白河夜船

中村ともあき

白河夜船

しらかわ-よふね【白河夜船】

眠り込んで何があったか知らないことのたとえ。転じて、知ったかぶりのこと。


 少年は眠っていた。広い野原の真ん中で、草にまみれ、気持ちよく深く眠っていた。ふと草が暗く陰り、何かがごうと音を立てて少年の頭上を通った。少年は重たいまぶたを上げ、思わず声を上げた。体を起こし、空を仰いだ少年の髪が風圧で揺れる。

「ふねだ」

 少年はつぶやく。空飛ぶ船だった。知識の乏しい、世間知らずの少年でも船くらいは知っていた。立派な帆船は少年の視線を気にも留めず、滑るように空を走っている。

 なにあれ、なにあれ。少年は走った。好奇心に突き動かされ、船を追いかけ、手足が千切れそうなほどに走った。何度か転び、それでも走った。船はだんだん高度を下げて、やがて平原の片隅に腰を下ろした。少年は真っ赤な顔で息を整える。

 停止した船の下の方から、人が一人、吐き出された。

 青年だった。少年は、初めて見た青年の髪色に目を奪われた。少年の髪の濡羽色とは違う、月の光を煮詰めたような金色の髪。肩ほどの金髪をゆるく結い、豪奢な文様の服を纏っている青年が、このあたりの住人でないのは一目瞭然だった。

 青年は座り込み、持っていた竹筒の水を喉に流し始めた。少年は緊張で頬を紅潮させながら青年に駆け寄った。

「ねえ、にいさん、にいさん。おれも、ふねに乗せて」

「…なんで?」

 驚いた顔をした青年は、少しの沈黙の後、少年の問いかけにそう答えた。やった、ことばが通じた。青年には微かに北の訛りが、少年には南の訛りが入っていたが、通じないほどではない。少年の口角は自然と上がる。

「だって、だってさ、このふね見てると、おれ、わくわくしてくるんだ」

 青年はいきなりの少年の登場に、やや困惑していた。子供と関わることなんて、青年にとってほとんど初めての経験だった。

 青年の戸惑いも気にせず少年は青年の膝の間に座った。少年は身体をよじって青年を見上げる。

「ねえ、にいさん、おれも連れてってくれる?」

青年は戸惑いを飲み込み、真剣な表情を作ってみせた。子どもを連れていくということは、平たく言えば足手まといが増えるということだ。

「連れていってもいいけど、俺は王子だ。俺についてこれるか」

「オウジ?オウジってなに?」

「王子は、王の息子だ。王はわかるか?」

「王さま!知ってるよ、いちばんえらい人だ」

「そうだ、よく知ってるな」

「でも、えらいのは王さまで、王さまの子どもがえらいわけじゃないでしょ」

だからだいじょうぶ。おれ、にいさんについていけるよ。

 青年は頭を殴られたような衝撃を受けた。そして自らを王子と名乗ったことを恥じた。親が嫌で飛び出してきたのに、結局親の地位にしがみついていた。

「…おまえの言う通りだ。たしかに俺は偉くもなんともない」

青年は自分が情けなくなった。唇を噛みしめる。青年は半ば無意識に、少年のはねた髪を撫でつけた。

「…おまえ、家族は?どこにいるの」

旅に出るなら保護者に一言断りを、と思った青年からふと出た言葉だった。少年は顔色を変えず答えた。

「かぞく、いないよ」

「いないのか?家は?」

「ないよ」

青年が目を瞬かせる。そして質問がいくつか零れそうになった。が、その質問の不躾さに気づき、青年は慌てて口をつぐんだ。初めて会った孤児への驚きと憐れみを、青年は、さすが王子と言うべきか、ほとんど態度に出さなかった。

「…へえ、そうか」

ただし、されど王子、気の利いた返しもできなかった。青年は立ち上がり、少年の髪を勢いよくかき混ぜ言った。

「いいぜ、乗せてってやるよ。長い旅路になるぞ」

「いいの?」

 少年はうれしくなった。うれしくて、笑みが溢れる。そんな少年の様子に、青年の口角も自然と上がった。

 家族を持たない少年と、家族から逃げた青年。これは、全く別の道を歩んだ彼らが、ほんの一時交わった瞬間の備忘録である。



 少年が青年の船に乗ってから、数週間が経った。少年はよく寝る子どもだった。青年曰く、猫よりも寝るらしい。最初の頃は、大きくなるぞ、なんて笑っていた青年も最近は心配が勝りつつある。睡眠と睡眠の間に、二、三日に一度、船を降ろしたタイミングで広い草原を駆け、獲物を獲ってくるのだ。

