第4話 伝説の神醫 2

 ER手術室。


「先生、サイズは?」


「ナナ、ハン」


 阿羅業はあとは無言で手を洗い、7.5号の手袋を受け取った。


 滅菌ガウンが肩に掛けられ、手袋が指を包む。


 胎児を救うための帝王切開術と、おそらく腸管損傷を伴っているであろう、母体の創傷手術──本来ならば、複数の医師の執刀で同時進行するはずの処置を、阿羅業はひとりで進めていく。


 無影灯の下、術衣の布が音を立てて広がる。


 心拍計の警告音が、時間を削るナイフのように突き刺さる。


「いくぜ」


 一瞬の沈黙。


 次の瞬間、鋭いメスが皮膚を裂く。


 研修医の薄壁白子には、メスが皮膚を切る雄たけびのような音が聴こえた。


 白子は鋭敏な聴覚を持っている。


 手術室の他の誰にも聞こえないが、類稀なる熟練術者のメス捌きの清冽な響きは白子の鼓膜を激しく震わせた。


 まず聴くことのない刃の雄たけびにはっとする白子。


 そして、一瞬のうちに子宮の筋層まで、阿羅業のメスの刃が達していた。


 血と羊水の匂いが混じり合い、空気が重くなる。


 子宮を越えて、指が深く差し込まれた。


 ――そして、闇の底に沈みかかった生命が引き上げられる。


 小さな体、濡れた産毛。


 死地から奪い返した生命の証だった。


 阿羅業神醫あらわざ かむいは口元にわずかな笑みを浮かべた。


「…生きてる、アプガー7点……」


 取り上げた生命を、助産師に手渡す。


 その瞬間に手元は既に刺創部へ移り、傷ついた内臓を探り当て、再建術を始めていた。


 一切の迷いがない。


 まるで時間が二重に流れているかのようだった。


 オペ室の誰もが息を呑む中、阿羅業は一度も顔を上げず、低く呟いた。


「千切れ掛けた命の糸は……手術者の業次第で繋がる」


 わずか十五分後──母子ともに安定。


 縫合跡は細い糸のように整い、流れた血が嘘のように止まっていた。


 ガウンを脱ぎ捨て、阿羅業は振り返ることなく手術室を出た。


 その背に、誰も言葉を掛けられなかった。


 手術後──ER手術室


 手術室の扉が閉まり、看護師たちのざわめきが残る中、阿羅業神醫は一人、白衣のポケットに両手を突っ込んで廊下を歩いていた。


 顔には汗一つなく、血の匂いだけが淡く纏わりついている。


 エレベーターを降り、向かった先は第四内科の医局だった。


 カンファレンスの余韻が残る部屋の隅に腰を下ろすと、阿羅業は机の引き出しから一冊の古文書を取り出す。


 羊皮紙に記されたラテン語の文章を、静かに指でなぞる。


「……死はすべてを終わらせるわけではない。形を変えて残る」


 その声は誰に向けられたものでもなかった。


 だが、部屋の空気がわずかに冷えるのを、近くにいた医局員たちは感じた。


「お疲れさまです、先生」


 白子が恐る恐る声をかけた。


 阿羅業はページから目を離さず、短く返した。


「……仕事は終わった。だが、それにしても、この国の人間の命の重さは、まだあまりにも軽すぎる」


 その言葉の意味を、彼女はすぐには理解できなかった。


 だが、ほんの一時間前まで死の縁にあった母子が、今は病棟で眠っていることを知ったとき──薄壁は、背筋をひやりとさせた。


 阿羅業神醫は、再び黙って古文書をめくった。


 窓の外では、救急車のサイレンが遠ざかっていく。


 それは彼にとって、ただの雑音にすぎなかった。


 阿羅業神醫はページをめくる指を止めず、ただ静かにたたずんでいた。


 彼の耳にはもう、先ほどの悲鳴も産声も残っていなかった。


 阿羅業が古文書を繰る音だけが、医局に落ちた。


 外の廊下を看護師が駆け抜ける足音も、救急車のサイレンも、今はこの部屋には届かない。


 その沈黙を破るものは、彼が放つ低い息だけだった。


「……命は常に刃の上にある」


 近くに座っていた医局長の片山が、思わず手を止めた。


 だが阿羅業は視線を上げず、指先で紙をめくり続ける。


 その瞬間、第四内科の誰もが悟った。


 この男は、常人には到底耐えきれない血と死を目の当たりにしながら、それを並みの日常のものとして付き合っている──そういう存在なのだ、と。




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