第32話 六つの制約


 空気が重い。


 肺に吸い込むたびに瘴気が喉を焼いた。それでも俺は、一歩、前に踏み出す。


 ――今ここに、俺を縛る制約はない。


 味方も民間人も、誰ひとりいない。この空間に生きているのは、俺ただ一人だ。


 だからこそ、今の俺は「戦える」。


 だというのに、俺の足はかすかに震えていた。目の前の存在が、それほどまでに理不尽だったのだ。


 蛇王――サル=ナー=グラ。終末の囁き。その異名は、伊達ではない。


 だが、今目の前にいる蛇王は、俺が未来で対峙したあの完成された存在とは違っていた。

 圧倒的な神性を備えた究極の姿ではなく、まだ幼く、不完全な個体だ。それでもなお、視線の奥に潜む底知れない深淵に、思わず吸い込まれそうになる。



(土屋も氷室も、ここにはいない。俺ひとりが、この空間に取り残された)



 ……彼女たちは無事だろうか。あの崩壊から、脱出できただろうか。


「……はっ」


 自嘲気味に笑みがこぼれる。この状況で、自分の心配よりもまず彼女たちの無事を案じることになるとは――かつての俺なら、到底考えられなかった。


「このダンジョンのコアは破壊した。魔物が溢れる心配もない。……この島は、とりあえず守られた。女神からの依頼も、これで完了だ」


 小さく呟き、土屋から借りた短剣を抜く。


「ここから先は――契約外だ。だが、未来への禍根は、今ここで断ち切る」


 刃に魔力を込め、眼前の怪物を睨み据えた。


「来いよ。化け物……!」


 次の瞬間――蛇王が動いた。


 音もなく、空間がねじれる。霧の帳を切り裂くように、奴の巨体が跳躍し、瞬く間に間合いを詰めてくる。


 尾がうねりを上げて振るわれた。その一撃は、地形ごと薙ぎ払うほどの威力を秘めていた。


「ッ!」


 咄嗟に身を捻り、跳ぶ。


 尾が叩きつけられた床が抉れ、岩盤が砕け、砂塵が激しく舞い上がる。


 俺は即座に地を蹴り、蛇王に向かって突進し、刃を勢いよく突き立てた。


「おおおおおッ!」


 オーガから吸収した異能『強撃』が発動する。全力の一撃が側頭部を叩き、幼い鱗が砕け、黒紫の瘴気が爆ぜた。


 手応えは確かだった。巨体が明確にぐらつく。


「っ!」


 やっぱりだ。


「まだ不完全なお前なら――倒せる!!」


 蛇王がぬめるように振り返る。


 その虚無の瞳に、一瞬だけ感情の揺らぎが走った。敵意か、あるいは困惑か。そのわずかな〝隙〟に、俺は勝機を見出す。


 蛇王の次の攻撃は、明らかに鈍っていた。

 俺は迷わず距離を詰め、畳みかけるように魔物から奪った異能を発動する。


「ガァァァァァァッ!」


 グレイウルフから得た異能『咆哮』を解放した。

 肺の底から叩き出した衝撃波が蛇王の巨体を押し返し、さらに追撃を放つべく刃を払う。


「未来で俺から奪ったものを……今ここで、全部取り返す!」


 蛇王が初めて明確に怯み、一歩、いや半身を引いた。


 その一瞬の後退を逃さず、俺はさらに強く踏み込んだ。



 ―――その時だった。



 蛇王の目が再びこちらを捉えた。


 その目に晒されただけで皮膚が焼けるように疼く。


 奴の口が開く。口の奥から、幾重にも重なった金属質の歯がせり出し、音が漏れだした。



 ―――…シィイイイイ。 



 咆哮ではない。囁きだった。


 意味を持たない音だ。けれど、それは耳ではなく内側に響く声の暴力が含まれていた。


「がっ……!」


 膝が崩れ、意識が揺らぐ。視界が滲み、世界が歪む。吐き気や眩暈が次々と襲い、頭の中に直接何かが流し込まれる感覚に襲われる。


 次の瞬間、耳から血が流れ出した。鼓膜ではない。脳が拒絶反応を起こしている。


「がっ、あ……くそッ……!」


 呻く。だが、次の瞬間には別の痛みが全身を襲っていた。ヤツの尾が振るわれ、一閃が脇腹を裂き、肉が破れる感覚が全身を揺さぶる。痛みが一拍遅れて脳を突き抜け、視界が瞬時に白黒へと反転した。


(まずい……意識が……)


