第34話 帰還


 ──光が、揺れていた。


 赤く焼けただれた空気の奥。崩壊した洞窟の天井から、わずかな陽光が差し込んでいる。


 それは、朝日とも夕陽ともつかない、境界の色だった。


 俺は、その光の下に立っていた。


 崩落と霧の消えたこの空間は、もはや〝異界〟とは呼べなくなっていた。

 瘴気は抜け、魔力の揺らぎも失われ、ただ静寂と余韻だけが漂っている。


 ダンジョンコアは破壊され、階層構造も潰え、魔物の気配も、影すら残っていない。


 ここはもう、〝ダンジョン〟ではなかった。


「……いま、どのあたりなんだ」


 独りごちて、残骸を踏み越える。


 痛む身体を引きずりながら、瓦礫の隙間を縫うようにして地上への通路を探す。


 魔物たちが切り拓いた道はすでに崩れ落ちていた。


 けれど、瘴気が晴れた今となっては、急ぐ理由もない。


 俺はゆっくりと、瓦礫の中を彷徨うように歩き――そして。


「赤坂さん!!」


 地上の光が差し込む先から、待ち焦がれた声が届いた。


 見上げると、そこには透花がいた。泥と血にまみれた服のまま、崩れそうな肩を震わせ、こちらを見下ろしている。


 その隣には、土屋の姿もある。


 聴覚感知で俺を探し続けていたのだろう。魔力を使い果たした顔色は悪いが、それでもしっかりと立っていた。


「……無事だったか」


 俺は、ふっと息を吐く。


 透花が声を詰まらせ、次の瞬間、我慢できずに駆け出してきた。


「本当に……生きてたんですね……! 私、赤坂さんまで――」


 土屋から俺の生存を聞いていたようだ。

 何かを言いかける透花を、俺は手で制した。


「後にしろ。先に、外に出るぞ」


 静かに、だが強く言うと、彼女は泣きそうな顔のまま、こくりと頷いた。


 そして――俺たちは、ようやく地上へと還った。




 空は、澄んでいた。


 日が傾きかけた空はどこまでも青く、魔物も瘴気も、気配ひとつ残っていない。


 まるで、何事もなかったかのように。世界は、日常を取り戻そうとしていた。


「本間さんは……」


 透花が口を開いた。


 俺は、黙って彼女を見た。


 その一瞬の沈黙が、すべての答えだった。


 透花は目を伏せ、そっと地面に膝をつく。そして、静かに両手を合わせた。その姿に、土屋も無言で背を向け、黙祷を捧げた。


「……彼は、自分の過去を背負って死んだ。お前たちを守って、な」


 短く告げると、透花はそっと頷く。


「……だから、私は……生きます。彼が守ってくれた分も」


 その言葉に、俺は目を細めた。


 彼女は、確かに強くなった。


 戦いの意味を知り、命の重みを知り――

 それでも立ち上がった者の、確かな瞳だった。





 その夜、島の診療所で最低限の治療を受けた俺たちは、ダンジョンの底へ落ちた後に何が起きていたのかを聞いた。


 どうやら、俺たちが転落した直後、ウェアラビットの群れに囲まれた他の覚醒者たちは、ほうほうの体で逃げ出し、どうにか地上へ戻ることができたらしい。奇跡的に死者は出なかったが、かなりの怪我人が出たという。


「あの後、佐々木さんの他にも、多くの方に瘴気酔いの症状が出たそうです。でも、いずれも軽症で、今では回復に向かっていると聞いています」


 治療を終えた透花が、呟くように言った。

 俺はその言葉に、小さく頷く。


「佐々木はどうなった? あの時、すでに重度の瘴気酔いだったはずだ。無事で済んだのか?」


「佐々木さんは……」


 透花が、言葉を選ぶように口を噤む。


「地上に戻る途中、武器や防具を捨てて魔物の前に姿を晒したそうです。一命は取り留めましたが、そのときの怪我が原因で片足を失う重傷を負いました。今は怪我の処置を終え、瘴気酔いの治療を受けているところです……でも、まだ幻聴や幻覚がひどく、回復には時間がかかるとのことでした」


 俺は「そうか」と短く呟いた。


 片足を失ったとなれば、治療を終えても前線に戻るのは困難だろう。仮に復帰できたとしても、その後も覚醒者として活動を続けられるかどうかは分からない。


 多くの場合、瘴気酔いの最中に犯した過ちに苦しみ、自ら魔物の巣穴に潜ることをやめる者がほとんどだ。


 そんなことを考えていると、透花がぽつりと漏らした。


「……私は、どうすればいいんでしょうか」


「ん?」


「佐々木さんが生きていたのは嬉しいです。でも、あの人にされたことを思い出すと……簡単には許せません」


 透花の言葉には、かすかな怒りが滲んでいた。


 無理もない。彼女は佐々木の行為の、直接の被害者だ。


 彼の行動は決して許されるものではない。状況によっては、彼女は命を落としていてもおかしくなかったのだから。


 だが、俺は小さくため息を吐き、遠くを見つめるように目を細めた。


「……許してやれ。瘴気酔いに陥った者に、善悪の判断を求めるのは酷だ。誰だってなりうるものだ。あのとき佐々木だっただけで、もしかすれば、俺や土屋がそうなっていたかもしれない」


