第1章:予期せぬ婚約破棄と、望外の自由
エルドラド王城の大広間を満たすのは、ねっとりとした好奇と侮蔑の視線だった。シャンデリアの眩い光が、私の頬を舐めるように照らし出す。その中央で、私の元婚約者であるエドワード・フォン・エルドラド王太子殿下が、芝居がかった仕草で高らかに声を張り上げた。
「リリアーナ・フォン・ヴァインベルク! 貴様との婚約を、ただ今この時をもって破棄する!」
びしり、と私を指さすその指先は、まるで正義の鉄槌のようだ。周囲の貴族たちからは、待ってましたとばかりの囁き声が漏れる。
「聖女マリアへの嫉妬に狂い、彼女に数々の嫌がらせを行った貴様の罪、断じて許すことはできん!」
エドワードの隣では、庇護欲をそそるように体を縮こませた少女――聖女マリアが、潤んだ瞳で私を見つめている。彼女こそが、この乙女ゲーム『光の聖女とエルドラドの騎士』のヒロイン。そして私が、彼女をいじめる悪役令嬢リリアーナ。テンプレート通りの断罪イベントに、私は内心、大きなあくびを噛み殺していた。
(ようやく、この日が来た……!)
物心ついた頃に、ここが前世でプレイしたゲームの世界だと気づいてからというもの、私の人生はこの茶番のためにあった。農業高校で来る日も来る日も土と向き合い、作物を育てることに青春を捧げた私、緑川恵にとって、王妃教育やらダンスのレッスンやらは苦痛でしかなかった。エドワードの愛も、マリアとの張り合いも、すべてがどうでもいい。私が欲しいのは、誰にも邪魔されず、心ゆくまで土をいじれる場所だけなのだ。
周囲の同情がマリアに集まり、私への非難が最高潮に達したのを見計らい、私はゆっくりと口を開いた。淑女のカーテシーを完璧にこなし、顔を上げる。
「王太子殿下のお言葉、謹んでお受けいたしますわ」
私のあっさりとした返答に、エドワードの眉がぴくりと動いた。もっと泣き喚き、見苦しく取り乱すとでも思っていたのだろう。残念ながら、私の心は一点の曇りもなく晴れ渡っている。
「ですが…」
私はここで、悪役令嬢らしく唇の端を吊り上げ、妖艶に微笑んでみせた。これは、この役を演じきった私への、ささやかなカーテンコールだ。
「長年、王太子の婚約者として、国の為、王家の為に身を粉にして尽くしてまいりましたこの私への慰謝料、そして手切れ金は、きっちりと頂戴いたしますわ。よろしいですわね?」
「なっ……ずうずうしい女め! どの口がそれを言うか!」
顔を真っ赤にして怒鳴るエドワードを、私は冷ややかに見つめる。
「あら、婚約は双方の合意のもとで結ばれる神聖な契約。それを一方的に、それも不貞の挙句に破棄なさるのは殿下の方ですのに? ヴァインベルク公爵家が黙っておりませんわよ」
父の名前を出すと、エドワードはぐっと言葉に詰まった。彼は王太子とはいえ、まだ王ではない。有力貴族である我が家の力は無視できないのだ。
「……望みを言え。金か? 宝飾品か? 望むものをくれてやるから、とっとと私の前から消え失せろ」
吐き捨てるような言葉に、私は満面の笑みを浮かべた。待ってました、その言葉!
「では、お言葉に甘えまして。私がいただきたいのは、お金や宝石などではございません」
「……何?」
「我が国と、隣国グリューネヴァルト王国との国境にございます、あの『見捨てられた土地』。かつてのローゼンベルク辺境伯領を、私に譲っていただきたいのです」
私の要求に、広間は水を打ったように静まり返った。エドワードも、隣のマリアも、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見ている。
旧ローゼンベルク領。そこは、数十年前の戦争でグリューネヴァルト王国から奪い取った土地だが、地質が悪く、作物が育たない不毛の地として知られている。エルドラド王国にとっては、ただ持て余しているだけの厄介な土地だ。
「そ、そんな土地をどうするつもりだ……?」
「それは私の勝手ですわ。まさか、したくないとはおっしゃいませんわよね? 我が国の誰もが見向きもしない土地ですのに」
挑発するように言うと、エドワードはプライドを傷つけられたように顔を歪め、「分かった! くれてやる!」と叫んだ。
計画通り。私は心の中でガッツポーズをした。
「ありがとうございます、殿下。それから、私が嫁ぐ際にヴァインベルク家からエルドラド王家へ渡されるはずだった莫大な持参金。あれも、私が有効活用させていただきますので、お忘れなきよう」
「なっ……!」
どこまでも厚かましい私の態度に、エドワードは絶句している。もう彼に用はない。私は優雅に背を向けると、唖然とする元婚約者と聖女様を尻目に、誇り高く胸を張って大広間を後にした。
さようなら、窮屈な王城。さようなら、退屈な日々。
こんにちは、私の自由! 私の畑! 私のスローライフ!
前世の農業知識と潤沢な資金を手に、私の心は希望に満ち溢れていた。これから始まる新しい人生に、胸の高鳴りが止まらなかった。
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