、自然に生まれ続ける希求に他ならない。命が繋がっているから、というのは、俺にしてみればむしろ言い訳だ。
数多(あまた)の歳月がナオを苛み、幾多の夜が亡者となり責めるかもしれない。けれど多くを語らないナオに、気づかないふりも見てみぬふりもしない。無責任に忘れろとも気にするなとも言うつもりもない。だけどきっと、いつだって傍にいる。
眠れない夜には眠れるまで、一晩中でもあの丘で、夜空に吸い込まれていく星々を眺めるために。月映えの輝きに身を浸して、肩を並べて寄り添うために。俺に出来ることなら、惜しむ事なく何だってするさ。
夏音の元から連れ出したから、終わりじゃない。
「失われた命は戻らない。でも罪を負って償うべきは柊夏音だ。その為の協力は、少ししてもらうかもしれない」
抜け目なく付け足して、相馬は少し口調を改めた。
「君は夏音に騙され恐怖で支配されて軟禁されてきた。共犯にも幇助にも当たらない。むしろ助け出された被害者だ」
そうかもしれないがその言い回しには若干引っかかるものがあった。ナオが一方的に弱者のような、憐れまれる身の上のような設定だ。抵抗を感じやや批判的に口を尖らせた俺を宥めるように、相馬の舌は滑らかに円転する。
「と、いうことにしてある。君を守るためには多少の方便も必要だ。少しの間だけ、我慢してほしい」
「少しの間?」
俺はおうむ返しに語尾を上げた。何の間だ。
「現実に生きる為に、色々準備や手続きが必要だからね。君を、この世界に還すよ」
ナオが僅かに顔を上げた。瞳が問うように震えている。
「秋空のところへ、帰す」
佑太がにんまりと笑い、鮎川も頷いている。三人の間ではとっくに筋書きが纏まっているようだ。
「でも、お前の叔父とやらはそれでいいのか?」
遠くで躍進する黒服の男たちを目で追いながら確認した。見ると屋敷の使用人と思しき数人の人間が黒塗りのバンで搬送されていく。あのABらしき姿も見えた。ナオが助けたのだろうか。俺は先ほどの白い炎を思い出し、相馬の端正に整った顔つきを見定めた。
相馬を信用しないわけではないが、ナオを捕えて、なにか調査や研究や、夏音のように実験をしたり利用されないやしないかと言う危惧が募る。ナオの力を、相馬も見たはずだ。あの怪しげな黒スーツたちを手放しで信頼できたわけじゃない。
俺の疑惑の大群をいなすように、相馬は春風のような穏やかさで諭した。
「僕にも信条ってものがある。その一つが友人の友人は、友人だ。そして僕は友人は売らない主義だ」
瑞光の如く脳内に華やかな桜吹雪が舞った。泣く子も黙る名奉行が肩をはだけるお決まりのシーンまで再生される。他の奴の口から聞けば八方美人の博愛主義者と鼻に突くところだが、相馬が言えば仙人の至言並みの効能だ。
「万が一邪魔する奴がいたら、僕が始末するよ」
過激な方案をアイスの当たり棒を主張するように無邪気に添える。せっかく見直したのに、ありのまま受け取るには物騒だ。相馬流のシュールなジョークと聞き流しておこう。
「・・・貸しは帳消しでいい」
苦笑しながら返した。ようやく濁り気のない温かさが胸の中に広がる。
ナオを振り返り、向かい合った。優しい眼差しに、真っ直ぐに俺が映っている。
「秋空、傷の手当てを・・・」
言い掛けた佑太の肩に鮎川が右手を置いた。そして、眼力で佑太を促すと、相馬も連れ立つように三人で背を向け、遠ざかっていく。
しかし、もはやそれすら気づいていなかった。
二人きりになり、見つめ合い、何も言えず、高まる心音に飲まれそうになりながら雪のように輝く髪に触れた。
ゆっくりと確かめるように、そして、頬に手を滑らせる。手のひらに収まりそうな小さな顔に、月灯りのように澄んだ瞳、そして桜の花びらのようなくちびる。ようやく実感が追い付いてくる。夢でも幻でも遠い日の追憶でもない、現実のナオがいま目の前にいる。
