第30話 目覚め①


 誰かに呼ばれた気がして、目を覚ました。


 瞬間、頭を殴られたような痛みが走り、呻く。込み上げる吐き気に耐えきれず、俺は白い床に胃液をぶちまけた。


 怪我を――しているのだろうか。


 だとすれば、ここは病院か?


 しかし目に映ったのは、病院とは程遠い異様な光景だった。


 大理石の床に、崩れた柱。その奥には夜空のような光が静かに瞬き、ときおりフッと消えている。


 病院ではなさそうだ。

 かといって、戦場でもない。


 あまりにも無機質で、冷たい空間だった。


「ここは……」


 呟いた瞬間、自分の記憶が曖昧なことに気づく。


「えっと……何、してたんだっけ」


 まるで頭の中を直接かき回されたような感覚だ。

 眉間に皺を寄せ、言い聞かせるように呟く。


「落ち着け」


 順を追って記憶を整理しよう。

 まず、俺は誰だ?


「……俺は、赤坂仁だ。覚醒者だった。魔物と、戦って……そう、戦っていた。最後まで、剣を振るっていた」


 記憶が断片的に戻ってくる。


 仲間が倒れ、無数の魔物に囲まれ、そして――七匹の〝王〟が姿を現した。


 その瞬間の絶望が、脳裏に蘇る。



 ――思い出した。


 俺は魔物に殺され、死んだのだ。



 そう確信しかけたその時、背後から涼やかな声が響いた。


「惜しいけど、違うわ。ここは天国なんかじゃない」


「ッ!?」


 聞き慣れない声に、反射的に振り返る。


 いつからそこにいたのか。


 先ほどまで誰もいなかったはずのその場所に、見知らぬ女が立っていた。


 不思議な雰囲気を纏った女だった。


 モデル顔負けの長い手足に、陽に焼けたことのなさそうな白い肌。紫色の瞳を縁取る睫毛は長く、目鼻立ちはまるで精巧な人形のように整っていて、美しい。


 唯一、俺と異なる点があるとすれば、その頭に対の曲角が生えていることだろうか。


「誰だ―――…っ」


 咄嗟に腰元へと手を伸ばす。

 そこで初めて、いつもの位置に短剣がないことに気がついた。


 俺は徒手で構えを取る。だが彼女は笑みを浮かべ、敵意のないことを示すように手を振った。


「安心して、あなたの敵じゃないわよ。少なくとも魔物じゃないから」


「魔物じゃない?」


 俺は彼女の頭部に生えた角を見つめながら、言葉を繰り返した。


 説得力の欠片もない。魔物でないなら、何だというのか。


 警戒心を露わにしながら問い詰める。


「魔物じゃないなら、何だ?」


「私はテルミナ。黄昏と終焉、生と死の最期の案内人にして、終わりを冠する夢の代理人。あなたたちの言葉で言えば……私は、神様と呼ばれる存在ってところかしら」


「神様だって?」


 思わず、テルミナと名乗った女の顔をまじまじと見つめた。


 神を名乗るには、あまりにも怪しすぎる。むしろ、悪魔だと名乗られた方が、まだ納得できたかもしれない。


「神様を名乗るには、どうにもないな」


「らしくない?」


 テルミナが不思議そうに首をかしげる。


「どういう意味かしら」


「角だよ。頭にそんなものを生やしてる奴は、たいてい魔物か悪魔って決まってる」


「だから、私を神様じゃないと決めつけるの?」


 彼女は俺の言葉に可笑しそうな笑みを浮かべた。


「おかしな話ね。あなたたち人間は誰一人、私と出会ったこともないはずなのに」


 コツコツと足音を鳴らしながら、テルミナがこちらに近づいてくる。

 立ち止まると、俺の瞳を覗き込むようにして、柔らかな笑みを浮かべた。


「疑うのは構わないけれど、私が神であることは確かなのよ」


 俺は目を細めながら問いかける。


「だったら、その角はどう説明する気だ?」


「気になるなら、見た目を変えてあげる。この姿、最近のお気に入りなんだけど……あなたには不評みたいね」


 テルミナがパチリと指を鳴らす。

 次の瞬間、彼女の頭に生えていた角が、蜃気楼のように揺らぎながら消え去った。


 どうやら、彼女は見た目を自在に変えることができるらしい。


「これで、少しは信じてもらえるかしら?」


 俺は姿の変わったテルミナを睨むように見据えた。


 指先一つで外見を変えられる〝悪魔〟など、聞いたことがない。どんなに高位の魔物であっても、その異形の姿だけは変えられないはずだ。


「……まあ、そうだな。ただし、アンタを神だと信じるかどうかは、また別の話だ」


「まだ疑うの?」


