懺悔

うたたね

懺悔

 窓の外、重く垂れ込めるような雨空が広がっている。異常な猛暑を受けて最新型に変えられた空調設備もどんよりとした雰囲気を払拭することまではできないらしい。

 私はこっそりと溜息をついてお盆を持ち上げた。

「皆さん、エアコン、寒くないですか?」

 私が声をかけると、みんな手元の作業から顔を上げて「ちょうどよかよ」と頷いてくれる。大柄な野口さんの肩からこちらを覗いた坂崎さんは小気味よく親指を立ててくれた。「ぐっど」と動いたその口元が可愛らしくて、私も思わず笑ってしまう。

「そんなに汗はかいてないと思うんですけど、一応ね、水分補給しましょ」

 お茶請けもありますよ、とお盆を掲げれば、居合わせたしわしわの顔がぱっと華やいだ。女性陣は噂話でもするみたいに口元に手を当てる。

「美味しそうな浅漬けやね。きゅうりとなす?」

「トマトもありますよ、ほら」

夕霞ゆうかちゃんのつくってくれる浅漬けは絶品やもんなあ」

「店、出したらええんとちゃう?」

 褒められるのは大人になっても嬉しいものだ、とここに勤めはじめて気づいた。幼心というか、自分の心の中の柔らかい部分がほんの少し、くすぐったくなる。

「お店出しちゃったら、私、皆さんとおしゃべりできなくなっちゃいます」

「あー、それは嫌やね」

「私ら限定がいいな」

 くすくすと笑いながら、ほうじ茶と浅漬けの小皿を配ってゆく。

「橋本さんもどうぞ」

 唯一下を向いたままの頭にもそっと呼びかける。すっかり髪の薄くなったその頭は、かすかに頷くような仕草を返してくれた。が、顔は上がらない。

「…夕霞ちゃん、置いといてあげて」

 こそっと囁き声が落とされる。真っ白な髪を三つ編みにした福田さんだった。

「もうすぐななつ、折りあがるはずなの」

「ななつ?」

 言われた通りに湯呑茶碗と小皿を置きながら、私は橋本さんの指先を眺める。節の目立つ武骨そうな5本の指が、可愛らしい色柄の千代紙へ丁寧な折り癖をつけているところだった。彼の周りでは、全て違う模様の鶴がむっつ、広げた羽を休めている。

「夕霞ちゃんは今年から来たけん、これ見るのは初めてか」

 粟野さんがほうじ茶を啜りながら首を傾げた。その声はやはりひそめられている。

「これ?」

「ほうよ、これ。橋本さんの鶴折り」

 ずっと昔からやっとると、と真剣な表情で粟野さんは言う。


 みんなが見守る中、橋本さんがななつめの鶴を完成させたのは、それから少し後のことだった。

「…できた」

 どこか安堵したような声音で呟き、橋本さんはようやく顔を上げた。

 ぱちんと目が合う。

 何度か瞬きをしてほうじ茶と浅漬けと私の顔を見比べ、橋本さんはほんのりと笑った。

「夕霞ちゃん来とったんか」

「はい。お邪魔してますよ」

 笑い返せば、橋本さんは「お構いできませんでなあ」とおどけたように眉を上げる。ほぐすように曲げ伸ばしされた手が湯吞茶碗を引き寄せた。

「……あの、」

「うん?」

「鶴、お上手ですね」

 うん、と彼は頷く。

「……子どもん頃からずうっとやっとるばい」

「子どもの頃から?」

 すごい、と思わず呟いてからはっとする。

 自分の手元を見つめる橋本さんは見たことがないような表情をしていた。それを見つめる他のお年寄りも、それは同様だった。


 無表情に近い、でも限りなく―。


「あの時。80年前、空が光った時」

 みんないなくなった。囁きに、白く短い髭がもそもそと動く。

「昼前で、きょうだいみんなで遊んどったと。姉貴とひとつ下の弟と、年の離れた弟ふたりと、家の庭でな、何しとったか…ほとんど男ばっかじゃって、石蹴りだのしとったんじゃないかね」

 話しながら、指先は湯吞茶碗を離れてふたつの小さな鶴に伸びた。黄色と紺色、それぞれに笹と松葉の柄が散っている。

「弟ふたりは縁側に近い所にいてな。光が止んで、目が見えるようになって、家の下敷きになったふたりが見えたとよ」

 橋本さんは細い目をさらに眇めた。ふたつの鶴の頭を撫でるように指が揺れる。

「『兄ちゃあん、出してえ』ってな、泣かれるんよ。『痛かあ』って。ばってん、できんのよ。まだとおかそこらで、家の瓦礫なんぞ持ち上げられるわけがなか。やけん、何もできんかった」

 姉貴やひとつ下の弟はガラスまみれになって死んだと、と彼は続ける。桜色と水色をした鶴は麻の葉紋様を抱えて、かすかに上を向いている。

「親父もお袋も即死。家の中にいてな。つぶされて、そのうち火があがって、焼けてのうなった」

 白と黒の鶴は他のよりも少し大きくて、花模様と波模様が描かれていた。

 そして、寄り添うように置かれたその2羽の横にななつめの鶴がいる。若葉の色で、梅の花の模様。

 私の視線に気づいてか、橋本さんはそれに顔を向ける。

「それはばあちゃんのじゃ。…出かけてくるて言ったきり、帰ってこなかった」

「行方不明ってことですか」

 うんともううんともつかない、曖昧な唸り声を橋本さんがあげた。

「探しにも行かんかったけん」

 そのひと言を最後に沈黙が落ちる。誰も彼もが目を伏せて口をつぐんでいる。

 死なせてしまった。見捨ててしまった。死んだことにしてしまった。私の感覚からすれば―物分かりのよくなった現代の感覚からすれば、それらは全て「仕方のないことだった」と理由づけができる。新型爆弾で、幼い子どもひとりには太刀打ちできなかったのだと。

 でも、きっと橋本さんは違う。

「仕方のないことだった」と表面上では思っていても、どこかで、自分の心の中の柔らかい部分で「何かできたのに」と思い続けている。悔やみ続けている。

「…申し訳ないという気持ちが、僕の中にはずっとある」

 橋本さんが囁くように言った。

「助けられたかもしれんと思いながら、無理やったとそれを否定して、そうやって自分を許そうとしている自分が、僕は許せん」


 戦後80年経った今も、終わらない戦争がある。

「そんなことない」とか「もう許してあげましょう」とか、私ごときがいくら言葉を連ねたところで、橋本さんの、被爆者の戦争は終わらない。遠くなっても、見えなくなることはないのかもしれない。


『そろそろ、原爆投下時刻の午前11時2分になります。現在の平和祈念公園の様子を伝えていただきます―』

 ニュースキャスターの静かな声が静寂を破る。弾かれたように、あるいは思い出したように、利用者たちはテレビの方を振り返った。



 私に、私たちにできるのは、祈り、思いを馳せること。そして、忘れないこと。

 せめてそれだけは、と思いながら、私はテーブルの上の鶴を視界に収める。丁寧に、時間をかけて折られたななつの鶴は、橋本さんの家族が生きた時間を形にしたもののように思えた。

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