3,二次試験


 控えの大広間へ戻ると、湿った空気が張りついていた。二割の合格者と八割の脱落者共に、ここへ返されたからだ。一次試験の興奮がまだ肌に残っているのか、それとも、ここにいる誰もが結果を気にして息を殺しているせいか。どちらにせよ、居心地のいい場所ではない。そんな空気感が場を制圧していた。

 俺は逃れるように壁際のベンチに腰を下ろした。

「……あれ、セッカってやつじゃね? あの戦士の息子の」「へえ、あの凡人? RAを使わずに大岩を破壊した? ハッタリだろ」

 声はひそめられているが、聞こえるように放たれていた。何かを否定するというより、何かに縋っているような声音。自分が貶められないように、誰かで自分を覆い隠そうとする、浅ましくも人間的な声だった。

「ゴドリゲス様のRA、あれもう魔法じゃなくて芸術でしょ」「ノアールって子もすごかったな、あの見た目でRA-Hとか、もう反則」

 賛美と嫉妬が入り混じった声があちこちから聞こえた。選ばれる者と、選ばれざる者。明暗はもう、肌に刻まれつつある。

 次の試験を待つあいだ、大広間の天井に浮かぶ投影ビジョンが、無遠慮な光を降らせていた。ざわつく参加者たちの頭上を、誰かの笑顔や過去映像が行き来する。その映像が唐突に切り替わった。

「――緊急速報です。元・勇者討伐部隊の戦士、コウノ・ビカク氏が死亡したとの情報が入りました」

 司会ではない。淡々とした女性アナウンサーの声。まるで天気予報のような口調で、俺の父の死が読み上げられた。

 ざわめきが広がる。周囲の視線がこちらに刺さった気がしたが、俺は動かない。ただ、映像の中で“故人”として整えられた父の姿を見つめていた。

 その事実、いや選択はとうに飲み込んでいる。悲しみも、涙も、ない。父が自ら望んだことだ。幸いにも、俺が殺した事実はまだ知られていないようだった。

 だがそれとは別に、この報道には明確な意図がある。勇者オーディションの真っ最中。参加者の中に「ビカクの息子」がいるタイミングで流された緊急速報。きっと偶然ではない。父が死んだことは昨晩、村政舎に伝えてあり、その報が王国に届いていたのはもっと前のはず。あきれるほど、よくできた脚本だ。

 そして俺は知っている。

 本物の勇者が死んだとき、封印された魔王が目を覚ます。

 それがこの世界の“ことわり”だ。ゴドリゲスは、この意味をわかっているのだろうか。この魔王復活の理は意図的に秘匿されている。と父さんが残した書物から知っていた。一般国民で知っているものはいない。上層部の国王に近い人間か、一部の貴族しか知らないはずだ。

 ゴドリゲスにとっての勇者はコウノ・ビカクではなく、ゴードン・クレイモアなのだ。だからこそ、魔王が復活する理由にも心当たりがない。

 世界の底が音を立てて軋んでいることすら、まだ、だれひとり気づいていない。ビジョンに映るクレイモア一行を除いては。……か。

「そうなのか? セッカ」

 ゴドリゲスが低く尋ねてきた。からかいでも同情でもない、ただの確認。

 俺は視線を逸らしたまま、短く答える。

「ああ」

「……そうか」

 彼は投影ビジョンを見るでもなく、ただ指先の先、何もない空間を見つめていた。まるでその虚無の奥に、眠っていた何かが目覚めかけているのを感じているように。けれど、それはきっと無意識だ。彼はまだ、真実に手をかけてすらいない。

 けれど、あの日からずっと世界の枠組みの外側で生きてきた俺には、はっきりと見えている。父の死が意味するのは、ただの喪失じゃない。これは、始まりだ。魔王が目を覚ます、戦乱の始まり。

 ノアールも声をかけてきた。

「ほんと、なの? あ、ごめん……久しぶりなのに、いきなり……」

「大丈夫、真実だから」

 10年ぶりに聞く声だった。大人びた、落ち着いた響きになっていた。子どものころの高い声が、どこか懐かしい。

「それは……えーと、ご愁傷さまです」

 形式ばった言葉に、彼女自身も居心地の悪さを感じているのが伝わった。俺は小さく首を振る。

「気を使わなくていい。ノアールだって、思うところがあるだろう」

 その一言に、彼女のまぶたがわずかに揺れた。けれどノアールは、すぐに目をそらしながら首を振った。

「……いや、わたしは……」

 続く言葉はなかった。口の中で何かを噛み潰すように、視線だけが彷徨っている。

 俺はそれ以上、何も言わなかった。

 ここで引き出すことでもない。ゴドリゲスにしても、ノアールにしてもその真意は二次試験で嫌でもわかるだろう。

 もはや試験というより、エンタメとしての人気コンテンツと化してしまっている二次試験、『白夢審問はくむしんもん』によって。

 やがて運営のひとりが大広間の大階段で次の試験をアナウンスした。

「これより、第二試験白夢審問を開始する」

 ざわついていた空気が、音もなく引き締まった。誰かが息を飲み、誰かが椅子の背もたれから背中を離した。

 続けて大階段の運営が手にしたリストを読み上げる。

「ノアール、前へ」

 空間投影ビジョンにも、LIVEの文字が踊りながらノアールをアップに映し出す。

 ノアールの足音が、やけに響いた。

 彼女は軽く髪を払って前に出た。表情は崩さない。けれど、その背筋には張り詰めた緊張が宿っているのがわかった。

 ノアールは鋭い眼光を放ち、懐からカード型の容器を取り出し、シャカッとひとつ錠剤を取り出し、口にした。

 大広間の中央、大階段を上りきった先、そこには、ただの試験会場には見えない、どこか異質な扉がぽつんと設置されていた。装飾もない金属製の扉は、まるでこの空間にだけ現れた別世界への裂け目のようだった。だがそれもそうだろう。その扉は、過去の遺物だとされている。現代のRA技術を持ってしてもその扉のロジックについては、だれも説明できない代物だ。

 ノアールは迷いなくその前に立ち、振り返ることなく、音もなく中へと消えていく。最後に足音が一つ、乾いた反響を残して扉がゆっくりと閉じた。

「口にしていたのはRA強化薬か。は。笑わせるなよ。薬を飲まなきゃ力を出せないなんて、見苦しいにもほどがある」

 ゴドリゲスのその声には明確な軽蔑が滲んでいた。ノアールのカード型の容器から取り出されたのは、ゴドリゲスの言う通り、RA強化薬に違いなかった。ただの皮肉じゃない。彼なりの正義と誇りが、言葉の奥に貼り付いている。

 俺は横目で彼を見て、短く返す。

「じゃあ、お前は素で勝てるんだな」

「当然だ」

 即答だった。誇張の色もない。自らの力に対しての疑いは皆無、ハッピーなやつだ。

 投影ビジョンが切り替わり、扉の奥に消えたノアールの姿が映し出される。白く染まった空間の中心に、彼女がひとり立っていた。まだ何も起きていない。だが、その静けさが逆に胸をざわつかせた。

 白夢審問――勇者オーディションの目玉にして、最難関。形式こそ試験だが、実際に求められるのは己の精神の深層と向き合う力だ。参加者は、自らの記憶へと深く潜る。そこにあるのは、強い未練、後悔、恐怖、怒り……いずれにせよ、今も自分の内側で疼いている“やり直したい過去”だ。そして、その記憶を再現された世界の中でどう乗り越えるかを見せることが求められる。

 まさに、オーディション番組のために用意された装置だった。この白夢審問を通じて、視聴者は応援する候補者の過去を知り、共感と同情を引き出される。そして、その感情はクライマックスへと至るための“燃料”となるのだ。

 やがて空間が微かに揺れ、白が色を帯びていく。木々が生え、地形が起伏し、空に風が通う。現れたのは、ファーマーズ・ホライゾンの西の森。そして、ノアールの身体もみるみる縮んでいく。

 俺とノアールが初めて出会った場所だった。まさか彼女が、あの記憶にそこまで囚われていたとは思わなかった。意外だった。けれど、妙に納得もできた。

 ノアールの試練が始まる。俺はただ、それを見つめていた。投影ビジョンの中、空間がさらに構成されていく。色が入り、音が生まれ、匂いまでも立ち上るような錯覚。俺は、その懐かしい光景を見つめていた。

 ビジョンの中、ノアールが枝をかき分けた先、大木と共に幼き日の俺が現れた。

 ノアールはグラン・ビアルの貴族。もちろん俺の村には似つかわしくない豪奢な布をまとっていた。あのとき、彼女もまた9歳だった。

「この村ってなにもなくて退屈だから、ちょっと探検してたの」

「探検? 魔獣が出るから危険だよ」9歳の俺がノアールに言った。

「大丈夫、私RA-Hだから」

 小さな背丈で、彼女はきっぱりそう言った。

 そして狼に似た、黒い獣が突如として森の中から飛び出てきた。

 俺もノアールも、それを目にした瞬間、声を失った。ビジョンの中の過去のノアールは、あのときと同様に固まっていた。

 それもそうだろう。魔王亡き頃、魔獣が現れることも、人間を襲うことも、本来は考えられないのだから。だが、魔界の領域と隣接していた俺の村ファーマーズ・ホライゾンでは、時折魔獣が活性化することがある。それを俺は普通だと思っていた。しかし、本来は魔獣が活性化するなど、ありえない現象だったとはこのとき知らなかった。だからノアールの驚きようは、今になれば納得できるリアクションだ。

