4,二次試験
階段を降りてくるノアールの足取りには、もはや怯えも迷いもなかった。オーディションの最難関の試験とされる白夢審問を“答えて”きた者だけが纏うのであろう、芯のある静けさ。その沈黙が、かえって大広間の空気を張りつめさせている。
ゴドリゲスは、階下の柱にもたれかかっていた。視線はまっすぐ、ノアールを見据えている。その立ち位置が、わざと彼女の進路を少しだけ塞ぐ形になっていることに、ノアールの眉は反応する。
階段を下り切り、ゴドリゲスの真横をかすめ、肩が触れるか触れないかの距離を通り過ぎる——その刹那、ノアールの唇がわずかに動く。
「……立派な飾り、邪魔なんだけど」
その声音は微笑にも似て、けれど刺すように冷たかった。
ゴドリゲスは無言のまま、微動だにしない。表情も変わらず無風の仮面。しかし、その沈黙自体が挑発に抗う意思を示しているように見えた。
ノアールはそれ以上何も言わず、歩を進める。その足音だけが、大理石の床に響いていく。
火花は散った。だが、その火種が着火するのはまだ先にある。ゴドリゲス、ここまで来なさいよ。そう、ノアールが挑発しているようにも、鼓舞しているようにも思えた。いずれにしてもその余裕の表情にゴドリゲスも内心穏やかではないだろう。
二次試験の初陣を華々しく飾ったノアール以降、試験は加速するように進行した。挑戦者の名が一人また一人と呼ばれ、扉の奥へと吸い込まれていく。だが、彼らが帰ってくる姿は――まるで別人だった。
誰もが沈黙していた。泣く者も、叫ぶ者もいない。ただ呆然と歩く。ある者は顔色を失い、ある者は足元を見たまま視線を上げなかった。仮面のように強張った表情。意味のない笑み。どこを見ているのかもわからない目。共通していたのは、だれひとりとして、合格しなかったことだ。
これは、内側の醜さを晒される試験だ。精神の下着を引き裂いて曝け出すような、悪趣味な見世物。だが、それが国民にはウケる。見知らぬ他人の成功譚など、誰も興味がない。初対面で誇らしげな武勇伝を聞かされたって、鼻につくだけだ。それよりも、赤の他人の失敗談のほうが、百倍おもしろい。それが視聴者の本音なのだ。
だからこれは、どこか見世物小屋めいた醜悪さを孕みながらも、コンテンツとして成立している。視る者が罪悪感を抱かずにすむように、巧妙に加工されたショー。いや――《白夢審問》という名の、精神の公開処刑だ。
扉は開き、そして閉まる。
再び開いても、その先には“敗北”だけが帰ってくる。
十人。
ノアールのあとに続いた参加者は、すでに十人が挑み、十人が落ちた。
なかには一次試験を最速で通過した男もいた。炎のRAで岩を蒸発させた女もいた。だが彼らは全員、敗れた。この試験は、“記憶”と向き合うものだ。勇者としての精神的強度、器を測っている。そしてノアールの成功例から考えると、これもまた、RAの強度によって今の自分が過去に干渉できるかが鍵となっているのかもしれない。
過去の自分に勝てるか。失敗を失敗として受け入れられるか。逃げた過去に、もう一度立ち返れるか。あるいは、そのときの自分を赦せるか。そのすべてに、彼らは答えを出せず、ただただ醜態を晒して終わり。これがまた、過去を乗り越えたノアールの強さが際立ち、神格化されていくからこそ、このコンテンツの巧妙さでもある。
場の空気が、冷えていく。
初陣で輝きを見せたノアールの記憶だけが、皮肉なほどくっきりと残っていた。逆光の中、振り返らずに扉へと向かった彼女の背中、それが唯一の成功であり、同時に他の参加者にとっては、越えられない高すぎるハードルだった。
ノアールの帰還からおよそ四半刻、空気が濁っていく中で、その名は呼ばれた。
「ゴードン・ゴドリゲス、前へ」
ざわめきが一瞬だけ、形を取り戻した。拍手はない。だが、期待の熱だけはそこにあった。
彼はためらわずに歩き出した。堂々と。自信と実力、血統のすべてをその背にまとっている。振り返らない。誰も見ない。ただ、真っすぐに扉へ向かう。
扉が開き、音もなく閉じた。そして投影ビジョンがその様子を映し出す――。
場所は、コウト王国王座の間だった。柱に彫刻、天井にまで織られた金糸の意匠。これ見よがしな豪奢さ。赤い絨毯の先、玉座が一段高く据えられている。そこに、少年のゴドリゲスが立っていた。まだ十にも満たぬ年頃に見えるが、身体の芯まで矯正され、優美さと誇りを刷り込まれた笑顔が貼りついている感じだ。
「おめでとう、我が息子。今日からお前は“次なる勇者”だ」
先代のコウト王が鎮座する玉座の横に立つ男――ゴードン・クレイモア。年輪を積み上げた獅子のような風貌。声には威厳が宿り、立ち姿には何の翳りもない。だが、俺は知っている。あの男は本物の勇者ではない。偽りの英雄だ。
ゴドリゲスはその前に立ち尽くしていた。だが、これは、過去のゴドリゲスではない。いつの間にか現在の彼自身に姿を変えていたのだ。
試験空間が再現する記憶に、今の彼が干渉し始めたのだろうか。さきほどまで彼は十にも満たない少年であったはずだ。これは彼のあまりに強い身体強化RAが無意識にも干渉している証左だとでも言うのか。
誰よりも整った姿勢で、訓練された肉体を鎧のようにまといながら、それでも彼の目にはわずかな濁りが浮かんでいた。戸惑い、ではない。迷いとも少し違う。それは、生まれて初めて言葉にならない「問い」を内側から突きつけられた人間の、剥き出しの視線だった。
「ここが……俺の原点?」
声は低く、問いかけるような響きを帯びていた。気づけばコウト王は消え、王座にはゴドリゲス自身が居座っていた。
そして周囲の家来や、父クレイモア、兄バルディオ、すべての人が称賛の声を上げている。「未来の勇者だ」「父を継ぐ者だ」「この国の誇りだ」。どの声も彼の耳には馴染み深いはずだ。
だが今、そのひとつひとつが不気味に反響していた。耳元でわざとらしく何度も繰り返される台詞のように、不協和音のような、不快感を伴う音となってビジョンから発せられる。
「……なあ、俺は……なにか、したか?」
過去の自分に問いかけるような調子だった。
応えたのは父、クレイモアだった。彼は一歩前に出て、確信に満ちた声で言った。
「お前は“そういう者”なのだ。勝利とは、選ばれた者に与えられる宿命だ。証明する必要などない。存在そのものが証明だ」
その言葉に周囲が再び沸き立つ。瞬間、ゴドリゲスの目が細く鋭くなった。
「……違う。俺は……勝ってない。勝ってなどいない」呟きではなかった。確信の声だった。「剣も振るっていない。血も流していない。敵すらいなかった。なのに、どうして……俺は“勝者”なんだ? 父さん、教えてくれ。俺は何もしていない何もできてない。まだ。まだなにも」
その言葉とともに空間が揺れた。絨毯がさざ波のように波打ち、玉座の背後の壁にわずかなひびが走る。だがクレイモアは揺るがず「お前は“そうあるべき者”だからだ。それ以上の理由は要らない」その姿は幻影であるにもかかわらず、あまりに生々しく、あまりに揺らがない。まるでこの空間の“主”が彼であるかのようにすら感じられた。
クレイモアが偽りの英雄とはいえ、その存在の大きさには確固たるものが感じられる。それはゴドリゲスの視点同様、ビジョンを見るものにもありありと感じられるほどの偉大さだ。
「そうあるべき者……」
幻影の貴族たちが口々に称賛を叫び続ける。「よくやった!」「やはりゴードンの血筋だ」「次なる英雄に相応しい!」
しかし、さきほどから兄バルディオだけは賞賛も告げず、拍手もせず、ただじっとゴドリゲスを凝視しているだけだった。
それらが圧力となってゴドリゲスを包む。彼は目を閉じた。ゆっくり、深く息を吐いた。そして、拳を固めた。
「……これが、俺の“原点”なら――破壊してやる」
低く呟いたその声に、演技めいた熱はなかった。ただ、たしかな怒りだけが滲んでいた。