 これは草原に限ったことではなく、森でも海辺でも、獲物が変わるだけで同じことだった。

その獲物を焼き、青年が持ってきた塩で味をつけ、パンをひときれ、そして少しの野菜を食べる。宮殿で育った青年には決して豪華とは言えない食事だった。しかしそれも、少年からしてみれば豪勢も豪勢、あのまま暮らしていれば一生口にできないような食事だ。

 口いっぱいに食べ物を詰め美味しそうに頬張る少年を見ていると、青年にも王宮に居た頃には感じたことがなかった、野性的な食欲が不思議と湧いてくる。

 しかし青年もまだまだ育ち盛り、やっぱり腹は減る。青年がぐうぐう鳴る腹を抱えてやや不機嫌に甲板に座っていると、少年が青年の元に駆け寄ってきた。

「ねえ、にいさん、寝るといいよ。おなか空いてるの、わすれられるから」

おれ、寝るのすき。少年はそう言って笑った。その無邪気な笑顔を見て、青年は衝撃を受けた。食事すら満足に取れない人間がいるなんて。空腹を睡眠で誤魔化すなんて。

 王の手から取り零された人間がたくさんいることを初めて知って、青年は悲しくなった。しかし少年がとても幸せそうに笑うから。この笑顔を守らなければいけないと、青年は強く思った。


 それからさらに数週間が経った。季節が変わり、冷え込んできた日のことだ。

「ねえねえ、にいさん、ふね操縦しなくていの?」

青年がいつも舵を取っているわけではないことを不思議に思った少年の、この一言がなぜなぜ期の始まりであった。

「あー…、確か、重力とつり合いがどうのこうの、みたいな…」

「じゅうりょくってなに?なにがつり合ってるの?」

 少年が好奇心に満ちた目で根掘り葉掘り聞いてくるものだから、青年は困ってしまった。実のところ、青年も原理はよく知らなかった。王都の科学者たちが開発し一般人向けに改良したものをそのまま使っているのだ。とにかく、この空船は一度軌道に乗せてしまえばしばらく操縦する必要はないのだ。そう言っても少年は納得しない。

「もう…なんでもいいだろ、なんでそんなに知りたがるんだ」

 青年を王子たらしめた王のように、少年は知識を青年に要求する。王のそれには色々な意味が含まれていた。王族として、跡継ぎとして。青年の知識量を探るような王の質問が、青年はとてもきらいだった。少年さえも俺に知識を要求するのか。王子たらしめようとするのか。

「ふね、だいすき」

 青年は虚をつかれ、思わずぽかんとしてしまった。少年は何も考えていなかったのだ。少年は何も考えず、好奇心のみで走り出していた。呑気なものだ。苛立ちで波立っていた心がすうっと静まっていくのを感じた。笑いが止まらない。青年がいきなり笑い出したものだから、理解が追いつかずにきょとんとした少年がぱちぱちと目を瞬かせる。

 きらきらとした瞳で知りたい、知りたいと純粋に知識を欲する姿を、青年は昔の青年自身と重ねていた。幼少期に住んでいた奥まった小部屋で書物を読み耽っていた頃の、青年が少年だった頃の自分と。

 王都にはもっとでかい船があるんだぞ、と青年は少年の髪を撫で付けた。

「いつか、見に行こうな」

王都とはつまるところ青年の実家で、青年は家出をしている身だったので、それはしばらくは実現しそうにない絵空事だったのだが。


 しかしその絵空事は思っていたより早く、想像とは違う形で実現することになる。


 その日のあやしい空模様に、青年は嫌な予感がしていた。青年は念の為、腰に剣を佩いた。ひとまず船室に引っ込んでいると、がん、と何かに引っ張られるように船が止まる。

 青年と少年が慌てて甲板に駆け付けると、数人の兵士が船に乗り、碇を降ろしたところだった。剣を持つ兵士たちと、少年を背に庇う青年とが対峙する。青年は慎重に、鞘から剣を抜いた。

「…おい、絶対逃げろよ。戻ってくるな」

青年は少年の顔を見ずにそう告げた。

「私たちに戦う意志はありません。ご同行くだされば、その少年にも危害は加えません」

王が、そうご命令なさったので。そう感情のない声で告げた兵士は、その言葉通り剣を持つ気はないようだった。青年も少年も、その言葉に一瞬迷いを見せてしまった。その迷いを的確に読み取った兵士は語気を強めた。

「ご同行くださらないとなると、その少年の安全は保障できませんが。…ご同行、くださいますね?」

 もはや青年に反抗するという選択肢はなかった。青年は諦めて後ろにいる少年を引き寄せ、静かに剣を捨てた。


 護送用の船に乗せられ、鍵のかかる小部屋に入れられた。そうして、然程時間もかからず王都についた。

 船から降ろされ港から少し歩いて、少年は生まれて初めて王都に足を踏み入れた。そして人の多さに圧倒されてしまった。こんなに大勢の人を少年は見たことがなかった。

 青年は早足に色とりどりの看板やのぼりの下を歩いていく。商人の呼び込み、楽団の演奏、職人の金槌の音。情報量の多さに、少年はくらくらしてきてしまった。顔を伏せ、必死に青年についていく。

 しばらくすると、少年の頭上から青年の声が降ってきた。

「そろそろ王宮だぞ」


 青年と少年は王宮に足を踏み入れた。少年にとっては初めての、青年にとっては久方ぶりの、王宮。王宮は、それはもう煌びやかなものだった。ふんだんに使われた金、ところどころに嵌め込まれた宝石。その豪華な装飾に、思わず少年はほう、と息を吐いた。


 王宮に入るとすぐ、青年は少年ごと、王室の前の廊下へ案内された。青年は最初、ひとりで王に会うつもりだったのだが、王が少年の同席を希望したらしかった。

 風が吹きつけて、少年は思わず指の先をすり合わせた。少年の背筋の震えを見た青年が問う。

「寒いか?」

少年は、首肯する代わりに青年を見上げた。

「その格好じゃ寒いよな」

 王都は国の北側に位置している。南で育った少年には堪える寒さだろう。青年は少年を引き寄せて、その冷たい手を摩ってやった。

 そこで初めて少年は気づいた。

「…にいさん。緊張してる?」

 青年の手が僅かに震えていることに。

 青年の声が微かに揺れていることに。

「…緊張、してる…かもな」

 青年は気づかれるほど緊張を露わにしていたことに気がつき、少し恥じた。自分の父に会うのに緊張してどうする、と自分を鼓舞する。

 緊張で脈打つ己の心臓を静めようと青年が頑張っていると、新しく警護の役人が来て、元からいた警護に何か耳打ちをした。

「…王子。王がお呼びです。お入りください」

 元からいたほうの警護が入室を促す。青年は…もとい、王子は、息を一つ、深くつくと豪壮な装飾の扉を押し開けた。古びた蝶番はきい、と小さく悲鳴を上げる。その音を認めた男がゆっくり振り返る。王子と同じ、黄金の髪を持っている。窓の前に立っていたのは王子の父、…つまり、王だった。

「…久しぶりだな。どこをほっつき歩いていたんだ?」

 窓から差し込む光が逆光となり、より荘厳な雰囲気を醸し出していた。王子も少年も、気圧されて思わず口を噤んだ。王はそれを気にも留めず、言葉を続けた。

「それに、その…子供はなんだ。黒髪なら、南のほうの子供か?」

 南の子供なんて、だめだ。あのあたりは科学技術も発展していないし、教養もないだろう。

 ああ、また始まってしまった。一度始まると止まらない、父の南批判が王子はだいきらいだった。あることないこと、感情に任せて言い募る。

 王は北の生まれだったので、北贔屓は仕方のないことだったのかもしれない。王は王都より北の、極北と呼ばれる地で生まれ育った。王は極北の有力貴族の出身で、王家の嫡出子ではなく、王家に婿入りして王になった身だった。

 そういうわけで、王子は標準語話者だったのだが、王は北の訛りが強く、南で育った少年には話の半分近くが聞き取れなかった。ただ、話が進むにつれどんどん王子の顔が曇っていったので、よくないことを言われている、というのは少年にもわかった。