「ですがっ! 私は……!!」


「分かってる」


 彼女の怒りも痛みも、よく分かっている。

 それでも、俺は言うしかなかった。


「許してやるんだ。悪いのは佐々木じゃない。瘴気をこの世界に生み出した、魔物たちだ」


 聖人になれとは言わない。

 だが、憎むべき相手を間違えてはいけない。


「許すってのは、あいつのためじゃない。自分のためにするものだ。憎むべき相手を間違えたら、足元をすくわれる」


「……それでも、私は……」


「だったら強くなれ。どんなことをされても、なんてことないって笑えるくらいに、誰にも負けないほど強くなれ」


 呟くように告げた俺の言葉に、透花がじっとこちらを見つめる。


「……もしかして、昔、赤坂さんも……」


「なんだ?」


「……ううん、なんでもありません。でも、そうですね。赤坂さんの言いたいことも、少し分かりました」


 そう言って、透花は小さく微笑み、息を吐いた。


「強くなります。赤坂さんの言うとおり、誰にも負けないくらいに。……それに」


「それに?」


「ダンジョンは崩れましたけど、あの魔物はまだ残っていますもんね。いつか、あの魔物を倒せるように……強くならないと」


 その言葉に、俺は何も答えなかった。

 俺が、蛇王を倒したことを、彼女に知られるわけにはいかなかった。


 治療を終えて、俺たちはそれぞれの宿に戻るために別れた。


 別れる前、月の下で土屋が俺に言った。


「これで、終わりなんですね」


 土屋は月を仰ぎながら、ぽつりと呟いた。


 俺は、黙ってそれを聞いていた。


 満月には届かない、欠けた月。だがその光は、夜の帳を確かに裂いていた。


「あなたがこの時代から去れば、私はゆっくりとあなたのことを忘れることになると思います」


「そうなのか?」


「はい。それが、女神様との契約なんです」


 土屋はそう言い、穏やかな笑みを浮かべて俺を見た。


「あなたを忘れるのは、私だけじゃありません。この島に生きるすべての人たちが、あなたのことを忘れるでしょう」


 歴史の修正力だと、土屋は言った。

 どうやらそれも、事前にテルミナから聞かされていたらしい。


「私は、逃げません。これから先、どんなことがあっても」


 そう言って、負傷した腕をそっと握りしめる。


「……守るべきものがあるのなら、それだけで戦う理由になるから」


 その言葉に、本間の面影が重なった気がした。


「……ああ。俺もそうする」


 そうして、しばしの沈黙が降りた。

 風が、木々を揺らす音だけが耳に残る。


「透花さんには、別れは告げるんですか?」


「……いや」


 俺は少し空を見上げた。


「俺は本来、この時代にはいないはずの人間だ。別れを告げるような間柄でもない。過去の歴史通り、この島にはいなかった人間として静かに消えるさ」


「……そうですか、寂しがりますよ。きっと」


「どうかな。案外、平気そうな気もするが」


 一度、言葉を区切った。


「それでも、もし寂しがるようなら」


「寂しがるなら?」


「この先、何があっても生き延びろとだけ伝えてくれ」


 俺の言葉に、土屋が目を瞬かせる。

 それから小さく笑って、しかと頷いた。


「分かりました。そう伝えます」


「頼んだぞ」


 そう言って、俺はその場を離れた。


 土屋の「おやすみなさい」という声が、背中に届く。


 明日が来る。


 だが、それは〝終わりの続き〟ではない。〝始まりの終わり〟だ。


 この世界は、まったく別の、新たな歴史を刻むことになる。


 俺は集落を出て、夜の闇の中へと足を踏み入れた。


 周囲に誰もいなくなったことを確認したのか、テルミナが姿を現す。


「それじゃあ、戻るわよ」


「ああ」


「どうだった? 初めて過去を変えた感想は」


「どう、と言われてもな。いつものように巣穴に潜って、そこにある巣穴を潰しただけだし」


 言って、俺はふと言葉を切る。

 瞳を、集落のある方角へと向けた。


 一瞬だけ、息が詰まる。


 集落の入り口には、氷室透花が立っていた。


 どこから聞きつけたのか、彼女は見送りに来ていたのだ。


 走ってきたのか、肩を荒げた彼女は何も言わずに、俺を見つめている。


 そして深く、深く頭を下げた。


 顔を上げる様子がない。俺の姿が見えなくなるまで、彼女はそうしているつもりなのだろう。


「……まあでも、悪くはなかったよ」


 テルミナはそんな俺の言葉に、小さく笑った。


「そう。なら良かったわ」


 テルミナが指を鳴らした。直後、周囲の景色がぐにゃりと歪む。


 次第に意識が遠のいていく。


 俺という存在が、だんだんと揺らいでいった。


 そして再び、ブツリと――意識は途切れ、闇に消えた。

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