第5話 放課後の図書室

図書室の窓際。午後の光が、ゆっくりと角度を変えて差し込んでくる。


ページをめくる音と、時計の針が動く音だけが、静かに積もっていく。


綿森色菜と俺は、その時間のなかにいた。


 


最初はたまたまだった。

教室のざわつきが苦手で、静かな場所を探していた。

図書室に行けば、人も少なくて、話さなくていい。そう思って、ひとりで立ち寄ったはずなのに――


そこには、彼女がいた。


窓の外をぼんやりと見ていた。

俺に気づいても、驚いた様子はなかった。


「図書室、落ち着くよね」


そう言って、ふわりと笑った。


「……本、読むの?」


「読むよ。読むけど、今日の気分は“言葉じゃないもの”」


「……?」


「たとえば、光とか、匂いとか、静けさとか。そういうのを感じられる場所が、たまに欲しくなるの」


ああ、まただと思った。

彼女の言葉は、少しだけ遠回りだけど、心に残る。


それがなんなのか、俺にはまだ言葉にできないけれど。



その日から、放課後の図書室が、ふたりの“場所”になった。


といっても、ずっと話しているわけじゃない。

むしろ、話さない時間の方が多い。


俺は窓際の机に座って、スケッチブックを開いていた。


無意識のうちに、手が鉛筆を握っている。

目に映った景色を、淡く紙に写していく。空の色、差し込む光、ページをめくる指先、雲のかたち――


誰にも見せない。

これは、自分の中にしかない風景だから。



「……絵、描くんだね」


その声に、手が止まった。


色菜がいつの間にか、俺の隣の席に来ていた。


「ごめん、見ちゃった」


「……いや」


隠したいような、見てほしいような、不思議な気持ち。


「うまいね。優しい線」


「……優しくなんか、ないよ」


俺の描く線は、どこか歪んでいる。形も遠近も、正確じゃない。


でも、色菜はゆっくりとスケッチブックを覗き込みながら、小さくつぶやいた。


「ううん。強く描こうとしてない線って、優しいと思うよ」


俺は少し、黙ってしまった。


言われたことのない言葉だった。

その言い方は、評価でも賞賛でもなくて。ただ“感じたこと”をそのまま伝えたような、そんな声音だった。


「それって……名前をつけるのと、似てる?」


ふと聞いてみた。


色菜は少し考えてから、うなずいた。


「似てるかも。自分だけの“ものの見え方”を、大事にするってこと」


その言葉に、少しだけ救われた気がした。

誰にも理解されなくても、自分の目で見たものを、自分の形で残してもいい――

そんなふうに思えたのは、初めてだったかもしれない。



窓の外の空は、少し赤みを帯びていた。


今日の空の名前を、彼女は言わなかった。


でも、俺の中では、なんとなく言葉が浮かんでいた。


“ひとりじゃない灰色”


昨日までの曇り空よりも、少しだけ柔らかくて、温度のある色。

それが、今日の空だと……思えた。



「葉山くん」


「……ん?」


「わたしね、静かな時間って、すごく贅沢だと思うの」


「贅沢?」


「うん。だって、静かにできる相手って、けっこう少ないから」


言われてみれば、そうかもしれない。


沈黙を“つながり”として感じられる人は、多くない。


でも今は、その時間が、心地よかった。



図書室を出ると、廊下の窓に夕陽が差し込んでいた。


色菜は振り返って、こう言った。


「今日の空は、“沈まない夕暮れ”だね」


「……沈まない?」


「うん。誰かと一緒に見ると、沈まない気がするでしょ?」


俺は、それには何も答えなかった。

でも、たぶん――その感覚は、少しだけわかる気がした。


沈まない夕暮れ。

静かな図書室。

言葉にならない安心。


そういうものが、少しずつ積み重なって、

俺の中に、知らなかった“あたたかさ”を残していく。



──何も変わっていないように見えて、

ほんの少しずつ、景色は変わりはじめていた。

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