13,魔王城
扉が開くと、部屋の中はまるで王族の晩餐のような光景が広がっていた。長テーブルには湯気の立つ料理が並び、銀の食器が整然と輝いている。中央にはミズナがいて、頬をふくらませながら肉料理にかぶりついていた。
「おう、さき食ってるよー」
俺の姿を見るなり、ミズナは片手を上げて合図する。その隣にはノアール。姿勢を崩したまま、ぼんやりと前を見ていた。
ミズナはワイングラスのような器を掲げ、「ねえ、ジュースおかわりー」と軽い口調で言った。すると背後に控えていた黒い上着に白手袋、まるで執事のような魔獣が一礼し、新しいグラスを差し出した。見た目は二足歩行の人型だったが、肌は灰色で、瞼の動きがなかった。
ミズナの手元には、豪勢な料理が並ぶ中、ひときわ質素な器があった。そこからずるりと音を立てて、彼女は細く切られた麺をすすっている。
「……それ、何食ってんだ?」
「ん? 蕎麦だよ、蕎麦。コウト蕎麦。うまいよこれ」
「いや、蕎麦くらい知ってる。コウト王国の名物だろそれ」
魔王城でまで食うようなもんか、それ。と口をついて出かけて、止まる。……違う、それ以前の問題だろ。敵地の、しかも本拠地で、平然と蕎麦をすすってる絵面って、そもそもどうなんだ。
首を振り、黙って椅子を引いた。
「魔獣って、悪いやつばっかじゃないんだな」
ミズナはそう呟きながら、嬉しそうにジュースを飲んだ。まるでここが敵地ではないかのように、無防備に。
こいつまじか。この言葉を念じて伝わるようにミズナの顔をまじまじと見つめる。
……何かがおかしい。ん?
違和感はすぐに形になった。ミズナの左目の下。いつもは三つ、点々と連なっていた涙ぼくろが、今は――二つしかない。いや、でも三つあったはずだ。なぜだ。俺の勘違いか。一瞬、アビスレインの言葉が脳裏をかすめる。
――銀の髪に、赤い目。涙ぼくろが二つ
そんなはずはない。俺が見てきたミズナには、確かに三つあった。
ノアールの方に視線を向けると、彼女はうつろな目でスープを見つめていた。焦点は合っていない。だがその手の火傷痕は消えていて、スプーンをきちんと持っていた。身体は完全に癒えているらしい。
食事で身体を労わるのも重要だと思ったが、喉を通る気がしなかった。
ミズナは肉を頬張っている。ノアールは整えるように呼吸をしている。
だけど、何かが少しずつ、確実に狂い始めている――そんな気がした。
「――聞いてくれ」
俺は唐突にそう切り出した。ミズナは大きな鶏の腿にかぶりついたままこちらを見て、ノアールは静かに手を止めた。
ミズナは口をもぐもぐさせながら、「え、なに? 今いいとこなんだけど」と飄々としている。それでも俺の目を見て、真面目な話だと察したのか、ゆっくりと骨を皿に置いた。
俺は話した。
魔王アビスレインとの邂逅。
父――コウノ・ビカクとアビスレインが、戦いの果てに交わした密約のこと。魔王が死ぬことによって魔獣の活性化が止まり、それさえも“黄泉の国”の意志に組み込まれていること。そして、黄泉という名の見えない支配者たちが、魂を「生かし」「殺し」「収穫する」ためにこの世界を設計していた可能性。
「……つまり」
ノアールが小さくつぶやいた。
「魔王が倒されるたび、黄泉がそれを見越していたってこと? すべて、計画された循環の中にあった?」
「おそらくそうだ。そして……その中で、俺は終焉の“72代目の勇者”に生まれてしまった」
言葉にして、はじめてその重みがのしかかってくる。
「誰かに託されたわけじゃない。選ばれたくて選ばれたんじゃない。けど、この宿命を背負う覚悟を持ちたい」
ミズナが言う。
「やっぱ世界って面倒くさいな。あたしはさ、魔王倒せば全部ハッピーって話でいいと思ってた。ごはんも食べられるし、ジュースもおかわりできるしさ」
冗談みたいな口調だけど、きっと本音でもあるんだろう。ミズナは明るい。
ノアールは紅茶に手を伸ばし、それを飲まずに見つめたまま言った。
「セッカ。じゃあ、あなたはどうするの? 世界の運命が“72代目の勇者”に託されてるって言われて……それで、これからあなたはどうするべきなの?」