やがて、東の空が白み始め、闇が押しのけられるように淡い光が地をなだらかに照らし始める。明るむ空に背を押されるように顔を上げた。
「夜明けだ」
長いような、短いような、現世(うつしよ)のような泡沫(うたかた)のような、眩瞑(げんめい)するほど濃縮した夜が明ける。
ナオが少しだけ体を固くするのがわかった。おそらく、生まれて初めての朝焼けの空。
「大丈夫だ」
ナオの目を見つめ、力強く言った。あの朝日は、ナオを焼かない。きっと、これから見るたくさんの太陽の、最初の光だ。
ナオは頷いた。信じて、安堵しているのがわかった。
俺とナオは同じ方角に視線を馳せた。群青の闇の間をくぐって、生まれたばかりの無垢の輝きが徐々に全貌を現し、昇っていく。月も星も飲み込まれ、輪郭をなくし、光の世界へ主役を譲り身を潜める。空気も風も、白く清浄に色づいていく。
離れた場所で、相馬たちも足を止め、それを見上げているのがわかった。今まで生きてきて、もっとも感慨を持って迎える万感の朝に違いない。
しかし俺は、黎明の瞬間よりも、その光にやわらかに染められていくナオの姿に目をうばわれていた。なすすべもなく、見惚れていた。
「きらきらして、すごく綺麗だ」
陽の眩さに手を翳し、ナオは囁いた。
「ありがとう、秋空」
呼吸も忘れるほど透き通った笑顔に魅了され、何も言えなくなる。小さな光の粒子が心の中心で弾け、とめどなく溢れ続ける。
「秋空、僕とキスしたい?」
無意識に伸ばした右手の親指がナオのくちびるに触れていた。
もう偽ることも、抑えることも出来ない。その必要性も感じない。
「いますぐしたい」
自然に思いが零れ落ち、ナオがそっと近づく。やわらかな、花びらが通り過ぎるようなかすかな感触が唇を掠めた。
「ファーストキスだ」
睫毛が触れ合いそうな距離で、ナオが小さく微笑った。
「じゃあ二回目も貰っていいか」
俺はナオの髪の間に指を滑らせた。三回目も、四回目も、これから先ずっと。
もう二度と、離したくない。
「なあ、ナオってやっぱり・・・」
秋空たちを遠く見つめながら、佑太が鮎川の肩越しに呟いた。
「ああ、だよな」
鮎川も言わんとしていることを察し、同意を示す。そして、二人して相馬の涼し気な二枚目顔に食い入った。
相馬はわざとらしく笑顔をつくり、とぼけた表情をする。
「そういえば、言ってなかったっけ。十六年前、柊夫人が出産した双子の性別は・・・」
屋敷の二階の壁が崩れ、連鎖するように三階、四階からも炭と化した外壁が剥離しなだれ落ちていく。張りぼてのように骨組みの影を残し、ぽっかりとがらんどうの焼け跡が聳え始める。
屋敷は耐火壁の高塀で囲まれ、民家からは隔絶し、完全に孤立しているため類焼はない。燃え尽きれば終焉だ。
「相馬がやけに肩を持つからおかしいなとは思ってたけど」
佑太が大仰に両肩をすくませた。
「そう?僕はいつだって公平だよ」
「よく言うぜ」
「秋空、たぶん気づいてないよな」
重なる影を眺めながら、佑太が人差し指で頬をポリポリと掻く。秋空の勘は、こと恋愛沙汰に関しては平均値以下だ。要するに、ポンコツだ。
「恋は盲目ってね」
相馬が悪びれもせずに言う。
「まあ、もうどっちでもいいんじゃないか」
鮎川が一笑に伏して、鷹揚にまとめた。
「なんたって、命が繋がってるんだからな」
惜しげもなく降り注ぐ天啓のような陽射し、その煌びやかな光のクレッシェンドに耳を澄ませながら、俺はナオの細い体を強く、いつまでも抱きしめた。
月夜の君は夏の音 宵待 @sakura_sakuhino_yuki
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