不器用な衝突

あけち

第1話 遭遇

 人生には、できれば遭遇したくない場面がある。今まで不動の一位を築いていたのは『自宅で両親がキスしているところを目撃する』だった。だが軽々と更新される。


 僕は助手席から拳銃を突きつけられていた。教習所でも習わない場面だ。


「おい、もっと速度をあげろっ!」


 男は唾を撒き散らし、運転席に座る僕へ怒鳴ってきた。大型トラックのサイドミラーへ視線を移すも、男の紅葉のように尖った髪のせいで死角が隠れている。


 眼前に広がる車道の風景が滲んだ。


「いっいや無理ですって、夜中なんですよ」


 脇や手も汗で湿っており、ハンドルが滑る。クラッチを踏む足が震え、膝が小刻みに揺れてしまう。


 車体が大きく前後した。エンストだ。クラッチを離すのが早すぎた。


『大丈夫。焦らないで、ゆっくりね』


 一カ月前に運転講習で優しく教えてもらった高塚さんを思い出す。


「ふざけてるのか、お前っ!」


 高塚さんとはまるで違う男の怒声に、肋骨を突き破るのではないかと思うほど心臓が上下した。僕は荒い呼吸をしながらレバーを忙しなく動かす。


 なんとか発進させたトラックのヘッドライトが闇夜を照らす。


 隣の男は貧乏ゆすりを繰り返し、何度も腕時計を触っていた。僕だって年越しのカウントダウンぐらいには時間を気にしている。二十四時までに会社へ帰らないといけないのだ。明日も昼から出勤なところ、この男に捕まってしまった。


 彼は、道端に捨てられていたバナナの皮で盛大に転けた。慌てて僕はトラックから降り、駆け寄る。すると立ち上がったこの男は無精髭を触り、拳銃を向けてきたのだ。


「いつもこうだ」


 赤信号で止まると同時に、そう呟いた。


 大学を卒業してから何社も面接で落とされ、アルバイトで食いついできた。三年の歳月を経てこの株式会社スピードに十日前、正社員として入社した。まだトラックの扱いに慣れていない中にこれだった。


