極北の茶会 Ⅰ.モデラート

 極北の茶会 Ⅰ.モデラート

 

 BGM-Henryk Mikołaj Górecki - 『Concerto for Harpsichord (or piano) and String Orchestra, Op. 40, 1. Allegro molto』

 

 深紅しんく無常むじょう潮流ちょうりゅうは、無作為むさくいに方角を今が続く限り定め続けている。そのうごめはこの天井からは幾数もの揺籃ようらんする放射状の瑠璃るり天蓋てんがいれ、絶えず非可逆の矢のやじりを左右前後に傾けている。

 そして万華鏡まんげきょうごとく広がるペンローズタイルの床は、見る度その白と黒の明暗を目に焼き付ける。その床は、二千六百一無数の嬰児みどりごが入り切る程に広かった。

 くれないの匣の中央には紫檀したんの机とチョコレートのような芳香を放つ、我がれたマルコ・ポーロが竚んでいた。その白金しろがねさかずき鸚緑おうりょく粒波つぶなみおかされた太陽が如く照る灯籠とうろう燦然さんぜんとその身を主張している。

 匣は徐々にロシア側に漂う潮流を裂いていく。

 すると露側から麻衣あさごろもまとった、膝まである長髪を揺らす男が吟行ぎんこうする様子でその影をさらした。彼の体躯たいくは石英の光を放つ剣歯虎けんしこの様だ。

 彼もまた我と同一の道を歩いてきた者だ。それで吟行しているのだろう。

 その麻衣、髪は粒波などいとも容易たやす咀嚼そしゃくしてきた晦冥かいめいたる形相ぎょうそうである。

 彼を目撃した我はようやく口を開くことができた。

壮健そうけんであったかスヴェト。君もの九十四番目の影法師にいざなわれたか」

 その声を聞いた剣歯虎は紫檀の椅子の座板にこしを下ろす。彼は対面の座席の我へ語りかける。

「ああ、私も同じだ。だが、まさかけいがいるとはな。彼のプルートーのみなもとは卿だものな」

 私は杯を指で撫でながら、液面に映る己の顔を覗き込む。その波紋は、千年の孤独を抱えた者の目許めもとを、いとも容易く歪ませた。

「……プルートーのみなもと、か。ふむ、君はそう呼ぶのだね」

 剣歯虎の眼光は揺るがぬ鉄のように私を射抜く。

「問おうか我が友よ。記憶の売買とは何だ。私たちは何を支払い、何を手にいれる」

 私は杯を口に運び、鸚緑に侵された液体が舌を撫でる感触を味わう。

「記憶とは、今を生きる己の外殻がいかく。歳を重ねるほどにその外殻は段々と質量を大きくさせる。ただ、自然に行うそれは我には退屈に思える。そこで、我は多世界に生きてみようと思ったのだ」

「多世界に生きるとは、卿にとっては記憶を意図的に構築するということなのか」

「ああ。それ即ち、今という非可逆の中で、一つの宇宙ではなく、概念上可能なすべての宇宙の集合中で生きようとすることだ」

「情報生成が胎動たいどうする場としての巨大媒体ばいたい、Omni Blood Ocean《オムニブラッドオーシャン》。その中で、以前よりも更に主体的に生きるということ。それを望む。我はとうに、我であることにいたのだよ」

 キリル・スヴェトザロフ、スヴェトは、湯気がみえなくなったマルコ・ポーロを漸く啜る。猫舌なのではなく、応答を集中してい聴いていたのであろう。

「続きをたのむ」

「記憶の秩序にすらすら強い理性を働かせること。それは、我らの認識に確かな客観的要素が入り込むということ。そして、記憶自体の価値が明確になる」

 我はえて言う。

「記憶の売買の先にある境地。そこは名無き地だ」

 

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TOLDEKIM 大鳥 修司 @Amadeus22498

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