第10話 禍津守の秘密_6

旧神社への道を歩きながら、二人の間には奇妙な沈黙が流れていた。麻衣は言葉少なに歩き、時折拓真のことを横目で見るだけだった。拓真も先日のホテルの一件があって、なんて声を掛ければいいのか迷っていた。


「あの……」


拓真は気まずさを紛らわそうと話しかけた。


「なんで旧神社に?」


麻衣は少し考え、「魔の……残りが」と小さく言った。


「魔?あの黒い霧のこと?」


麻衣は頷いた。それ以上の説明はなく、再び沈黙が続いた。麻衣の様子は昨日とはまるで違っていた。冷たく拒絶するどころか、今はどこか頼りない、弱々しい少女に見えた。その落差に拓真は戸惑っていた。拓真は彼女のぎこちなさに戸惑いながらも、手に持った紙袋に気づいた。


「あ、そうだ。これ食べる?美咲がくれたんだ」


麻衣は怪訝な表情で紙袋を見つめた。


「駅前の人気店のやつで」


麻衣の目が少し輝いた。


「それ、お菓子?」

「食べたことない?この店のシュークリーム食べないでこの街からいなくなるなんてもったいないぜ」


麻衣は小さく首を振った。その仕草は幼い子供のようだった。


「じゃあ、神社に着いたら一緒に食べよう」


麻衣は再び頷いた。

二人が旧神社に着くと、拓真はホテルの麻衣との記憶がよみがえってきた。あの冷たく拒絶する態度と、今目の前にいるどこか無防備な少女、どちらが本当の麻衣なのだろう。


「なあ、聞いてもいいか?」


拓真は麻衣に声をかけた。麻衣は小さく頷いた。


「昨日、ホテルで俺に『邪魔です』『迷惑です』って」


自分で言っていて心が痛んだ。それでもこの機会を逃すと一生聞けなくなってしまうと思い拓真は真っ直ぐ麻衣を見つめた。


「でも今日はこうして誘ってくれたよな。どうして?」


麻衣は俯いた。長い黒髪が彼女の表情を隠していた。しばらくの沈黙の後、彼女は小さな声で言った。


「わからない……」

「え?」

「どうして……あなたを探したのか……」


麻衣はゆっくりと顔を上げた。その目は混乱と困惑に満ちていた。


「自分でも……わかりません」


拓真は息を呑んだ。麻衣は自分自身の行動に本当に戸惑っているようだった。拓真はそれ以上追求せず、2人で少し息を切らしながら旧神社の石段を登り続けた。


「ふーっ」


神社の石のベンチに腰掛けながら、拓真は紙袋からシュークリームの入った箱を取り出した。


「ほら、どうぞ」


麻衣は慎重に一つを取り、じっと観察した。クリームが見える断面を不思議そうに見つめている。


「なんだ?食べないのか?」


拓真は自分のシュークリームを一口かじって見せた。

麻衣も真似をして一口食べた。次の瞬間、彼女の目が驚きで大きく見開かれた。


「おいしい……」


麻衣はまばたきを繰り返し、驚きを表現していた。その純粋な反応に、拓真は思わず笑みがこぼれた。


「おいおい。シュークリーム知らないのか?」

「初めて食べました……でもこれは知ってます」


麻衣は箱の中の保冷剤を手に取った。


「こおりですよね?かじったら冷たくておいしい」

「ぷっ」


突然真剣なトーンで言い出した麻衣の発言に、思わず笑ってしまった。


「それは保冷剤だよ。食べ物を冷たく保つためのもの。食べられないんだ」

「そうなんですか……」


麻衣は少し恥ずかしそうに保冷剤を戻した。拓真はそんな麻衣を見て、胸の中に奇妙な温かさを感じていた。そして何より、彼女の周りには相変わらず「靄」が見えない。彼の「目」が発動しても、彼女だけは普通に接することができる。


「あの……」


麻衣が口を開いた。


「こないだは……ありがとう……」


彼女が言いかけたとき、突然、森の方から風が吹いてきた。普通の風ではない、何か不自然な動きをした風だった。麻衣は即座に立ち上がった。


「魔です……」


拓真も立ち上がり、森の方を見た。確かに黒い霧のようなものが木々の間から漂ってきていた。前回見たものより小さいが、間違いなく「魔」だった。

麻衣は袖から白い布、神招布を取り出した。


「下がっていてください」


彼女は神招布を両手で広げ、詠唱を始めた。すると神招布が淡く光り始め、麻衣の目が変化した――――また同じように黒かった瞳が鏡のように光り始めた。

拓真は驚きながらも、前回よりも冷静に状況を観察していた。麻衣の姿が変わっていく様子、神招布の光、そして魔の動き。先ほどまでぎこちなく、シュークリームに喜んでいた少女が、今はまるで別人のように凛とした姿で魔に立ち向かっている。その変貌ぶりに、拓真は息を呑んだ。


