第6話  医療崩壊都市・トキソイドクライシス 1

 金曜日夜、歌舞伎町五丁目、居酒屋「ろくでなし」、奥座敷。


「ジョージちゃんを囲む医療情報研究会」が密やかに行われる。


 最凶医科大病院第四内科に出入りする関連業者の秘密会議だ。


 新型コロナウイルス感染症騒ぎで、会食禁止が叫ばれた時代にも休止されることのなかった宴会イベントである。


 他愛もない井戸端会議をするわけだが、耳寄りな情報を持ってくると、お礼がもらえたり、業界の闇情報が入手できたりとなんかと重宝な集まりなのだ。


 向かいの席で焼酎をあおっていた医薬品卸のマルケンの営業マン、鈴木奈々男が、妙に含みのある笑みを浮かべた。


「あの、いいネタあるんすけど」


 丈二は箸を止め、片眉を上げる。


「んんん?何よ、奈々男ちゃん。あたしを釣ろうっての?」


「いや……これ、とっときなんで……」


 言葉を濁しながら、鈴木はグラスを傾けた。


 丈二はため息混じりにポケットから万札を一枚抜き、無造作に卓上へ滑らせる。


「碌でもないネタだったら返してもらうわよ」


 鈴木は小さくうなずき、グラスを置くと声を落とした


「実は、八つ目科学、今、中でゴタゴタしてます。一部の医薬品原料に圧倒的なシェアを誇る八つ目ですが、泡渕専務がグループを率いて、社長派を放逐して乗っ取りを企んでるとか……」


「あら、あの泡渕さんといえば、あれじゃないの?六本木のクラブでスカウトした謎の中国美人を秘書にして、ネットにリア充ライフをアップしまくってる……」


「そうです、その八つ目科学……」


 その名を聞いた瞬間、卓の空気がわずかに引き締まった。


 八つ目科学──医療用生物製剤原料では、国内シェア八割を握る巨大メーカー。


「会社は社長派と専務派で真っ二つ。専務派が原料製造部門を押さえてるらしい。もしケンカが本格化したら、下手すると、一部生産ラインが止まるっすよ」


 丈二はグラスを持ち上げ、淡く笑った。


「……そいつぁ、ちょっと面白いわね」


   *  


 話は数週間前に遡る……。


 夜の六本木、外苑東通り。


 ネオンの洪水がアスファルトを照らし、黒塗りの車列がゆっくりと流れていた。


 八つ目科学の泡渕専務は、クラブのVIPルームに腰を沈め、氷の溶けかけたグラスを弄んでいた。


 ドアが開き、女が入ってきた。


 中国系の美女。


 切れ長の目に紅を差し、黒髪を波のように揺らしながら歩み寄る。


 背中の大きく開いたドレスの隙間から、白磁の肌が月光のように覗いていた。


「専務サン、カンパーイ」


 あまり流暢とは言えぬ日本語。だが、声の響きは媚薬のように甘く、耳の奥に残る。


 泡渕は笑い、女のグラスにボトルを傾けた。


「君、中国のどこ出身?」


「上海。……でも、いまは東京のヒトヨ」


 赤い爪が、泡渕のネクタイを撫でる。


 グラスを重ね、女は低く囁いた。


「ワタシ、お薬のこと、ちょっと知ってる。専務サンみたいな偉い人と……、お話ししたい」


 その一言に、泡渕の心臓が不意に跳ねた。


 八つ目科学が抱える"秘密"──それは国家医療の根幹を揺るがす秘密であり、同時に裏社会が血眼で欲しがる金の鉱脈でもある。


 女は、どこまで知っているのか。単なる営業トークか、それとも組織的な仕込みか。


 だが女の吐息が首筋を這った瞬間、警戒は霧のように消えていった。


 女は身を寄せ、低く囁いた。


「秘密を持ってる男、ワタシ、大好き」


 女の囁きは、唇の熱と一緒に泡渕の耳朶を焼いた。


 グラスを重ねる音が、氷の溶ける微かな響きと混じり合った。


 

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