答えを用意していたわけじゃない。俺はただ、ゆっくりと息を吐き、答えた。
「まだ決められない。でも……誰かに決められたくはない。魔王にも、黄泉にも」
「ふふん、それっぽいこと言うじゃん」ミズナが口をとがらせて笑う。「でも、セッカはそういうとき、ちゃんと迷えるやつだから、信じられる気がする」
「正解なんてわからない」と俺は言った。「だけど、わからないままでも、話し合える。俺たちは、もう敵も味方もごちゃごちゃだ。だからこそ、一緒に考えてほしい。どうするかを」
ノアールはうなずいた。ミズナは空のグラスを掲げて「じゃ、とりあえず、ジュースおかわり」と言った。
俺は思わず吹き出しそうになった。
こんな時間が、なんだか救いだった。それでも選ぶときが、きっと来てしまう。
「じゃ、とりあえず、王国に戻ってみようか」
ミズナが、たいして考えたふうでもなく言った。手元のデザートをつつきながら、まるで散歩にでも行くかのような気軽さだった。
「……は?」ノアールの声が跳ねた。「戻る? あの場所に?」
「うん。だってここにいてもしょうがないじゃん。アビスレインももう喋ることないんでしょ? クレイモアにでも文句言ってやろーぜ。なんか隠してんだろ、あいつ」
「ふざけないで」ノアールの目が鋭く光った。「王国は腐ってる。RAドラッグ、勇者制度、RA適応者の搾取……あんた、見たでしょ。あたしの妹がどうなったか」
「でも、ノアール」俺が口を挟んだ。「今、王国に何が起きてるかも知らないまま、ここにとどまるわけにもいかない。ゴドリゲスがまだあっちにいる。情報を集める意味でも、一度戻るべきだ」
ノアールは口を閉ざした。納得はしていない。でも、俺の判断を受け止めてくれている気がした。ノアールはそれからほぼ無意識だっただろう。ポケットから小さな錠剤ケースを取り出し、蓋を開けた。
手のひらに転がった薬を、じっと見つめ、ようやく我に返った表情を覗かせる。
「……止めないの?」と、ノアールがこちらを見た。
俺は答えた。
「やめられないんだろ。つまりは依存症だ。それなしでは生きられない苦しみ……なんとなく、わかる気がする」
ミズナが続けて言う。
「やめられるなら、やめたほうがいいよ。リリィみたいになったら……怖いし」
ノアールの手が止まった。しばらく薬を見つめ、それから目を伏せる。何も言わず、ゆっくりと錠剤をケースに戻した。
「なんか……ありがとう」
俺たちは魔王城をあとにする。重厚な扉を押し開け、外の空気を吸い込む。陽は高く、魔界とは思えぬほど清らかだった。
そのとき、背後から気配がした。
振り返ると、アビスレインが立っていた。あの赤い長髪が、光をはね返して揺れている。
「見送りに来たのか」
俺が言うと、アビスレインはうっすらと笑った。
「いや、ひとつ――言い忘れていたことがあった」
俺たちは足を止めた。ミズナもノアールも黙って耳を傾けている。
「人間界と魔界とでは、“死”の意味が決定的に異なる。お前たちは、“死”を恐れ、避けるものと定めている。だが、我ら魔族は、“死”を肯定し、受け入れる。死は罰ではなく、救済でもある」
アビスレインは柔らかに語ったが、あふれ出る元来の殺気を隠しきれてはいなかった。
「コウノ・ビカクが異端だったのはそこだ。あの男は人間でありながら“死”を恐れなかった。拒まなかった。それを肯定した。……そういう人間は、稀だ」
俺は、息を呑んだ。
「その意味を理解しておけ。お前が、選ばれし者であるならば。世界を選ぶ者であるならば」
アビスレインはそれだけを告げると、踵を返して魔王城の闇の中へと消えていった。
俺たちは何も言わず、その場にしばし立ち尽くしていた。“死”を肯定する世界と、“生”にしがみつく世界。どちらが正しいかなんて、今の俺にはわからなかった。ただ――選ばなければならない、その時が迫っていることだけは、はっきりとわかった。
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