ヒステリシス
双極
#01 プロローグ
──今の世界では、現実はデジタルの劣化コピーに成り下がった。
数十年前、デジタル技術はついにアナログ世界の分解能を超えた。視覚、音、匂い、触感、味覚──五感すべてが数値化され、保存され、再生できる。しかし人々は「リアル」を再現するのではなく、改良し始めた。空はもっと青く、音はもっと激しく、人間はもっと美しく。
やがて、実世界は「効率の悪い世界」として見捨てられた。そしてアナログ技術は滅び、部品や記録はロストテクノロジーとなった。──それは、俺にとっても朗報だった。
俺の名前は春(しゅん)。頭には、特殊な合金で作られたアナログチップが埋め込まれている。幼い頃の脳の病を抑えるためだが、それが原因で躁うつ病になった。感情は暴れ、生活は壊れた。だから俺は、アナログが大嫌いだ。紙も、鉛筆も、機械式の時計も──そして、このアナログチップも。
それでも主治医である今井は、よりによって手書きの日記をつけろと言う。ノートの紙の繊維の匂いが鼻を刺し、ペン先の擦れる音が神経を逆撫でする。指先に伝わる紙のざらつき、インクの金属的な味が舌の奥に広がる錯覚──そのすべてが不快だった。十年以上、罵詈雑言まじりの記録を嫌々続けてきたが、一度も読み返したことはない。
──その朝までは。
家を出て、いつもの道を歩く。早朝の空気は冷たく、アスファルトから立ち上る湿った匂いが鼻をかすめる。角を曲がった先で、幼馴染の夏海(なつみ)が待っていた。笑いながら言う。
「おはよ、春。今日は珍しく早いじゃん」
「……寝坊しただけだ」
「???どゆこと」
「ところで春は進路のこと考えてる?」
「勤労学生……かな?」
「なにそれ?」
いつもの軽いやり取り──のはずだった。だが、次の瞬間、夏海が真顔になり、低い声で言った。
「……ねぇ、今日は右の道を通らないで」
その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。胸が締め付けられ、耳の奥で心臓の鼓動が反響する。視界が暗転し、脳裏に見覚えのない映像が流れ込んできた。
──朝の交差点。耳を打つ雨音。人だかりの向こうに倒れた誰か。雨水が赤い何かと混じって流れていく。濡れたアスファルトの匂い。口の中に広がる鉄のような生臭さ。夏海が泣きながら、俺の名を叫んでいる。
「……春、大丈夫?」
夏海の声で現実に引き戻される。息が浅く、指先が冷えていた。
「……いや、なんでもない」
その日、授業の内容は頭に入らなかった。帰宅しても、あの光景と「右の道を通らないで」という声が頭から離れない。そして、俺は机の引き出しから埃をかぶった日記を取り出した。
パラパラとめくるうち、心臓の鼓動が速くなる。そこには、何度も繰り返される同じ日の記録があった。“右の道を通らないように”という忠告、──その先には、普段近づかない旧区画がある。
そしてさらに、その下には見覚えのない一文が並んでいた。
『助けられなかった。今回も。ヒステリシス……』
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