第8話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 3

 深夜零時。


 葛飾区の工業エリアに、ひときわ異様なエンジン音が響いた。


 一台のパネルバンが、八つ目科学金町工場の前で静かに止まる。


 車外に降りた男が、インターホンを押す。


 スピーカーから、夜警の眠たげな声が返ってきた。


「……誰だ」


「新しい機器の設置導入だよ」


 芝居がかった軽い声。


 夜警は即座に怪訝な色を帯びる。


「こんな深夜に? だいたい搬入なんて話、聞いてないぞ」


「政府の緊急対策事業に協力するんだとさ。明日の朝までに仕上げろといわれた。偉い人のやることはわからんね」


 短い沈黙。


 風に煽られる鉄扉が、かすかに軋む。


 やがて夜警は、諦めたように低く呟いた。


「……わかった」


 門扉のチェーンが外れる音が、金属的に響いた。


 バンがゆっくりと構内に入り、製造棟の横へと横付けされる。


 スライドドアが開き、黒ずくめの工作員たちが無言で降り立つ。


 足音は整然とし、ためらいはなかった。


 彼らは迷いなく製造プラントの奥へと進む。


 壁際に並ぶ分電盤の前で、一人が手袋をはめ直し、扉を開いた。


 古い鉄の匂いが立ちのぼる。


 ごつい掌がレバーにかかる。


 瞬間、白々と輝いていた無菌区画が、唐突に暗闇に沈んだ。


 ──工場が息を止めたのだ。


 非常灯が赤く点滅し、夜勤の研究員たちの叫び声が走る。


「メインラインが落ちたぞ!」「バックアップは?」「反応がない!」


 警報音が廊下に反響し、制御盤の針は無意味に震えていた。


 その混乱の最中、裏口から黒ずくめの影が滑り込む。


 半グレ風情の若者たち。


 夜警があっさりと殴り倒され、銃のように冷たい視線で脅されて沈黙した。


 嫌気性培養室のドアが開かれる。


 ステンレスの巨大な培養槽が並び、冷却機の止まった室内は、すでに重苦しい熱を孕んでいた。


 槽の内部では、破傷風菌を育むための静かな液面が、不安げに揺れている。


「時間がねぇ、やれ!」


 怒声とともに、台車が押し込まれた。


 その上には──見慣れぬキャビネット。


 とある微生物を大量培養するための特殊な設備だった。


 作業員に偽装した工作員が、慣れた手つきで接続を切り替えていく。


 本来の破傷風トキソイドを作成するための槽が引きずり出され、無造作に廃棄用の区画に押しやられる。


 入れ替わりに、新たな培養キャビネットが据え付けられる。


 それはまるで、臓器移植のような冷酷さだった。


 無影灯の下、機械が低く唸りを上げる。


 液晶パネルに、赤い文字が浮かぶ。


「作動開始」


 その瞬間、工場の運命はねじ曲げられた。


 薬を生むはずの装置は、悪魔を培養する機械へと変貌したのだ。


 闇の奥で、一人の男が煙草に火をつけた。


 恵比寿舞龍権えびすブルゴンの幹部、葉烈峰。


 紫煙の向こうで、彼の目は凍てついた光を放っていた。


「薬も毒も同じだ。撒くか、売るか──それが富を生む」


 その声は、停電の工場を震わせ、東京の未来を静かに塗り替えていった。

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