第9話 雨の日の沈黙
朝、目が覚めたときから、雨の音がしていた。
一定のリズムで屋根を叩く音。窓の外に滲む灰色の空。
季節はまだ春なのに、どこか冬のような匂いがした。
朝の通学路も、普段よりずっと静かだった。
傘を差していても、足元に跳ねる雨粒の冷たさは隠しきれない。
周囲の人の声も少なくて、まるで音まで雨に吸い込まれていくようだった。
学校に着いて、靴を履き替えると、色菜が昇降口の近くに立っていた。
真っ白なレインコートに、透明なビニール傘。
水滴のついた前髪を軽く指でかき上げながら、俺に気づくと、小さく笑った。
「……おはよう、葉山くん」
「……おはよう」
いつもと同じ言葉。でも、その声が、少しだけ濡れている気がした。
それが雨のせいなのか、別のものなのか、俺にはわからなかった。
一日中、教室は湿気を含んだ空気で重たかった。
窓の外はずっと灰色で、時間の流れがわかりづらい。チャイムが鳴っても、実感がないまま次の授業に移っていく。
そんな中、色菜は珍しく静かだった。
いつもなら、授業中に小さなメモ帳に空の名前を落書きしていたり、ノートの端に意味のない線を引いていたり。
それが今日は、教科書を開いたまま、じっと動かない。
何度か目が合った。
でも、彼女はそのたびにふっと目をそらした。
昼休み、俺はなんとなく気になって、図書室に行ってみた。
けれど、そこにも彼女の姿はなかった。
机に突っ伏して寝ているふりをしていたのかもしれない。
あるいは、どこか別の場所で、ただ一人になりたかったのかもしれない。
けれど、俺は探しに行くことも、声をかけることもできなかった。
理由なんて、うまく言えない。
ただ、なにかを壊してしまいそうで、怖かった。
放課後。
雨はやむ気配もなく、空はさらに濃く沈んでいた。
廊下を歩いていると、階段の踊り場の窓から、傘を差した生徒たちが校門に向かう様子が見えた。
誰かと話しながら笑う声。足早に通り過ぎる背中。
そのどれもが、遠い世界の音のように感じられた。
傘を取りに戻ろうと靴箱へ向かったとき、俺は色菜の姿を見つけた。
下駄箱の横で、彼女は傘を持ったまま、ただぼんやりと外を見つめていた。
声をかけようか迷ったけれど、何も言わずに隣に立った。
「……雨、まだ強いね」
「……うん」
その一言のあと、沈黙が流れた。
でも、その沈黙は、不思議と居心地が悪くなかった。
「今日は……なんか、しんどかった?」
少し間をあけて、俺が尋ねると、色菜はゆっくり首を横に振った。
「……ううん。ちがうの。ただ、こういう日は、あんまり話せなくなるだけ」
「……話せなくなる?」
「うん。なんか、ね。空も、自分も、言葉を探してる感じがして……なにかを言おうとしても、うまく言えないの」
「……わかる、かも」
俺も今日はずっと、言葉が喉に引っかかったままだった。
何かを伝えたいのに、何を伝えたいのかがわからない。そんなもどかしさだけがずっと胸の中にあった。
「……無理に話さなくてもいいよ」
俺がそう言うと、色菜は少し驚いたように顔を上げた。
「え?」
「俺も、今日はなんか……ずっと、沈んでた。理由はないけど。でも、綿森が静かだったから、ちょっと安心した」
「……安心?」
「うん。なんていうか、無理して元気なふりとかしなくていいんだなって、思えた」
色菜は、ふっと笑った。
「……それ、ちょっと変な安心の仕方だよ」
「かもな」
俺もつられて笑った。
それはほんの短い時間だったけれど、さっきまで感じていた雨の重さが少しだけ軽くなった気がした。
「葉山くん、さ」
階段を下りる途中、色菜がぽつりとつぶやいた。
「なに?」
「……話さないって、やさしさだと思う?」
その言葉に、足が止まりかけた。
彼女は俺の方を見ていない。
ただ、視線を階段の先の雨へと向けている。
「……難しいな、それ」
「うん、難しいよね。でもね、今日、誰かに“話しなよ”って言われて、ちょっとだけ苦しかったの」
「……話したくないこと、あるよな」
「あるよ。たくさん。でも、わかってもらえないときもあって……。だから、今みたいに、何も言わずに一緒にいてくれるのって、救われるの」
俺はその言葉を、胸の中で何度もなぞった。
“何も言わない”というやさしさ。
それは、言葉以上に難しいことかもしれない。
「……それ、俺も同じだよ」
「え?」
「綿森が、俺の絵を見て“伝わった”って言ってくれたとき、言葉じゃなかったけど、すごくうれしかった。……たぶん、今日も、それに似てる」
色菜は少しだけ立ち止まり、こちらを向いた。
「……そっか。じゃあ、今日は“沈黙の日”だね」
「“沈黙の日”?」
「うん。名前をつけるなら、そんな感じ。お互いに何も話せなかったけど、でも、それがちゃんと意味を持ってた日」
俺は少し考えてから、小さくうなずいた。
「……いい名前だと思う」
「でしょ?」
彼女は、いつものように、楽しげに笑った。
その笑顔を見て、ようやく今日の空が少しだけ晴れた気がした。
雨の音は、まだ止まない。
でも、帰り道の途中、色菜の傘が俺の傘と少し重なった。
そのことに気づいて、でも何も言わなかった。
ただ、沈黙の中で、足音だけが同じリズムを刻んでいた。
それだけで、今日はもう十分だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます