第四章 ――誰もいない夜の街で

街は、今日も変わらず、ネオンの光に包まれていた。少し離れたビルの谷間に、かすかにクラブの看板が揺れている。


笑い声、誘う声、そして、誰かが誰かに嘘をついている声。全部、いつものことだった。

だけど俺には、もうそのどれも、響かなかった。

──

あれから、彼女は一度も姿を見せなかった。

SNS も、DM も、既読すらつかなくなった。

きっと、俺のことを「怖い」と思ったのだろう。

自分が“騙されかけていた”と気づいて、すべてを拒絶したのだろう。


……それで、いい。

それが一番、正しい。


あの日の俺は、“彼女を守ろうとした”んじゃない。ただ、自分の手のひらから滑り落ちていく何かに、すがろうとしただけだった。

俺が差し出した“傘”は、傘のふりをした罠だったんだ。

最初から、ずぶ濡れになるしかないような夜だったのに。

──

ふと、道端に転がった枯れ草のそばで、小さな蜘蛛の死骸を見つけたのを思い出す。

干からびて、ひび割れて、風に吹かれて、もうすぐ砂になりそうだった。


……誰にも見つけられないまま、終わっていく命。それが、俺の“行く先”だったのかもしれない。


「……くだらねぇな、ほんと」

口の中でそう呟いて、自販機の缶コーヒーを開ける。

ぬるい。味もしない。

でも、それがちょうどよかった。


本気で好きになったのは、たった一度だけだった。毎晩のように「愛してる」と言ってきたこの口で、彼女には、最後まで何も言えなかった。

言ったら、全部壊れてしまいそうで。

いや、もう壊れていたのかもしれないけど。

──

ときどき、彼女のことを思い出す。

あの夜、ネオンの下ではしゃいでいた姿。

グラスを握ったまま、助けを求めていた声。

逃げていく、その背中。

全部、忘れられない。


でも、探しに行ったりはしない。

彼女は、もう俺の世界にはいない。

それが、“蝶”ってもんだろう。

彼女が飛び去る――その美しさを、どこかに閉じ込めておけるなら。

それだけで、死んでもいいと、思った。


……なんてな。

ほんと、くだらねぇな。

永遠になんて、本当はなれっこない。

でも、“たった一度”を、誰より大事に思えたなら――

それだけで、俺には、十分だったんだと思う。


……ま、俺だしな。

干からびるなんて、似合わねぇよな。

そんなふうに、俺は照れくさそうに笑って、

また、誰もいない夜の街を歩いていく。


ー結ー

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Hungry Spider ―蜘蛛になれなかった男― 燈の遠音(あかりのとおね) @akarinotone

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