 彼女が、少し呆れたような目で俺を見つめてくる。

 俺は鼻で笑い、唇の端を歪めて応じた。


「当たり前だ。神様ってやつが、俺たち人間を助けてくれたことなんて、一度でもあったか?」


 魔物が現れて以来、人々は必死に神へと祈った。


 だけど、どれだけ願っても神は何もしなかった。


 魔物を倒し、守るのは、いつだって人間自身の手だった。


「もし〝神〟って言葉で俺に取り入ろうとしてるなら、悪いが人選を間違えたな。俺は無神論者だ。神なんか、信じちゃいない」


「……つまり、私を信じないってこと?」


 テルミナは髪の毛先を指先で弄びながら、くるくると回し、面倒くさそうに言った。


「まあ、あなたの退屈な信条なんてどうでもいいけど。私が神様だという事実は変わらないもの」


 彼女はさらりとした口調で続ける。


「それに、あなたは『俺たちを助けなかった』って言ったけれど――私は、ちゃんとあなた達を助けたわ」


「……なに?」


 彼女の指が止まり、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。

 唇の端が、ゆっくりと吊り上がっていく。


「〝覚醒〟現象――あなたたちが呼んでいるその力。それ、私が与えたものよ?」

 思わず、口を閉ざす。


 反論すべき言葉が、すぐには出てこなかった。

 その沈黙を、彼女は楽しむように微笑む。


「人間が、いきなり〝魔力〟なんてものを扱えるようになるなんて、普通じゃないでしょ? 魔法とか、超常現象とか、そういう力はあなたたちの世界には本来、存在しないものなんだから」


 テルミナは、俺の目を見つめながら言い切った。


「世界が崩れかけていたから、この私が、あなたたち人間に力を貸したの。絶体絶命の瞬間に、都合よく力が覚醒する――そんな出来すぎた話が本当にあると思った? でも現に起きた。それは全部、私のおかげ」


 彼女は誇らしげに言い切った。


「私は、あなたたち人間をちゃんと助けたわ」


 真偽はさておき、この女の言葉が妙に腑に落ちたのは事実だ。

 覚醒という奇跡が、ただの偶然によるものだったとは思えない。


 俺はテルミナの言葉に息を吐くと、皮肉混じりに問いかけた。


「……それで? その神様が死人に何の用だよ」


 その言葉に、テルミナがあっさりと答えてくる。


「死人じゃないわ。あなた、まだ生きてるのよ」


 ……生きてる? 俺が??


「はっ」


 思わず、笑みが漏れた。


 馬鹿げた言葉だった。俺は確かに魔物に囲まれ、生きたまま喰われて死んだのだ。

 皮膚が裂け、骨が砕かれる痛みと、絶望的な恐怖は今も脳裏に焼き付いている。


「ありえねぇな。まさか、あれが夢だって言うのか?」


 だが彼女は静かに説明する。


 俺の肉体は瀕死でも、魂はまだ死んでいないらしい。

 テルミナは、あの世へ旅立つ寸前の魂を引き上げ、この〝今際の際〟という空間――あの世とこの世の境目――へ連れてきたのだという。


「ここは私のプライベートルームでもあるの。あなたにお願いがあって呼んだのよ」


「……お願い?」


 彼女は優雅に微笑みながら言った。


「あなたには、過去へ行って〝歴史〟を変えてほしいの」


「はあ?」


 冗談のような話に、思わず笑ってしまう。


「世界を救えってか? 夢にしちゃスケールがデカすぎるな」


「でも夢じゃないわ。これは現実。あなたが選べる最後の岐路よ」


 彼女の声は静かだった。


「もし断るなら……あなたには、このまま〝本当に〟死んでもらうしかない」


 その言葉に、空気が凍る。


 生き延びたければ、過去を変えなければならない――それが女神の示す唯一の道だった。


 俺は彼女の言葉に小さな舌打ちを返すと、答えを言わずに問い直す。


「……なぜ、俺なんだ?」


「たまたまよ。でも、歴史を変えるには、それ相応の力が必要になる。あなたは人類の中でも最も強い、S級の覚醒者と呼ばれる存在でしょ。だから適任だと思ったの」


 確かに、俺は魔物と戦える力を持つ者の中でも、頂点と呼ばれる存在だった。

 その力が必要とされているのだとすれば、無理もない話かもしれない。


(結局、俺に拒否権なんてないってことか)


 俺は小さく息を吐いた。


「分かったよ。生き延びるためなら、過去でも何でも変えてやる」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る