第28話 真実


 うねるような胴体は生物の域を逸脱していた。


 黒鉄のような鱗が幾重にも重なり、その一枚一枚には異国の呪文のような文様が刻まれている。艶のない闇の中で、鱗だけが青白く淡く光っていた。


 その胴が、ぐるりと一周して俺たちを囲っていた。


 まるで、この層そのものが、蛇の体内であるかのような錯覚に一瞬陥る。


 だが、最も異様だったのは〝顔〟だ。


 蛇でありながら、人のように平たい輪郭。目のあるべき場所には、渦巻く〝虚無〟が広がっていた。見られたわけでもないのに、視線が合った瞬間、思考が崩れ落ちる。


 言語の根源が引き剥がされていくような感覚。


 抗えず、俺の内側にまで奴の存在が染み込んでくる。


 縦に裂けた口からは何重もの歯が覗く。それらは噛むための器官ではない。語るための、呪詛を放つための器官だ。


 語られるだけで命を喰われる。そんな想像すら浮かぶ。


「な……んで……」


 震える声が漏れた。


 あれは、魔物じゃない。


 ――災厄だ。


 そして、俺はその〝災厄〟を知っていた。


「どうして……お前がここに!」


 蛇王サル=ナー=グラ。

 十年後の現代で、世界を滅ぼした七匹の魔物の王の一匹。


 『終末の囁き』と呼ばれ、存在するだけで精神を蝕む〝蛇の王〟――。


 その名が意味する災厄が、今ここに、確かに存在していた。


「に、げ……ない、と」


 透花が震える声で呟いた。震えているのは声だけじゃない。全身が酷く細かく痙攣していた。


 声をかけようとしたその瞬間、霧が音もなく裂けた。


 次の一撃が来る。


 直感が脳を殴ったように警鐘を鳴らした。俺の中に染み付いた生存本能が、直前までの動揺と戸惑いをすべて掻き消していく。


(この距離じゃ、避けきれない――なら)


「氷室、伏せろ!」


 叫びながら、俺は地を蹴った。なけなしの魔力を一気に解放し、咄嗟に前へ飛び出す。同時に懐から霊花の花弁を一枚引きちぎり、魔力を込めて放った。淡い光の粒が、蛇王の〝目〟のある方向へ拡散する。


 次の瞬間――


 世界が、叫び声のような轟音に包まれた。炸裂する瘴気が空間を引き裂き、霧と地面と空気が一体となって爆ぜる。


 直撃は避けた。霊花の光が、蛇王の感覚を一瞬だけ攪乱した。だが、それだけだった。


「ッ……!」


 巻き上がった土塊が肩を裂き、視界が霞む。本間の怒号が聞こえた。透花と土屋が何かを叫んでいた。すべてが遠い。感覚が、音と熱と痛みに溺れていく。


 重力が、傾いた。


 ――違う。地面が、崩れている。


 足元が崩落し、瓦礫が連鎖するように崩れ落ちていく。


「危ないッ!」


 本間の声が響いた。俺の視界に透花の背が映り込む。立ち尽くしていた彼女が足を取られて倒れそうになる。


「氷室、が」


 俺が言い終わる前に、本間の身体が動いていた。右脚を引きずったまま、信じられない速度で透花のもとへ躍り出る。


 次の瞬間――ズドン、と肉を打つ重い音が響いた。続けて崩落した岩が砕け、辺りに飛び散る。


「本間ッ!」


 叫びながら俺は飛び込んだ。そこには、瓦礫に押し潰される直前、透花をかばうようにして倒れ込んだ本間の姿があった。


 じわりと真っ赤な液体が広がる。巨大な岩に腹から下を圧し潰されても、不自然な角度で折れ曲がった右腕が透花を守っていた。


「立てるか!?」


「……無理だな。腹から下の感覚がない」


 本間は顔を歪め、唇を強く噛んでいた。足元に広がる血だまりが、彼の顔色から血の気を奪っていく。


「……わ、わたし……私のせいで……!」


 透花が呆然と座り込み、震える指で彼の袖を掴んだ。


「ごめんなさい……ごめんなさい……!」


 その呟きは涙に濡れていた。その姿に、胸が締めつけられる。

 本間の声が、低く霧の中に響いた。


「……謝るな。悪いのは、お前じゃない」


 俯いたまま、彼は苦しげに言葉を紡いだ。


「謝らなきゃいけねぇのは……俺のほうだ。あいつは、本当なら俺が殺しておくべきだった魔物なんだ」


「え……?」


 その呟きに、場が静まり返る。透花は彼の袖を掴んだまま言葉を失い、俺も、本間の言葉の真意を探すように沈黙していた。


「……俺が」


 本間はぽつりと呟く。


「俺が、あのとき……逃がさなきゃよかったんだ」


 その声には、痛みでも後悔でもない。もっと深い、言葉にできない想いが滲んでいた。


「……何の話だ」


 俺が問いかけるより先に、透花の瞳が揺れた。それが予感だった。彼女だけが、その続きを無意識の奥で恐れていた。


 本間は呻くように言った。


「十年前だ。最初に島に魔物が入り込んだとき……俺は、その対応に駆り出された覚醒者の一人だった」


 その話なら、知っている。島の記録にも残っている。島を守った英雄たちの中で、生き残ったのは本間五郎ただ一人だった――と。


「けど、実際は違った」


 本間は顔をしかめ、唇を噛みしめた。


「……俺は、見逃した。殺せなかったんだ。魔物を追い詰めて、とどめを刺すだけだった。けど……」


 言葉が詰まる。拳を握り、地面を睨みつける。


「あの時、俺は見間違えたんだ。あいつが……子供に見えた。咄嗟に躊躇してしまった。人間に、見えてしまったんだ」


 透花が、小さく息を呑む。


「その隙に逃げられて……仲間は全滅した。お前の父さんも……氷室啓介も、その時に死んだんだ」


 信じられない、という感情が透花の顔に滲む。


「でも、記録では……」


 土屋が言いかけたが、それを遮るように本間が呟いた。


「俺が……全部、嘘をついたんだ。『気づいたときにはもう遅かった』『啓介は最後まで戦っていた』――全部、俺が言いふらした。責任を一人で背負うのが怖かった」


 口の中が苦くなる。その告白は、俺がずっと探っていた〝失敗の核〟だった。


 島が滅びることになった発端。透花の父が死に、蛇王が逃げ、この島の中で魔物が蔓延った原因が――本間だった。


「すまない……透花」


 その声に、透花の瞳が大きく見開かれる。


「俺はずっと嘘をついてた。お前に真実を伝えるのが怖かった。ずっと、逃げてたんだ」


 その声は絞り出すような謝罪だった。足元の血だまりは広がり続けている。本間の視線はすでに虚ろで、もはや何も見えていないようだった。そんな中、本間はうわ言のように言葉を続けていた。


「お前を訓練から外したのも、戦わせたくなかったのも……全部、自分の罪悪感を誤魔化すためだった。あの時の失敗を二度と繰り返したくなかった。お前を戦場に出せば……俺がまた、誰かを殺す気がして」


 声がかすれる。


「でも結局こうして、またお前を……こんな場所に連れてきて……」


 そこで言葉が途切れた。


「すまない……透花。本当に、すまない……!」


 その言葉には誤魔化しも演技もなかった。すべてをさらけ出した、一人の男の懺悔だった。


 俺は、何も言えなかった。言葉が見つからなかった。


 長い沈黙のあと、透花が顔を上げた。


 頬に涙の跡が光っている。けれど、その目はまっすぐに本間を見つめていた。


「……本間さん。私、ずっと……お父さんみたいになりたかったんです」


 透花の声は震えていたが、明確だった。


「でも、今は……あなたみたいになりたいと思います」


 本間の目が、大きく揺れる。


「私、まだうまく言えないけど。でも、あなたが私のこと、嘘でも守ろうとしてくれたことは、わかるから」


 本間は何かを飲み込むように目を閉じた。そして、もう一度だけぽつりと呟く。


「ありがとう……」


 その言葉を最後に、本間はゆっくりと瞼を閉じた。呼吸は浅く、声もすでに掠れていたが、その顔は不思議なほど穏やかで、まるで重荷をようやく下ろした人間のようだった。


「本間……?」


 俺が呼びかける。だが、彼は答えない。わずかに喉を震わせたが、指先も、もう動かなかった。


「嘘、でしょ……?」


 透花が震える声で呟いた。両膝をつき、彼の傍らに縋りつくように座り込む。その背後で土屋が口を押さえて顔を伏せていた。声は出ていないが、肩だけが震えていた。


「ちくしょう……っ」


 言葉が喉で詰まる。重苦しい沈黙が場を包んだ。


 拳を握りしめたその瞬間――霧の奥で、何かが動いた。


 重く、低く、地鳴りのような音が、空間の底から響いてくる。


「っ……! 動いてる……!」


 俺の声に、土屋が顔を上げた。霧の帳がわずかに揺れていた。それはまるで空間そのものが震えているような錯覚だった。


「赤坂さん、あれ……!」


 透花が指さす霧の奥に、あの影があった。


 長く、あまりにも長い胴体だ。蛇のような輪郭が霧の中に浮かび、ぬめるような鱗がわずかに煌めいている。


 動いている。確かに、こちらへ向かっている。


 自らの縄張りに踏み込んだ獲物を、冷徹に処理しようと向かってきている。


「逃げろ! 本間を連れてる暇はない、今は生き延びることを最優先にしろ!」


 叫び、俺は透花と土屋を抱えるようにして駆け出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る