「おい、信号!」気づけば、青信号になっていた。「それと言ったよな速度を上げろって!」


「はっはい」


 アクセルペダルを踏み込む。言うとおりにしないと、殺される。


 やっと僕の人生に兆しが見えてきたんだ。両親も喜んでくれたんだ。昨日もトラックの運転中に少しだけ家族と通話をしていた。まだ、死にたくない。


「ここをまっすぐで、いいですか」

「あぁ。人を轢いたりしても止まらなくていい」


 本気で言っているのだろうか。僕は横目で窺うも、男は顔色を変えず、時計を見ていた。


「どこに……向かってるんですか」


 デートの待ち合わせに遅れた訳でも、バナナの皮で頭を打った衝撃により数学の難問を解き慌てている訳でもなさそうだ。


 今の時間帯でやっている店など、ほとんどない。嫌な想像しかできなかった。


「刑務所」

「自首ですか?」

「てめぇ、死にてぇみてぇだな!」


 男はダッシュボードの下で膝を振り上げた。大きな音に身を凍らせたが、思った以上にダッシュボードが硬かったのか、痛そうに摩っている。


 しまった。昨日のお笑い番組の余韻が脊髄に染みこんだのか、軽口が飛び出てしまった。


「まぁ、いい」男は膝から手を離した。「お前も共犯になるんだからな」

「へっ?」

「お前は今からこのトラックで、刑務所へ突っ込む」


 視界がぐにゃりと歪み、耳鳴りがした。ハンドルを掴む手が急に震え出す。


 僕の運転するこれが、刑務所へ入り込む? 実感のない言葉は、脳内で作り上げた想像とこの男の態度で、現実に否応なく入り込んできた。


「なっなぜ僕なんですか。僕はただ__」

「しらねぇよ。運が悪かったんだろ。幸がなさそうだもんな、お前」


 陽気に足を組む男が憎たらしかった。


「ラッパーの後内ごうちって知ってるか? ほら、三股不倫で記事のトップを飾ったあの後内だよ」


 僕はもう頭が一杯一杯で、言葉を返す余裕がなかった。


「けっ。これだから、ガキは。いいか覚えとけ。あの人は言ったんだ『幸のない奴は、幸のない奴を引き寄せる。だから俺は、沙知さちと結婚したんだ』ってな。泣けるだろ」


 僕に幸がないのだったら、あんたも幸がないじゃないか、と思うも、喉が渇いていて言葉にならなかった。それに不倫をしていたのなら、何も感動しない。


「要するにお前は、幸のある後内の曲を聞くべきってことだ。そうすれば、怖いもんはなくなる」

「怖く……ないんですか?」

「あぁ、怖くない。捕まった彼奴(あいつ)らをこのトラックの荷台に詰めて脱出するだけだからな」


 逃げ切れると本当に思っているのか。間違いなく、パトカーに追い回される。


「俺たちは途中で降りるけどな」


 男と僕の間に地割れが起きた気がした。頭の中の僕は崖っ縁で落ちそうになっている。


「後はお前がパトカーと楽しい鬼ごっこを繰り広げてくれれば俺たちは逃げ切れる」


 肩に分厚い手が置かれた。


「頼むぜ、如月春希きさらぎはるきくん」


 カーナビの下には半透明のポケットがあり僕の免許証が入っている。男はスマホで撮りはじめた。杭を打たれたような気持ち悪さが背筋を貫いた。もう、逃げられない。


「多分、気持ちがいいぜ。刑務所の門をぶっ壊す爽快感はさ。如月、お前は日本で初の刑務所に突っ込んだ男になれる。あの後内でさえ、躊躇うだろうな。すごいぜ、お前」


 まだしてもいないのに、やることが確定したような口調が僕の頭に溶け込んでいく。


 その時だった。僕の右耳でぷるぷると音が鳴る。誰かから電話がきたのだ。薄らと男を見遣るも、上機嫌になにやら演説しており、気づいていない。当然だ。僕の右耳にあるワイヤレスイヤホンは見えていないのだから。僕は右手でイヤホンを二度触る。


『もしもし春希、聞こえる?』母さんからだ。昨日もこうやって通話した。

「あぁ」

『なんか遠くから濁声が聞こえるけど、ラジオ?』目を細めて母さんの話を聞く。『それより、まだ帰ってこないの? お父さん酔っ払って私一人じゃ相手が大変なのよ』


 非日常の中にある、大切な日常に僕はくすっと笑う。


「如月」その声に僕はひやりとした。顔を横に向けると、男はだらしない顔をしていた。「今の俺の冗談面白かったよなっ! だよなっ⁉︎ 合コンで使お」


 上機嫌かつ一人でにまた話し出した。


『春希、最近のラジオはお馬鹿な話し方をするのね』

「そうだな」

『大変な仕事だと思うけど、無理しないでね。私たちは春希がいれば、幸せだから……』

『はるきぃ〜〜おかあさんは〜今日も可愛いぞぉ〜むちゅ』


 父さんの酔っ払った声は、平手打ちのような音ともに途切れた。


 温かい涙が顔の輪郭を沿うように流れる。


「なに泣いてんだよ。そんなに面白かったか?」

 そうだろうな、と言わんばかりに、男は満足げに頷いている。


 ちょうど赤信号になったので、左袖で涙を拭う。


 まだ僕は母さん達にとって、心配をかける息子に違いない。右も左もはたまた前も暗闇に覆われた人生を歩いていけるか、自立できるか不安なのだろう。


 ただ、さっきの言葉はそれだけじゃない。

 きっと僕の背中を支える勇気を、いつも、与えてくれていたんだ。


 僕は前を見た。信号は青に点灯している。

 アクセルを踏んで進むトラックが、僕を前へと、押し出してくれる気がした。


「このトラックにドライブレコーダーがあります」


 左手で指差し、右手でハンドルを切り、足を踏みかえる。


 男の貧乏ゆすりが止まり、僕を猛禽類のような目つきで睨んできた。浮いた唇の合間から、微かな唸り声が聞こえる。動揺しているのがみてとれた。


「……お前は馬鹿か。そう言うのは言わないもんだ」

 男は陽に焼けた手でドライブレコーダーを取ろうとする。


「やめたほうがいいですよ」

「はっ?」彼の手が止まる。


「走行中に取ると、管理会社に連絡がいきます。そして、今までのドライブレコーダーの記録はクラウド上に置かれているので、それを管理会社がすぐさま確認します。要するに、車両破損の事故が起きたんじゃないかって」


 新人研修で一回り年の離れたつつみさんから習ったことだった。堤さんはいつも眠たそうで、研修中も欠伸をしていた。そんな先輩の口癖は『無視したら一万貰う』で、無視すると面倒だったが、いつも気づけば寝ていて、無視をするのは堤さんのほうだった。


 男はピストルをグッと押しつけてきた。


「調子に乗るなよ」

 確かに、気分が上がり調子に乗ったのかもしれない。

「すみません」

「刑務所の門を壊した後、警察に言ってみな。鼻で笑われるだろうぜ」


 警察……ふと一つの案が思いつく。もし、僕が今、信号無視や蛇行運転をすれば、パトカーに止められて、脱出できるのではないか。


「お前今、悪いこと考えただろ?」

「いえ……どうしたら行き先が家になるだろうかって」

「ふっ、お前、面白いな。出所してきたらお前と俺で漫才師になってやってもいいぞ」


 だめだ。こんな時間にパトカーがいるはずもない。やるとしたら、他の車にぶつかり、百十番をかけてもらうだが……この六トントラックでぶつかり、被害を最小限に抑えられる技術も、保証もない。


 額から汗が伝ってくる。やるしかない……のか?


「ふん、悪いことを考える時は無口になる。後内の元奥さんも言っていたぜ。そんな悪いお前にいいことを教えてやる。トラックの後ろ、黒のメルセデスが付いてきてるだろ?」


 左手の親指を立てて、後ろを指している。サイドミラーで確認すると、確かに高級そうな車があった。あれがメルセデスなのだろう。


「お前が別の車にぶつかったとしても、後ろにいる彼奴らが、ぶつかった奴らを脅す。馬鹿なお前にもわかりやすく言えば、警察には通報されない」


「……っ」


「お前はただ、刑務所に突っ込めばいいんだよ。習っただろ? 夏休みの宿題は計画的にって。計画を咄嗟の衝動で破る奴はいつも泣きべそかいて親に泣きつくんだ」


 自分の顔が青ざめていくのがわかった。

 男はそれが愉快だったのか、手を叩きながら笑いだした。

 青看板に『刑務所 この先右折』と出てくる。


「よし、もうそろそろだな。お前の勇姿、しかと目に焼き付けておくから、頑張れよ」


 隣の男は缶に口をつけた。僕が買ったミルクティーの匂いが漂ってくる。


「あまっ、なんだよこのコーヒー。人生あまちゃんな奴向きか?」

 また一人で笑い出した。のちにこのドライブレコーダーを見た人はどう思うのだろうか。


「言っとくがな。俺たちの組織は大きいんだ。こんな安っぽいドライブレコーダーの映像ぐらいすぐに消せる」


「……」フロントガラスの先に見える風景がぼんやりとしてきた。


 もしも、今が自宅であれば、毛布に包まり、泣き叫んでいただろう。この理不尽を仕組んだ神を、きっと恨んでいたと思う。だが今の僕は、無心で車を動かしていた。


 右折の指示器を出す。他に車は走っていないので、滞りなく右折が完了する。


「直進五キロ先に刑務所がある。ラストスパートだ、如月」


 トラックのエンジン音が鼓膜のすぐ近くで響いていた。その音が僕の心臓の鼓動と重なる。ゆえに小さなその隙間が無音を作った。そこに一瞬の思考が生まれる。


 この音で、起こさないだろうか?


 ……まてよ。僕は必死に脳を洗濯機みたいに回転させた。

 算盤を弾き出し、最後の玉を上にあげたような音が脳内で鳴った。


 __この作戦に、賭けるしかない。


 僕は右ポケットに入れたスマホを慣れた手つきで動かす。直進だから、運転の不安はなかった。耳元でコール音が鳴る。頼む。繋がってくれ。


『うっせぇぞ、如月。俺は眠てぇんだ』寝起きで機嫌の悪い堤さんの声だ。『って、おい! もうとっくに会社に着いてる時間じゃねぇか。なにしてんだよ』僕は沈黙する。『おい、如月、電話をかけておいて無視はねぇだろ』


 気づいてくれ。汗まみれのハンドルを握りながら、そう祈った。


 堤さんはいつも口酸っぱく『無視したら、一万貰う』と言ってきた。正月のお年玉でさえ一万円を渡せないという話を僕は堤さんにした筈だ。毎年二千円だって。だからか、親戚の子供達に『二千円叔父さん』と呼ばれている。その悲しい話を思い出してくれ。


『……如月、何かあったな? イエスだったら、二回咳をしろ』


 僕は緩まりそうになる頬を引き締め、荷台にいる堤さんの言う通りにした。


 長距離運転の場合、必ず二人体制で運転する必要がある。今日も堤さんと僕のペアでの運転だったが、堤さんは眠たくなって荷台にあるベッドで寝ていた。


「お前、風邪か? 感染すなよ」

 髪が紅葉の形である男は鼻と口を手で覆い出した。

『今の奴のせいでお前は俺に二万を取られることになった。そうだったら三回咳をしろ』


 僕はその通りにした。


「おい! あっちに顔を向けろよ。俺は風邪を引いたら長引くタイプなんだ!」

『どうやら、お前はそいつの指示に従っているようだな』


 荷台と運転席は繋がっており、慎重に忍び込めば、助手席のこの男に反撃ができるかもしれない。だが、堤さんにあと三キロで刑務所に突っ込むことを伝えれそうになかった。


「すみません。咳で急ブレーキはしないように気をつけます」

「いや、俺に風邪を感染らせるな。最悪、急ブレーキはいい」


 男が俺から距離を取り、窓に近づいた。これで荷台から忍び込むスペースができた。


『なるほどな。次にお前が咳をしたタイミングで急ブレーキか』


 しっかり睡眠が取れて頭がスッキリしているのか、今日の堤さんは冴えていた。

 僕の思惑も通じている。あとはそのタイミングを伝えるだけだ。


 トラックの前方から伸びる光が裁判所を射す。もう、時間がない。


「十秒後、咳をします」

 なりふり構っていられなかった。


「おいっ! 絶対口を押さえろよ! てか、なんでわかんだよ!」

 僕からさらに距離を取る男は異星人に遭遇したかの如く驚いていた。


 何も言葉を発さない堤さんに一抹の不安を感じたが、後ろのカーテンが擦れる音がして、杞憂に終わった。頼むよ、堤さん。


 僕は右足で勢いよくブレーキを踏んだ。音が弾ける。腰が浮き上がり、ハンドルをきつく握った。顔を左に向けると、拳銃が男の手から離れ、ダッシュボードの奥へと転がる。


 堤さんは助手席へと飛びかかっていた。男の焼けた右手が堤さんの左頬を狙う。だが、堤さんは左手で払い、男に馬乗りになった。


「如月っ、拳銃!」


 堤さんの声が、耳に流れ込み、ハッとした。


 僕は手を伸ばすもフロントガラスまで滑り落ちている拳銃には届かない。パーキングへギアを変え、シートベルトを外す。


 その時、発砲音がした。


 堤さんはぐったりと僕の方へ倒れ込んできた。赤い血を腹から溢れ出し、手で押さえている。紅葉頭の左手には小拳銃があり、煙が吐きでていた。もう一丁拳銃があったのだ。


「堤さん!」


 硝煙がミルクティーの匂いを掻き消した。


「もうチャンスはねぇぞ」


 僕の頭ではなく、堤さんの眉間に銃口が向けられている。


「死なせたくないなら、やれ」


 舌の上で溜まった唾を飲み干すこともできず、頭が真っ白になった。


 僕は間違えたのではないか。

 何もしなければ、堤さんはこんなことにならなかったのではないか。


 僕のせいだ。僕が堤さんを__堤さんが僕のズボンのポケットを二回か弱く叩いた。そして、強く握る。そこには、僕の財布がある。二万寄越せ、と言うことだろうか。


「ちげぇよ」


 掠れた声の堤さんは笑った。ふと、あの場面を思い出した。

 あれは確か、僕が内勤の仕事を先輩たちに押し付けられた後の運転だった。





『お前って、不器用で無口だよな』

 助手席の堤さんは欠伸を噛み殺しながらそう言った。


『不器用……?』

 意味が分からず、首を捻った。無口については自覚があるので引っ掛からなかった。


『そう、不器用。そして、無口。もう少しさ、胸に秘めてるもんを出したらどうだ? スッキリするぞ。てことで俺は寝る。起こすなよ』


 胸に秘めているもの? 僕は荷台へ行こうとする背中へ呟いた。


『でも、間違うかもしれないじゃないですか』


 そうだ。正社員の面接で戸惑った回答ばかりをし、不採用になってきた。自分の部屋でお祈りメールを確認し、あの受け答えが間違っていたのだと、いつも後悔する。


 反省はいつも自分の発した言葉が正しかっただろうか、だった。本音で発そうとする言葉がいつの間にか喉の奥に消えていく。その度に用意した小綺麗な台詞ばかりが口から出た。面接官には透けて見えたのかもしれない。


 今回もそうだった。仕事を押し付けてくるのは正しいのだ。僕の考えが間違っているのだとばかり思い、口を噤んだ。


『それが不器用って言ってんだろ』


 荷台と運転席の間で中腰になりながら、僕を睨んできた。右折待ちの車の後ろにつき、強めにブレーキをかける。だけれど、堤さんはよろけなかった。


『お前は親が発する言葉に正しさを求めてんのか? 誠実さを求めてんのか? 偽りの優しい言葉を求めてんのか? 違うだろ、お前に届けと思って、不器用でも発してくれた言葉を求めてるだろ。それが、嬉しいと思うだろ』