「ペット気分で育てているならやめたほうがいい。お前には無理だ」

 答えない青年に、王がゆっくりと念を押すように繰り返す。

「お前には、無理だ。…なあ、戻ってこい。なにが不満なんだ?」

 王の声がふと柔らかくなった。機嫌の悪い子供をなだめるように。その声が王子を子供扱いしたのは明らかで、王子の頭にかっと血が昇った。

「どうしても子供を飼いたいと言うなら、北の奴隷を見繕ってやる。言葉もろくに喋れないような南の子供はやめておけ」

 王は差別主義者ではあったが、しかし、決して無能ではなかった。カリスマ性があり、人を惹きつける力は人一倍持っていた。おかげで王が玉座についてからというもの、南の人間は肩みの狭い、困窮した暮らしを強いられている。

 そんな父がいやで、そんな王国もいやで、この世界を変えたくて、王子は王都を飛び出したのだ。

「…もう、やめてくれよ、父さん」

王子の口から情けない声が口からこぼれる。

「南の人間はそんなにだめなのか?父さんが北出身なだけだろ」

息継ぎをして、喉まで出かかった言葉を一旦飲み込む。一瞬躊躇して、王子は結局それを声に出した。

「父さんのこと、きらいになりそうだ」

王子の涙混じりの声に、王が一瞬、たじろいだ、ように見えた。

「…私の跡を継げるのはお前しかいないんだから、しっかりしてくれ」

束の間見せたその焦燥を即座に隠し、王はすぐにいつもの王へと戻る。はあ、と王が諦めたようにため息をついた。

「即位式までには戻ってこい」

 わかったらさっさと行け、と王が煩わしそうに手を振る。王子は黙り込んだまま、心配そうな少年の視線を無視して手を引き、踵を返した。一刻も早くここを離れたかった。


 王室を出て、王宮を出て、城下町を通り過ぎて、王都から足を踏み出してようやく、王子は青年に戻ることができた。王都から出たすぐのところで、青年は立ち止まった。俯いた青年はず、ずと鼻を啜らずにはいられなかった。少年の前では涙を見せまいと決めていたのに。

「にいさん、なかないで。おれね、にいさんがみなみを庇ってくれてうれしかったよ」

 背伸びをした少年の手が優しく青年の頬を撫でて涙を拭う。先程まであんなに冷えていたその手が、子供らしく温かかった。

 感傷に浸っていたいが、いつまでも泣いてはいられない。袖で目元を擦って、半ば無理やりに涙を止めた。そうしてすぐに船に乗り込んだ。この地から少しでも離れたかった。

 舵に手をかけ、船を起動させると、ゆっくりと船体が浮き始める。船体の浮上を待つ青年の視界の端に、王宮の露台に立ちこちらを仰ぐ王が入った。青年はそれを一瞥し前に向き直る。

 青年は初めて、家から逃げるためではなく世界を良くするために、いろいろな人々と交わるために、旅を続けたいと思った。



 王に謁見してから数週間が経って、さらに大陸全体が冷え込んだある日のこと。

 青年はある平原に船を降ろした。いつものように少年が船を飛び出していく。いつもと違ったのは帰ってくるまでの時間だった。少年は飛び出して一時間も経たないうちに、賑やかに帰ってきた。

「にいさん!あったかい水!いっぱい!」

 あったかい水?いっぱい?青年は思わず首を傾げる。興奮した様子の少年に手を引かれるままに青年も船を降りる。少し歩いた先に、もわもわと漂う湯気が見えた。少年が見つけたのは野生の温泉であった。地面が温かい。

 おおっ、と青年は歓喜の声を上げた。しばらく濡れた手拭いでしか体を清めていなかったものだから、湯に浸かり体を伸ばしたい。

「温泉だぞ、入ろう!」

 でかしたと青年が少年の頭をこねくり回すと、少年はわからないながらも嬉しそうに笑った。青年は石鹸と手ぬぐいを取りに一度船に帰る。戻ってきて、青年はわくわくと服を脱ぎ始めた。

「ほら、おまえも早く脱げ」

「うん」

 少年はもう世話を焼いてもらうような年ではなかったし、元々一人で生きてきたので、自分の身の回りのことは自分でできた。なので、少年は青年の世話を必要とせず、服を脱いだ。そして青年は、初めて見た少年の半裸に言葉を失ってしまった。脂肪も筋肉もない、骨と皮だけのような体。その骨ですら細く弱く、力を込めたらすぐに折れてしまいそうな…。枝、という言葉が一番しっくりくるような少年の裸体に、青年は考え込んでしまった。自分が同じ年の頃は、あんなに骨が浮き出ていただろうか、と。少年の肌は日に焼けて小麦色になっていて、そのアンバランスさが余計目立っていた。