 蛇王が迫る。圧倒的な存在が、獲物にとどめを刺すようにゆっくりと首をもたげていた。


 ――負ける。


 このままでは殺される。


 技も魔力も通じない。神性に近い存在を前に、俺は――


「……っ、まだ……だろ……!」


 大きく息を吸い込んだ。


「ガァァァァァァッ!」


 肺の中の空気を押し出すように、俺は再び獣じみた叫び声をあげた。『咆哮』の発動によって生じた衝撃波が蛇王の囁きを一瞬だけ掻き消し、身体の自由を取り戻す。


「っ、づぁああッ!」


 転がるようにその場から離れ、膝をついた。


「ぐっ、あ……はぁっ……!」


 息が続かない。呼吸するたびに肋骨の奥が悲鳴をあげた。何本か折れているようだ。


 手足の震えが止まらず、視界が滲んだ。


 全身が痛い。だがまだ――意識はある。


「……おい、てめぇ……」


 血で濡れた口元を拭い、ふらつく足で立ち上がる。


「そんなもんで……終わらせる気じゃねぇよな……?」


 口の中の血を吐き捨て、蛇王を見据えた。

 そして俺は、これまで口を挟まず事態を見守っていた女神の名を呼ぶ。


「テルミナ」


 すぐに返事があった。


「なあに?」


 それは静かな声だった。

 ただ、事の成り行きを見守り続けていた彼女が、穏やかに、けれど確かに応えてくれた。


「〝鎖〟の解放を要求する」


 その瞬間、世界が止まった。


 俺の五体と首に刻まれた紋様から鎖が伸び、空間に縫いとめるように俺を縛る。


 静止した世界の中、目の前に現れたテルミナが柔らかな表情のまま静かに言った。


「制約の履行を宣言しなさい」


 俺はゆっくりと息を吐き出し、テルミナを見据えた。

 そしてはっきりとした声で、告げる。



「一つ、『これは私利私欲のための戦いではない』」


「許可するわ」



 直後、バキン、と鎖が砕ける音が響く。

 俺の胴を縛っていた鎖が解けた合図だった。



「二つ、『過去に存在する人間の誰の目にも入らない戦いである』」


「そうね。ここにはあなた以外に誰もいない」



「三つ、『過去に存在する人間の誰にも知られない戦いである』」


「ええ。ここには、あなたが戦っていることを知る者もいない」



 続けざまの宣言に両足の鎖が弾けた。



「四つ、『これは魔物とそれに連なる邪悪に対してのみ振るわれる力である』」


「間違いない」



「五つ、『これは人に対して振るわれる力ではない』」


「確かに、あなたの相手はあの魔物だけ」



 両腕を縛っていた鎖が霧散する。


 内に滞っていた魔力が一気に循環し始め、重苦しさが消えた。体の芯から力が湧き上がっていく。吐き出す息にすら、魔力の痕が混じる。


 俺は自由になった腕で首筋を撫でる。そこには、まだ一本だけ、最後の鎖が巻き付いていた。


「六つ」


 呟きながら、テルミナを見据える。



「『これは女神の意向に背く戦いではない』」



 その言葉に、テルミナはニヤリと微笑んだ。



「――断言するわ」



 バキン。鋭い音が鳴る。それは、俺を縛る最後の鎖が砕けた音だった。


 同時に、三十秒間の全力が許された合図でもあった。



 静止していた世界が動き出す。

 足元の鎖は紋様へと還り、再び俺の身体に刻み込まれていく。


 その中で、テルミナが宣言した。


「これから三十秒間、赤坂仁という人間がこの時代に存在することを、女神テルミナの名において宣言するわ」


 その言葉に背中を押されるように、俺は地を蹴った。



「『肉体強化フィジカルブースト』!」



 これまでとは桁違いの速度で魔力が全身を駆け巡る。


 一瞬で蛇王との距離を詰め、その胴下へと滑り込む。地を蹴り上げ、全身をねじ込むように跳ね上がった。


「――ッ!」


 吐息とともに、魔力を刃に集約する。


 吹き上がる魔力が動きと重なり、剣閃へと昇華される。『強撃』と『肉体強化』――二つの力を臨界まで引き上げて振るった刃が、蛇王の顎下を斜めに裂き上げる。


 ズバァッッ!


 金属を砕くような轟音が響き、硬質な鱗を突き破って刃が深々と突き刺さった。


「【第5階梯魔法】――雷の一撃ボルトストライク!」


 魔力を流し込むと、凄まじい雷撃が短剣から奔り出た。


「シイイイイイイイイッ!」


 ウェアラビットに放ったものとは比べ物にならない威力だ。


 身体を貫いた雷に、蛇王が悲鳴のような異音をあげて硬直する。


 傷口から噴き上がった深紫の体液が霧に溶け、熱と瘴気が混ざり合って空間を灼く毒へと変貌していく。


 奴の体が仰け反り、呻きのような音を漏らした。虚無の瞳が揺れ、その奥にはじめて『痛み』の色が宿っていた。


 俺はためらうことなく、体勢を崩した蛇王の側面に回り込んだ。


「喰らえッ!」


 跳躍と同時に、刃へ再び魔力を注ぐ。

 短剣が雷撃を帯び、空間を焼き裂くような音と共に閃いた。


 バキィッ!


 振り抜いた刃が蛇王の胴へ斜めの傷を刻んだ。鱗が砕け、下層の肉が露出する。瘴気混じりの体液が噴き出し、地面を溶かした。


 俺は地を蹴って魔力を脚に集中させ、勢いを殺さず跳び上がる。


 放電する踵が蛇王の首筋を撃ち抜いた。


 雷撃と打撃の衝撃に、巨体が大きくのけぞる。


 鱗の奥に走る稲光が、断続的に痙攣を誘発している。



(――ッ! 間違いなく、効いてる!!)



 跳ねるように宙へ飛び退き、距離を取る。

 霧の帳を突き破り、全身に稲妻を纏いながら、最後の一撃を構えた。


「【第7階梯魔法】」


 意思に反応した魔力が、空間を震わせる。

 霧が震え、紫電が舞い、帯電した空気が稲光となって四方へ走った。


「これで終わらせる」


 全魔力を一点に集束させ―――


大落雷ラグナヴォルト!」


 一気に解き放った。



 ――閃光が走る。



 目が焼けつくような光とともに、巨竜をも一撃で焼き殺す雷撃の奔流が、蛇王の頭上へと叩きつけられた。

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