ゴドリゲスがわずかに足を開き、重心を落とす。無駄な動きは一切ない。柄を握る指に力がこもった瞬間、刀身が低く唸った。特別な演出も、光もない。それでも、場の空気が変わったことは明白だった。その瞬間、誰もが悟ったのだ。この男は、今ここで“何かを終わらせる”つもりだと。
思えば、彼の中にあった違和感は、ずっと前からだと推察するには容易い。偽りの勲章、偽りの拍手、偽りの英雄譚。成し遂げたこともないのに英雄と称えられ、剣を掲げて笑顔を求められる自分が――どれほど滑稽か。ゴドリゲスの立場になって考えてみれば、俺ですらその違和感は払拭しきれないだろう。
だからこそ、この一撃なのだと、俺は思った。彼が壊そうとしているのは、玉座でも幻影でもない。自分自身だ。虚構の上に作られた偶像そのものである、自分だ。
剣に宿したのは、炎でも雷でもないが、たしかに何かが宿っているという気配がビジョン越しにも漏れてきているようだった。そして、剣が振り抜かれる。
その一撃が玉座に届いたのは、一拍遅れてからだった。
白金の椅子が、微かに揺れる。音はない。だが、その構造が軋み始める。脚部の接合が緩み、背もたれが自重に耐えかねて崩れる。座面が持ち上がり、板が脱落し、椅子は椅子であることをやめていく。
背後に立つクレイモアの幻影もまた、輪郭を崩していく。斬撃に触れたわけでもない。だが、像は揺らぎ、足元から消えていった。肩が傾ぎ、表情が霞み、次の瞬間、幻が崩れ落ちる。柱は傾き、天井はひび割れ、絨毯の赤すら色を失っていく。大地震にでも襲われたようにビジョン内は揺れ、天井からはシャンデリアが落ち、柱は崩壊し、土砂に代わっていく。
映像は揺れ、崩れ落ちる瓦礫や砂塵で判然としない。その中でも、ゴドリゲスのシルエットだけが動揺せず、ただ佇んで、天を見上げていた。
すべてが終わったとき、ゴドリゲスは瓦礫の上に立っていた。剣を下げ、ひとつ呼吸を整えると、崩れ去った玉座の跡を見つめていた。そこには何もない。空虚。
かつて王宮だった空間は、廃墟のような無彩色に染まり、喧騒も歓声もなかった。空間は徐々に白に還っていく。試験の終了だ。
これまでの参加者はみな、自らの記憶との対峙であったはずだが、ゴドリゲスだけが異質すぎた。それは、彼自身に過去の失敗がなかったからだろうか。
映像が消え、現実の空気が戻る。崩壊する王座、勝者の自己否定、強烈なRA演出――しかしその異質さは返って映える。まさに二次試験最大の見せ場だったかもしれない。が、……しかし、これは勇者としてはあまりに暴力的というか、この世界そのものに不満を抱いている感じも拭えない。父クレイモアは英雄であり、今では国の象徴的英雄。それに端を発するようなゴドリゲスの対応に、空虚に、審査員でもあるクレイモアは果たしてどのようなジャッジを下すのだろうか。
扉が開く。
ゴドリゲスが現れた。乱れた衣服も、荒れた呼吸もない。まるで何事もなかったかのように整った姿勢で、毅然と歩いてくる。その顔には、わずかに微笑すら浮かんでいた。演出通りの勝利者の顔をしていた。
だが俺には、わかった。
その表情に刻まれたのは“誇り”ではない。“痛み”でもなかった。そこにはただ、空白があった。あの王座が、誰のためにあったのかを最後まで知らないまま、破壊してしまった人間の背中だった。まさに空虚。
ゴドリゲスは何も知らないし、わからない。それに怯えているのだろう。そこにたしかに違和感を感じているのだ。それは、正しい。ゴドリゲスはこの世界の真実に触れていない。俺の父、ビカクが亡くなったことが何を意味するのか、ゴドリゲスはゴードン家とはいえ、知らされていないのだと確信できる。
ゴドリゲスは過去を乗り越えたとは言い難い。明らかに他者の試験とは異質すぎて、合格不合格が判然としないようなものだったが――、
「ゴードン・ゴドリゲス、合格」
と告げられた。
内容はどうあれ、普通に考えてゴドリゲスが不合格になることはない……か。
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