第4話 雑踏の世界の無音の少女_4

夕暮れの街は、平日にも関わらず人でそれなりに賑わっていた。サラリーマンたちの帰宅ラッシュと、部活帰りの学生たちが混じり合い、駅前の広場は活気に溢れていた。

拓真は自分の帰り道から少し遠回りをして、あの日出会った繁華街の方へ足を向けていた。本当はまっすぐ家に帰るつもりだったのに、気がつけば体は勝手に動いていた。もう一度あの少女に会えるかもしれない、そんな淡い期待が、彼の足を引っ張っていた。


「バカだな、俺」


自分自身を嘲りながらも、足は勝手に前に進む。大きな通りに出ると、信号機の赤に足を止め、周囲を見回した。いつの間にか、あの日と同じショッピングモールの前に立っていた。人の流れはあの日ほど多くはないが十分に混雑している。


暮れていく空を見上げ、拓真は深いため息をついた。こんなことをしたところで、あの少女に再会できる確率はほとんどないだろう。それでも彼は諦められなかった。あの「靄のない」少女の存在が、彼の心に強く焼きついていた。


拓真は少し離れた場所でベンチに腰掛け、人の流れを眺めた。「目」が発動しないよう、感情を抑えながら、一人ひとりの顔を確認していく。しかし、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。


「何してるの?」


突然、幼い声が聞こえた。

拓真が振り向くと、そこには10歳くらいの少女が立っていた。赤いワンピースを着た、愛らしい顔立ちの子だ。黒髪が二つに結ばれ、大きな瞳で拓真を見上げている。


「え?いや、何も……」


突然見知らぬ子供に声を掛けられ拓真は言葉に詰まった。少女は首を傾げて拓真を見つめていた。その動作は年齢相応の無邪気さに満ちていたが、その眼差しには何か大人びた鋭さを感じた。最近こういった年齢の少女と話すことは無いが、それでも妙に大人びたような不思議な違和感があった。


「おにいちゃん、誰か待ってるの?」


拓真は軽い悪寒を覚えた。少女の目を見たとき、その瞳孔が一瞬、縦に細長くなったように見えた。それは錯覚だったのか、それとも彼の「目」が捉えた何かだったのか。いずれにせよ、彼は無意識のうちにこぶし一つ分くらいベンチを後退していた。


「待ってる……っていうか、まぁ人探し……みたいなものかな?君こそ、こんな時間に一人?お友達とかご両親は?」


少女は少し考え込むように黙った後、床を見つめながら「迷子かも」と小さく言った。


「迷子?」


拓真は周囲を見回した。保護者らしき人は見当たらない。人の流れは途切れることなく続いていて、少女を探している様子の大人も見当たらなかった。


「大丈夫かい?警察に連絡した方がいいかな」

「だめ!」


少女は突然、強い口調で言った。その声は先ほどの弱々しさとは打って変わって力強かった。


「警察はいや。お母さんに怒られちゃう」


その反応に少し驚きながらも、拓真はなんとなく少女の不安を理解した。子供が警察を怖がるのは珍しくない。迷子になったことで怒られるのを恐れているのだろう。


「じゃあ、どうしよう。お母さんとはどこで別れたの?」

「えっと……」


少女は周囲を見回し、指先で唇に触れながら考え込むようなしぐさをした。


「あのデパートの中……だったかも」


モールの入り口を指さしながら言った。


「じゃあ、一緒に探してみようか」


拓真は立ち上がり、少女に手を差し出した。彼女はその手をじっと見つめた後、小さな手を差し出した。その手は予想以上に冷たく、拓真は少し驚いた。


「ありがとう、おにいちゃん」


―――この子……なんだろう……。


拓真は直感的に、この少女にも何か特別なものを感じた。「目」が発動したわけではないが、なんとなくはわかる。この子供の周りの靄は、渦を巻くというより、まるで霧のように淡く、その向こうが霞んでいるようだった。


―――いやいや、さすがに気にしすぎか。


先日のことがあってからなんだか調子が狂っているようだった。それよりも今はこの子のことが心配だ。


「名前、聞いてなかったね」


拓真は優しく尋ねた。


「コトハ。おにいちゃんは?」

「拓真」


コトハは満足げに頷いた。


「拓真おにいちゃん、よろしくね」


デパートの中は、閉店間際にも関わらず、まだ多くの買い物客で賑わっていた。フロアを歩きながら、コトハは迷子というより、ウインドウショッピングを楽しんでいるかのようにきょろきょろとあたりを見渡しながら楽しんでいるようだった。


「お母さん見つからない?」


拓真が言うと、コトハはあまり気にしていない様子で肩をすくめた。


「さっきもこの辺に来たしすぐ見つかると思う」


そうにこにこ言いながら彼女は答えた。

二人は一階から二階、二階から三階へと上がりながら店内を巡った。


「拓真おにいちゃんは、誰か好きな人いるの?」


突然、コトハが訊いた。


「え?」


突然の質問に拓真は戸惑った。


「いや、別に……」

「嘘でしょー」


コトハはくすりと笑った。その笑い声は子供らしさと大人びた意味深さが不思議に混ざったものだった。


「おにいちゃん、さっき誰かの事探してたでしょ?ベンチに座ってずっと人を見てたもん」


拓真は言葉に詰まった。


「その子、どんな子?」

「……」

「ねーねー、教えてよ」


コトハは甘えるような声で言った。子供らしい無邪気さと、どこか計算された色気が混じった不思議な声色だった。


「お礼にお母さんのこと教えてあげる」

「お礼?どういう事?」


拓真は首を傾げた。この子は迷子だったんじゃなかっただろうか。コトハは不思議そうに拓真を見た後、小さく笑った。この目を見つめているとなんだか吸い込まれそうになる。


「うん。でも、拓真おにいちゃんが探してる子のこと、先に教えて」


拓真は少し考えた。ただ、ここで無下に断るのも悪いか、そう判断して素直に答えた。


「小柄で、長い黒髪の女の子。年は多分俺と同じくらいかな」


拓真は言葉を選びながら答えた。その少女の名前は確かに聞いたはずだが、混乱していてはっきりと覚えていない。記憶の中でその名前を探しながら、「彼女、なんて名前だったかな……」とつぶやいた。


「その子、拓真お兄ちゃんにとって、きっと特別な子なんだね」


――――特別な子……。


耳からするりと言葉が入ってきて、地面がぐらりと揺らいだ気がした。


「違う!」


拓真は何か怖いものを振り払うように声を荒げて否定した。口から出た声の強さに自分でも驚いた。

「ごめんごめん。ただちょっと気になっただけ」と、トーンを落として付け加えた。


「気になる?どうしてなの?」


それでもコトハはひるむことなく、質問を続ける。まるで拓真の心の奥底まで見透かしているようだった。拓真は言葉に詰まりながらも、正直に答えた。


「なんていうか……特別な感じがしたんだ」


彼はコトハから目を反らし窓の外を見ながら続けた。


「説明するのは難しいけど、初めて会うような雰囲気の人だったんだよ」


コトハは深く考え込むような表情をした。その表情は子供のものとは思えないほど真剣なものだった。その雰囲気に違和感を覚え拓真は声をかけようとした瞬間、コトハが突然、くるりと振り向いた。


「あ!」


コトハは指さした。


「あそこにお母さんがいる!」


拓真が指示された方向を見ると、確かに中年の女性が不安そうに周囲を見回していた。茶色のコートを着た、整った顔立ちの女性だ。


「よかったね」


拓真はホッとした。この不思議な少女と別れられる。


「今度は迷子になっちゃだめだよ」

「うん!ありがとう、拓真おにいちゃん。助かったよ」


コトハが走って行こうとした時、彼女は立ち止まり、拓真を振り返った。その表情には年不相応な意図のようなものが浮かんでいた。


「あのね、探してる女の子に会いたいなら……」

「え?」

「明日の夕方、旧神社に行ってみるといいよ」


コトハは不思議な笑みを浮かべた。


「きっと会えるよ」


言い残すと、コトハは走り去っていった。その小さな後ろ姿は、たちまち人混みの中に消えていった。拓真は呆然と、彼女が消えた方向を見つめていた。


「旧神社……?」


拓真がつぶやいたその時、ふと気づくと、コトハの姿も、「お母さん」の姿も見当たらなかった。二人はどこに消えたのか、不思議に思いながらも、拓真はその場を離れた。


旧神社―――市の北側にある古い神社のことだ。


町外れの山際に建つその神社は、かつては夏祭りなども行われていたが、今では訪れる人もいないような神社だ。

「旧神社」にあの少女が本当にいるのだろうか。そしてコトハはどうしてそんなことを知っているのか?