「にいさん?」

 青年ははっとした。少年がきょとんとした顔で青年を見上げていた。

「…背中、流してやるよ」

「やった」

青年は石鹸を泡立て、こつこつと骨張った背中に指を滑らす。壊さないように、傷つけないように丁重に。泡立った背中を温水で流す。髪も洗い流し、少年を先に温泉に入れ、青年はようやく自身に取り掛かった。


 少年から遅れること十数分、やっと温泉に身を浸した青年はふう、と大きく息をついた。体の緊張がゆるんで、隅々まで温かい血が流れていく。久々に体を伸ばせた気がした。

 青年が体を伸ばす傍らで、ひととおりはしゃぎ終えた少年は視界の端に輝くものを認め、思わず顔を上げた。

 輝いていたのは青年の長髪だった。青年の金髪は濡れて太陽光を反射し、より一層きらめきに満ちている。少年の目には、そのきらめきがひどく魅力的に映った。

「ねえ、にいさん。にいさんの髪の毛、きれいだね」

「…そうか?…俺、は、あんまり、好きじゃない」

「そうなの?」

 北の勢力が強いこの国では、明るく、色素の薄い色の髪は身分の高いことの証であった。父と、あの王と、同じ髪色である。目立つし、身分の高さを主張している気がして、青年は青年自身の金髪がきらいだった。

「きらきらしてて、きれいなのに」

 鏡を見るたびにいやだった。窓を見るたびに嫌気が差した。水面に反射する金が心底きらいだった。

 でも、少年がきれいと言ってくれたから。この髪でもいいかもなと一瞬でも思えた。自分の髪を初めて、少しだけ、ほんの少しだけ、好きになれた気がした。

「…おまえの髪もきれいだよ」

 少年の髪は、南でも珍しい、深みのある黒だ。その漆黒の先が湯につかり、ゆらゆらと揺れる。その光沢はまるで濡羽のようで、青年は心からその髪がきれいだと思った。

「ありがとお」

青年の言葉を聞いた少年は、心底嬉しそうにはにかんだ。



 始まりは青年の一言だった。無意識にこぼれた、南を下に見るような発言だったのだと思うが、何を言ったのか青年はもう覚えていない。

 その日、天気は最悪で、青年は疲れていて、少年は虫の居所が悪かった。憐憫を含んだ目線で見つめられて、首筋のあたりの髪を撫で付けられて。いつもだったら気にも留めないのに、なぜだろう、その日に限ってその視線が少年の癇に障ってしまった。

「…みなみのこと、ばかにしないで…」

泣きそうに掠れた声を聞いて初めて、青年は己の失言に気がついた。

「…ちがう、何を勘違いしてるんだ」

青年は慌てて弁解しようとする。その青年を制すように、少年が大声を上げた。

「けっきょくにいさんも王さまみたいに、おれの、みなみのこと下にみてるんだろ…!」

その言葉を残して、雨が降りしきる中、少年は飛び出していってしまった。少年のいない甲板に、雷が鳴りひびく。呆然としていた青年は、その轟音で我に返る。青年は自分が雨に濡れるのも厭わず、船を飛び出した。


 いた。少年が、草原の真ん中に立っていた。雲が切れて、隙間から月の光が差し込む。いつの間にか雨は降り止んでいた。ふと振り返った少年の顔が月明かりに照らされる。少年が逃げようと身じろいだので、青年は思わずその腕を掴んだ。

「はなしてよ…」

 少年は力なく腕を振り解こうとする。全身びしょびしょの少年の腕は、それでも怒り故か、熱を持っていた。髪の先からも、服の裾からも、雨水が滴り落ちている。その水滴に月光が当たり、まるで星が垂れているようで、ぼうっとするほどきれいだった。

