第2話 谷の掟と閉ざされた空
いつもの朝が来た。水晶の鐘が鳴りライアは再び同じ日課を始める。昨晩の夢で聞いた異音はきっと気のせいだ。彼はそう思うことにして冷たい水で顔を洗った。今日は月に一度の説法の日だ。谷の住人全員が神殿前の広場に集まりアルバス長老の言葉に耳を傾けなければならない。ライアもキトと共に広場へ向かった。
広場はすでに多くの人々で埋め尽くされていた。誰もが静粛に長老の登場を待っている。やがて神殿の扉が厳かに開かれアルバス長老が壇上へと姿を現した。その場の空気が一瞬で引き締まる。長老は広場を見渡しゆっくりと口を開いた。
「谷の同胞たちよ。我らが今日この日も穏やかに過ごせるのはなぜか。それは偉大なる守護神クロノス様のご加護と我々が守り続ける聖なる掟があるからに他ならない」
彼の声は老いてなお力強く谷の隅々まで響き渡る。
「掟は我らを外の穢れから守る聖なる壁である。そして疑念は祝福されたその壁を内側から崩す猛毒なのだ」
説法の中心は谷における「三つの禁忌」についてだった。長老は指を一本ずつ折りながら厳かに語る。
「第一に空を語るなかれ。我らが頭上に広がるはクロノス様が我らを守るために創りたもうた天蓋である。その向こうを詮索することは神への冒涜に他ならぬ」
「第二に外を知ろうとするなかれ。谷の外は混沌と穢れに満ちた禁じられた地だ。そこにあるのは我らの平和を脅かす災厄のみである」
「そして第三に神殿の地下に近づくなかれ。そこはクロノス様が眠りたもう聖域。何人たりともその安寧を妨げてはならぬ」
ライアは最前列でその言葉を一言一句真摯に受け止めていた。キトは隣で少し退屈そうに欠伸を噛み殺している。長老は過去に掟を破り外の世界へ行こうとした愚かな若者の話を始めた。見せしめとして谷で語り継がれる古い物語だ。その若者は谷から追放され二度と戻らなかったという。その末路を想像しライアは背筋に冷たいものが走るのを感じた。掟を破ることの恐ろしさが彼の心に深く刻み込まれた。
説法が終わり人々がそれぞれの家へと解散していく。その中でライアは広場の隅で一つの光景を目にした。幼い子供が地面に石で絵を描いている。それは鳥のような形をしていた。翼を広げ空を飛んでいる絵だ。しかしその子の親が血相を変えて飛んできてその絵を足で乱暴に消し去った。「掟を破る気か!この親不孝者が!」親はそう叫び泣きじゃくる子供の手を引いて足早に去っていった。消された絵の跡と子供の悲しそうな泣き声がライアの胸に小さな棘のように刺さった。
午後はエリザの家の手伝いをした。普段は掃除しない屋根裏部屋の片付けを命じられたのだ。埃っぽい薄暗い部屋で古いガラクタを整理しているとライアは一つの古びた木箱を見つけた。興味を惹かれて蓋を開けてみる。中にはエリザが若い頃に使っていたのであろう小さな裁縫道具一式が入っていた。そしてその下に一枚の古びた布が丁寧に畳まれて納められていた。
彼はその布をそっと広げてみた。途端に息をのむ。その布には見たこともない鮮やかな「青色」の染料で空を舞う一羽の鳥が見事に刺繍されていたのだ。谷にあるどんな花の色とも違うどんな鉱物の色とも違う深く澄み切ったその色。ライアはその「青」という色彩の美しさに心を完全に奪われてしまった。
「ライア。何をしていますか」
背後からエリザの静かな声がしてライアはびくりと肩を震わせた。彼は慌てて布を畳み箱に戻そうとする。エリザは彼の隣に座るとその箱をライアの手から静かに取り上げた。「それは古いものです。もう見ることはありません」彼女はそう言うと木箱を屋根裏のさらに奥深い場所へとしまい込んでしまった。
「エリザ様。今の色は…あの『青』とは何ですか」
ライアは尋ねた。エリザは一瞬だけ悲しそうな顔をしたがすぐにいつもの穏やかな表情に戻り「谷にはない色ですよ」とだけ答えた。彼女はそれ以上何も語ろうとせず話を逸らしてしまった。
その日の訓練でライアはキトに屋根裏で見た「青い鳥」の話をこっそりとした。キトは案の定目をきらきらと輝かせた。「それって絶対外の世界のものじゃないか!すげえ!」彼は興奮して大きな声を出す。ライアは慌てて彼の口を両手で塞いだ。「馬鹿!大きな声で言うなよ。掟違反だって言ってるだろ」
キトは不満げにライアの手を振り払う。「どうして見ることも聞くこともダメなんだよ。知りたいって思うのは自然なことじゃないか。ライアお前も本当は知りたいんだろ?あの雲の向こう側を」
キトの真っ直ぐな瞳にライアは言葉を返せない。二人の間に初めて気まずい沈黙が重く流れた。
訓練の帰り道ライアは一人で谷のはずれにある廃棄場の方へと無意識に足を向けていた。禁じられた区域との境界線には古びた注連縄のようなものが張られ微弱なアストラル・フォースによる結界が施されている。その向こう側から何かを叩くような硬い金属音が微かに聞こえてくる気がした。強い好奇心と掟を破ることへの罪悪感が彼の心の中で激しくせめぎ合う。結局彼はその場を一歩も動けずただ立ち尽くすだけだった。
夜。自室のベッドに横になりライアは天井の木目を見つめていた。屋根裏で見たあの鮮やかな「青」を思い出そうとする。しかし記憶の中の色はすでに曖昧になり始めていた。なぜ空を語ってはいけないのか。なぜ外の世界を知ってはいけないのか。なぜ神殿の地下は禁足地なのか。谷の掟に対する最初の小さな疑念が彼の心の中で確かな形を持ち始めていた。自分が生きるこのエデン・フィヨルドという世界が途方もなく狭くそして窮屈な場所に思えてならなかった。
その夜ライアは夢を見なかった。ただ深い闇が広がるだけの無音の夢だった。彼の中で何かが静かに変わり始めていた。閉ざされた揺りかごに最初の亀裂が入った夜だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます