異世界喫茶で再出発ライフ
鳥助
1.異世界
夜が明けていることに、しばらく気づかなかった。
蛍光灯の白い光に慣れ切った目には、窓の外から差し込む朝日が妙に眩しい。パソコンのモニターはまだ容赦なく光り、画面の中では納期ギリギリの資料が、赤い修正だらけで鎮座していた。
「……よし、送信」
クリックひとつで、ようやく終わった。達成感よりも、背中から全身に広がるだるさのほうが勝っていた。座りっぱなしで固まった足がぎこちなく、立ち上がると膝が鳴る。
徹夜明けのオフィスは、妙に静かだ。周りを見渡せば、数人の同僚が机に突っ伏して眠っている。私もそのまま眠ってしまいたい衝動に駆られるが、次の会議の事を考えると、せめてシャワーくらい浴びたい。
「……流石にこのままの姿で会議に出るのはダメよね」
髪の毛は一本に纏めているのにボサボサ、服には一日中着た匂いがこびりつき、顔は脂汗でてかっている。印象を良くしないと、それだけで会議が通らない事もある。
ため息を吐くとカバンを肩にかけ、ビルを出た。
朝の空気は、冷たくて澄んでいた。けれど、全身を包むのは清々しさではなく、仕事漬けの日々に滲み込んだ疲労の匂いだ。
コンビニで買ったコーヒーを片手に、足を駅へと向ける。視界の端では早朝出勤のスーツ姿の人々が同じように足早に歩いていく。誰も彼もが無言で、今日という戦場へ向かっている。
でも、あの人たちはいい。だって、前日には家に帰れているんだから。それに引き換え、私は会社で徹夜明けだ。
「はぁ……いつまでこの生活が続くんだろう」
良くて終電、悪ければ会社で泊まり込み。そんな日々を続けていくと、心がすり減っていく。
終わりの見えない日々のループに思考が上手く働かなくなる。このままではダメだと思いつつも、突破口を考える事さえ億劫になっていた。
「いっそ、異世界召喚してくれればいいのに」
そんな非現実的な事を考えてしまう。だけど、そんな事が起きる訳がない。いや、私がいなくなったら、きっと祖母が悲しむ。
「……馬鹿な事を考えたな」
最愛の祖母を一人になんかできない。失笑を浮かべて、冷たいコーヒーを飲む。
そんな時だった。ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見て見ると、そこには「中村さん」の文字。祖母の家の隣に住む、近所のおばさんだ。
「……こんな朝から?」
嫌な予感が、足を止めさせた。
通話ボタンを押すと、少し息を詰まらせた声が耳に届く。
『あかねちゃん? ……落ち着いて聞いてね。さっきね、おばあちゃんが……』
そこで言葉が途切れる。数秒の沈黙で鼓動が煩く鳴る。そして、それから続いたのは、はっきりとした現実だった。
『……おばあちゃん、今朝、息を引き取ったの』
耳の奥で、何かがぷつんと切れたような感覚があった。
雑踏の中で、周囲の音がすべて遠ざかっていく。信号の音も、車の走る音も、まるでガラス越しのようにぼやけて聞こえた。
祖母は、私にとって唯一肉親。離れて暮らす私の事をいつも心配してくれる、優しい人。
私が祖母に家に帰ると、いつも嬉しそうな顔で出迎えてくれた。そして、すぐに美味しいコーヒーを淹れてくれる。二人で美味しいコーヒーを飲んで、私の話を親身になって聞いてくれた。
あの優しい笑顔をもう二度と見ることができないのだと理解した瞬間、胸の奥にじわりと痛みが広がる。
ビル街の朝はいつも通り賑やかなのに、私の世界は静かに色を失っていった。
◇
それからの数日は、息をつく間もなく過ぎていった。
強引に有休を取得し、新幹線に飛び乗り、気づけば祖母の家の玄関をくぐる。
葬儀は小さく、近所の人たちだけが集まった。棺の中の祖母は、まるで眠っているかのような穏やかな顔をしていた。
手を合わせながら、何度も見たあの笑顔が次々と脳裏に浮かぶ。台所で味噌汁をかき混ぜる姿、庭の畑で野菜を収穫する姿、そして私が仕事で疲れた声を出すたびに「無理しないでね」と言ってくれたあの声。
もう返事は来ないのだと考えた瞬間、喉の奥が詰まり、涙が堰を切ったようにあふれた。
葬儀を終え、近所の人が帰ったあと、私は一人、祖母の家に残った。
古い木造の平屋。廊下には陽が差し込み、畳の匂いがやさしく鼻をくすぐる。だが、その静けさは、祖母がいないことをいやでも実感させた。
「遺品整理、少しずつやらなきゃ……」
台所の戸棚には、祖母が使っていた鍋や皿が整然と並んでいた。どれも大切に手入れされていて、まだ十分使えそうだ。
居間には、祖母が読んでいた文庫本や編み物道具。どれも、祖母そのものの匂いが残っているようで、手に取るたび胸が締めつけられた。
それから仏間に入ると、仏壇に一通の茶封筒が置かれてあることに気づいた。それを手に取り、宛名を見て見ると――。
『大森あかねへ』
私の名前だ。
指先がかすかに震える。何度も封筒の表と裏を見返し、そっと口を開いた。
中には一枚の便箋。
――そして、そこには、私が知るはずのない祖母のもう一つの顔が、丁寧な文字で綴られていた。
『あかねへ。
これを読んでいる頃、私はもうこの世界にはいないでしょう。
あなたと過ごした日々は宝物で、今でも目を閉じると鮮明に思い出すことが出来ます。あなたは大切な家族です。
でも、そんなあなたに話せなかった秘密があります。
私は、この世界の人間ではありません。生まれた場所は別の世界……今でいうところの異世界。そこでは、私は喫茶店を営んでいました。
星見亭――それが店の名前です。
昼は陽だまりのように穏やかで、夜は星空を眺めながらお茶が飲める、そんな小さな店。
お客さんは人間だけではなく、耳が長い人や尾のある人、魔法を使う人、獣のような姿の人もいました。
お客さんはみんなとても優しい人で、その人たちと交流するのがとても楽しみだったの。そこは私にとっては、かけがえのない場所でした。
あかね。
もし、あなたがこの手紙を読んで、ほんの少しでも興味を持ってくれたなら……玄関の靴箱の裏板を外してみてください。そこに、小さな宝石があります。
その宝石に光を当てれば、星見亭へと続く道が現れるはずです。
この世界で疲れたとき、居場所がなくなったと感じたとき。その扉をくぐって、あなたなりの時間を過ごしてほしい。できることなら、あの店を、あの場所を、また笑顔で満たしてほしい。
――あなたの祖母より。』
読み終えたとき、様々な感情が渦巻いた。
異世界? そんなところがあるなんて信じられない。
喫茶店? あのおばあちゃんが喫茶店をしていたなんて知らなかった。
魔法を使う人? それって、手品とかじゃなくて?
まるでおとぎ話みたいな話だ。ついこの間、現実逃避で異世界召喚なんて言ってしまったけれど、本当に異世界があるって信じられない。
けれど、祖母の言葉が嘘だとは思えなかった。あの温かくて誠実な人が、こんな大掛かりな冗談を仕込むとは到底考えられない。
ふと、祖母が生前、私に向かって言った言葉を思い出す。
「あかね、人生は一度きりなんだよ。自分で選んで歩くんだよ」
あのときの祖母は、縁側でひなたぼっこをしながら、編み物の手を止めて笑っていた。春の匂いが漂っていて、あの笑顔はまるで未来を祝福するみたいに優しかった。
――でも、私は今、どうだろう。
終わらない残業、休日出勤、上司の理不尽な要求。時計の針に押されるように動くだけの毎日。帰宅しても寝て起きて、また会社へ行く。気がつけば、季節の変化すらろくに感じなくなっていた。
「自分で選んでいる」なんて、とても言えない生き方だ。あの時、祖母が信じてくれた未来から、私はどれだけ遠ざかってしまったんだろう。
思い出の中で、祖母の笑顔はまだ春の光を浴びているのに、私の現実は冷たい蛍光灯の下で色を失っていた。
気づけば、私は立ち上がっていた。
玄関へ向かい、靴箱の裏板に手をかける。固い板を外すと、そこには確かに赤い小さな宝石があった。
手のひらに乗せると、宝石は小さく輝いたように見えた。
本当にこれで異世界に繋がるの?