「…はなして…」

 少年はきれいにきらめく星のように、熱く輝く星のように、強く強く光を放っている。恒星みたいな、その光が青年には眩しかった。眩しすぎた。

 ずっと青年は自分の身分に劣等感を持っていた。高い身分に生まれながらも、城下町の平民が羨ましかった。俺だって自由に外で遊びたいのに、どうして俺だけ、と。

 少年が羨ましかった。自由に草原を駆ける少年の姿が。その羨望が言葉の端にこぼれてしまった。何か言おうとしているのに、声が出てこない。

「…にいさんはどこまで行っても結局王さまと同じ。変われないよ」

力の抜けた青年の手が振り払われる。しかし少年は逃げようとはしなかった。ただ立っていた。

「…とりあえず戻ろう。…風邪引くぞ」


 青年も少年も、お互い一言も発さないまま船に乗り込む。何か言いたげな少年を無視して、青年は乾いた服に着替えた。

「おまえも着替えたら寝ろよ」

青年はそれだけ言い捨て、半ばふて寝のように眠りについた。


 ふと目を覚ましたのは、それから何時間後のことだろうか。船内は夕焼けに照らされ赤く染まっていた。青年の傍らでは、青年の手を握った少年が座ったまま布団に突っ伏して、寝こけていた。

 その寝顔に、青年は思わず少年の頭を撫でた。濡れている。予想もしていなかった冷たい感触に、まさかまだ着替えてなかったのかと慌ててそのまま少年の服を確認する。しっとりと湿っていて、寝ぼけていた意識が一気に覚醒した。

 風邪を引いてしまうと、青年はすぐさま少年を揺り起こす。その振動でふと少年が目を覚ました。

 いつもより潤んでいる目がぼんやりと青年を見上げた。心なしか頬がいつもより赤く染まっている。熱があるのか、と青年が慌てて服を脱がそうとするとうわ言のように少年が呟いた。

「…ごめんね、にいさん、うそだよ。王さまと同じとか、ほんとは思ってないよ」


 少年を着替えさせて、布団に寝かせて、青年はようやく一息ついた。昨日の夜放っておくべきではなかった、と青年は反省する。ごめんね、と魘されていた少年を見て、青年は心が痛くなった。こんな小さな子供に謝らせてしまった。

 少年がひとりで生きていける年齢になるまで、そのときまで命に替えても守り抜こうと。そうそのとき青年は心に決めた。


「…背、伸びたな」

 少年と青年が旅を始めてから既に数年の月日が経っていた。

「そう?そうかもね、兄さんは変わらないね」

「もう背が伸びるような年じゃねえしな」

 幾らか大人びた顔つきになった少年が、それでもあどけなさを残した顔でにこにこと笑う。

「兄さん」

「…うん?」

 何かを決意したような少年の声に、青年は返事をすることを少し、ほんの少しだけ、躊躇った。なんとなく察しがついていたから。

「おれ、船を降りるよ」

「…うん」

わかってたよ、とは言わなかった。

行くなよ、とも言えなかった。

 少年が降りる場所は、深く話し合わなくても二言三言で決まった。


 少年の旅立ちの前夜、青年はなかなか寝付けなかった。横で寝息を立てている少年の顔を見つめて、今までの少年との旅に思いを巡らせて、気がついたら瞼は落ちていた。


 次の日は雲一つない、真っ青な晴天だった。旅立ちにはぴったりの朝だ。

 あの日出会った、始まりの草原に船を降ろす。またこの草原から、少年の二度目の旅が始まるのだ。

「どこかでまた、会えたらいいね、兄さん」

少年は船を降り、草原の真ん中を歩いてゆく。その足で地を踏みしめ、一歩ずつ。

 少年の姿が地平線の向こうに消えた頃、青年は涙を堪えることができなかった。視界がぼやけ、誰もいない草原が曖昧に揺らぐ。少年の前では我慢していた涙が、頬を撫でて顎からこぼれた。

 甲板の広さが、一人では際立つ。袖で乱雑に目元を拭い、青年も早々にその草原を後にした。もうその広い草原に一人でいたくなかった。

 青年は船を操りながら考えた。青年は、少年とはもう会えないのだろうと直感で理解していた。彼はきっとこの国から出ていく。きっとそうだろうと青年の勘が告げていた。青年はこれから国を治める地位へとつく。国を治める者と、国から去る者が邂逅できるはずがない。少年は世界を見に行くのだろう。この国から飛び出して、彼自身の足で、世界を見に行くのだ。

 青年は、そんな少年のことをかつての青年自身と重ねていた。王都を飛び出し、旅を始めた頃の自分と。


 以後、青年が少年と再会することはなかった。

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白河夜船 中村ともあき @tomoaki010408

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