拓真の右こめかみに痛みが走った。「目」が発動した。彼は魔を見つめると、前回のように魔の中に人型の姿が見えた。悲しみと怒りが混じったような表情を浮かべている。


「魔の中に……人の形が見える」


拓真は麻衣に伝えた。

麻衣は少し驚いたように拓真を見たが、すぐに魔に向かって掌を向けた。光が魔を包み込み、黒い霧が薄れていった。


「ふぅ……。これでおしまいです」


額に玉のような汗を浮かべながら、麻衣は微笑んだ。


「大丈夫か?」


麻衣は肩で息をしながら頷いた。


「今日はそんなに大きくなかったから」


鏡のような目も徐々に元に戻り始めた。『神降ろし』。今は神が異界と言っていた場所に戻っている最中なのだろうか?


「やっぱり、見えるんですね」


麻衣は息を整えながら呟いた。


「ん?」

「魔。それに、魔がなんなのかも」

「ああ。俺、実は……目が人とは違うんだ」


拓真は初めて自分の秘密を打ち明けた。


「感情が高ぶると、人の心みたいなものが見える。人の周りに靄みたいなものが見えて……」


麻衣は理解したように頷いた。


「詠さんも……目がよかった」

「詠さん?麻衣の……その、先代……」

「うん。私の大切な人……」


神招布を拾い上げ、またトコトコと戻ってくると、今度は拓真の隣に座り、食べかけのシュークリームを再び頬張った。


「神様の依り代になった人は、何かがすごくなるんです。私の場合は鼻。だから拓真さんのこと見つけられました」

「俺を探してたの?」


麻衣は小さく頷いた。


「あ……え、あ……ちがう、ちがいます。お礼、言ってなかったから」


顔を赤くしながら慌てて言葉を付け足した。その様子はさっきまでの神々しさとは打って変わって、年相応の女の子らしかった。


「昨日ここで、危ないって……だから、その、ありがとう、ございました」


麻衣の声はどんどん小さくなっていった。


「お前はすごいよな。そんな風に人間を守って……」


拓真の言葉に麻衣は顔を上げた。ずっと一人でため込んでいた拓真の感情が少しずつあふれ出してきた。


「俺、この「目」で見えるようになってからわからなくなっちまった」


麻衣はそんな拓真を見ながら黙って聞いていた。


「みんないろいろ言うのに心の中では身勝手で、嘘ばっかりわかって……」


靄の中に見える心の声。本心とは違う言葉に辟易していた。

笑顔の下の計算高さ。

言葉の裏側にある本音。

親しげな態度の下に潜む優越感。

恨み、妬み、嫉み……。

そんなのばっかりだった。同世代の友人、だと思っていた人も。先生たちも。街出歩く人たちも。


「俺もそんな人間なんだけど、だからちょっと同じ人間なのがキツくってさ」


初めて感情を言葉に乗せて吐き出した。心の中のどす黒いものが外に出て行くようだった。


「なんか、どんどん嫌いになっちまって……嫌いたくないから一人暮らしして、美咲のことだって……」


拓真は目をそらすようにうつむいた。麻衣は何も答えず、ただじっと彼の顔を見ていた。拓真はふと顔をあげた。麻衣と目が合う。吸い込まれそうな、綺麗な瞳だった。


「ごめん、変なこと言って」

「だいじょうぶ、です」


麻衣は首を横に振った。


「だから、なんか、そんな人間を守ってる麻衣のこと、本当にすごいなって」

「そんなこと……ない」


麻衣は俯いた。


「私、偉くない……」


急に空気が重くなった。麻衣の肩が小さく震えているように見えた。もっとこの少女のことを知りたかった。もっとこの何も見えない少女と話していたかった。


「なぁ、この後ちょっといいか?」


麻衣が顔を上げると、拓真は立ち上がった。


「俺の家、近いんだ。ちょっと付き合ってよ」

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