月の向こうでも

板谷空炉

月の向こうでも

 誰もが自身の〝はじまり〟を憶えていないように、誰もが自身の〝おわり〟を憶え続けることはない。

 そう考えると、この暗闇に一人でいるのも永遠ではない。と、解ってはいる。解ってはいるけど……


「君が来るまで、あとどのくらい?」


 ……君? 〝君〟って誰の事?


 久しぶりに聞いた自身の声は少し高めで、ソプラノかアルトかでいえば僅差でソプラノに分類される声だった。

 ああ、自分は女だった。と、今更性別を思い出した。

 もう何年、何十年ここにいるか分からない。気が滅入るから、数えようともしなかった。自身の名前も顔も覚えていないし、先程まで性別すら思い出せなかった。


 暗闇しかないこの世界。

 空腹を感じることも、眠気を感じることも、性欲を感じることもない。声以外の音もなく、ただ無音。暑さも寒さも感じない。……光だってない。

 ただただずっと、ここで〝おわり〟を待つのみ。これが一体いつから始まったのかも知らないくせに。


 そんな中。ふと出した言葉に、はっとさせられた。

 私は誰かを待っているのだと気づかされた。

 でも知らない。解らない。私は一体、誰を待っているのだろう?

 ……ひたすら思い出そうとするが、無謀だった。自身のこともあまり覚えていないような人間如きが、他人のことを覚えているはずがない。

 諦めて寝よう。……といっても、睡眠欲もない状態だから、ただ目を閉じて黙るだけの時間、が正しいわけだが。

***

「──い、夜宵やよい!」

 誰? 私よりも低い声、テノールくらいの……。〝男〟の声?

「ようやく見つけた、夜宵」

「え、本当に誰?」

 暗くて顔が見えな、いや、

「急に周りが明るくなって──!」

 辺りを見渡す。長く私がいた場所は、鏡のようにこの世界を反射する地面でできており、奥には月のようなものが出てきていた。そのため、周りが明るくなったようだ。何もない世界のように見えて、実は美しい世界だった。

「暗くて寂しかっただろう?」

「あ……」

 振り向くと、先程の男性はまだいた。私よりも遥かに背が高いことに加え、正直好みの顔をしていた。

 こんな素敵な人が、私を知っている、だと……!?

「ずっと会いたかったよ」

 そう言って彼は私を抱きしめた。彼の胸のあたりに顔が来て、呼吸がしにくい。

 ああ、私は呼吸をしてたんだな。その概念すら忘れていたらしい。

「時間がないんだ。聞いてくれないか、夜宵」

 彼は抱きしめたまま、私に言った。

 〝夜宵〟は、私の名前? 私はそれすらしっくり来ないまま、彼の言葉に頷いた。


「君と同じように、僕も死んだ。だからもうすぐ、次の世界に行かなければならない。その前に会いたかった」

 え?死んだ? 私が?

「君は死ぬ前、生きることに苦しんでいた。そして自殺した。僕は君を守れなかった」

 何の話?

「守れなかったから、僕はその後の人生で努力して、忘れようとした。法律で人を守り、もう二度と君と同じ思いをする人がいないように、と。でも、人をひとり、またひとりと救える度に、君が死んだ心の傷が疼いた」

 もう、何も言えない。

「依頼は山のように来た。成功する度に金が入った。でも、何千万円あったとしても、君が還ってくることは永遠になかった。寿命を待つことでしか、君に会う方法はなかった」

 何も言えないけれど、何故か涙が出てくる。

「君を想う度、胸が締め付けられて、苦しかった。プロポーズする前に死なれてしまった、もっと早く言っていれば、って気持ちになった。

もう一度会いたかった。寂しかった。大好きだよ、夜宵」

 名前すらも思い出せない彼の温もりに、心が溶かされるようだった。

 寂しい。ずっと、会いたかった。

 ああ、〝寂しい〟って、こんな感情だったな。

 でも確証は持てない。私は本当に、この人を待っていたの?

 彼から離れて言った。

「いやでも、私、あなたのこと覚えていないし、──名前だって、呼ばれるまで思い出さなかった。今だって、あなたの名前を思い出せない」

「え?」

 彼はきょとんとした。でも次の瞬間、

「そっか、なら仕方ないか」

 と、あっさり私の状態を受け入れてくれた。

「じゃあ、改めて僕の名前を言うね」

「うん」

 

「僕の名前は〝朔夜〟。思い出した?」

 聞きなじみがある気がする。素敵な響きで、よく私はその名前を呼んでいて、それで……

「私の、恋人だった人?」

 この素敵な人が?

「酷いな、今もずっと〝恋人〟だと思ってるよ。僕が死ぬまで君しか愛さなかったし」

 え、

「結婚しなかったの?」

「うん」

 彼の人生を最後まで振り回してしまったようで申し訳ない。でも、嬉しいと思ってしまう私もいる。

「暗かったね、寂しかったね、一人にさせてごめんね」

 彼は私の頭を撫で、額に口づけた。

 息が、熱が、死人のそれとは思えない。生きているようにしか思えない。朔夜も私も。


「ねえ夜宵、知ってた? 自殺した人は、一人でずっと暗い場所に留まるって。他の人の救いがないと、永遠にそのままだって」

「え……」

 そっか。

だから私、ずっと暗い場所に一人ぼっちでいたんだ。

「でも救った人は、その人と長くはいられない。たとえ愛する人でも、バラバラで次の生涯を過ごさないといけない。再会するまでは」

「え!?」

 なんで? だって、

「もう離れたくない。次の生涯なんてなくていい。さ、君と、ずっとここで、一緒に暮らしたい!」

 今度はもう、離れたくないから。

「無理そうだよ。だって、あと少しで僕は行かなければならないから。勿論、その後に君も」

「……」

 自殺なんて、するんじゃなかった。

 生きていた時は、愛する彼がいても苦しかった。本当の、根本的な救いなんてないと思っていた。でも違う。なんでここで、私が自殺したしっぺ返しが来なきゃいけないの?

「ごめんね、私が弱くて。次の生涯では、愛する方と一緒になってね。私のことなんて忘れて」

「そんなことない!」

 次の瞬間。

 彼の唇が、私の唇と重なった。

 不思議と鼓動のようなものを感じる。死んでいるのに。

 お互いの唇が離れた後に、彼が涙を流していることに気が付いた。

「次の生涯で何になろうとも、たとえお互い人間同士じゃなくても、今より過去で出会っても。

僕は絶対に君を見つけて、君と一緒になりたいよ。いや、絶対に一緒になる。」

 彼の姿が、少しずつ薄くなっていく。

「次に会えた時。今度は、僕と一緒に生きてください」

 ああ、もし私が苦しみを知らずに天寿を全うしていたら、

「うん……!」

 共に生きる喜びも、命をつなぐ尊さも、同じ流れで老いる美しさも、たくさん知れていたのかもしれないな。

「私も。愛してる!」

「ありがとう、夜宵」

 彼は微笑みながら、別の世界へと旅立っていった。


 彼のことを運ぶように、風が吹いた。私の髪が靡き、髪が長いことを思い出した。そして、消えていく彼の温もりと自身の感覚に、身を委ねた。

「月の向こうに行ったとしても、絶対に見つけるからね。s……あれ、あの人の名前、って……」


 誰もが自身の〝はじまり〟を憶えていないように、誰もが自身の〝おわり〟を憶え続けることはない。そう考えると、君がいない世界に一人でいるのも永遠ではない。

 だから〝おわり〟を含む何もかもを忘れても、私が年上になろうとも。

愛する気持ちだけはきっと、この世界のどこかに沈み込んで、溶けていく。

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