第46話 泉に溶ける、遠い日の約束
泉の広場を包むのは、どこまでも穏やかな静寂。
光る苔が放つ青白い光が、水面にゆらゆらと反射し、まるで時間が止まったかのような、幻想的な空間を作り出していた。
篠田さんは、泉のほとりにゆっくりと腰を下ろすと、その静寂を味わうように、しばらくの間、目を閉じていた。
やがて彼は、遠い昔を懐かしむように、ゆっくりと、その重い口を開いた。
「わしはな、若い頃、この留咲萌町で働いておったんじゃよ」
その告白は、今の彼の上品で洗練された姿からは、少し想像がつかないものだった。
それは、今からもう50年以上も前の話だという。大学を卒業したばかりの、希望に満ちた若い技術者として、彼は、この町の未来を左右する、大きな港湾開発の仕事に携わっていたのだそうだ。
「当時は、そりゃあ、活気があった。日本の高度経済成長期の真っ只中でな。この町も、人も、誰もが未来を信じて、キラキラと輝いておったよ」
そして彼の人生を、誰よりも輝かせてくれていた存在がいた。
「……結婚を、約束した女性が、いたんじゃ」
彼の声が少しだけ潤んだ。
名前は佐々木小夜子さん。町の小さな食堂で働いていた、ひまわりのような笑顔が太陽みたいに明るい女性だった。
仕事漬けの毎日の中で、彼女のいる食堂で食べる、温かい定食だけが、彼の唯一の癒やしだった。
「仕事の合間を縫って、よく二人で、この近くの岬へ行ったもんじゃ。もちろん、当時はこんな不思議なダンジョンはなかったが……」
彼は泉の水面を見つめながら、懐かしそうに目を細めた。
「あの岬から見た、月明かりに照らされた、夜の海の色に、ここの景色は、どこかよう似ておるんじゃよ。あの時も、こんな風に青くて、静かで……二人で、いつまでも見ていられた」
だが、幸せな時間は長くは続かなかった。
彼は、その優秀さを買われ、東京の本社で始まる、さらに大きな国家的なプロジェクトのリーダーとして抜擢されることになったのだ。
「わしは、小夜子くんに約束した。『必ず、この仕事を成功させて、君を迎えに来るから。だから、待っていてくれ』と」
しかし東京での仕事は、彼の想像を絶するほど過酷だった。成功を収め、地位と名声を手に入れるにつれて、彼は故郷に帰る時間も、手紙を書く余裕さえも失っていったのだ。
いつしか、二人の間の距離は、どうしようもなく離れてしまっていた。
「わしは、夢と引き換えに、一番大切な約束を破ってしまった。彼女を……彼女の、ひたむきな想いを、裏切ってしまったんじゃよ」
彼の声には、50年という長い時間が経っても、決して消えることのない、深い、深い後悔の念が滲んでいた。
隣で話を聞いていたアカリさんも、いつものような軽口は叩かず、ただ黙って、じっと彼の話に耳を傾けている。
篠田さんは、数年前に会社を完全に引退し、自分の人生を静かに振り返った時、心の奥深くに、ずっと棘のように刺さり続けていた、この留咲萌町での思い出と向き合うことを決意したのだという。
そして、最近になって、人づてに風の噂で聞いたのだ。
佐々木小夜子さんが、今も、この留咲萌町で元気に暮らしているらしい、と。
「ヨリを戻したいなどと、そんな、おこがましいことを考えているわけではないんじゃ」
彼は俺たちの方を、まっすぐに見て言った。
「ただ……一目でいい。彼女が幸せに暮らしているのか、その顔を確かめたい。そして……あの日の約束を果たせなかったことを、ただ、一言……謝りたいんじゃよ」
それが、この北の果ての小さなダンジョン民宿を訪れた本当の目的だった。
切なくて、あまりにも一途な、50年越しの想い。
俺とリサは、その言葉の重みに、ただ胸を打たれるばかりだった。
篠田さんは、おもむろに立ち上がると、俺に向かって、深々と、その頭を下げた。
「ご主人。リサさん。不躾なお願いなのは、重々承知の上じゃが……。この町で、佐々木小夜子という女性を探すのを、手伝ってはいただけんだろうか」
俺は迷うことなどあり得なかった。
「――もちろんです」
俺は、彼のそのシワの刻まれた手を力強く握り返していた。
「篠田さんの、その想い。俺たちダンジョン民宿が全力でサポートさせていただきますよ」
こうして俺たちの民宿の新たなミッションが始まった。
それは一人の老紳士の、時を超えた初恋の思い出を探す、最高に温かくて、少しだけ切ない大捜索の始まりだった。
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