「な、なにあれ」

 RA-Hの力を持っていても、ノアールは、動けなかった。

「早くRAを発動しろ……! RA-Hなんだろ!」

 画面越しに、幼き日の自分の声が響く。

 だがノアールの目は恐怖に塗り潰され、俺の言葉も届いていなかった。RA-Hであろうが、勇気がなければ意味はない。力は、発動されなければただの幻想だ。

(あのとき俺は、襲ってきた魔獣に対して短刀だけで立ち向かった。狼の爪が背中を裂き、全身が血まみれになった。最後、俺のRAが魔獣を消したのは自分でも未だによくわかっていない。意図的に使った力じゃない。あれは、守りたかったという、ただそれだけの感情が引き金になっただけだと思う。俺にもわからないが、結果として俺はノアールを守った。これが本来の記憶。だが今回は、どうだ――)

 ノアールは今、あの記憶をもう一度やり直そうとしている。

 あの動けなかった自分を、超えようとしているのだろう。RA-Hだと吹聴しながら足のすくむ自分が許せなかった。そこにノアールのプライドの高さが滲んでいる。ノアールがどう塗り替えるのか。

 ビジョンの中では9歳のころの俺、9歳のノアール。大木に囲まれた森の中の開けた大地の上で、あのときと同じ魔獣に対峙している。

 ノアールの前に、魔獣が展開してくる。黒く濁った毛並みに覆われ、牙と爪をむき出しにしたその獣は、あのときの彼女にとって、それは世界の理が覆る音を伴った、名状しがたい異物だったのだろう。

 彼女の肩がわずかに揺れた。その震えはRAのせいじゃない。肉体の奥からくる、生理的な恐怖の震え。RA-H――それは選ばれた者だけに与えられる称号。ノアールはまさにその象徴だった。誰もが彼女を“神童”と呼んだらしく、彼女自身もそれを矜持に生きてきた。

 だがその肩書きは、魔獣の咆哮ひとつで崩れ落ちる。目の前に迫る死の気配を前に、彼女のRAは発動しなかった。どれだけ膨大なRAを秘めていても、起動しなければ何の意味もない。ただ恐怖に支配され、足がすくみ、喉が詰まり、RAを使うどころか、立っていることさえできなかった。

 彼女の視線が、じりじりと足元に落ちていく。あのときも、こうしていた。目を逸らし、動けなくなり、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。

 肩書きや魔力量ではなく、「恐怖に負けた」というたったひとつの事実が、彼女にとっての原点になり、今こうしてその始めての挫折の記憶が投影されているのだろう。

「わたしは……RA-H……なのに……」

 かすかに聞こえた呟きは、自傷に近い声音だった。その小さな声には、自分自身への怒りと悲しみと、何よりも深い恥が滲んでいた。雷も、風も、炎も、彼女には揃っていた。だが、それらを使えなかった。その挫折を、この十年ずっと抱えてきたのだと、俺は思った。

「怖くないわけ、ないじゃない……」

 声が震えていた。だが、本音を口にするだけの強い熱が籠っていた。……同じだ。ここまではなにもかも。やはりこの試験。その精神性までも過去に宿す。これを克服するのは、もはや無理ではないのか。と、思ったが、その過去の記憶は次の瞬間塗り替えられた。

「今度は……逃げない!」

 そう言った彼女のRAが立ち上がり始めた。風がざわめき、草木が鳴る。彼女のRAが、自分の意志と重なるように、ゆっくりと形を帯びていく。

「私は……」彼女は両足を地面に踏みしめ、震える拳を握りしめていた。視線は逸らさない。喉は震えても、屈しない眼差しがある。身体の奥底から、何かがにじみ出てくるようだった。

「私は――ノアール、ただそれだけだ!」

 叫びと同時に、風が巻き上がり、雷光が空間を引き裂き、炎の奔流が軌道を描く。魔獣が一歩踏み込もうとした瞬間、その三重奏が一斉に放たれた。獣の身体が空気ごと焼き切られ、爆ぜるように消えていく。

 放たれたのはまさしく最強の証だった。辺りの草木すら散り散りになり、ノアールの放たれたRAは、数十メートル先までその威力を痕跡として表していた。

 記憶の中のノアールは9歳だ。もちろん、能力もその当時に依存する。つまりは、ノアールは9歳のころからRA-H判定が下されるくらいの神童であるのは間違いなかった。それにしてもあの威力は、反則級だ。

 ノアールの肩が上下していた。息は荒く、足は震えている。だが彼女は、倒れていなかった。俺にも助けられなかった。かつて敗北した場所に、今、彼女は勝者として立っており、遠くで9歳の俺が彼女を羨望の眼差しで捉えていた。

 それを見て、俺は目を逸らせなかった。胸の奥に、名付けようのない何かが突き刺さっていた。あの日、無様に崩れた少女が、十年の時を越えて、ようやく始まりの位置に立ち戻った。そして、自分の意志でそこを乗り越えたのだ。敗北を隠すのではなく、正面から見つめなおし。

 ビジョンは暗転し、大階段の先の扉からノアールが出てきた。ビジョンは王座の間が映し出され、ひとりの審査員が告げる。

「ノアール、合格」

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