メヒシバ、オヒシバ、チカラシバ
花田縹(ハナダ)
第1話
僕からこの匂いが消えないのは、一つの呪いだ。
それは秋のことだった。
学校からの帰り道、ぼくは下校班のみんなに置いていかれ、一人でトボトボ歩いていた。
すっかり忘れられてしまったことに腹が立って、一人ぼっちが恥ずかしくて、逃げるように通学路ではない道の角を曲がった。
初めて通る小径には真っ赤な彼岸花が咲いていた。脇を流れる水路に沿ってどこまでも咲き連なっている。
僕が赤色に導かれるままに歩いていると、ふと、呪文みたいに草の名前を呟く声がした。
「オヒシバ、メヒシバ、カヤツリグサにチカラシバ」
それは水路沿いに立ち並ぶ家々のどこからか聞こえてきた。声のした方向を見ながら歩いていくとまた声がする。
「イヌタデ、エノコログサ、セイタカアワタワチソウ」
橘の垣根の家から聞こえる。ツヤツヤとした緑色の葉っぱの隙間からそっと覗き込むと、草だらけの庭に君は立っていた。
君は僕に気付くなり、大きな笑みを浮かべた。そして、垣根に駆け寄り、
「ねえ、小学生?」
と、訊ねる。君も小学生に見えた。多分、同い年くらいだろう。
「ランドセル背負ってるから小学生だよね。一緒に遊ぼうよ」
突然の提案だったのに、僕は当たり前みたいにうなずいていた。
「いいよ」
不思議だ。小さかったからだろうか。寂しい心が君を呼び寄せたのか。その時は何も考えず、今会ったばかりの僕らはいとも簡単に友だちになった。
垣根の中に招かれ、君の家の縁台にランドセルを投げおく。
「オヒシバ、メヒシバ、カヤツリグサ」
君は庭の千草の中にいた。
「それからチカラシバ」
こちらを向いて、自慢気に笑う。
僕らはそれらの草を結いあわせ、足に引っかかるように罠を作った。そして、わざとその場を走り回り、わざと引っかけて転んでは、ゲラゲラ笑った。
「僕さ、下校班の友だちに置いてかれちゃったんだ」
そう話すと君は本気で怒ってくれた。
「ひどい! 君のために呪ってあげる」
「やめてよ。それは怖いよ」
本気で怖がる僕をみて、
「ふふ、怖いでしょ?」
と、君はイタズラっぽく笑ったから、きっと冗談だと思って僕も笑う。
それから、また草の罠を作って遊んだ。
君の家の庭が草だらけで本当に良かった。
楽しかったんだ。心から。
「そろそろ帰らないと」
寄り道が長すぎたことに気づいた僕は、縁台のランドセルを慌てて背負う。
ふんわりと秋の湿った草の匂いが浮かび上がった。この時、僕の体に染み付いたらしい。
「じゃあね。さよなら」
君が言う。
「またね」
僕は言った。
★
家に帰るとお母さんはすごく怒っていた。
帰りが遅いことももちろん、空き家に勝手に入って遊んでいたと近所の人に言われたらしい。
「空き家じゃないよ。あそこは友だちの家だよ。お母さんひどい」
もちろん、そう言ってやった。僕があんまり怒ったから、訝しがった母親に連れられて君の家へ向かった。
夕飯時で、西の空は赤く暮れかかっている。
「ここでしょ?」
母の問いに僕は黙り込むしかなかった。
確かにここだった。場所はここだ。家からの道順もぼくがたどってきた道と同じ。
しかし、現れたのはボサボサになった橘の木と陰鬱な家屋だった。外壁はところどころ剥がれ、全体的に黒ずんでいる。窓には暗闇が張り付いている。同じはずなのにまるで違う家に見えた。
人が住まなくなった家は、こんなにも暗くて寂しいものなのか。家が命を落とし、亡骸がそのまま風に晒されているようだ。
「この家は、持ち主が亡くなってしまったらしくてね。しばらく空き家なんだって。それでも、れっきとした人様の家。勝手に入ってはいけない。そうだよね?」
お母さんはそれだけいうと、もう何も僕に聞かなかった。
「メヒシバ、オヒシバ、カヤツリグサ」
お母さんに聞こえないように呟く。あれは夢じゃない。
だって、僕は見た。二人で作ったあの草の罠は、夕暮れの庭にちゃんと残されていたのを。
★
次の日も僕は下校班から置いてけぼりをくらった。
吸い込まれるように水路沿いの彼岸花を辿っていくと、橘の垣根に隠れて待つ君を見つけた。
「おいでよ」
君はひょっこりと顔を出す。
「だめなんだ。お母さんに叱られちゃうんだ」
僕は、眼の前の君が急に怖くなった。
昨日見た陰鬱な家を思い出してしまったのだ。あの家に閉じ込められたらどうしよう。出られなくなったらどうしよう。
記憶の中の暗闇がヒタヒタと迫ってくる。
「だって、幽霊なんでしょ。お母さんがここは空き家だって。だからもう遊べない」
「そんなこと言わないで」
涙声の君は僕の手をつかもうと腕を伸ばした。その時、
「やめて!」
思わず怒鳴っていた。
その瞬間は家に連れ込まれ、幽霊にされてしまうと本気で思っていた。
それなのに、君の顔を見たら、この口から出た言葉をどうしても今すぐに取り消したくなっていた。
深く傷ついた君は、泣くこともなく青ざめたまま立ち尽くしていた。
君も一人だったのかもしれない。
置いてけぼりだったのかもしれない。
やっとできた友だちに跳ね除けられるなんて。こんなにすぐに離れてしまうなんて。
「……ごめん」
僕はどうにか絞り出したけれど、そういったときには、もう君は音もなく消えていた。
★
草の香りは今もふとした瞬間蘇り、あの秋を忘れることを許さない。
僕は今でも考える。
あのとき、もし、あんなことを言わなかったら。僕と君は友だちのまま、また一緒に遊ぶことができたのかな、と。
「メヒシバ、オヒシバ、カヤツリグサ」
大人になった僕は、今もあの道を歩く。
仕事帰りも、年を取った母を病院に送り出した後も。
「それからチカラシバ」
もう、彼岸花は咲かない。
小径は拡張され、水路は工事されて、コンクリートで舗装されていた。
橘の垣根はなくなり、知らない人の立派な家が建っている。
「ごめんね」
僕は毎年秋に、この言葉と一緒に花束を置く。ちょうど橘の垣根があったところ。今は知らない人の家の立つ場所。コンクリートの側溝となった水路の蓋の上に。
花束の中には、花屋さんに無理を言って入れてもらった、メヒシバ、オヒシバ、カヤツリグサ、チカラシバが揺れている。
僕は背を向けて、実家へと向かった。
花束を人の家の前に放置するなって?
大丈夫。僕は知っているから。
置いた花束は、僕が後ろを向くとサラサラと消えること。
君が受け取っているんだよね。
もう、ちっとも怖くないよ。
「またね」
あの日、下校班の同級生は僕を置いていった数分後に交通事故に遭った。今はもう誰もいない。
それも君のかけた呪いなのか?
今年も何も聞けないまま、僕だけが今もここにいる。体に染み付いた草の香りは蘇る。まるで、会えなくなってもまだ友だちであることの証のように。もしくは呪いのように。
メヒシバ、オヒシバ、チカラシバ 花田縹(ハナダ) @212244
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