第3章:蠢く影、囁く老婆

 祖母の日記に記された不吉な言葉の数々。「影」「双子」「贄」。断片的なキーワードが頭の中を巡り、楓を落ち着かない気分にさせた。真実を知るには、もっとこの村の歴史を調べる必要がある。そう考えた楓は、村に一つだけある公民館の片隅に設けられた、小さな資料室へと向かった。

 しかし、期待はすぐに裏切られた。ガラスケースに収められた古文書や農具は、当たり障りのない村の歴史を語るだけ。棚田の作り方、祭りの由来――そこには、「めでたい豊穣の祭り」と記されているのみで、祖母の日記にあるような、血なまぐさい風習の痕跡はどこにも見当たらなかった。誰かが意図的に、不都合な真実を隠しているとしか思えない。

 徒労感に包まれながら資料室を後にした。時刻は、もう夕暮れに差しかかっている。帰り道、西日が長く伸ばした自分の影が、ふと視界の端に入った。その瞬間、楓は凍りついた。

 自分の影が、一瞬だけ、自分とは違う方向に首をぐにゃりと傾けたように見えたのだ。

「え……?」

 思わず振り返るが、もちろん背後には誰もいない。気のせいだ。疲れているんだ。楓はそう自分に言い聞かせようとした。だが、一度意識してしまったら、もう駄目だった。アスファルトに映る自分の影が、まるで意思を持った別の生き物のように感じられてならない。手足の動きが、ほんのわずかに自分とずれているような気がする。黒々とした人型が、地面に縫い付けられた自分自身の分身ではなく、得体の知れない「何か」が擬態しているように見えてくる。

 言いようのない恐怖に駆られ、早足で古民家へ向かっていると、道の脇にある地蔵の陰から、しわがれた声が楓を呼び止めた。

「お嬢さん」

 そこにいたのは、腰の曲がった老婆だった。髪は白く、顔には深い皺が刻まれている。村のはずれのあばら家で一人暮らしをしているという、トメだった。村の子供たちが「物の怪憑き」と噂し、誰もが避けて通る存在。

「影を見なさんな。喰われるよ」

 トメは、地の底から響くような低い声で、そう警告した。その目は、全てを見透かすように楓の瞳を射抜いている。

「喰われるって……どういう意味ですか?」

 楓が震える声で尋ねると、トメは口の端を歪めて不気味に笑った。

「もうすぐ祭りだからねぇ……影見様が、新しい魂を欲しがって、喜んでおられる」

 そう言い残すと、老婆はするりとお地蔵様の裏に回り込み、あっという間に姿を消してしまった。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。

「影見様」「祭り」。新たなキーワードを得た楓は、その足で村長の家を訪ねた。平静を装い、それとなく尋ねてみる。

「村長さん、もうすぐお祭りがあるんですね」

 佐伯村長は、いつもの人の良い笑みを浮かべて頷いた。

「ええ。十年の一度の大切な『影踏み祭り』です。村の安寧を祈る、おめでたい祭りですよ。楓さんも、ぜひご覧になってください」

 しかし、その言葉とは裏腹に、彼の目の奥は全く笑っていなかった。むしろ、獲物を見つけた狩人のような、冷たい光が宿っているのを楓は見逃さなかった。

 その夜、楓の恐怖は現実のものとなった。

 布団の中で眠りについたはずが、ふと意識が覚醒する。だが、体はぴくりとも動かない。金縛りだ。声も出せず、目だけがかろうじて動かせる。恐怖に引きつる視線の先、月明かりに照らされた障子に、自分の影が映っていた。

 ――自分の、寝ているはずの影が。

 影は、ゆっくりと、ぎこちない動きで起き上がった。そして、四つん這いになると、こちらに這い寄ってくる。障子に映るそのシルエットは、紛れもなく自分自身のものだ。だが、それはあり得ない。自分はここに、金縛りにあって動けずにいるのだから。

 影は、障子の縁まで来ると、まるで黒いインクが染み出すように、じわり、と室内へと侵入してきた。平面であるはずの影が、立体的な黒い塊となって、楓の枕元へと迫ってくる。

「あ……あ……ッ!」

 声にならない叫びが喉の奥で詰まる。冷たい何かが、足首に触れた。

 その瞬間、楓は絶叫を上げて、意識を手放した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る