馬鹿げてる。そんなもの、ただのガラス玉かもしれない。私を喜ばせるための作り話だったのかもしれない。
でも、胸の奥がざわめく。この世界での毎日が、あまりにも息苦しいせいかもしれない。あの朝の嫌なニュース、あの無意味な会議、あの無表情の帰宅電車……すべてから離れられるのなら。
心臓が高鳴り、手のひらにじっとりと汗がにじむ。理性が「やめろ」と囁くのに、指は宝石を握りしめていた。
「……おばあちゃん」
あの優しい笑顔を胸に浮かべる。信じたい――おばあちゃんの言葉も、そしてこの宝石も。
そして、私は俯いた顔を上げた。
その宝石を持って外に出て、縁側に移動する。そこで、宝石に太陽の光を当ててみる。すると、宝石から光が放たれた。
放たれた光は伸びて広がり、光の入り口を形どる。まるで、ここから違う世界に行けるような……。
「本当に?」
こんな超常現象を見せられて、すぐには信じられない。だけど、目の前で起こった事を幻視だとは言いづらくもある。
半信半疑のまま、私はその光の中に足を踏み入れた。そして、体が光を通り――次の瞬間には私は見知らぬ建物にいた。
「えっ、嘘! さっきまで、外にいたのに!」
思わず後ろを振り向くと、先ほど通った光の扉はなくなっていた。途端に不安になる。本当にここは祖母が営んでいたという、喫茶店なのだろうか?
見たところここはレンガ造りの建物みたいだ。フカフカのソファーが置かれ、テーブルがある。動画でしか見たことのない立派な暖炉があり、壁際には本棚があって、沢山の本が並んでいた。
ここは、私室か何かだろうか? じゃあ、喫茶店はどこに?
気になった私は扉を開けて、部屋を出た。すると、そこは廊下だった。その廊下を歩いていくと、素朴な廊下に似合わない豪華な彫刻が掘られた扉を見つける。
その扉を恐る恐る開いてみると――。
「わぁ……」
扉から出た場所はまさしく喫茶店と呼ぶのに相応しい空間だった。
白い漆喰の壁に、深みのある黒い木柱が等間隔に並び、店内には落ち着いたシックな空気が漂っている。
テーブルと椅子は赤褐色の木材で統一され、時を経た木目が柔らかな光を反射していた。椅子の背もたれと座面には、淡い色合いの布張りが施され、ふっくらとしたクッションが腰を優しく受け止めてくれる準備をしている。
視線を移せば、ひときわ存在感を放つのは赤褐色のカウンターだ。磨き込まれた天板は窓から射し込む陽光を受け、まるで静かな水面のように艶やかに輝いている。
カウンターの背後には、木製の棚が壁一面に据えられており、大小さまざまなカップやグラスが整然と並んでいる。その陶器やガラスの質感を眺めているだけで、不思議と胸が弾み、時間を忘れそうになる。
棚の一角には、コーヒーや紅茶を淹れるための器具が所狭しと置かれていた。中には見覚えのある形もあり、祖母の家で見たものを思い出させる。
カウンターの奥は調理場だ。銅鍋やフライパンが整然と吊るされ、調理台は磨き上げられて白く光っている。油の染み一つなく、まるでこれから大切なお客を迎えるために息を潜めて待っているようだった。
「ここが……おばあちゃんの喫茶店?」
「そうだぞ」
背後から突然響いた声に、心臓が飛び跳ねたように驚く。
慌てて振り返ると――カウンターの上に、ふわりとした長毛の白猫がちょこんと座り、澄んだ青い瞳でこちらを見つめていた。
「あれ……こんなところに猫なんていたっけ?」
「俺は最初からここにいたぞ」
「えっ?」
――今、口が動いた? いや、そんなはず……。
「おい、聞いてるか?」
「え、あ、え……ね、猫が喋った!?」
