第95話 小さな蕾、未来への約束
奇跡のようなダンジョン探検から一夜明け、宮田夫妻が旅立つ朝がやってきた。
空はまるで二人の門出を祝福するかのように、雲一つない完璧な春の青空が広がっていた。
朝食の席で、千代さんの顔色は昨日よりもずっと良く見えた。その表情は穏やかで、瞳には生き生きとした輝きが戻っている。
まるでダンジョンの奥深くで、命そのもののエネルギーを分けてもらったかのようだった。
彼女は俺が用意した山菜のおひたしや出汁巻き卵を「美味しい、美味しい」と少女のような笑顔で、ゆっくりと確実に味わっていた。
隣に座る正雄さんの表情も、ここに来た時とは見違えるように柔らかくなっていた。
妻の元気そうな姿を見ることが彼にとって何よりの薬なのだろう。時折、千代さんに向ける眼差しには、不器用ながらも深い、深い愛情が溢れていた。
食後、出発の準備を整えた二人は、俺とリサの前に改めて向き直った。千代さんがそっと、俺の手に小さな包みを握らせてくれた。
「ご主人。本当にお世話になりました。これは、ほんの気持ちですが……」
中には彼女が旅の途中で編んだのだろう、温かそうな毛糸の手袋が入っていた。
「まあ、素敵!」
リサにも色違いの手袋が手渡される。
「何も特別なことはできませんでしたのに……」
俺が恐縮すると、千代さんは優しく首を横に振った。
「いいえ。私たちはここでお金では決して買うことのできない最高の宝物をいただきましたわ。ねえ、あなた」
「……ああ」
正雄さんがぶっきらぼうに力強く頷く。
彼は懐から一枚の写真を取り出した。それは昨日のダンジョンの中で彼がこっそりと撮ったのだろう。奇跡の花園の中で幸せそうに微笑む、千代さんの写真だった。
「こいつが俺の一生の宝物だ」
彼はそう言って、その写真を大切そうに胸のポケットにしまった。
名残惜しそうに、二人は最後に一度だけ、民宿と、その周りの景色を目に焼き付けるようにゆっくりと見渡した。
そして、プルやキノコうぎたちにも、「元気でね」「また会えるといいね」と優しい言葉をかけていく。
車に乗り込む直前、千代さんがふと何かを思い出したように、俺に尋ねた。
「あの……ご主人。あの、ダンジョンの中に咲いていた月見草ですが……。もしよろしければ、ほんの少しだけ、種を分けていただくことはできませんでしょうか」
彼女の予期せぬお願いに俺は少し戸惑った。
あの花が種をつけるのかどうかさえ、俺には分からなかったからだ。
だが、その時。
ダンジョンの入り口の方から、小さな影がてちてちと、こちらへ向かってくるのが見えた。
キノコうさぎの親だった。
彼は俺たちの前に来ると、まるで「これをどうぞ」とでも言うように、口に咥えていた小さな、小さな植物の蕾のようなものをそっと地面に置いた。
それは間違いなく、あの月見草の蕾だった。
ダンジョンが再び彼らの想いに応えてくれたのだ。千代さんはその小さな蕾を、まるで壊れ物を扱うかのようにそっと両手で拾い上げた。
彼女の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。
「……ありがとう。ありがとう……。大切に育てますわ」
彼女はその蕾を胸元に大切そうにしまい込んだ。それはただの植物の蕾ではない。
未来への希望の蕾。
命が巡り繋がっていくことの、温かい約束の証だった。
「さあ、行こうか」
正雄さんが優しく妻の肩を抱く。
二人は俺たちに最高の笑顔を残して、車に乗り込んだ。走り去っていく車を見送りながら、俺とリサは言葉もなく、ただ胸がいっぱいになっていた。
最後の旅になるかもしれない、と言っていた二人の旅。
だが、俺にはそうは思えなかった。
あの小さな蕾が、いつか、どこかで美しい花を咲かせるように。彼らの物語もまた、これからもきっと続いていくのだと。
俺はそう、確信していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます