群青色-まだ名前のない色-

菊池まりな

第1話 新学期の群青

春の光が、窓ガラスを通して机の上に滲んでいた。


新学期、2年生になった私は、変わらず海の見える窓際の席を望んでいた。たまたま、そこに割り振られたのは運だったのかもしれない。でも私は思った──この1年も、なるべく波の音の近くで静かに過ごせたらいいと。


県立青海高校は、海辺の町にぽつんと建っている。風の強い日は、教室の隅にまで潮の匂いが届く。けれどそれが私は、嫌いじゃなかった。


「水瀬蒼さんだね。はい、これ名簿」


担任の先生がプリントの束を配っていく。顔をあげて「はい」とだけ返すと、視線をすぐ手元に戻した。知らないクラスメイトの名前が並んでいる。そこに自分の名前を見つけると、胸が少しざわついた。


隣の席の子が声をかけてくることもなく、私も話しかける理由は見つからなかった。朝の自己紹介が終わると、教室はすぐにざわめきの渦に変わった。あちこちで交わされる「久しぶり」「同じクラス嬉しいね」の声。私には、それが遠くの海鳴りのように聞こえていた。



放課後、私は美術室へ向かった。誰にも告げずに、カバンにスケッチブックと筆箱を忍ばせていた。新しいクラスでの一日を、群青の色で塗り消したかった。


鍵はまだ開いていて、淡い光の差し込む室内は静かだった。窓辺の机に座って、私は筆をとる。真っ白な紙の上に、一滴の群青色を落とす。それが少しずつ水の中で広がっていく様子を見るのが好きだった。


──その色は、深くて、静かで、どこか寂しくて。


「うわっ……ごめん、勝手に入っちゃった?」


声に驚いて顔をあげると、ドアのそばにサッカー部のユニフォームを着た男子が立っていた。短く整えた黒髪に、明るい目。どこかで見た顔──思い出す前に、彼がぺこりと頭を下げた。


「保健室いっぱいでさ。ここでちょっと休んでもいい?」


「……どうぞ」


私は少し身を引いて、彼にソファを勧めた。足を引きずっている。捻挫だろうか。


「サッカー部の海野陸うみのりくです。あ、水瀬さんだよね? クラス一緒だったから」


「ああ……うん。水瀬蒼みなせあお


「蒼って、“あお”って読むんだね。名前まで青っぽい」


彼はそう言って笑った。私はどう返していいかわからず、もう一度スケッチブックに視線を落とした。筆先にはまだ、群青の水溜まりが残っていた。


「その絵……すごいきれい」


「まだ途中。下塗りだから」


「でも、その青、なんか落ち着く。俺、こういうの苦手だから、よくわかんないけどさ。色だけで気持ちが変わるのって、ちょっと不思議」


私は筆を止めた。


「群青はね、空の色にも、海の色にも見える。でも、本当はどちらでもない。だから、私は好き」


「……なんか、水瀬さんって、詩人みたいだね」


「違うよ。絵描きだから」


そう答えると、彼は笑った。風が吹いて、窓の外の海がきらきらと光った。潮の匂いがふわりと部屋に入り込む。蒼と陸、名簿で並んでいた二人の名前が、この部屋の空気の中で少しだけ混ざった気がした。


その日、私のスケッチブックの片隅に、初めて“人”の影を描いた。


それはまだ、色も輪郭も曖昧なままだったけれど──この春、私の群青色の世界に、誰かが入り込んできた。その予感だけは、確かにあった。

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