天神さまの細道
をはち
天神さまの細道
不思議な夢を見た。
春の季節、夜明けにはまだ遠い。
桜の蕾がひらく衣擦れさえ聞こえそうな静寂の中、
わたしと彼は新居の床に雑に広げた布団に転がり、引っ越しの疲れもそのままに眠りについた。
どれほど時が過ぎたか。
ふと、気配に目覚めたわたしは、彼の穏やかな寝息に安堵し、幸せを噛みしめて再び目を閉じた。
すー、すー、と心地よい響き。
だが、その中に、遠くで泣く赤子の声が混じる。
いや、とうに聞こえていたのかもしれない。
気にも留めなかったその声は、いつしか隣室から、この部屋へと近づいてくる。
無論、ここに赤子などいない。
なのに、泣き声はわたしの耳元で、まるでわたしとの距離を詰めるように響く。
夢とも現ともつかぬ中、風が言葉を運ぶように、ボソボソと囁きが聞こえ始めた。
「通りゃんせ、通りゃんせ…天神さまの細道じゃ…」。
懐かしい童謡が、赤子の泣き声を抑え、わたしを現実に引き戻すかのように、はっきりとした声となる。
行きはよいよい、帰りはこわい。こわいながらも、通りゃんせ。
その瞬間、部屋に重く鈍い音が響いた。
ズリズリと何かを引きずる気配。目を開けようとしたが、体が動かない。
金縛りだと確信したわたしは、慣れぬ部屋と昨日の疲れが悪い夢を呼んだのだと自分に言い聞かせ、目を閉じようとした。
だが、生暖かく生臭い空気が顔を覆う。
溜め池の底の腐臭が一気に噴き出すような、ただならぬ気配に、わたしは再び目を開けた。
目の前に、何かがいる。
巨大な影がわたしを見下ろす。
動けぬ体で、闇に目を凝らす。
やがて浮かび上がったのは、想像を絶する姿――巨大なザリガニだった。
鋭いハサミが月光に鈍く光り、甲殻に刻まれた無数の傷が、長い年月を物語る。
時が止まったような静寂。
永遠とも思える恐怖は、ザリガニの声で破られた。
「お主、危ういところであったぞ。」
低く響く声は、どこか哀しみを帯びる。
「ここは水子の巣窟じゃ。行き場を失った子らが、温もりを求めて新たに住む女に縋る。
純粋な願いが、いつしか黒い念となり、宿った命を、子宮ごとかきむしる。
この部屋に住まう者の末路は、想像するまでもあるまい。」
わたしは言葉を失う。
ザリガニは続ける。
「儂は、かつて魂を喰らう物の怪じゃった。だが、お主とこの男を見たあの日、変わった。
お主は知らぬだろうが、天神様の細道で、赤い糸で結ばれたお主らは、儂の沼に落ちた。
他の者は皆、縁を裏切り、己だけ逃げた。だが、お主は違った。己を犠牲にこの男を救い、
男もまた、お主を置いて逃げはしなかった。その光景に、儂は魂を喰らうのをやめた。」
ハサミが小さく震える。
「あの日の赤い糸は切れた。だが、儂はそれを離さず、こうして持ってきた。もう儂の時は少ない。
水子の念を受けきれず、この甲殻は砕けた。だが、最後に約束を果たす。お主らの糸を、結び直す。」
ザリガニは弱々しくハサミを動かし、色褪せた糸を結ぶ。
すると、糸は深紅に輝き、かつてない光を放った。
「これでよい。儂も、ようやく何かになれたかのう…。」
その言葉を残し、ザリガニは静かに崩れ落ちた。
翌朝、目覚めたわたしの傍らには、小さなザリガニの抜け殻と、首の折れたこけしが転がっていた。
誰も信じまい。
だが、わたしは彼の手を握り、そっと外を見やった。
空は青く澄み渡り、どこまでも広がっている。
心の奥で、かすかな旋律が響く。
行きはよいよい、帰りはこわい。それでも、わたしたちは歩いていく。
人として、共に。
通されよ、通されよ。
ここは彼の細道か?天神様への参道じゃ。
ならば通して貰いましょ。招きの無いもの通らせぬ。
七歳までは神の内、今日から人と成り申す。
行はヨイヨイ、帰りは怖い。
それでも、逝きます。人と成り申す。
天神さまの細道 をはち @kaginoo8
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