靄の見えないあの少女、そして突然話しかけてきたコトハという少女。疑問は膨らむばかりだったが、拓真の胸の中にはもう一度、あの不思議な少女に会えるかもしれないという小さな期待も芽生えていた。


***


「カグヤ様、こんばんは、です」


暗がりの中、コトハは優雅に頭を下げた。モールから離れた公園の一角、街灯の届かない場所に彼女は立っていた。彼女の前に立つのは、――――カグヤと呼ばれた細身の美しい女性だった。


カグヤは長く艶やかな黒髪を持ち、茶色のコートを脱ぎ捨て、伝統的な和服を身にまとっていた。その容姿は人間離れした美しさで、月明かりの下でさえ、肌は真珠のように輝いていた。眉目秀麗な顔立ちは、まるで古い絵巻物から抜け出してきたかのような古風な気品を漂わせている。しかし、その美しさの奥には、何か冷たいものが潜んでいた。カグヤの目は、見る者を惹きつける紫色の輝きを持ちながらも、感情の欠片も宿していないようだった。彼女が微笑むとき、その表情は完璧過ぎて不気味さを感じさせた。まるで何千年もの時を生きる存在が、人間の表情を真似ているかのように。


カグヤが動くたび、彼女の周りの空気が震える。自然の一部でありながら、同時に自然を拒絶するような存在感。現実に存在していながら、どこか異界の存在を思わせる不思議な雰囲気を纏っていた。


「どうでした?」


カグヤの声は低く響いた。その声音には、数百年もの時を経た重みが感じられた。


「とても興味深かったですよ」


コトハは先ほどまでの子供らしさを捨て、大人びた声で答えた。子供の姿をしながらも、その口調はもっと長く生きてきた者のような深みがあった。


「彼はただの人間とは違いますね。彼の『目』は私たちを見抜く可能性があります。それにその影響か私の浸食に対しての抵抗力もあるみたいです」

「麻衣との関係は?」


カグヤは静かに尋ねた。その声には期待のようなものが混じっているように見える。


「彼女に惹かれている、というのは間違いないでしょう」


コトハは微笑んだ。


「そして彼の中にはもう一人『特別』な存在が居ます。これは利用できるでしょう」

「では明日」


カグヤはゆっくりと言った。月明かりが彼女の美しい横顔を照らし出す。


「旧神社。久久能智神、懐かしいわね」

「いい場所を教えてくださりありがとうございます。カグヤ様はこのあたりに以前もいらっしゃったことがあったんでしたっけ」

「えぇ、それはもう」


カグヤは妖艶な笑みを浮かべ、コトハの頭を撫でながら答える。髪を細い指で撫でられながらコトハは目を細めた。


「このあたりを崩壊させるのに、ちょうどいい場所ですよね」

「変化はいいものよ」


カグヤは呟いた。その声には何か遠い記憶を懐かしむような響きがあった。


「滅びという変化の前に彼らがどういった行動をするか楽しみね」


コトハは少しだけ目をつむりぽつりとつぶやく。


「人間たちには理解できないでしょうね」


空を見上げたまま、祝いのように、願いのように、そして、呪いのように続けた。


「彼らは自分たちを守るために、こんな未熟な形のまま生き続けることが幸せだと思っている。でも本当の幸せは、この苦しみからの解放。すべてが終わりを迎えた時に、彼らは初めて真の安らぎを知るのよ」


コトハの目には、哀しみと慈悲が混じった不思議な光が宿っていた。


「人間たちを守るためには、この世界から人間がいなくならないといけませんよね」


コトハはそっと付け加えた。

カグヤはただ黙って頷いた。ふたりの美しい姿は、月の光の中で静かに佇んでいた。そして、いつしかその姿は夜の闇に消えていった。


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