 肩に優しく手を置かれた。


『不器用なりに、叫んでみろよ』

『……』


 トラックがぶつかってきたような衝撃的な言葉だった。


『無視したな。寄越せ、一万』


 そう言うなり、堤さんは僕のポケットから泥棒の如く財布を抜き取る。手慣れた手つきで一万を引っ張り出す際、一枚の写真が落ちた。


 舞う写真に映るのは、僕が生まれたことを喜ぶ両親の姿だった。


『不器用なお前を待ってる奴がほらっ、居ただろ』






 迫る刑務所の奥でライトが動いている。勢いを止めないこのトラックへの警戒なのか、はたまた、この男の仲間が門まで逃走しているのか。


「いけ、いけぇえ!」


 前を向いた男がゲームに熱中する子どものように声を張り上げた。


 僕はアクセルを踏み込んだ。外の光景が線になる。トラックのエンジン音が火を吹くかの如く荒々しく車内を満たす。トラックと僕が一身になったような感覚だった。

 僕は分かっていなかった。


 行動しなければ、誰にも想いが伝わらないということを。それが間違えであっても、不器用であっても、その行動の熱はきっと、伝わっていくのだ。


 喉奥へと消えたはずの想いが迫り上がってきた。


「僕はこのトラックを壁にぶつけます」

 ハンドルをやや左へと巻く。男は蹌踉け、窓に左肘をついた。


「はっ? 何を言ってやがる」

「今、僕を撃ったとしてもこの方向は変わらず、壁に激突です。みんな、死にます」

「おまえ何言って」

 壁に迫る。

「やめっ」

「……」

「あ」


 男が目を見開く。その時、僕は急ブレーキをかけた。ハンドルから手を離し、堤さんを抱きしめる。刑務所の壁にぶつかり、フロントガラスが飛び散った。エアバッグが一気に押し寄せ、勢いよく顔を包み込む。


 オーケストラの指揮者が最後に手をきゅっと丸めたように、世界は停まった。


 呼吸だけが室内を覆う。外の刑務所は突如慌ただしくなり、紅いサイレンが鳴り始めた。あのなんとかという車がUターンをし、帰っていくのがサイドミラーで一瞬見えた。


 隣にいる紅葉男は目と口を開ききり、気絶していた。見事に固まっている。手元から落ちた小拳銃を堤さんは拾い上げ、僕の足元に捨てた。


「ばかやろ、なに血迷ってやがんだよ。これじゃ、社長に……っ……クビって言われるぞ」


 堤さんの顔は青白く、喋るだけで寿命を削っているとさえ思えた。


 僕は慌てて百十九番を掛けようとしたが、血濡れの手で抑えられる。


「もう、救急車は呼んでんだよ」

「いっ、いつの間に」

 堤さんはまた笑うも、腹に響くのか顔が引き攣っていた。


「後内の言葉、しらねぇのか?」

 ここでも後内が出てくるのか。流行語大賞の常連なのかもしれない。僕は首を振った。


「『幸のない奴らはいつも悪い状況に備えて、準備ばっかする』ってな。おまえも、俺も、準備ばっかの似たもの同士……」救急車のサイレンが近づいてくる。


 僕は未来に不安を抱いて、綺麗な言葉を、無難な回答を、取り繕って生きてきた。


「いやでも、後内は計画性がないから浮気ばっか__」


「待て待て、慌てんなよ……っくそ、いてぇな。……後内の言葉には続きがあんだよ。『その準備が如何に愚かでも、未来を見ているヤツらはきっと、挫折を越えていくんだ。俺は、今ある幸ばっか考えてたのかもなって今更気づいたよ』後内は紗智と破局してから三年ぶりに表に出て、そう言った」


 僕の太ももに頭を載せた堤さんは僕の顔を見上げていた。優しい眼差しだった。


 窓の外では、救急車がすぐ近くまで到着し、救急隊が駆け寄ってくるのが分かった。


「きっと僕、クビですけど、また、やっていけそうな気がします」

「そうか……他で雑務押し付けられても、ちゃんと断れよ」


 救急隊の手が堤さんを担架に乗せ、運んでいく。

 その顔にはまだ微かな笑みが残っていた。


「はい」


 僕は人生で初めて、両親以外の誰かと、話せた気がした。

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