間違いない。目の前の猫が、はっきりと人間の言葉を発している。
「おいおい、猫なんて呼ぶなよ。同列にされるのは心外だな。俺はケットシー、由緒正しき高等精霊だ」
「け、精霊……?」
「俺の名前はハイドだ。覚えてないか?」
「ケットシーの……ハイド?」
確かに初めて見るはずなのに、その名を口にした瞬間、胸の奥が不思議に温かくなった。懐かしい――でも、記憶はない。
いきなり精霊なんて言われても信じられない。警戒しようとするけれど、その愛らしい姿に社畜で擦れた心が癒されていくのが分かる。私は無意識にハイドへの警戒心を解かずにはいられなかった。
「やっぱりな。チコの言った通りだ。アカネはチコに記憶を封じられてる」
「おばあちゃんが……私の記憶を?」
「ああ。あの人は偉大な魔法使いだ。記憶封印くらいお茶の子さいさいだろう。まあ――力を受け継げば、そのうち全部思い出すさ」
「力を……受け継ぐ?」
頭の中が疑問符でいっぱいになる。思い出すって何? 受け継ぐって何?
「アカネがここに来たってことは、喫茶店を継ぐ覚悟があるってことだろう? チコがそう言ってた」
「私の名前……どうして知ってるの?」
「知ってるさ。お前の小さい頃を、俺はよく覚えてる」
私、小さい頃にここへ来たことが……ある? 思い出せない。でも――胸の奥で懐かしさが膨らんでいく。まるで、長い旅のあとに帰ってきたような感覚。
「それで、アカネにはこの喫茶店を継ぐ覚悟があるんだな?」
ハイドが強い口調で訴えかけてきた。その真っすぐな言葉に、少しだけ躊躇してしまう。こんな立派な喫茶店を私が継げるのだろうか?
もし、私のせいで潰したりしてしまったら……そう思うと怖気づいてしまう。だけど、祖母は私に継いで欲しかったからこそあの手紙を残したのだ。
喫茶店の行く末を考えるより、祖母の気持ちを蔑ろにする方が心が痛んだ。私は祖母の残した喫茶店を見捨ててはおけなくてここに来たんだ。
「なあ、アカネ。この喫茶店を継がなきゃ、店はすぐに潰れちまう。そうなったら……本当に寂しい」
すると、ハイドが切ない声を出した。その悲しげな響きに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「……そうだよね。ここはおばあちゃんが守ってきた場所だもん」
「そうだ。チコが何十年も大事にしてきた、宝物みたいな場所だ。その灯を、消したくないんだ」
おばあちゃんが最後まで守り抜きたかった場所。その喫茶店を、私が潰してしまってもいいのだろうか。
店内の空気には、おばあちゃんの気配があちこちに漂っている。ふとした瞬間に感じる温もりや、脳裏をよぎるかすかな声、ほんのりと香る祖母の残り香。
ここにいるだけで、まるで亡くなったおばあちゃんがそばにいてくれるような気がして、胸がじんわり温かくなる。
この喫茶店の空気に包まれると、忙しくて擦り切れた社畜の心がゆっくりとほどけていく。疲れきった心が、少しずつ戻ってくるような――そんな、不思議な安らぎを覚えた。
「自分で選んで歩くんだよ……か」
おばあちゃんが残してくれた言葉が、胸の奥にじんわりと染み渡る。この温もりを、もう二度と手放したくない。そんな思いが静かに広がっていった。
そして、心の中で決意がゆっくりと固まっていく。
「私、この喫茶店を受け継ぐ」
それは、自分自身で選び取った未来。もう揺るがない、強い決意だった。
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